資料237 雑誌『志らぎく』第1巻第3号について                


      

 

    雑誌『志らぎく』第一巻第三号について



 『志らぎく』第1巻第3号は、明治38年12月9日に発行されました。表紙は第1号、第2号と同じ白菊の花の絵で、平福百穂氏によるものです。
 初めに、本號要目があります。

     
本號要目
       て  が み…………佐々木 信綱
       小 菊 物 語…………湯 川 貫 一
       旅 籠  屋…………小 花 淸 泉
       山守がうたへる………… 河 原 芳 子
       星  月 夜…………淸 水 竹 意
       昔   の  秋…………梅柳園 主人       
       す ゝ は き…………宮 本 秋 光
       落  月  記…………三 井 殘 月
       炭 山 物 語…………植 田 秋 山
       神    風………………………        
       し は  す………………………
       課    題…………岸上香摘 選
       表       紙…………平 福 百 穗
       裏面 てがみ…………印 東 昌 綱

 「本號要目」の下に、「第一巻第一號要目」「前號要目」が掲げてあります。

 ここで、
主要な項目だけでなく、すべての内容を題名・作者名・(内容)の順に記しておくと、次のようになります。

     て  が み    佐々木 信綱(手  紙)
     小 菊 物 語    湯 川 貫 一(物  語)
     『俳句新註』より 稻靑の句「ふいとした事に家出や秋の暮」
            についての評釈。(評  釈)
     旅 籠  屋    小 花 淸 泉(定 型 詩) 
     
山守がうたへる      河 原 芳 子(定 型 詩)
     星  月 夜    淸 水 竹 意(短歌14首)
     昔   の  秋    梅柳園 主人(短歌7首)       
     す ゝ は き    稻 の 里 人(短歌16首)
     落  月  記    三 井 殘 月(小  説)
     炭 山 物 語    植 田 秋 山(小  説)
     神    風(短歌11首:粟山親之・寺田憲・早川北汀・長柳義方・
                 岡野雅一)
     志 は  す(俳句51句:
香取・逸叟、下總芦田・櫻月、芦田・湖山、古河林・
             貞喜、
松山・千及、興津・雪軒、根本・月堤、矢代・香耕、
             
沼田・晩翠、翠山、ナギ・素川、サイタマ・梅雪、下總芦田・
                 
鶯梅、龍ヶ崎・冷香、梅雪、シバサキ・鶴堂、ネモト・
                                   
嵐石)

     曲流舎糸川・春日庵極處 兩 吟 (短歌18首)
     故   郷     湯 原 竹 外(散  文)
     後の郊外の散策  
常陸 淮 陰 居 士(散  文)
     墳   墓   
大和 吉 岡 水 蔭(散  文)
       雨          
常陸 靑  葉 子(散  文)
       風          
常陸 黄  葉 子(散  文)
     千 代 女        廣 瀬 尾 山(散  文)
     椿 仲 輔 傳     伊 藤 久 澄(漢  文)
         
(付)仲輔の京に上るを送る歌 魚貫、潁則     
     霜   柱     柿本 赤太郎(短歌7首)
     岸上香摘先生選  俳句28句、選者吟4句
     短 歌 4首       高 柳 義 方、栗 山 親 之
     漢 詩 2首      可 瀬 素 川
          手   紙 (
未至磨撲堂店より、川崎子より、From Mr.Okano、田口子より、
               沼田子より、廣島・宮本兄より、朝倉・小川二君より)

      言道の歌1首
          明治三十九年度課題
        二月 筆。朝。湊。 二月 櫻。風。燈。 ……  
        選評:詩文…草間臥雲先生、和歌…大橋文之先生、
           俳句…岸上香摘先生
        課題外の選評:草間臥雲氏、曲流舎糸川氏、穗波庵主人氏
     次號豫告
     手   紙          印 東 昌 綱
          謝辭・志らぎく定價・奥付

     

   (前号の紹介と同じく、「佐々木信綱」の「佐々木」の表記は、原文
    のままにしてあります。この表記については、
資料104「雑誌『志らぎく』
       第1巻第1号について」
記述がありますので、ご覧下さい。)


          
※   ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※

 巻頭に、次の佐佐木信綱氏からの手紙が掲載してあります。

                
佐々木信綱
       菊紅葉秋をかさり候頃うつくしき
       白菊御發行いかて白菊の千代にか
       をりゆかん事をいのり上候御祝ま
       て           早 々



 次に、湯川貫一「小菊物語」があります。


       
小 菊 物 語   
                    湯 川 貫 一

 都にほど遠からぬ日暮里といふ所のいといぶせき草のいほりにあやしげなる翁と、らうたき少女と住ひけり。翁は日毎にこの少女をゐて都に出でゝ、その時々の草花をひさぐをもてなりはひとせり。少女の年は十まり五とせ六とせばかりなるべし。きたなきつゞれの衣をこそまとひつれ、みめかたちのうるはしきこと世にたぐひあるべしともおぼえず。たとへば玉の如く、はたその手にもたる花のごとく、如何なるやんごとなき姫君たちといへども中々にやさしかるべきにほひなりければ、見る人毎に、かゝる翁につけて、かくてのみあらんはいともあたらしきことゝいひてあはれむこと限なし。まして若き人々たちは殊にあはれがりて、名をとひ家をもとひなどすれど、答へまゐらすべきほどのものならずといひて過ぎゆくを、すきすきしき際はおひしたひつゝ、そがいほりに至りて物語らひなどするもあり。かくてこの噂、やうやうひろまりければ、都ぶりの、珍らかなるもの見おくれじとにや、人々の日毎夜毎に翁のいほりのほとりに集ひさわぎ、むかへて妻とせんといひよるものも數しらず。されど、如何なる故かありけん。とかくうけひくべうもあらず。この人々の中に、あるやんごとなきつかさ人の御子と、財寶あまた貯へたるわかうどとありけり。一日、この人々翁の家に例の如く音づれて、如何に翁よ汝が女をわれにつかはさば淸らなる殿の中に共にすみ、春は樂しき庭に手をとりて春の遊し、秋は高殿にならびて月をめで、よろづ心のまゝにかなはせん、汝はわが父にいひて、ふさはしき官にまけ、祿あまたかづけん。わが父は御かどの御寉、なのめならず、官位天か下にならぶものなきぞ。さりともなほいなといはんか、如何に如何にといへば、つかさ位はさこそあらめ、一度君の覺衰へなば如何あらん、昨日の淵もあすか川淺ましからん行末はなほ手のうちをかへす如くならんを、世は財寶多きにしかず、われは日本とはいはず遠き遠き國の極みまぎぬとも、わればかり富めるはあらじ、天は消え地ほろびなばこそわがたからも失せめ、如何に、われに嫁ぎて、天地の榮を占めずや、はやくいらへしね、それきくまでこゝをさらじ。かくはのたまふものか、げにことわりなめり、さまでのたまふをいなみ申さんはかしこし、汝が心はいかにとかへり見れば、この數ならぬわらはを、かくまでにおぼしたまはん御なさけのほど、嬉しさ身にあまりて、何時の世にかは忘れ侍らん。されど二人の御言皆理ありて、いづれへ從ひまつるへしとも定めがたし。いかでわらはが上は必ずおぼし忘れたまひてよ。わらはは世の常の人のわざをば、えしはべらじ。といとも打しほれ涙ぐみて語りけるが、えもいはず思ひなやめる面もちなるよと見るほどに、あなあやしきかも、奇しきかも、さしもうるはしかりし少女の姿は見る見るかはりゆきて、つひに枯れ果てたる小菊の一本の壁にすがれるを見るのみ。あまりのことに驚きて二人は、かたみに顔うちみやればこはそも、いつの間に千歳や經にけん、おのもおのも、かしらは枯野の霜の如く背は弓の如くかゞまりて、翁の姿もいつしか消えてはやあともなし。


 次に、稻靑の「ふいとした事に家出や秋の暮」という句についての『俳句新註』の評釈が出ています。

  ふいとした事に家出や秋の暮   稻 靑
   
ふいとした事は即ち家出する程の事でもないのに何か其時の氣まぐれに無鐵砲にも
    家出をした事である家を出て旅に出て見れば流石に一人は物淋しく今更ら家へ歸る
    にも閾が高くて歸れず秋風看す看す暮れんとして懷に一文もなく煙草は喫めず腹は
    へる宿る所もなければ下駄の鼻緒が切れさうになる幾らか後悔の念も起つて肌寒さ
    も一入に思はれるのである。(俳句新註)


 
以下、少し転記しておきます。


      
旅 籠 屋    
                 
小 花 淸 泉
    長き年月流浪して
         旅に老いたるすゑ遂に
    故郷へ急ぐ道すがら
         この山里の旅籠屋に
    きのふ宿りし翁びと
         ふるき枕を枕にて
    さびしき床の夢に見つ
         おそろしかりし過去の事。
    富も位も取りつべく
         朽ちせぬ名さへ得らるべし
    花の都に疾くこそと
         今夜やどれる若き人
    樂しき未來夢に見つ
         同じ枕を枕にて。


      
山守がうたへる    
               河 原 芳 子

    雨、西風
(にしかぜ)の時を得て
    土は かぐはし女松山
(めまつやま)
     
昨日(きのふ)も今日(けふ)も一昨日(おととひ)
    菌
(きのこ)にくるふ  秋興や。

    鼻
(はな)のさきなる歌がるた
    入亂
(いりみだ)れてはとりとりに
    手疵
(てきず)(お)ひしも面白(おもしろ)
    紅
(あか)きものさへ仄見(ほのみ)ゆる。

    『時代
(とき)』の繪巻(まきゑ)を展開(ひらき)たる
    神祇、釋敎、戀
(こひ)、無常
    心も空に  積日の
    うさはらす可き遊びとよ。

    あゝ吾こゝに山守
(やまもり)
    惠
(ぐ)を省(かへりみ)る いとまなく
    利の爲
(ため)(しの)ぶ 木下(こした)かげ
    味氣
(あぢき)なき世(よ)の露を吸(す)ふ身(み)か。


      
星 月 夜
               
淸 水 竹 意

    遠白くなびく尾花のかけ見えて
           武藏野さむき星月夜かな
    峯の鹿ふもとの砧とりとりに
           秋を深むる山中の里
    おもむろにみ簾はまかれつ萩殿や
           月にすみ行く玉琴の音
    來ぬ君をわびつゝ窓により添へは
           傾く月に雁鳴き渡る
        散り殘る堤のくぬぎ百舌鳴きて
           行く水寒し依田の大川
    ねくらゐる烏の夢もあらはにて
           木末にさゆる冬の夜の月
    木からしは吹きおさまりて月影の
           霜になり行く夜半の寒けさ
    冬かれしかやの枯穗をなびかして
           吹く風寒し岡こえの路
    むら時雨そゝぐ細江に舟やれば
           簑もましろに芦の花散る
    時雨來ぬはや黄昏れぬ門に立つ
           御坊よ今宵宿まゐらせむ
    見なれたる向の山も面白し
           今朝はつ雪にうすけはひして
    さむけれど雪には窓をさしかねて
           眺むる程に月も出てにけり
    たなつもの實りし十畝せまけれど
           身を過すにはあまりありけり
    名は願はす此山里に柴こりて
           老いたる母に我は仕えん


