資料256 夏目漱石「博士問題とマードック先生と余」
 

 

 

       博士問題とマードツク先生と余        夏 目 漱 石


               

 
余が博士に推薦されたと云ふ報知が新聞紙上で世間に傳へられたとき、余を知る人のうちの或者(あるもの)は特に書を寄せて余の榮選を祝した。余が博士を辭退した手紙が同じく新聞紙上で發表されたときも亦余は故舊新知もしくは未知の或(ある)ものからわざわざ贊成同情の意義に富んだ書状を幾通も受取つた。伊豫にゐる一舊友は余が學位を授與されたと云ふ通信を讀んで賀状を書かうと思つてゐた所(ところ)に、辭退の報知を聞いて今度は辭退の方を目出度思つたさうである。貰つても辭しても何方(どつち)にしても賀すべき事だといふのが此友の感想であるとか云つて來た。さうかと思ふと惡戯好の社友は、余が辭退したのを承知の上で、故(こと)さらに余を厭がらせる爲に、夏目文學博士殿と上書をした手紙を寄こした。此手紙の内容は御退院を祝すと云ふ丈なんだから一行で用が足りてゐる。從つて夏目文學博士殿と宛名を書く方が本文よりも少し手數(てすう)が掛つた譯である。
 然し凡て是等の手紙は受取る前から豫期してゐなかつたと同時に、受取つても夫程意外とも感じなかつたもの許である。たゞ舊師マードツク先生から同じく此事件に就て突然封書が屆いた時丈は全く驚ろかされた。
 マードツク先生とは二十年前に分れたぎり顔を合せた事もなければ信書の往復をした事もない。全くの疎遠で今日迄打ち過ぎたのである。けれども其當時は毎週五六時間必ず先生の敎場へ出て英語や歴史の授業を受けた許でなく、時々は私宅迄押し懸けて行つて話を聞いた位親しかつたのである。
 先生はもと母國の大學で希臘語の敎授をして居られた。それがある事情のため斷然英國を後にして單身日本へ來る氣になられたので、余等の敎授を受ける頃は、まだ日本化しない純然たる蘇國語
(スコツトランドご)を使つて講義やら説明やらを見境(みさかひ)なく遣られた。それが爲め同級生は悉く辟易の體で、たゞ烟に捲かれるのを生徒の分と心得てゐた。先生も夫で平氣の樣に見えた。大方どうせこんな下らない事を敎へてゐるんだから、生徒なんかに分つても分らなくつても構はないと云ふ氣だつたのだらう。けれども先生の性質が如何にも淡泊で丁寧で、立派な英國風の紳士と極端なボヘミアニズムを合併した樣な特殊の人格を具へてゐるのに敬服して敎授上の苦情を云ふものは一人もなかつた。
 先生の白襯衣
(ホワイトシヤート)を着た所は滅多に見る事が出來なかつた。大抵は鼠色のフラネルに風呂敷の切れ端の樣な襟飾(ネクタイ)を結んで濟まして居られた。しかも其風呂敷に似た襟飾(ネクタイ)が時々胴着(チヨツキ)の胸から拔け出して風にひらひらするのを見受けた事があつた。高等學校の敎授が黑いガウンを着出したのは其頃からの事であるが、先生も當時は例の鼠色のフラネルの上へ繻子か何かのガウンを法衣(ころも)の樣に羽織(はおつ)てゐられた。ガウンの袖口には黄色い平打の紐が、ぐるりと縫ひ廻してあつた。是は装飾の爲とも見られるし、又は袖口を括る用意とも受取れた。たゞし先生には全く兩樣の意義を失つた紐に過ぎなかつた。先生が敎場で興に乘じて自分の面白いと思ふ問題を講じ出すと、殆んどガウンも鼠の襯衣(シヤツ)も忘れて仕舞ふ。果はわが居る所が敎場であると云ふ事さへ忘れるらしかつた。斯んな時には大股で敎壇を下りて余等の前へ髯だらけの顔を持つてくる。もし余等の前に缺席者でもあつて、一脚の机が空(あ)いてゐれば、必ず其上へ腰を掛ける。さうして例のガウンの袖口に着いてゐる黄色い紐を引張つて、一尺程の長さを拵らへて置いて、それでぴしやりぴしやりと机の上を敲いたものである。
 當時余はほんの小供であつたから、先生の學殖とか造詣とかを批判する力は丸でなかつた。第一先生の使ふ言葉からが余自身の英語とは頗る縁の遠いものであつた。それでも余は他の同級生よりも比較的熱心な英語の研究者であつたから、分らないながらも出來得る限りの耳と頭を整理して先生の前へ出た。時には先生の家
(うち)迄も出掛けた。先生の家は先生のフラネルの襯衣(シヤツ)と先生の帽子──先生はくしやくしやになつた中折帽に自分勝手に變な鉢巻を巻き付けて被(かむ)つてゐた事があつた。──凡て是等先生の服装に調和する程に、先生の生活は單純なものであるらしかつた。
         中
 其頃の余は西洋の禮式と云ふものを殆んど心得なかつたから、訪問時間などと云ふ觀念を少しも挾
(さしは)さむ氣兼なしに、時ならず先生を襲ふ不作法を敢てして憚からなかつた。ある日朝早く行くと、先生は丁度朝食(あさめし)を認(したゝ)めてゐる最中であつた。家が狹いためか、又は余を別室に導く手數(てかず)を省いた爲か、先生は余を自分の食卓の前に坐らして、君はもう飯を食つたかと聞かれた。先生は其時卵のフライを食つてゐた。成程西洋人と云ふものは斯んなものを朝食ふのかと思つて、余はひたすら食事の進行を眺めてゐた。實は今考へると其時迄卵のフライと云ふものを味はつた事がない樣な氣がする。卵のフライと云ふ言葉も夫からずつと後に覺えた樣に思はれる。
 先生はやがて肉刀
(ナイフ)と肉匙(フオーク)を中途で置いた。さうして椅子を立ち上がつて、書棚の中から黑い表紙の小形の本を出して、そのうちの或頁を朗々と讀み始めた。しばらくすると、本を伏せて何うだと聞かれた。正直の所余には一言(ひとこと)も解らなかつたから、一體夫は英語ですかと聞いた。すると先生は天來の滑稽を不用意に感得した樣に憚りなく笑ひ出した。さうして是は希臘の詩だと答へられた。英國の表現(エキスプレツシヨン)に、珍紛漢(ちんぷんかん)の事を、それは希臘語さと云ふのがある。希臘語は彼地でも其位六づかしい物にしてあるのだらう。高等學校生徒の余などに解る筈は無論ない。それを何故(なぜ)先生が讀んで聞かせたのかと云ふと、詳しい理由は今思ひ出せないが、何でも希臘の文學を推稱した揚句の事ではなかつたかと思ふ。兎に角先生はさう云ふ性質(たち)の人なのである。
