資料238 雑誌『志らぎく』第2巻第1号について


 
       
雑誌『志らぎく』第二巻第一号について

 

  『志らぎく』第二巻第一号 

 

  昭和50年に発行された『茨城の文学史』(茨城県教育委員会・茨城文化団体連合/ 編)によれば、明治39年1月9日発行の『志らぎく』は第二巻第一号で、表紙は平福百穂が描いており、その中に、武石女羊、長久保紅堂、海老沢杉村、上軍岩治、滝田枕水らの執筆者にまじって、野口雨情が「二十六字詩」という文章を書いている由です。
  野口雨情の「二十六字詩」という文章は、『定本 野口雨情』第六巻(未来社、1986年9月25日第1版第1刷発行)に収録されています。次にそれを引いておきます。

        二十六字詩                                                                                 野口 雨情
  漢詩よりも新体詩よりも和歌よりも俳句よりも其他総ての謡曲よりも最も広く民間に行はるるものは二十六字詩形の俗謡なり。
  その系統は平安時代の催馬楽より出て足利時代の小歌となり徳川時代に至り小歌と分離してこの二十六字詩形は成る。今、年代は詳
(つまびらか)ならずと雖(いへども)按ずるに貞享元禄年間なるべし。
  投節、臼引歌、田植歌、潮来節、其他都々一及童謡等の類は所謂平民詩として多くこの詩形に属す。
  二十六字詩形を詩としての詩的価値に至りては濃厚なるあり艶麗なるあり優雅なるあり純僕素野
(そや)なるあり詩趣津々として情緒纏綿として漢詩、新体詩、和歌、俳句、其他謡曲等の遠く及ばざるものあり。
  今ここには単に詩的価値として声調の美なるもの二三を摘記し以て説明に代ゆ。
○烏鳴きても知れそなものよ明けくれお前のことばかり。
○逢はれないから来るなと言ふに来ては泣いたり泣かせたり。
○染めて口惜しや藍紫にもとの白地がましぢやもの。 
○飛んで行きたいあの山越えてお前いまかと言はれたい。
○心細さに出て山見れば雲のかからぬ山はない。
○朝の出舟に東を見れば黄金まぢりの霧が降る。
○心残して常若の国へかへる燕をふたごころ。
○親は他国へ子は島原へ桜花かよちりぢりに。
○君と寝ようか五千石とろかなんの五千石君と寝る。 
○船底に枕はづして鳴く浜千鳥さむくはないかと目に涙。
○山で切る木はかづあるけれど思ひ切る気は更にない。 
○お名はささねどあの町に一人命ささげた人がある。
○鐘が鳴るかよ橦
(ママ)木が鳴るか鐘と橦(ママ)木のあひがなる。 
○しばし逢はねば姿も顔もかはるものだよ心まで。
○潮来出島の真菰の中にあやめ咲くとはしほらしい。 
○吉田通れば二階で招くしかも鹿の子の振り袖で。
○会津磐梯山は宝の山よ笹に黄金がなりさがる。 
○おととひ別れてまだ間もないに昼はまぼろし夜は夢。
○忘れ草とて植ゑたるものを思ひ出すよな花が咲く。 
○船頭可愛や穏戸の瀬戸で一丈五尺の櫓がしわる。
○木挽さんかよ懐かしござるわしの殿御も木挽さん。 
○君と別れて松原ゆけば松の露やら涙やら。
○坂はてるてる鈴鹿はくもるあひの土山雨が降る。
○嘸
(さぞ)や今頃さぞ今頃はさぞやひとりでさむしかろ。
○様よあれ見よあの雲行を様とわかれもあのごとく。 
○親が程へりや不具な子なりや人でなしなりや尚更に。
 その想や悲哀人を傷ましめ、その調や崇高襟を正さしむ。情趣花の如く純樸枯木の如し。熱するに似て熱するに非ず。酔ふるに似て酔ふるに非ず、自然を歌ひて遺憾なく恋を歌ひて俗に落ちず他の純文学に譲らざるのみならず却つてそれ以上の特点を有す二十六字詩形の詩としての価値何ぞ大なるにあらずや。

    
※ 文中の (ママ) は全集にはなく、引用者の付したものです。

 

 

 

 

 

 

 

(注) 1. 「雑誌『志らぎく』第1巻第1号について」が、資料104にあります。
       「雑誌『志らぎく』第1巻第2号について」が、資料236にあります。
       「雑誌『志らぎく』第1巻第3号について」が、資料237にあります。
 
    2.平福百穂(ひらふく・ひゃくすい)……日本画家。本名、貞蔵。秋田県角館
(かくのだて)
             
生れ。川端玉章に学び、ついで東京美術学校卒。文芸雑誌や新聞に挿絵
             を描くとともに、无声会(むせいかい)、ついで金鈴社を結成。文展・帝展
             でも活躍。アララギ派歌人としても著名。(1877〜1933)
                                 