      
昔 の 秋
               梅 柳 園 主 人
     從一位久我建通公より秋のみ歌あまた惠まれ
     ける返し
    足曳の山田を守る案山子にも
           惠みの露のかゝる嬉しさ
     大僧正毘厄薩苔巖師より愛菊てふみうた惠まれ
     ける返し
    絹きせし君が惠みに菊の花
           千代の盛りの永くやあるらん
     同師の虫聲非一てふ御詠の返し
    野守すらしらぬ虫の音きゝわけし
           君か心の奥そえならぬ
     正四位津守國美男よりかつかつ玉詠を惠まれた
     るか中に秋の歌の返し
    住む里の遠里小野の萩原に
           夜半はを鹿の聲やきくらん
     從五位夫人諏訪晴子刀自より秋野のみ歌惠まれ
     ける返し
    諏訪の野の千種の花を惠まれて
           千々に見れどもあかぬ色かな
     從五位諏訪忠元大人のもとへ
     ひなの秋の歌送りける中に
    家毎に秋のみのりを祝ひつゝ
           酒くみかはすひなの豐けさ
    一筋の利根の流れは靜かにて
           常陸、下總稻の穗波うつ 


      
す ゝ は き
               稻 の 里 人
  
    あしたには男神おりたち夕べには
           女神まひまふ富士の神山
    千僧の讀經の聲にまさるべし
           うくひすはやこ高崎の山
    ながき日を花にくらしてかへるさの
           風心地よき野の夕べかな
    人の世のたゞ樂きを知れる君の
           雨にちりゆく花を見まもる
    人の世に友なきわれは今日も亦
           若駒の群と春の廣野に
    山里の友かり訪ふと梅雨の
           雨間の風にふかれつゝ行く
    妹をのせさ苗をつみてこぎ下る
           里川つゝみ苺みのれり
    我やどの樫の木かげに生ふる茸の
           ましろく淸くかをり高しも
    はたゝ神たつみの方にしづまりて
           淸くくはしき虹あらはれぬ
    遙かなる竹村にまで白妙の
           綿なす雲のかけ走りゆく
    村を出づる身をいなづまのたえず射て
           北ゆく雲のすさまじき夜や
    とかまもつ指さき凍り晩稻かる
           朝明小路霜置きにけり
    遠方の山むらさきにくれそめて
           しもかれ村のゆふべしづけき
    燈火のますます照りて寒き今宵
           氷割る音のさやけくきこゆ
    とげとげし柊の葉の面白く
           つもれる雪にあさ日にほへり
    遠々しかなたの岸にいつかつかむ
           つながれにたる舟よわが身よ




         
落  月  記
                         三 井 殘 月
 

     (一)
 十一月それの日、いさゝか快
(こゝろよ)からぬことありて、麻の如く亂るゝ胸の、やるせなく狂ほしきに、少しは心のまぎるゝこともやと、常にもあらず幾杯かの麥酒に、辛うじて暫しの醉ひを買ひつ。されどそは、げに限りなく苦(にが)き醉ひなりき。
 思へばわれ幼きより沈欝孤峭、人に容
(いれ)られざる性(さが)のやがては恐ろしく身を呪ひ、人を恨みて、おのづから一夜を泣き明すことも多かりき。時を閲(けみ)し齡(よはひ)を重ねて、數(かず)多き場合と人とに遭逢しては、流石(さすが)に昔のごとき敢(あえ)なき思ひこそはせざれ、つもる年波は、何故(なぜ)かくも吾が涙をして苦きものとはなしけむ。
 今宵==げに淋しき夜なりき。四人住みの友の二人は、ふと思ひ立ちたるやうに、夕ぐれ他の家に移り住みつ。殘れるは遠からず去るべき唯一人の友のみ。われは平らかならぬ胸をいだきて、更たくるまで夜着のうちに呻吟
(うちうめ)きつ。げにも眠られぬ夜なるかな。
護國寺のなるべし、夜半打つ鐘の音冴えたり。
     (二)
 吾れはあまりの苦しさに、獨り寢床を起き出でつ。油すくなうして豆の如きともし火のかげに、默然として樗牛が「わが袖の記」を讀む。身は先づ彼れが編中のものとなりて、興うたゝ深きを覺えぬ。
 あゝ彼れ今や則ち亡し。多き靑春の時代を去る僅かに一歩、未だ光明の門に入るに及ばずして、彼は逝けり。然り、苦かるべき煩悶の裡に彼れは逝ける也。
 げに不可思議なるは人の生死かな。
 神は人を造りて、また人を殺す。生命の長短、そも何の規る所ぞ。彼れ生前好んで死を説けり。而も身自から此境に至らんとは、流石にその際までも思ひ及ばざりけめ。あはれ片手落ちなる神の大御業は、常に斯くの如くなりき。諸人よ、惱みある人の子に強いる死の聲の、いか計り心なく無慈悲なるかを聞かずや。予は今眩然として泣ける也。
 物におびえたるやうに悲しき聲を絞りて、今し一羽の五位は、西より東へと吾が頭上を横ぎれり。
 我れはふと驚きて窓に倚りつ。
 十三夜の月、露を帶びて物凄く、冴えたる面に初冬の幽寂を添えて、神秘を語るらむやうなる諸星の光り、凛として自ら敬虔の情に絶へず。
 われは爽凉として胸の淸きを覺えぬ。
     (三)
『星晨これ天の詩なるかな。汝の輝く紙面に於て、我れ帝國及人間の運命を讀む。我れ偉大ならんと感奮せる時は、吾人の歸向するところ、此の肉體を脱却して汝と同體ならんとするにあり。げに汝は美麗なり、又神秘なり』とは甞て詩聖バイロンがチャイルド、ハロルド中に述べしところにあらずや。然り吾れ自然を愛す。其美はしき微妙の大腹中に包まれて、一切の時間を忘れ、一切の系累を離るゝの時、わが心は常に云ふべからざる快を覺えて、うたゝ「有我
(うが)」より「無我(むが)」に入るの感に堪へざる也。
 あゝ吾れや生れて狂欝、毎に人と相叶はず。到るところ衝突多し。唯大自然ありて能くわれを容れ、よく吾がおもひを聞く。人は瑣少のことに忽ち豺狼と變ずれ共、自然のみは然らず。常に甚深なる愛情を以て我れを俟つ。我れに於て彼れは生ける也。あゝ自然よ、汝があたゝかきふところに眠るの時、吾れに慾なく、われに悲しみなし。
   星も山も生けるにあらずや、岸打つ波は精神を有せざるか、露滴も洞窘も、
  共に幽默なる涙を流すの情なきか。
(バイロン)
 然り、確かに我に於て自然は生ける也。星も月も木も草も、乃至は山も水も、吾が爲には皆朋友たる也。人間に友すくなき我れは、常に自然に向かつてこを要求す。自然は長へに温かなり。
 あゝ、ネェチュアアなるかな。われは我が心の平らかならざるを覺ゆるごとに、常に自然に對してそを分かたんとす。何となれば、自爲は人間の容貌よりも、われに取りては親しければなり。
     (四)
 想へば四年の昔なりき。平日の欝結を斗升の涙にかへて、われひとり由津湖畔の草に埋もれ、消ゆるが如き殘月のかげに、心の限り泣きしことありき。
 予や慰めを求むると共に、又自然に向つて泣くことを敢てす。幼なかりしより人の前に泣くことを好まざる予は只管自然の前にて泣けり。人は嘲り笑へ共かの自然のみは吾れを慰めて、ともに聲を同じうしければ也。
 かくて吾れ自然に對すれば、自然は父母の如くに、吾れを愛し吾れをいつくしむ。吾れ常に稚き煩悶を起して、終夜眠らず人生の不可解を叫ぶの時、唯彼れありて、詢々其の誤まれるを説き、眞理ならざるを諭す。
 懷かしの自然よ、わが父よ。われ汝が寂寞の中に獨座して、ひとり人生の終始を思へば、孤憤懷疑の雲忽ち散じて、嚴肅「無限」の感起り、眞理は我が體に溶解流入して、わが「本我」を淸め、人なく我なく世界なく、從つて又生死の輪廻なく、肉は溶け、骨は流れ、汪洋として天地の間に漲
(みなぎ)るを覺ゆ。
  恍惚虚遊のわが魂、此時大夢幻裡にかけ入り、蒼々の天に漲りわたれるは、
  これ精靈自然の相を現するに似たり。
(コルクツヂ)
 
この瞬間、この刹那、誰か又「我」を思ふの暇あらんや。
 われは斯くの如くにして、常に自然のふところに眠る。
     (五) 
 あゝ人生の不可解、人間の疑惑、吾れいかで自然の啓示によりて之を解明することを得んや。されど自然は大なり。唯その大なるが故に我れ之に從ふ。然り不可解の中に妄從する也。其何の爲めなるかを問ふ勿れ、吾れは彼に向つて到底「否」を唱ふるの力だもなき也。あゝ大なる自然よ、なつかしき師父よ、吾れは今、此の愴寥たる初冬の夜に坐して、深く結ぼれたる胸の蟠りを解かむとす。
 水の如き大空は、滿面の星に
淸冽なる光りを與へて、月はいま西の森に落ちなむとす。夜は正に二時を過ぎたるらし。高等師範の建物いかめしく暗にそゝりて、街燈の光り、淡きこと豆のごとし。
 やをら我が再び低頭して神に入りし時、物あり、羽音あらく屋後の森を過ぎて、あとは又一汐の寂寞に歸りぬ。
 今宵==げに眠られぬ夜なるかな。