 先生の作つた「日本に於るドン、ジユアンの孫」と云ふ長詩も慥か聞かされた樣に思ふ。けれども其うちの或行にアラス、アラツク、と云ふ感投詞が二つ續いてゐたと記憶する丈で、あとは丸で忘れて仕舞つた。
 ベインの論理學を讀めと云つて先生が貸して呉れた事もあつた。余はそれを通讀する積りで宅
(うち)へ持つて歸つたが、何分課業其他が忙がしいので段々延び延びになつて、何時迄立つても目的を果し得なかつた。程經て先生が、久しい前(ぜん)君に貸したベインの本は僕の先生の著作だから保存して置きたいから、もし讀んで仕舞つたなら返して呉れと云はれた。其本は大分丹念に使用したものと見えて裏表とも表紙が千切れてゐた。それを借りたきにも返した時にも、先生は哲學の方の素養もあるのかと考へて、小供心に羨ましかつた。
 あるとき何んな英語の本を讀んだら宜からうと云ふ余の問に應じて、先生は早速手近にある紙片に、十種程の書目を認
(したゝ)めて余に與へられた。余は時を移さずその内の或物を讀んだ。即座に手に入らなかつたものは、機會を求めて得る度にこれを讀んだ。どうしても眼に觸れなかつたものは、倫敦へ行つたとき買つて讀んだ。先生の書いて呉れた紙片が、余の袂に落ちてから、約十年の後に余は始めて先生の擧げた凡てを讀む事が出來たのである。先生はあの紙片にそれ程の重きを置いて居なかつたのだらう。凡てを讀んでから又十年も經つた今日から見れば、それ程先生の紙片に重きを置いた余の方でも可笑しい氣がする。
 外國から歸つた當時、先生の消息を人傳
(ひとづて)に聞いて、先生は今鹿兒島の高等學校に相變らず英語を敎へて居ると云ふ事が分つた。鹿兒島から人が出てくる度に余はマードツクさんは何うしたと尋ねない事はなかつた。けれども音信は其後二人の間に全く絶えてゐたのである。たゞ余が先生に就いて得た最後の報知は、先生がとうとう學校を已めて仕舞つて、市外の高臺に居を卜しつゝ、果樹の栽培に餘念がないらしいと云ふ事であつた。先生は「日本に於る英國の隱者」と云ふやうな高尚な生活を送つてゐるらしく思はれた。博士問題に關して突然余の手元に屆いた一封の書翰は、實に此隱者が二十餘年來の無音を破る價ありと信じて、とくに余のために認めて呉れたものと見える。
         下
 手紙には日常の談話と異ならない程度の平易な英語で、眞率
(まじめ)に余の學位辭退を喜こぶ旨が書いてあつた。其内に、今囘の事は君がモラル、バツクボーンを有してゐる證據になるから目出度(めでたい)と云ふ句が見えた。モラル、バツクボーンと云ふ何でもない英語を飜譯すると、德義的脊髓と云ふ新奇でかつ趣のある字面が出來る。余の行爲が此有用な新熟語に價するか何うかは、先生の見識に任せて置く積である。(余自身は夫程新らしい脊髓がなくても、不便宜なしに誰にでも出來る所作だと思ふけれども)
 先生は又グラツドストーンやカーライルやスペンサーの名を引用して、君の御仲間も大分あると云はれた。是には恐縮した。余が博士を辭する時に、是等前人の先例は、毫も余が腦裏に閃めかなかつたからである。──余が決斷を促がす動機の一部分をも形づくらなかつたからである。尤も先生が是等知名の人の名を擧げたのは、辭任の必ずしも非禮でないと云ふ實證を余に紹介された迄で、是等知名の人を余に比較する爲でなかつたのは無論である。
 先生云ふ、──吾等が流俗以上に傑出しやうと力めるのは、人として當然である。けれども吾等は社會に對する榮譽の貢獻によつてのみ傑出すべきである。傑出を要求するの最上權利は、凡ての時に於て、吾等の人物如何と吾等の仕事如何によつてのみ決せらるべきである。
 先生の此主義を實行してゐる事は、先生の日常生活を別にしても、其著作日本歴史に於て明かに窺ふ事が出來る。自白すれば余はまだ此標準的述作
(スタンダードウオーク)を讀んで居ないのである。夫にも拘はらず、先生が十年の歳月と、十年の精力と、同じく十年の忍耐を傾け盡して、悉くこれを此一書の中に注ぎ込んだ過去の苦心談は、先生の愛弟子山縣五十雄君から精しく聞いて知つてゐる。先生は稿を起すに當つて、殆んどあらゆる國語で出版された日本に關する凡ての記事を讀破したといふ事である。山縣君は第一其語學の力に驚ろいてゐた。和蘭語でも何でも自由に讀むと云つて呆れた樣な顔をして余に語つた。述作の際非常に頭を使ふ結果として、仕舞には天を仰いで昏倒多時に亙る事があるので、奥さんが大變心配したと云ふ話も聞いた。夫許ではない、先生は單に此著作を完成する爲に、日本語と漢字の研究迄積まれたのである。山縣君は先生の技倆を疑つて、六づかしい漢字を先生に書かして見たら、旨くはないが、劃丈は間違なく立派に書いたと云つて感心してゐた。此等の準備からなる先生の日本歴史は、悉く材料を第一の源から拾ひ集めて大成したもので、儲からない保證があると同時に、學者の良心に對して毫も疚ましからぬ德義的な著作であるのは云ふ迄もない。
 「余は人間に能ふ限りの公平と無私とを念じて、榮譽ある君の國の歴史を今に猶述作しつゝある。從つて余の著書は一部人士の不滿を招くかも知れない。けれども夫は已を得ない。ジ
ンモーレーの云つた通り何人にもあれ誠實を妨ぐるものは、人類進歩の活力を妨ぐると一般であつて、其眞正なる日本の進歩は余の心を深くかつ眞面目に動かす題目に外ならぬからである。」
 余は先生の人となりと先生の目的とを信じて、茲に先生の手紙の一節を有の儘に譯出した。先生は新刊第三巻の冒頭にある緒論をとくに思慮ある日本人に見て貰ひたいと云はれる。先生から同書の寄贈を受ける日それを一讀して滿足な批評を書き得るならば、さうして先生の著書を天下に紹介する事が出來得るならば余の幸である。先生の意は、學位を辭退した人間としての夏目なにがしに自分の著述を讀んで貰つて、同じく博士を辭退した人間としての夏目なにがしに、その著述を天下に紹介して貰ひたいと云ふ所にあるのだらうと思ふからである。
                  