 (『広辞苑』第6版による)
      平福百穂(ひらふく・ひゃくすい)……(1877-1933) 日本画家。秋田県生まれ。
         本名貞蔵。画家平福穂庵の子。独自の南画的な風格ある作風。また新
         聞に時事漫画も寄稿。アララギ派歌人としても知られる。代表作「予譲」、
         歌集「寒竹」                     (『大辞林』第2版による)
                 
  
    3.武石女羊(たけいし・じょよう)……明治11年(1878)、那珂郡勝田村勝倉(現・
         ひたちなか市勝倉)に生まる。本名、如洋。飛行家武石浩玻の兄。河東
         碧梧桐の門下。野口雨情とも交遊があった。本業の医師の傍ら「いはら
         き」や「常総新聞」の俳壇選者を務めた。はじめ女羊、のち如也芋と改号。  
                               
(『茨城の文学史』によってまとまたもの)
    4.『志らぎく』第二巻第一号は、まだ現物を見ていないので、内容について詳しく
     触れることができません。どこかで見られるといいと思いますが、まだその所在
     が確認できていません。                    
(2005年12月16日)
     5. 平輪光三著『野口雨情』(雄山閣出版、昭和32年9月1日初版発行)から、
     「志らぎく」掲載の雨情の「二十六字詩」に関する部分を引用しておきます。
       又、当時は、「万朝報」によつて「俚謡正調」が盛んに行われ、明治三十八
       年五月には長沢守太郎編の「俚謡正調」が出版されたが、雨情がこれ等の
       雑誌、特に「明星」や「文庫」に親しんだであろうことは想像される。然し、そ 
       の作品を発表した機関紙については残念ながら知ることが出来ない。唯茨 
       城県長戸村の宮本長之助が編集発行人となつている明治三十九年一月の
       「しらぎく」という文学雑誌に「二十六字詩」と題して雨情が俗謡を論じ、その
       蒐集の多くを発表しているのは興味深い。その中で雨情は「二十六字詩形 
       を詩としての詩的価値に至りては濃厚なるあり艶麗なるあり、優雅なるあり
       純僕素野なるあり詩趣津々として情緒纏綿として漢詩、新体詩、和歌、俳句、
       其他謡曲等の遠く及ばざるものあり」と言つているが、新体詩、短歌、俳句
       の近代文学勃興期の唯中にあつて、雨情が如何に民謡や俗謡に打込んで
       いたか知れるのである。 (同書 p.47〜48)
                                          
     6. 雑誌『志らぎく』の所在について
          現在のところ、次の4か所に保管されていることが分かっています。
         (1)東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター
             (明治新聞雑誌文庫)………第一巻第一号の雑誌とマイクロフィルム
         (2)成田山仏教図書館…………第一巻第一号〜第三号の3冊
         (3)東京都立大学
(旧首都大学東京)図書館……第一巻第二号・第三号の2冊
         (4)茨城県立図書館……………第一巻第一号のマイクロフィルム
                                   (2020年4月1日現在)     
     7. 『東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター
     (明治新聞雑誌文庫・原資料部)』のホームページへは、
        → 
近代日本法政史料センター(明治新聞雑誌文庫・原資料部)
      なお、
『東京大学OPAC』に、『志らぎく』第一巻第一号の蔵書目録があります。
        →  『東京大学OPAC』で、「志らぎく」と入力して検索。
    8.
成田山仏教図書館は、(財)成田山文化財団が経営する公共図書館です。
      新勝寺の傍らにあります。
       「成田山仏教図書館 逐次刊行物目録(雑誌・新聞)」
の中に、『志らぎく』の
     目録が出ています。
           シ306 志らぎく 1−1〜3(M38.9〜12) 
      
また、「蔵書検索」で、「その他(一般書の論文・記事や一般の雑誌、新聞など)」を選び、
      「志らぎく」と入力して検索すると、『志らぎく』の目録が出て来ます。
            
シ306 志らぎく 1−1〜3(M38.9〜12) 白菊発行所   
     9
.『東京都立大学(旧首都大学東京)図書館』のホームページの記載は、下記
   のとおりです。
      → 東京都立大学
(旧首都大学東京)図書館』の『志らぎく』の記載 
    10. 『志らぎく』の中に出ている、稻の里人・穗波庵主人・宮本秋光は、すべて発行
     者・宮本長之助の別名(号)です。「秋光」は、「ときみつ」と読ませたようで、時に
     は「宮本ときみつ」とも名乗ったようです。
      宮本長之助   明治18年(1885年)3月15日、父・丑松、母・もと
         の長男として茨城県稲敷郡長戸村大字塗戸2055番地の1に生
         まれる。明治36年(1903年)、同じ塗戸の湯原武吉の長女・
         かつと結婚。自宅で雑貨商を営むかたわら、短歌・俳句など
         をつくり、一時、短歌結社・竹柏会(「心の花」)に加わる。
         明治38年(1905年)、文学雑誌『志らぎく』を発行。昭和29
         年(1954年)10月5日没。享年69(数えで70歳)。
  
    
 11. 『志らぎく』を印刷した印刷所・三秀社については、資料104の「雑誌『志らぎく』
      第1巻第1号について」の注をご覧ください。




             
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