         炭 山 物 語  
                         植 田 秋 山

  去年の秋の事であつた。我は腦を煩つたゝめ一月餘り中學を退いて能鹿の郷里に病を養つた、夏よりかけて照りつゞけた天氣は案の如く一秋を降り通したのである。二日と蒼空を仰ぐことができない雨空は一方ならず農民の胸を傷めた。しかし我は却て好ましく感じた。それは、どんよりと迫らず物靜な雨の日が病める頭腦を養ふに最も力があつたからである。醫師も堅く禁ぜしが憂鬱に傾ける性質は迚も書齋の一室(ひとま)で、心靜に服藥する籠居の緘默を改むることができなかつた。これも半月餘、腦の痛みが全く治するに至ては追々雨も厭はしく友も戀しい心地のする事となつた。それに秋の田舎ほど心せはしく物淋しいしいものはなからふ。磨臼(ひきうす)の響、籾うつ音の忙しいのはいはずとも、雲がとぎれて落日の影が一面に稻はぞにかゝるとき人も馬も野に驅けつけて村は空屋同樣なるが、留守の子守が唱ふ歌の暮方、柿の實を狙ふ鴉の聲、もう今は柱に靠て夜に入る妹等を迎ふ力なく感ぜられた。それも讀書の慰もあらばまだしも包みの底に取り遺されし一冊も數回繰りかへしたので其頃より藥瓶片手に友を訪問することゝした。友といふのも過半は鋤鍬に腕をよる少壯農夫となつたので今に竹馬の交情を保つは唯村の學校に敎職を奉ずる二三の友人のみであつた。十月も暮れた。農家一年の辛勞は全く倉に藏められた。立列ねた空はぞに秋風が單調な笛のしらべを奏する野原の蕭條なるに庭の楓の赤きが散つて泉水の緋鯉と共に底に沈んだ時いつの間にか雨に洗ひ曝れ滿山の薄紅色いよいよ褪せて峯續の林は篩はれたる如く梢まばらに落葉したらしく見えた。艶なる春景色のさることながら子供の時分より我は秋色に對して殆ど天性の如く多くの趣味を感じ茸狩、栗拾い、いつも獨で日を暮らしたので自詮自稱の秋山を名に負ひたるも全く秋の逍遙より得たのであつた。我はこの懷しい里の秋を數年中學に皆ゐたので今年の歸省を幸ひ飽くまで故山の秋色を探らうとこればかりは生々の希望であつたが、秋も將に盡むとするに勃々の遊意いよいよ抑ゆべからずであつた。それも十一月に入つて雨も晴れ上つたので或夜友を訪ひ是非にと促したが二言なく次の日曜を期して友は直に賛同を表した。腰辨當の一日を栗の刺殻に足を痛めて暮らすもつまらぬが、石動上に登つて天平寺の殘礎を尋ぬるは餘程興あることながら、これは迚も病る我の攀ぢ難き所でこゝかしこと場所を選んだ末思ひ浮べたる如く一人が八代炭山と手を拍ちたるに議が一決した。八代炭山とは我村より國境の胡桃原峠を越へて一里餘りなる越中磯部村の一小炭山である。そこへ通ずるに道が二條ある其一は荒山峠の險路なるが歸は其峠を越ゆべき考であつた。珍しくも雲なき夜の星影に明日の好晴を卜して心樂しく床に就きしが其日の朝は案の外なる空模樣であるにひどく失望した。しかし北の空に帶の如き蒼空が見えたので再び望をつなぎしが、見る見る薄墨の雲は南に流れて、我等が越べき山の彼方は旭の光に紫の彩を映じた如く思はしめた。用意を了へし頃書齋の窓を一面に日影がさした。昨日よりも快く晴れんとの事なるが、いよいよ草鞋の紐を手早く結んだ。友の三人は各洋服に雙眼鏡までの旅装十分である。我は制服に外套を着け手輕な採集箱を肩にした。これは鑛物などの標本もとめんとするのみならず磯部附近の多く現存するといふ穴居の遺趾を探つて其遺物を採集せんとの目的であつた、それは我中學のさる敎師の委嘱で、一半をさいて其喜びに誇らんとしたのである。村を離れて數丁爪上りの山路にかゝつた。峰までは半里たらず、羊膓たる落葉の下道を進んだ。山蔭に色淺き櫨の紅葉が露を染むる力もなげに殘れるが高き梢の二葉三葉それも今飛び立てる鳥の羽うちに散らされ益々眺めつきたる秋の惜く感ぜられた。秋に肥えたる鳥の一聲谿に落ちたる流のいさぎよく聞ゆるに松の葉末を縫ふて向の山腹にかゝる瀧のさま、一に迚も見馴れたる故山の風景とは思はれない。汗は流れ息苦しくなつたが、送迎に遑なき眼は病を忘れしめたのである。十時といふに峠に登りついた枯草に坐して身を横へ煙草燻しながら雙眼鏡を友の手より得た。雲は全く收まりて天は益々高く南に轉じたる日影は暖く我等の頭上を射た。峠の四邊は嵐に吹き亂れたる茅の茫々たるが眼を遮る蔭もないので、坐がら三州の山海を一眸の裡に賞し得らるゝのである。我は思はず起ちて愉快を連呼した。一罎の酩酒か吟吟の興をすすめて居た。越中灣は弓なりに藍を湛えたるが、一望の平野を隔て墨に靑を加へた一刷に畫筆に描き出されたるやうな立山々脈が南より東に引きたるが水も一つに模糊たる雲のぼかしに越後の米山は其の紺靑の姿を今日は見せなかつた。其黑き彩りに一條二條白くきわだちたる神通、射水の流で唐島、出島も釣舟の如き眺を浮ばせて居る。北には鳳珠の山遠く北洋の空に落ちたるが越中灣の全景を半に奪ひたる石動山を右に泉水のやうな七尾灣の絶景は手にとる如く白帆三つ四つ目睫の間に搖めきわたるのである。とりわけ西が晴れたので汪洋たる加能一帶の外海は金絲をまきちらしたともいふべく見る目眩(まばゆ)き此の風景に對して我ながら二旬餘の蟄居の怪しく感ぜられた。鹿羽の野を横ぎる汽車のこれも樣變はりて見ゆるにいつともなく眉丈山麓を廻りて影を沒した。上りは十時半といふに驚いて起ち上つた。こゝより下り坂の足も輕く深き谿を進んだ。陰森たる蔭路に歩を急轉するは甚不快なるべきことなるにかくと感ぜざりしは全く異境といふ考を以て滿たされたからであらう。狼などが襲ひくるやうにはざはざはと峯より風が吹おろした。雲が一ひら二片日影を掠めて行手の空に飛むだ、鎌持ちたる若者が物珍らしく我等を見送る萱山を過ぎて柿の實赤き山畠の畦を進むだが唯一の峯を背腹にかゝる遲速を來たすものかと打驚かされたのは木々の紅葉の猶散らで秋の色を留めたる一事であつた。胡桃原村を過ぎたときは道を失ひ、さる家の背戸へ入つたに主人らしき男が馬に秣(まぐさ)食ませたるが我等の姿を見てさも驚きたる如く見る見る顔を靑くした。道を尋ねたので漸く心を安めたやうであつた。我等を收税吏と見謬り濁酒の檢査なとゝ恐れしものか。思へばふきださゞるを得なかつた。道は深き谿に沿ふて通ぜるが新らしく修繕したる泥道の麁朶(そだ)を伏せたる所は格別踐み込む足を拔くに滿身の力を以てせねばならぬ、それに一歩誤らば轉び隨つべき危惧に足辷(すべ)らして汗を絞つた事が幾度であつたか。この危さも心にかけず鈴の音のどかに己も重荷の炭擔ひながら牛牽く男の道を譲るに態と横柄(わうへい)に通り退く友の素振の滑稽とは思はれなかつた。山一つ超て谿に架けたる橋を渡つた。北より二俣川の落ち合て淵をなしたるが黑き森を浸して濃き藍の色凄きが轟く渦のすさましう我等が倦みたる氣を醒まさしめた。數丁ならずとの敎に力を勵ましいよいよ歩を進めしが岨より小屋が見えた取り落された石炭の小塊も見出だされたのである。伐(き)り仆されたる材木に腰うちかけて煙草取りだした。雨の氣遣は非るも空の半は紛絮たる雲を浮ばせた。我等は坐せる傍への小き流に影を染めた若き楓の一本に眼を注いだ、その紅葉の又と得難き珍らしいので賞するといふより寧ろ驚きを以て先づ我を起たしめたのである。其刻みの深く細かなるに眞紅の色の燃ゆるはかりなるが或は黄くその彩りの一葉二葉に工(たくみ)を凝らしたる美しさ畫師の筆も及ばじとながむるに今更ながら自然の藝術の眞似るべからざるを感じた。おぞましくも我は根こぎにせんものと力の限り引きしが熊笹に根をかためたので迚もかなはぬに夕に惱める旅人の慰もあらうものと手を放ちしが惜しげもなくはらはらと散りそめた。餘りの惜しさに五葉六葉衣嚢(かくし)の裡に藏めた。それこそ第一の獲物と友の一人は我が採集箱を見て笑つたのである。石炭の香は遙かに薫した。十一時過であつた。削りたてたる山のきりぎしに道の通じたるがその下に木を以て坑口を組まれたのが三穿れてある。坑に面して小屋が四五棟ばかり建て列ねられ其後に二俣川が岸に捨てられた黑き土塊を渫つて流れて居る。
我等は山の如く積みたる石炭小屋の右より事務所と標されたる板葺の一棟に刺を通じた。股引に藁はゞきのこれも黑光に汚れたる筒袖襦袢
(つゝそでじゆばん)に手拭の端を捩ぢて額(ひたい)の眞向(まつこう)に鉢巻した坑夫がカンテラに火をつけたるまゝ又かとうるさげに我等を見返りこづら惡(にく)げなる鄙歌(ひなうた)うたひながら小屋に入(はい)つたのが見えた。少くも二三十は居ろふと思ふたに喧しき聲もせざるが坑口の空車も泥(どろ)の星せたるに今日は休日としられた。四十ばかりの赤ら顔のぶつてりと髯のぼうぼうしたる事務員の兵兒帶に木綿羽織のしだらなきが快く來意を聞取てくれた。
 土瓶に煮たる番茶をすゝめながら炭山の起元、採掘高などゝ根ほり葉ほりの間に應じて一々叮嚀に答へ懸板の作業表迄示されたのである。『時間のひまがありますれば坑内に火をともして見物いたさせますが。それに今日は休業で坑夫も少ない、暗かろふが、カンテラで直ぐと坑夫に御案内いたさせます』と窓から撰んだらしく高聲に坑夫の名を喚び我等の案内を命するや傍の物置から汚れたる洋服仕立の古上衣
(ふるうはぎ)古襯衣(ふるしやつ)を取り出し、『着物が汚れますから穢いですが、これをお召しなさい』と何からなにまで有難い心付けに我等は手早く上着を脱ぎすて胴衣(ちつき・ママ)の上に被(はほ)つた。甲斐々々しく我等の所持品を取り纏め戸棚に始末せられたので心せはしく吸ひかけの煙管(きせる)を叩き捨て事務所を出た。自分の樣は兎にかく手拭(てぬぐひ)にて頬冠(ほうかむ)りまでしたる友の頓興(とんきよう)な姿の可笑いのに滑稽な一人は草鞋の紐締めながらさも眞面目(まじめ)らしく『僕等も今から坑夫さんだ何分新參者だから宜しく願ひます、で今夜は氷見て奢りますよ』腹抱ゆるは坑夫ばかりではなかつた。後に立ちたる事務員は『能く似合ますよ。それぢや私もお相伴に預りませうハアヽヽヽヽ』とつぶらなる目付のどこまでもご愛嬌である。
我等はいよいよカンテラの光を生命
(いのち)のしるべに五尺の體を案内の坑夫に任して暗黑なしかも崩壞の難多しと聞えし坑内に入ることとなつた。坑夫==温慈の日影に背きて奈落の底に生命股がけの鐡槌を振ふ坑夫といふ名に對して我は殘暴、陰忍の聯想を惹起してならなかつたのだ。渠等は社会に齒せられざる無頼漢が最後の一日を其職によつて許されたるものとも云ふべく、我は常に土の如く蒼ざめた頬の肉落ちて唯眼のみ物凄き渠等の姿を浮ばせたのである。ストライキを起した、鶴嘴で頭腦を打ち碎いたとは渠等に珍らしからざる事ながら、今我等の案内に立つた、酒よ肴と荒れ暮らす休業の一日も猶泥まみれの精勤なる三人の坑夫は實に意外であつた。中に挾まれたるは齡の頃十五六か大柄なれども七とはなるまい。他の二人は二十五六か。とりわけ殿(しんがり)として我が後に控えたるは色白く少しは憂を帶びたるやうなるが鼻筋の通りたる男であつた。何處の若樣としても恥かしくないのに冷たき地下の陰風にあたら靑春の花を吹きちらさうすとるはだうした運命のものか素性も卑しくはなからうにと我は心の底から憐に慕はしく顧みた。渠も力なげにうな垂れたのである。それは我一行に對して堪えぬ感慨(おもひ)を繰り返したのであつたらしい。我が注意を與ふるまで解けたる脚胖を結ばうともしなかつたから。カンテラの火は油煙を漲きらせ頻りに我等を促がすやうに見ゆる我等は勇しく眞中の坑に向つた。『おい吉田忘れずと鑛泉へも御案内申して呉れ』『はい』と事務員に答へたのは我後に立つた其男であつた。吉田とつぶやきながら又も顧みた。我が鋭敏なる神經は渠に向つて興奮したのであつたらふ。一足娑婆を遠さかる心地に進みゆく坑の高さの※にも及ぶが時々雫のひやりと襟元に落つる氣味わるさ、布きたる木呂に躓きて倒れむともするに吾等はカンテラふり上げて平氣である。五十間ばかりと思ひしが急に低くなりし天井の中腰にせねばならぬに肩にかけたる採集箱は云ふべからざる邪魔物であつた。幅狭き礦脈の表れしが質(たち)が惡いと問はず語りの説明は先に進む男の口からつきでた。坑は四通八達と穿たれてある。後も先きも見えないに魚貫して進む七の影の色なく映じ出されたるさい心細きに新らしく材木を頭上に渡せるは岩の崩れたる跡かなと物凄く仰がるゝ箇所が多いのである。坑内の蒸し暑さ、拭はさる汗は浴びせかけられたやうに流れる。胸も逼迫するかの如く感ぜられた。友の一人は堪えなかつたと見え。『頭痛がするのでもう堪らなくなつた、それに氣管支を煩らふてゐるので太層息苦しいから僕は歸らうどうかカンテラ一箇かして下さらんかな』と投げ出した。これは甚だ申譯的の言分なるが高く低く蟻垤の如く通じたるに路は自分一人で求むることの覺束なく危ふまれたらしく『君も病氣であるに我慢しちや惡るい、一所に歸らう』理をせめて誘ひしが我は應じなかつた。吉田は氣の毒げに、『おまへ後は私等二人で御案内申すからお送り申して呉れ』と年少坑夫を促した。渠は不興らしく友を率ゐて踵を返へせしが我等の元氣なきを嘲るやうであつた。我の病といふに如何に思ひしか手ごろの炭塊を拾ひ入るゝ採集箱に目を注ぎて、『邪魔になりませう、其箱私が持つて上げませう、いや何も其御遠慮はいりませぬ。さあ』と奪ふが如く我肩より紐をはづした。勿論反響を以て聞えたが朗らかに少し甲走(かんばし)つた其聲は去年の春肺の爲めに斃(たほ)れた我同窓の知己其儘の如く感ぜられた。帶の如く三尺餘りの礦脉は角を光らせて見事に表はれてゐる。『はい、五番のうちでも此の邊(あた)りの炭が最も質の良いのです』と一塊を我に呉れたので會釋(えしやく)して再び彼に渡した。其脈の絶ちし所に木を組みて坑を閉ぢたるやうに見えしが好奇心は我を驅つて其何たるかを問はしめた。『これから脈に沿ふて四五間ばかり地面の底へ坑が穿(ほ)られてあるのですがなかなか危險な事です。はい、空氣を送らねばもう行くことができませぬ、それに大層水がでまして良い脈だけれど暫くうつちやつてあるのです』我はいよいよ暖爐(ストーブ)を圍みて渠が得意の詩文を論じたる亡き友の姿を胸に浮ばせた。なつかしく語を交へしが其語の野鄙ならず訛(なまり)なき口づきに所のものではなかろふと考へしものゝ素性を問ふ暇がなかつたのである。此處から三番の鑛泉へ脱(ぬ)けるとの事であつたが渠が先に立つときはなるべく燈火を背にまはし後にあるときは指さし出して我が踉々(よろよろ)たる足元を注意し『危(あぶの)ふござります』とは常に我を勞る渠の親切であつた。坑も塞がらむばかり崩れ墮ちたる岩を取り除(の)けながら、『これに度々仲間がやられます、ついこのあとも……』胸は塞つたらしく聲を顫はした。我は又何心なく其一塊を拾つた。十年以前此の鑛泉が始めて發見せられた時此の八代谷の叔母より一罎贈られた事があつたが、かゝる靈泉の坑内に川をなして流るゝといふ噂には駭かざるを得なかつたが今又其豫想外なるに一驚を喫した。處々の岩壁よりにぢみいづる雫の、一滴、猶分時を要すべき至て小量のものなるに、少(ちい)さく穿(うが)たれたる池には泡さく酒の如く鑛泉が飴色に湛へられてある。かの空罎(あきびん)を忘れたのは殘念であつた、此の邊は坑内廣く且凉しく感ぜらるゝに暫く足を休めた、他の一人は蟾(ひき)の如く匍匐(はらばへ)ながら口づけに二口三口飲みしが眉うち顰めて『あゝ渋い』と舌鼓をうつた。我も物數寄に手で掬ひ上げしが。諫むるかの如く『あまり、たんと飲むと下痢しますからと』吉田は注意した渠は引きとるやうに。『なんで下痢なんかするものか、傷の大妙藥が、それにアルコホルをぶつこんで砂糖でやれば、まるで葡萄酒の味がする。月々罎詰にして東京へ送るがなんでも獸の毛を染めることができるさうだ。大抵なら猫や狐は變に染めこんで、へい、これは外國から渡つた何とかと山師どもが金儲の種となるのだろう、儲かりやせないでもせめて眞物の酒であつたら一杯宛ぐいと引かけやうに、見るたんびに忌々しい氣持がしてならん、はあ々々』笑つてきゝ居たる吉田は煙管に火を付けたるか『お吸いなさるならどうです』と我にすゝめた。話は酒に及むだ、例の友は吉田を顧みて『おまへさんもいくらしい顔付だが、其恰好なら五合位はぐいと飲みだろう、又飲まなきやならないさ』渠は『酒!』と叫むだ。其答の冷かなるに五體は物に魔はれし如く顫はした。我目の誤りなりしか顔は甚だ蒼ざめて見えた。談は一轉して坑夫の勞働に移つた。我は可憐なる渠に表したる同情は慰むるより寧敎ゆるやうに『それは酷いにきまつて居る、日蔭の仕事に何時岩が崩れまいとも知れぬ危險があるから、いくら車牽くのがつらひといふたつて生命(いのち)投出しのこの仕事に較(くら)べる事もできまい。其代りたんと錢儲けができると云から、まあ折角働いて何か樂な職業に就かるゝのが得策だ、この元氣さへあつたら、又どんな事でもやり遂げらるゝに違ひない、それに體も丈夫らしいから餘程結構だ』と宛然老婆の兒孫を諭すやうであつた。これが靑書生の口からときけば如何に他の坑夫の面憎しと思ふたであつたらうか、兎に角渠は感謝の意を以て耳を傾けたやうであつた。此の時渠はふと一つの深き感懷を思ひ浮べたる如くほつと溜息吐きながら『何といふてもこゝで一生朽ちねばならぬのだから……』と沈みたる調子のつぶやくが如き有樣であつた。一足一足明くなるに理由もなく罪を許されたる心地せられて嬉しく坑内を飛びだした時、心の裡に事無かりし身を祝した。腰うちかけながら行厨の包を解いた。握飯を手にしたるまゝ見るともなしに仰ぎたるは軒裏に掲げたる墨新らしき『八代炭山救恤規則』であつた。何とはなく讀み了へし時齒の根を合はすことができなかつた。喫したる飯の冷たかりし爲のみでなかつたらしい。再び川に下りて嗽ぎ盛に火を焚きたる坑夫小屋へ這入つた。七八人の坑夫ががやがやと騷ぎ立つるに吉田のみは獨默然と立ち無言のうちに半は我に席まで譲つて呉れたのである。空はいよいよ曇りて、ばらばらと雨は板屋をうつた。既に二時に迫つたといふので厚く事務員に好意を謝し、僅かばかり捻つたる紙包を投げ棄て早々我等はこゝを立つた。羨ましげに此時坑口に向ひたる渠は鶴嘴(つるはし)も重げに我等を目送した。我も幾度かふり顧みた。雨は急に降り注いだ。渠は暗黑の坑内に飛び込んだのであるらしい。我等は荒山峠に向つてひらけたる谿を鑿ちし山坂を進んだ。新道といふのも名のみ粘土の泥田の如くなるに牛馬の踏み込んだ足跡は脚絆の半を沒するので、道ぎはを刈り込む笹の尖りに傷む足の痛みは却て忍び易ひのである、それに下駄で越した痕の見ゆるに魚淵の諺も面白く思ひだされた。降りしきる雨は霙となりて横さまに吹きつけるに先を趁ひ後を待つ力もなく濡れ鼠の如くちりぢりに危き坂を攀ぢた。風に奪はれじと蝙蝠傘の柄を一心に足元のみうち守る餘裕なき我胸にも頻に彼の坑夫の想像をくりかへした。雨の少しく晴れたるがむらむらと立ち上る霧の底に水音凄き谿を隔てゝ笠一蓋に餘所の嵐といはんばかり鼻歌男の芋掘る山畠の畦に横穴らしきもの數多見えけるが採集箱も用なきに友の冷語も聞いた事なれば一層雨の腹立しう殘念に堪えなかつた。峠へ半里計といふ一寒村の茶屋で何より火が第一の饗應と草鞋なから圍爐裏に體を暖め再び重き外套引き被り漸く峠の絶頂に登つた。荒山の二軒茶屋とは評判な眺望の所であるこれさへ今は冬籠のさびしきに七尾灣の風景も一面に垂れかゝる雲に隱れ右に聳ちたる石動山の雪となりしか峰の白々と影寒きが獨り升形山の廢址は近く暮秋の嵐に咽むで居た、二里餘の道に日を暮らし特に我が爲に設けた風呂の湯の沸きたつた時紐切れたる草鞋引きずりながら家に歸つた。夕食の膳に向ひ委しく物語せしがかの可憐なる坑夫につきては心のゆく所少なからざる想像を加へたのであつたらしい。五日程經て十一日の十三日我は中學に歸つた。
     