明治44、3、6-8『東京朝日新聞』

 

 

     
  (注) 1.  「博士問題とマードツク先生と余」の本文は、岩波書店版『漱石全集 第11巻』評論 雜篇(昭和41年10月24日発行)によりました。この本文は評論のところに出ています。          
    2.  平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の仮名や漢字を当てて表記しました。(「わざわざ」「ぴしやりぴしやり」「くしやくしや」「延び延び」「とうとう」)  
    3.  全集巻末の注解から、一部を引用させていただきます。
 〇伊豫にゐる一舊友……森円月のこと。
 〇マードツク先生……Murdoch, James (1856-1921)イギリスの日本研究家。明治22年来日、中津中学校教師、第一・第四・第七高等学校の英語教師として教鞭をとり、傍ら日本史の研究に従い、のちメルボルン大学の日本学教授となった。明治41年6月14日附野間真綱宛書簡に「マードツクさんは僕の先生だ。近頃でも運動に薪を割つてるかしらん。英国人もあんな人許だと結構だが」とある。             
 〇日本歴史……マードックの著書 “A History of Japan” 3巻(1903-25)をさす。第1巻は山縣五十雄との共著で、この巻のみ漱石の蔵書中に見える。
 
    4.  マードック [James Murdoch] =イギリス生れの日本研究者。オーストラリアのジャーナリストとして、1889年(明治22)来日。一高・四高・五高などで教鞭をとる。著「日本史」。(1856-1921) (『広辞苑』第6版による)  
    5.  夏目漱石の博士号辞退問題に関する資料として、
  資料253 
夏目漱石「博士号辞退の手紙」2通と「博士問題の成行」(1)(2)
  資料255 夏目漱石・講演「道楽と職業」より(博士号関連部分)
があります。
 
         

  




          
        
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