*   *   *   *   *   *
年も暮れて寒中休暇となつた。歸省中我が從兄弟の越中から遙々訪ね來て呉れたのである。久々の事とてかれよこれよと立ち騷ぎしが我と同じく中學生なれば何よりの愉快と夜更くるまで膝を交へて語り盡した。金澤富山の市況、運動會の模樣など面白くはては數(ママ)師の品評(しなさだめ)とまで興を進めたが暫く語のとぎれた時、渠はパイプの吸殻(すいがら)を爐の絲で拂ひながら、さも秘密を訐(あば)きたる如く一(ひと)きは語調を強めて、『君例の話聞いたのか』と我の知らざるを寧ろ怪しみが如くなりしが、『なにを』と急に應ぜざりし我の答に其唐突なりしを漸く悟りたる如く『八代炭山の崩壞さ』と強いて調子の緩きを力(つと)めたるやうであつた。八代炭山と聞きたる我は『其崩壞がどうした』と鋭くせき込むだ。『知らぬか、大變可愛相な話だ、委しいことは言へないが、まあ一通りこういふのだ』感に迫つたらしく急に語を續け得なかつた。左の手で冷えた茶を一口にぐいと飲み干し『あの炭山に吉田といふ坑夫が居た』それを言はせず我は吉田と叫むだ、渠の驚きしも理なるが、『君知つてるのか』と訝かしげに漸く尋ねた、我は炭山見物の物語せしが點頭(うなづき)ながら口にしたるパイプの火の消えたりしを知らなかつたやうである、『うむ、矢張其男だ、確と聞かぬか十一月の十三日とかいつたが』我は『あの日!』とつぶやきたるを聞き取らず、『午後採堀の取りかゝるなりとの事であつた、地響するやうな音がしたので隣の坑夫が驅けつけて見ると崩れ落ちた岩の下にはやもうやられてゐたとの事である、その壓し潰された姿の慘酷な二目と見る事ができなかつたそうだ、見て來た人の話では無念そうに握つてゐた鶴嘴はどうしも放されなかつたとの事である、それに可愛相なは、君、後に殘された一の母親だ………』渠は咽むだらしく語はとぎれた。我も口返事が出なくなり垂れた頭を背けてそと涙を拭ふた嵐が一しきり吹きわたつて庭の松が物凄き音を立つるに首を締められたる如き靑鷺(あをさぎ)の聲は聞えた渠はパイプに火を點けた。『母親といふのが我子が死むだときくとなり狂ひだした、君無理はなからふ、杖とも柱ともたつた一人の我子に死なれては、可愛相なものじや、毎晩々々髮ふりさばいて文太郎々々々と坑の口で喚びつゞけるのだ、其聲がまだ耳にあるやうで思ひ出すと棘然(ぞつと)する』。
 渠は其身の上に及むだ、其調子は甚だ沈むで居た。國は忘れたが、何にしろ上方のものだといふ事である、家は元立派な資産家であつたらしいが、父といふのが非常な酒呑みですつかりの飲潰した上惡事まで働いて監獄へ繋がれ、それも一月餘りで卒中とかで倒れて仕舞たそうだ、それに又妻がゐたそうだが中々の浮氣者で父の死なぬうち情父と出奔したといふ事である、そこで悲しいやら耻かしいやら合す顔もないので年よりの母を引き連れ夜遁げ同樣に少しのつてを以てあの炭山へ來たのは一昨年の暮とかいふ事だ、書
(て)も立派にかいたといふが坑夫をやらなくとも二人口を養ふ位は何をしたつて容易(らく)であるのに態と名もない炭山を擇んだは屹度世間を憚るといふ心があつたからであらふ。それに坑夫といふ日陰の職を執つたのも云ふべからざる深意があつたに違はあるまい』これは深く耻ぢたる渠の口より洩れたのではないとの事なるが我はゆくりなく『一生こゝで朽ちるのと』つぶやきたる渠の姿を胸に浮ばせた。我は力なくシガレットの箱を手にしたまゝである。『君もいふた通り餘程すなほな、しかも辛抱強い男で仲間から嫉まれる程事務員の信用も厚かつたそうだ、誠にあはれな事ぢやないか。八代郷では寄るとさはると此の一つ話で誰一人泣かぬものはをらぬ、ところが坑の内で鬼火が見えたとか、掛聲で石炭掘る音がするとか評判がするうへ文太郎と母の泣き聲が谷から谷へ響きわたる物凄さに、晩方から小供などはちつとも外へ出ないのだ』。
 と身を顫はせた。我も堪らず堰き上げた。油の盡きたるかランプの急に暗くなりしに窓打つ嵐のいよいよ吹き荒れて靑鷺の聲が又も更けたる空に一層さびしく悲しくきこえた。『もう磯部を通ふのがいやだから君の家へもゆきにくい氣持がするわ』小供らしき此の語に渠は『つまらない』と始めて煙草吹かしたのである。可憐なる坑夫が永劫
(えいごう)の筐(かため・ママ)なる石炭の小塊はわが書齋の標本箱に黑く光を帶びて轉んでゐる、渠が暫しなりと肩にしたりし採集箱は壁にかゝつてある。我は怨めしき岩の一塊を力の限り庭の飛石目がけて投げつけた。今年の二月かの無慘なる遺族救恤義捐金(いぞくきうじゆつぎゑんきん)の募集廣告が北國紙上に表はれた時、其期限に後れざらんが爲め我は三册の書籍を賣り拂つて書生の身には不似合ともいふべき大金を義損した。炭山見物の折拾ひとりたる紅葉は愛玩の詩集に枯れたるまゝ猶血汐の色赤く挟まれてある。涙種ながら我は終生これを捨つる事は忍ばれないのである。 (完)   

 

 

     *  *   *   *   *   * 
   我は光にして世に來れり、凡て我を信ずるものをして暗黑のうちに居らざらし
  めんが爲めなり。人若し我が言を聞きて守らざるも我は其の罪を定めず、我が
  來りしは世の罪を定めん爲めにあらず、世を罪悪の中より救はんが爲めなり。
     *   *   *   *   *   *
 


        神  風
    
       常陸山谷右衛門丈横綱となりける時
       恙ありしも全快して出場すると聞き
       詠みて送りける
                粟 山 親 之
筑波山登る高嶺の雲晴れて
       七五三のに(お
)繩に神風ぞ吹く
   ○            寺 田   憲
百草の花さく秋の野や山や
       思も長き我旅路かな
心なき旅人もをかし菅笠に
       花の七草さして行く野や
小萩野を行きの通ひに紫の
       花摺り衣きぬ人そなき
   ○            早 川 北 汀
筑波根のふもとのあたり垣結ひて
       白菊を守る主人をぞ思ふ
   ○            長 柳 義 方
わかために我おほおちか接きましゝ
       脊戸の柿の實色つきにけり
みよや君かしらの柴に大原女か
       そひてそきぬるをみなへしはも
やむ母をみとる野中の一つ家の
       軒の葎に蟲なきしきる
    ○       七十四翁  岡 野 雅 一
   稻敷里
藁火焚く烟り家毎に立のほり
       かまと賑ふ稻敷の里
   雁
小夜中の友とこそなれ雨の音に
       佗て寢ぬ夜の初雁の聲
   初冬
大方の秋のあはれもつき果て
       いつしかかふる野への冬枯
        …………………………



          志 は す 

一日も濡れぬ日はなし時雨月    香  取 逸 叟 
はらはらと紅葉ちらすやはつしぐれ
日みしかや昨日の用がけふになる
はつ冬や木の葉を誘ふ日和風
炭ふねや幾日暮らして都入
名の如くいつも群る千鳥哉     
下総芦田  櫻 月
落葉して雨も音なき夕へ哉
生涯の憂きは一夜そ暖め鳥
炭の香や隣坐敷は京言葉       
芦 田 湖 山
穩かに續く日和や大根引
くれられし杖を力や雪の道
孝の子のよく掃く庭の落葉哉     
古河林  貞 喜
松風はたいてすむ夜を霜のこゑ    
松 山  千 及
水鳥の聲身にしみる月夜かな
よくみれば霜にてもなき小春哉
刈株の間々やうす氷        
興 津 雪 軒
二三輪白梅さきし小庭かな
親はねて居るよと雪の渡守
野も山も見度なりたる小春かな   
根 本 月 堤 
未た風の骨も見えなき小春かな
麥をまく人小三里もつゝきけり
つけ劒の前や後く散る木の葉    
矢 代 香 耕
初霜や犬の足跡橋の上       
沼 田 晩 翠 
なき親のうへ忍はるゝ冬の月
今日はかり主人の顔も夷講
忌火屋の御燈拜して年籠            翠 山
梟のこゑのみ高し冬の月
すへて皆人の師なれどぬくめ鳥
寒月や轍にきしる砂利の音     
ナ ギ 素 川
刀打つ有明白し寒の梅
糸をくる女の胼に泣く夜かな
軒毎に網干す秋の日和かな    
サイタマ 梅 雪 
雁鳴くや暮るゝ漁村の片明り
孕む帆を見越す並木や秋の風
江の水に木魚ひゞへて朝寒し
月を名の客に忙しき漁村かな
何の木に鳥は宿るそ積る雪     
下総芦田   鶯 梅
花の世の昔慕はしさくら炭
炉開きや今日は誠の冬ごゝろ
群烏の端山に黑む時雨かな     
 冷 香 
富士見えて筑波も見えて秋淸し
初花や浮世に遠き神の庭
祝ひ日に折よし菊の園びらき        梅 雪
白菊の塵に染らぬ操かな
菊咲て土地の名までも知られ鳧
發企者は硯の友よ菊の宴
行脚する僧の氣高し菊の花
坂路の足にからまる落葉かな     
シバサキ  鶴 堂
殘菊や白はこと更頼もしき
山廣くたゝ一本のもみちかな     
ネモト 嵐 石 
冬の山草木も枯れて暮にけり

        …………………………
 


 

 

曲流舎糸川

       兩 吟

春日庵極處

人に物いはぬはかりも冬籠り    極 處
  木の葉折々耳さはりする    糸 川
休ませて置けば車の水涸て      處
  道路普請のこゝにかしこに    川
此秋は月ともいはす役所詰      處
  菊の香りのしつとりとなる    川
鎭まりし神の機嫌も迁宮年      處
  世からにつれて賣れる小間物   川 
さめ安い戀にも情をはこぶ湯の    處
  ことはなまりは文にかくにも   川 
合頭か葉を凋めはあやにそうも透き  處
  月の出代に時鳥なく       川
着た船また押出して長良川      處
  すゝめる酒も時宜によるもの   川
奉樂をすましてもとる能太夫     處
  かはつた事の出來る此土地    川
咲花に菜飯の鍋を焚おろし      處
  日永々と鳥の囀る        川
旅立も春とて連の殖るなり      川
  大手廣けて貰う丸藥       處
内儀ともいはるゝほとの身こしらへ  川
  また樂屋へは太鼓さへ來す    處
靜岡は城のみ今に名に殘り      川
  暮行年の齒朶や楪        處
雪垣の中まで市の立やらん      川
  其角か洒落誰も及はぬ      處
什代の圍ひの香もたきへらし     川
  もすこし見たしゆめの其あと   處
淸らかに月にはなんの氣もなくて   川
  芋ごしごしと洗ふ井戸端     處
秋もなか寺肝煎も骨か折れ      川
  建ぬあひたに柱よこるゝ     處
ひき出しに入れてわすれし届狀    川
  馬士呼て酒代とらする      處
花曇り虻蜂とふもおもしろく     川
  茶の摘こみも二番三ばん      處

        ………………………… 


         故  郷  
                       
湯 原 竹 外 

 世に故郷ほどなつかしきはなし故郷は呱々の聲を擧たる處祖先の安らけく眠り給へる處父母兄弟の我を待ち給へる處朋友親族の居る處なりされば一度故山を辭して雲山萬里の異境に客となりては花の晨月の夕喜ばしきこと悲しきことにつけ先づ思ひ出ださるゝは故郷なり故郷は實に一種のインスピレーシヨン也常州稻敷郡なる長戸といふ村は我が郷重(ママ)なり樓閣の天に聳ゆる美觀なく車馬の往來絡驛として晝夜織るが如き繁華を見る能はずと雖も風韻の掬すべく雅致の賞すべきものなからんや見よ靑波瀲灔たる霞浦は水光沓(ママ)として際涯なく白鷗は波間に浮沈し玉鱗は潑溂として、漣を作る蘆間孤舟の繋げるありそよ吹く風に白帆はらませて行く船あり黑煙を立てつゝ入り來る汽船ある恰も一幅の活畫圖を展觀する想あり馬耳の如き筑波山は巍然として高く超然として淸く蒼然として嚴に優然として侵すべからず見ゆ
 常陸と云へば何人も知るが如く關東平野の一部なれば田園渺茫として十數里につらなり利根の大川は紆回曲折して常總の境を流れて海に朝す溝渠四通して灌漑に便利に地味肥沃にして人々農事にいそしむを以て米穀類の産額夥し又養蠶業は驚くべき長足の進歩をなしたれば其盛大なること縣内に冠たり從て製糸を業とするもの數多し將來は富岡八王子等の名産地を凌駕するに至らんと豫想せらる
 余や少しく閑あれば去て林中を徘徊し以て我が浩然の氣を養ふ松柏は欝蒼として緑翠を滴らし喜で我を迎へ我が爲に颯々たる無韻の長歌を調ぶ身氣爽然快言ふべからずかく田を耕して食を得蠶を養ひ綿を作りて衣となし斧斤時を以て山林に入り家屋を造り薪炭となすが故に生活に不足を告ぐるものなければ民の生計ゆたかにして風俗敦厚なり所謂衣食足りて民禮節を知るとは是れ此の謂か善なる哉我が郷や羨ましからずや我が里や
 一陽來復せる頃には粲たる梅花は百花の魁として春心を示し黄鸝は幽谷より出でゝ草舎の角梅が枝に來りて綿蠻たる淸音を弄す黄なる蒲公英は長閑なる日影に綻び薄紫の菫は山に滿ち遊糸白く里をこめ彩霞靉靆として見渡す限りの田畑は黄緑の毛氈を敷きたらんが如く胡蝶の翩々として菜花を舞ひ戯むるゝもなまめかしく乙女子の三たり四たり袖ふりはへてうらゝかなる野邊に一日の遊びをなすも亦愛らし櫻花の燦爛として咲き亂れたるは遠く之を望めば雲の如く近く之を觀れば雪の如し桃の花の窈窕たる李の婀娜たる炎々として燃ゆるが如く珠玉を綴るが如し千紫萬紅艶を衒ひ芳を競ひ人をして神暢び意怡ましむ
 春も暮れ花も散りて靑葉蓊鬱として蔭凉しくなりぬれば卯の花は枝もたわゝにふりつみたる雪の面影見せて咲けるこそいみじけれ蓮の花の赤白と入り交りて田の中に咲けるが吹く風に露おとさるゝもをかしけれ朝顔の朝な朝なに咲きかへてあるは赤くあるは白くあるは紫にあるは咲分などとりどり咲き出でたるはまたなく麗し男女の新らしき管
(ママ)笠かぶりて三々五々つどひつゝ田を耕すあり肥料を散らすあり苗を取るあり運ぶあり植うるあり流汗津々たるも孜々として怠らず朝に星を戴て出で夕に月を蹈で歸るを見ては粒々皆辛苦より成るを思ひゆめあだに見過すことなかれ湯浴も終へ晩餐もすみて後納凉せんと堤のほとりを彷徨ふに螢は凉しき風に吹かれて里川のほとりあまた群れて飛びかふを見るからに晝の暑さも忘れつべし
 金風肅颯として秋凉を報じさほひめの手によりて四望の丘陵に錦織りなす紅葉は三月の花よりも紅に君が代を壽き顔に賤がまがきに咲き亂るゝ白菊の花こそ一入の眺めなれ四季折々月のながめはあれどわけて秋の最中の望月の塵ほどの雲もなき大空にさやけく高く懸かりたらんこそまたすてがたき景色なり樹の葉は落ちて新に茅屋を現はす中に柿の實の赤う熟したるもをかし八千町の小田に打ち靡く垂穗の稻の黄なるが中に男女の千代歌うたひつゝ稻苅る樣こそ面白けれ馬曳く翁は人毎に豐けき秋の物語も嬉しげなれば田植の苦も稻苅の勞をも忘れつべし
 春もくれ秋もすぎて冬枯の時節となりぬれば野外の光景寂寞として見るものなく唯雪降りたり朝起き出でゝ見れば一面に銀世界となり木々の梢は時ならぬ花を咲かせたらんが如くいぶせき賤がふせやも金殿玉樓と疑はるゝばかりなり鳥を捕へんとて竹箒にて雪を拂ひはがわななどをかけて眺め居るなとをかしあはれ天然の美景田舎の外いづれにかある我が郷を措きて何處にか求むべき都人紈絝子請ふ紅塵十丈の都門を去つて靑山碧水の間を逍遙し以て心神を休養し身體の健康を圖れ
        ……………………………… 

 
    
 後の郊外の散策
                 
常陸 淮 陰 居 士

 
此月三十日と云ふに、復四人にて散歩に出でぬ。固より此處彼處と定めたるにはあらで、茸狩とはいふものから物をも持たず、辨當風呂敷に包まん程も難かるべし、日を暮し得ば幸甚と常磐なる偕楽園のほとりより鐡道線路に沿ひて西し、暫して赤塚停車場に至りぬ。是より左に折れて人家もなきつゞらをりなる坂路を辿りけるに、いつしか谷間に入果てければ、岨づたひ東南に進みつゝ聲を枯して長嘯すれば木魂なんどの應ふるにや、彼處の山に響き此方の谷に鳴り、夜ならましかば身の毛もよだゝんばかりなり。須臾にして道を得小川のほとりに出でたるに、生草を駄したる馬を牽き、頰冠りして鼻歌を謠ひつゝ男の來合せければ、物問ひしに、此は櫻川にて行く先は河和田村と敎へぬ。此邊の山林は凡て櫟枹と赤松とにて、櫟枹は矮林更新法を行ひて、薪炭を得るを目的とし、所々櫻を交へたるが紅葉して、春の花にもをさをさ劣らぬ樣なるに、女郎花の黄なる、男郎花の白き、吾木香の黑き、薊の紫なるをこき交ぜて織りなす錦えもいはれず、虫さへ其美を歌ひて秋をげし得顔なるぞをかしき。秋の野に織りなす錦かつぎしてわが行く先にまつ虫のなく、ひんがしの風そよ吹きて梢を渡る音の、こそこそと囁くかと思へば忽欝蒼として何とはなしに重々しげなる松林に出でぬ、櫟枹の楚々たる聲は婦人の喃々喋々するが如く、松の颯々たる響は男子の侃々諤々たるに似たり。其相和し相調へたる美妙え盡きじ。山林已に盡きて田圃數頃なれば、農家二三散在して、紅柿點綴之を圃み、藁其根に積まれ、鷄鳴時に喈々としてきこゆ、之を過ぐれば薄原あり、ますうの薄ともいふなるか少しく赤色ある白花の疊しきたらん樣に一面に咲けり、行手はまた櫟枹の錦かつぎ、緑滴る松林、數頃の田圃と二三の茅屋、雲と見まがふ薄原にて、時をり涓々として送り迎ふる溪流、雄大なる壯觀には乏しきも、自と奇趣妙景を爲せり。幸に足もつかれず、日も足りぬ心地ぞせる、歌びとが、鳥の聲水のひゞきに夜はあけて神代に似たり山中の村、と、詠みたりけんも、かゝる里の奥にやあらんと思はれぬ。斯くて丹下原に出づれば遙に開けたる快濶の眺め、筑波の峯より東茨城の山々まで一齊眸に入り、一圍の大木諸所に立ち、珍らかなる草もて其間を埋めたる、調の異りたるもをもしろし。此處は其かみ櫻野牧と稱し、天保四年十二月水戸齊昭公の創設にかゝり、面積二百十八町四反六畝ありと。今は縣の種畜少許を飼ふ由なれど見ず、四圍の堤水貯へし小池など、其儘なれど、星移り物替り、昔を忍ぶ草のみぞ多く亂るゝ、牧場を横斷せしに、二友柴栗を拾はんとて林を深く分入り相失ひぬ。呼べども呼べども更に答へず、木の葉も散らんばかりの大聲もかれて、せんかたなく大道に出で、芝生に座して用意の握り飯取出し、之を平げて氣力を復し、三十分計り語らひける中、やうやう求め來ぬ、山鳥追ひて狼に遇ひたる者もありしが栗拾ひなれば遇ふものは犬くらひならんもあたら命を喪ひてはなど戯れつゝ、いよゝ東して笠原山なる笠原神社に詣でぬ。此地は天然森林に似て松杉檜櫟七葉樹の類、皆雲を衝くばかりなれど去る三十五年九月の颶颱のために折り倒されしも多くて、光線地表に射映し居れば、林地の荒廢せんことの口惜さよ、古より幽邃の地なりけんと覺えて、天和中、光國公茶亭を設けて漱石所と名けられしとか、石坂を下れば左右四所の淸泉ありていつも絶ゆる時なし。寛文中より之を引きて下市居民の飲料水となし、今は棚を結ひ、巨石にて覆ひたれば、唯淙々たる音を聞くのみ、文化中、齊脩公、浴德泉と名け、弟齊昭公題字し藤田幽石先生の選文せる碑今もあり、火成石の自然の俤形なるに鐫りたり、字の細かなると、棚もて隔てたるにてえ讀まぬぞほいなき。逆川は近き邊より來り北に向ひて千波沼に注ぐ、さかさといふ事心得ぬが、都へ上るといひ、上り汽車など呼ぶに、此川は城下に向ひて流るれば上るなり、故に逆さとこそいふならめと説くものあれば、いやとよ此わたりの流は皆東また南にゆくに、此が北に注げば逆と名づけたらめ、と、一人の説解するもありて、時ならぬ花をぞ咲かせける、とにもかくにも川口まで上らんとて流を下りて上りけるに、水源近き程は流急にて、水底は皆小礫なれば、こなたかなたに激し、水車の設けさへあり、中流は砂を沈め瀬の移り變る樣も見られ、川口は泥土にて三稜洲の發育せるなど、一里に足らぬ中に河の理を盡したれば、地理敎授には、恰好などゝ語りつゝ其かみ日本武尊が征船を繋ぎしみなとの名殘なりてふ、千波沼、水戸の名もこれより起れりてふ千波沼の西南を廻りて寓に歸りぬ。
        ………………………… 


        
墳 墓  
                大和 
吉  岡  水  蔭 
 
蕭々たる秋風は大空高く吹き渡りて、遠近の山河徒に荒凉寂寞の色に暮れ行く、愁思深き日、余は獨り滿身に悲風を浴びつゝ、某寺に詣でぬ。堂の後を見れば幾百の石碑、滿地に羅列す。余は枯木寒草の下に佇みて、遠き百世の後をおもひ、轉た榮枯盛衰、無常迅速の感に堪えざりき。靑苔、碑を掩ふ者あり。或は傾斜倒墜せんとする者あり、或は碑前香煙を放て樒葉靑々たるあり。抑も生ある者誰か死なからん、松の千歳の壽、朝顔の一日の榮、茫々たる宇宙界森羅萬象一として始ありて終なきものはあらず、而るに此に至りて悲嘆するも亦た何の益かある、生を好み死を憎むは人情の常なれども時移り事變り、樂盡きて悲來り、醒むれば等しく朝の露と消え去りて長へに苔下無念無想の人とならんのみ。人生朝露の如く、將た水泡に似たりとは常に知る所なれども、奚ぞ悲痛哀歎せざるを得んや。
 此の地に埋られ、此の石を戴きたる人の中には、病魔に罹り、醫藥を極め、看護に盡瘁せらるれども運拙く命窮りて瞑せしもありなん。老衰の父母を遺して海山の恩をも報へず、恨を含みて白玉樓の客と化せしもあらん。
 夫に先ち、同穴の契を地下に待てる婦女もあらん。掌中の玉、眼前の花と愛撫せられたる緑子の露と消えしもあらん。拔山蓋世の英雄なりしも悲命に身を亡ぼしゝもあらん。或は鰥寡孤獨にして、告る所なき窮民なりしもあらんか。所謂貴となく賤となく老となく少となく皆な枯骨と爲りしならん、誠に愍然に忍びざるなり。今は姻戚の詣ずるものあらんも亦終には此地下に葬られ、卒都婆も苔蒸草繁りて、遂には知る人もなく、壯士の骨も朽ちて土塊と化し、美人の髑髏時に鋤鍬に觸れて出づるも誰か當年の俤を認めん。東流の水は、一たび逝きて復た返らず、黄粱一炊の夢は忽ち邯鄲の枕に破れ、榮華一瞥、魂は空しく黄壚の山に迷ふ。人生五十の壽、僅かに蜉蛾の朝夕のみ。生を愛み壽を貪るも百歳悠忽、潮の紅顔、夕の白骨、生前幾萬の財を積むとも化して土となり徒に墓田の蔓草を肥すの資たるのみ。嗚呼悲い哉。偶々東天に秋月皎々と輝き遠寺の鐘は諸行無常の花に響き、悲風蕭々と吹き、枯木の葉は寂滅爲樂の苔に布く、豈に惨憺の至りならずや。
 殘月は西に傾きて復た中天に還る時あれども、死出の旅路に逝きし人は、再び會はんこと、何れの夕、何れの朝ぞ。
熟々過ぎにし昔を忍ぶれば、懷舊の情轉た禁じ難く、情緒綿々限りなきも、言語極りて言ふ能はず、幽明境を隔てゝ、呼べども答へず、叫べども應ぜず、千行の涕涙、濺いで滂沱たるのみ。嗚呼悲い哉。
        …………………………  


        
雨   
                常陸 
靑 葉 子 
 草木穀菜は、何の力によりて、生ひ育つものなるかと問はゞいかに答へん、千よろづの人かならず、口をそろへて、そは空より降りくる雨てふものゝありてこそとやいはん、まことなるかな、雨てふものゝ時をうしなはずふるときは、穀物ゆたかにみのり、國民は手をうちて、み代の豊年を悦ぶならん。しかはあれど、雨もし日をつゞけてふらば、よろづの河水あふれあふれて、つゐに洪水となりて、あるは、千丈の堤をもくづしあるは、萬畆の田畑をもがいし、あまたの民の心を、なやますに至る、これをおもはゞ、またにくゝもあるかな、あはれ、同じ雨にても其のふる時につけて、いとはれもし、またれもするこそ、あやしけれ。 
 
        …………………………  


        
風   
                常陸 
黄 葉 子 
 
のどけき春のあした、文よむ窓にえならぬ花の香を送り、暑けき夏のゆふべ、まとゐを席に萬斛の凉味を送るが如きは、風の愛すべきものなり。雲雨を吹き送りて萬物を滋育し、温冷交々致して氣候を中和均平ならしむるが如きは、風のもつとも益あるものなり。しかはあれど、一利一害は、これ數の免れざるところ、一旦怒號し、樹を拔き屋を毀ち人命を損ひ船舶を覆すに至りては、風も亦、甚だ畏るべきなり、あはれ同じ風にして、愛されもし、又怖れられもするこそ、あやしけれ。
        …………………………  


        
千  代  女   
                   
廣 瀬 尾 山  
 
紫姫逝き、淸女去つて、星霜茲に一千載、閨秀長く跡を絶ちて、文壇の光景轉落莫を覺ゆるに當り、ミュズの神は北方に女流の一詩聖を降し給ひぬ。彼は紫雲(しうん)(たなび)き渡る花の都に生れずして、み雪ふる越(こし)の鄙里(ゐなか)に生れたり。彼は社会の上流なる風流韻事を樂む家に養(やしな)はれずして、糊口に齷齪(あくそく)たる貧家(ひんか)に人となれり、彼は窈窕(えうてふ)たる天性の麗質を附與せられずして、尋常一樣肥大の身をもてり。彼は高尚優美なる敎育を受くること能はずして、早く家事の經營に身を任せてき、斯く種々の障碍はありしかど、彼が天稟の綽綽たる詩想はいかでか銷磨し得らるべき、事にふれ、事につけてよみ出せる半言隻句は、斯道に於ける永久の典型となりて千代女の名は千代萬代に傳はるべき籤をなせり。
 平民文學旺盛の時代として、誰も知る元祿の十五年に、加州松任の一古驛に住して、細き煙を立てたる經師職福増屋六兵衛の家に一女兒のあげし呱々の聲を誰か後年十餘歳の後に於て、天地自然の美を歌ふ嚠喨の音なりと知るべき。
 千代女、幼より風流の志、厚く、長じて頗俳諧を好めり。初め支考に就きて學べりしが、支考みまかりて後、良師を得ず、會々廬元坊行脚して松任に到る、千代女大いに喜び旅舎におとづれて、志を述べ敎を乞ふ、時恰初夏の候なりければ時鳥の題を授けらる、千代女直ちに一句をよみ出づ、盧元頭を振る、千代また一句を示す、盧元また曰くいまだしと、かくて數十句
(すうじつく)、盧元皆斥けて遂にそのまゝ眠に入りしに、千代女沈吟心を苦しめ、思を焦し、天曉に及ぶ、盧元夢醒め、驚き問ふて曰く、夜明けたるかと、千代とりあへず
   時鳥ほとゝぎすとて明にけり
 神來の妙想、端なくミエゥズの絃線に觸れて、此の好音を發す、盧元豈驚かざらんや、嘆賞大方ならずして曰く、そこなりそこなり、俳諧の眞はそこにあり、おん身終身此句を心とせよ」と遂に師弟の約を結びぬ、千代女時に年十二歳なりき。
 十八歳の時、金澤の商賈福岡某に嫁す、
   澁かろか知らねど柿の初ちぎり
 何ぞ其の愛らしくいぢらしき。
 彼は嬋娟人を惱ますの麗容はなきも、夫
(おつと)大事(だいじ)に箕箒(きさう)を執つて奉侍するの貞操あり、女性の温和柔順の氣質、之を彼の句によつて窺ひ得べし、伉儷七年最愛の夫は先だちて泉下の人となりぬ、彼は涙にしめれる袂を咽りて
   起つて見つ寢て見つ蚊帳の廣さ哉
 狹しと覺ゆべき蚊幮
(かや)にして、廣しといふ何等の多情ぞ、曾つて其子を失ひける折
   蜻蛉
(とんぼ)つり今日はどこまで行つたやら
 濃厚なる情熱は彼を馳つて、亡兒の姿を虚無縹緲の間に追ふ、十七字恰
(ほとん)ど斑女前の物語を聞く心地す、
 あはれ、昨日
(きのう)までは團欒(だんらん)の樂ありしもの今は幽冥境を異にせり、涙多きも女性如何ぞ此際に涙なからん、忽ち物によりて感を起し、感によりて愁を惹き、茲に此等の悲句を成せり、爾來、半宵夢は破れて時に此事を憶ふ、畢世の遺憾綿々として絶ゆる期なし、春風桃李花開夜、秋雨梧桐葉落時、
 萬象蕭殺として天地闃寂、今や彼は姿を圓頂方袖に變じて、思を塵外に脱し、名をも素園と改めぬ、朝に閼伽を汲んで夕に經を誦じ、佛を拜するの傍。時に句をよみ時に畫を描き、法心淸淨かくのごときこと、殆五十年、安永九年陽前一日は彼の靈と肉とわかれし日なりけり、年正に七十四、松任の聖興寺に葬る、
 彼の音容杳々として復接すべからずといへども、千代萬代に忘られざる名句多し、其二三をあぐれば
   蝶々の夫婦寢あまる牡丹かな
   朝顔に釣瓶とられてもらひ水
   落鮎や日に日に水の恐ろしき
 某寺の長老、一念三千の心をよめとありければ
   千なりも蔓一筋の心より
 或人、方、圓、三角を一句によめとありければ、
   蚊帳の隈一つはづして月見哉
 又或人、彼が躰軀の肥大なるを笑ひしかば
   一抱あれど柳はやなぎかな
        …………………………  


        
椿 仲 輔 傳
 
     
吾師横田對山翁所著有椿仲輔傳予借白菊餘白以暫載爲  
                             
伊 藤 久 澄 
椿仲輔小字源吾 通稱四郎左衛門 號常磐舎 又有千稔 南塘藕 塘寂庵 等稱 北總香取郡猿山人 以享保二年生 父曰四郎左衛門 母小笹氏 仲輔天資穎悟 幼而好學 文藻有望 年甫十六 就神山魚貫翁學和歌 翁深器之 知莫不言焉 自是親炙往來 不啻水魚 仲輔又就小山田與淸於江都 受國朝古典學 與淸精于和漢學者也 年二十一 丁父憂母亦尋沒 悲哀無極 父始以作酒爲業 時不得利 家道寢微 仲輔承敗餘 於是寒窶如洗 居其落魄詠歌不輟 蓋出於天性也 年二十七 一旦有感所棄家僦居于江都鬻酒營生 忙中偸閑手不釋巻者數年于此不得意 而再歸郷 時年三十五 仲輔初娶妻於同郡十三間戸村小倉某女 生子曰岱三郎 兒時爲江都紙舗庸童 妻亦與倶去在江戸云以故仲輔獨居聚兒童敎讀書 貧困自甘 專心苦學 以修國朝古今制度爲已任最善和文 甞欲倣神皇正統記修和文國史 未及脱稿因人之薦出仕佐倉侯 進講國典資治通鑑等 未幾辭歸 當時仲輔之爲京都者和歌國典學之淵藪也 可往學焉 今也無繋累 是吾成志之秋也 魚貫亦大賛之 意遂決矣 弘化二年發程 是行詳于小岐蘇日記可觀也 至京師也依二條殿下諸大夫蒲生市正之知遇 下帷于柳房 敎授國學已而與穗井田忠友交 共討論歴史制度 將有爲 明年春二月不幸卒死于客舎 享年四十四
 伊能穎則曰 仲輔於和歌初慕京極壬生流後感悟於師説以爲後世和歌者流 皆矯模擬 雖巧則巧 終令人厭倦思睦不若以感遇人情之自然 更欣羨紀貫之風調 適讀香川景樹著益思復古鋭意淬勵萬葉古今集歌 所著有萬葉集發揮古今集解二鏡遺韻小岐蘇日記雜記歌文集等 仲輔子岱三郎善俳諧 號靜堂月杵 學於惺庵西馬晩年弟子愈多名聲噪世傳衣鉢者今尚有四世某者非成一家何以臻此謂所斯父有斯子者歟
 逸史子曰 予甞見仲輔與魚貫翁書信 有曰京都違予期 學者文人極寥々 獨可觀者 嵐峽勝地耳言雖有嫌於誇大足以概見於爲其人矣 嗚呼 天若假年 彼他日必裨補于皇國學也明矣 而徒亡斯畸人爲國眞可惜矣哉
  明治三十六年 無射戟上浣 横田對山誌
 右引用書 淸宮秀堅著小學小傳 伊能穎則著椿仲輔行狀 他係神山魚貫茶話古老口碑
 仲輔書簡等
   *  *  *  *  *  *  *  *   
     仲輔京にのぼるをおくりて
     木鼠のやどりにてよめる    
魚 貫
  人もみなおくりはすれど夏草の
         老てわかるゝ我ぞかなしき

    
椿仲輔の都にのぼらむとす
     る別に同じむしろに書よみ
     物學びし事など思ひ出て    
穎 則
  諸共におきふしなれし文机の
         かたへ寂しく明日やなりなむ
 
      …………………………  
引用者注
 
 椿仲輔(つばき・なかすけ)=1803-1846 江戸時代後期の国学者。享和3年生まれ。江戸で小山田
      与清
(ともきよ)に国学を学ぶ。のち京都で穂井田(ほいだ)忠友らとまじわり、歴史制度を研究した。
      弘化
(こうか)3年2月4日死去。44歳。下総(しもうさ)香取郡(千葉県)出身。字(あざな)は源吾。
      通称は四郎左衛門。号は常磐舎、南塘。著作に「万葉発揮」「小岐蘇
(おぎそ)日記」など。
                       (講談社『デジタル版日本人名大辞典+Plus』による。)



      
霜 柱
                   
柿 本 赤 田 郎
庭鳥のなくこゑ高しさあおきて
       唱歌うたつて遊びにゆかん
霜柱けちらしくれば橋の上に
       たれがかいたかいろはにほへと
おひるから北風いでて學校の
       かへり路寒く雪ふりいでぬ
うす雲に日のかげいつか見えずなりて
       こゆきちらちらふり初めたり
妹とお手習しておかあさまの
       かへりまちをれば鼠さはぐよ
いさましく軍歌うたひて旗たてゝ
       學校の子ら兎がりに行く
學校の子らにおはれてしろうさぎ
       頭ばかりを雪にかくすよ
      ………………………… 

岸上香摘先生選 

課題(霜。 時雨。 眼白。 濁酒)

      
  
獨活の實をついばんで眼白飛び去りぬ  柿 赤
      
  句の友と濁酒の味を評しけり      鶴 堂
      人
  大艦の本牧沖に時雨れけり       素 川
     選者吟
  鼙響く西條山や霜の月   
  一條の槍時雨れ行く畷哉        
    槇高く目白囀る夕日かな        
  濁酒酌んで山賊共の評議哉
     ◎の部
  裏山や眼白の聲に日のたける      鶴 堂
  二村へ跨がりて降るしぐれ哉      月 堤
  一こゑに一兩二分の眼白かな      同
     ○の部
  朝月の影白くして霜を踏む       素 川
  鞍置けば嘶く駒や霜の朝        同
  霜置や二葉の生し麥畑         雅 一
  夕時雨御行の松にかゝりけり      素 川
  茶煙のひくうめくりて時雨けり     柿 赤
  ひとしきり木の葉さゞめく時雨哉    同 
  生柴のもゆる匂ひや初時雨       雪 軒
  時雨けり晴れけり峯のならくぬき    鶴 堂
  波音と思へばふねのしぐれかな     月 堤
  木の上に啼く音優しき眼白哉      稻 覺
  高音吐く眼白のこゑの日和哉      喜久一
  柿くふて居れば眼白の鳴にけり     柿 赤 
  黄菊さく草の庵や濁酒         同 
  尾を振りて犬の走るや霜の朝      松 湖
     ※の部  
(※=白読点)
  杉の葉の赤ばみゆくや朝の霜      柿 赤 
  一里來て一里追はるゝ時雨哉      喜久一 
  山風の消しと見れば時雨かな      松 湖
  蕎麥賣のかけて通るや時雨跡      月 堤
  天高く氣の淸む日なり眼白會      鶴 堂
  ちらちらと姿を見せる眼白哉      喜久一
  天高く眼白鳴きけり峠茶屋       柿 赤 
  十分に馳走になりぬにごり酒      喜久一 
      ………………………… 
       ○               高 柳 義 方
  明かたにそゝくしくれよこゝろして
         老たる親の夢なさましそ
  唐山に露營する人をおもふかな
         尾花か袖に霜白き朝

       ○               栗 山 親 之 
  松風の聲先立てゝ我宿を
         ざんざ時雨の今日も訪ひつゝ
  夕霜の冴ゆる野中の五軒村
         小寺の鐘の身にしみ渡る
     村 居
                可 瀬 素 川
  欲慰幽懷試擧觴 閑吟獨酌野村莊
  乾葉枯葦寒聲亂 三四歸鴉向夕陽
     其 二
  殘燈淺夢易生愁 坐覺詩情枕上浮
  月白烟輕寒雨歇 山茶花落興將幽
      ………………………… 
     賤妓を擁して花をひくの閑暇はあり
    自然を友として美を樂む餘裕はなし
      ………………………… 

      て が み  同人柴沼漁士氏へ寄せられたる
  ──久闊多罪多謝致すべく候、不肖の如きをお忘れもなく愛護せらるゝかと思へ
ば、うれしさ身にあまり申候。文學雜誌「しらぎく」を寄せられ、ことに、投稿せ
よとは過分の光榮に存候。余は切に白菊の前途を祝し大に發展せんことを祈るもの
に有之候──                      未至磨撲堂店より
 朝夕は誠に涼しくなりました。昨日は何よりの雜誌を頂きまして誠に有りがたく
お禮を申します。田口さんにおきゝ申しましたがあの中に〇○がお作りになりまし
た歌は御座いません、うそをついたでせう──         川崎子 より
  I have recieved your picture card and two copies of newly published
 magazine “Shiragiku”. I am most pleased  by your progress  on water
 painting. The sketch of Mt.Fuji is very well painted so that painter
 would run away on bare foot with astonishment at one glance  upon the
 picture. I heartily thank for your present “Shiragiku”. I have repeat
 
edly read the stanzas by Sasaki, Indo and others, but I must answer
 you that I am not a literate, therefor I hesitate to show my poem or
 prose at litelary arena._                  From Mr. Okano
 この度は「しらぎく」雜誌二册御送り下さいまして誠におもしろく拜見いたしま
した。一册は仰せにしたがひ川崎樣にあげましたが、〇〇のはわかりません── 
                              田口子より 
 桐の一葉に秋の日和もうらゝかに、燈火の親しまるゝ節と相成り候處いやまし
御健祥の御事と存候── 過日は御地より御發行の雜誌「しらぎく」二册御送り
下され面白く拜見いたし候、名の如く淸くうるはしく榮え行かんことをかげなが
ら祈り居り候……                      沼田子より
 過日は「しらぎく」二册御惠贈下されて難有う、田舎にありて獨力かゝる經營
をせられた宮本氏の意氣は感ずべしです。然し文學專門の雜誌は與謝野鐡幹並び
に晶子などの主幹せる明星ですら資金に困難して居らるゝやうな有樣ですから中
途に廢刊するやうな事がないよう萬事に御注意あつて我茨城文學のために力を盡
して貰ひたいものです。一册は大高兄に贈りました。何か原稿でもとの御注文で
すが今の處忙しくて駄目です──            廣島 宮本兄より
 この度はいとも有益なる雜誌御遠方御心にかけさせられ御志のほど一生忘れが
たく存じ候誠にせはしき故……            朝倉 小川二君より 
     *  *  *  *  *  * 
  寒しとも思はざりしを埋火の
         もとはなるれば霜夜也けり    言 道
      …………………………
 

     明治三十九年度課題

  二 月  筆。 朝。 湊。
  三 月  櫻。 風。 燈。
  四 月  草。 蝶。 紅。
  五 月  筍。 虹。 森。
  六 月  松。 螢。 靑。
  七 月  川。 湖。 雲。
  八 月  月。 別。 紫。
  九 月  笠。 虫。 村。
  十 月  夜。 夕。 霧。
  十一月  烏。 夢。 犬。
  十二月  寺。 墓。 石。
 右課題は漢詩、和歌、俳句、文章とも共通とす。文章は各題一篇、俳句は各五句以下、和歌は各五首以下、漢詩は各二首以下とす。
 用紙は半紙又は罫紙に一行二十四字詰とし半枚に十行以上を書す可からず。
楷書にて明瞭に、各題別紙に認むる事。
原稿には必ず住所と共に本名を記すべし。
 但し紙上の匿名は自由とす。
 締切は毎前月九日(二月分は一月九日までに三月分は二月)課題外の投稿は十五日とし季に關するものは二三四月分は春、五六七月は夏、八九十月は秋、十一十二一月分は冬季とす。
 課題の選評は
   詩文  草間臥雲先生
   和歌  大橋文之先生
   俳句  岸上香摘先生

 課題外の選評は左の諸先生とす。
   草間臥雲氏
   曲流舎糸川氏
   穗波庵主人氏
 課題 天地人に當選の諸氏には本誌五部宛贈呈すべし、

     
次號豫告
    已に編者の手元に着きたるもの
  冬小袖(短歌)   印東 益子
  庭梅日記(美文)  淸水 竹意
  看護婦(新體詩)  逸村五十鈴子
  俳句丸(俳句評釋) 乾 坤 生
  笹 舟       穗波庵 主人

   看護婦     
         逸村五十鈴子
 
地(つち)にひゞきて託示(さとし)あり、                 

 
        ○              印 東 昌 綱
拜啓秋の空ぬくひしかことうちつゝき晴れわたり霄々の月影おもふきわたゝならす候ころ田園の朝夕さこそと察し上候此程は白菊御おくり下されかたしけなく拜見いたし候巻頭の御歌のことくつくろはずはたかざらざるか中におのづから此花のいひしらぬ香をはなちたる秋の神もいかにめでさせられ候はん斯道のため誠によろこばしく御座候願はくはますますけがれなき心の花をうつしいでられて此花の齡永からん事を祈るところに御座候とりあへず御禮のみかしこ
    秋うらゝ空すみわたり心たかし
            たかき言葉のしら菊の花

    
道にあつき友か心のまことより
            咲るしらきく花ちからあり


 

 

   〔最終頁上段〕
        謝  辭
     一金貳拾錢也  長 野  淸水 作平君
     一金同     香 取  聲畫庵逸叟君
     一四拾錢也   龍ヶ崎  岡田 芳造君
     一金貳圓也   長 戸  某    君
     一金參圓也   同    横田 元吉君
     一金拾五圓也  龍ヶ崎  橋本 錦吾君
     一金五拾圓也  長 戸  宮本 商店君
   右本誌發行費中へ寄贈せらる謹て茲に其厚意を謝す

     
志らぎく (毎月一回九日發行)    

  本誌 定價

 郵税不要

   廣告料

 見本所望の方は切手八錢

 一 册 七 錢

 一頁 九圓
 半頁 五圓

 六 册 四十錢

 特等 十三圓
 半頁 七  圓

 十二册 八十錢

購讀者十名以上御紹介の方には毎號進呈す


   〔最終頁下段〕(奥付)

明治三十八年十二月三日印刷
明治三十八年十二月九日發行       

      

茨城縣稻敷郡長戸村塗戸

       編輯兼

         宮本長之助 

       發行者

                      東京市神田區美土代町二丁目一番地
          印刷者               島 連太郎
                      東京市神田區美土代町二丁目一番地 
          印刷所               三 秀 舎 
       ……………………………………………………
               
茨城縣稻敷郡長戸村塗戸
      
發 行 所            白 菊 社
        
………………………………………              

      白菊大賣捌所

 

 

 

東京市神田區表神保町三

東 京 堂

 

 

同 市同 區錦町三丁目

勉 強 堂

 

 

常陸國稻敷郡龍ヶ崎町

橋本錦吾

 

 

同  町 

東 明 堂

 

 

同國同郡江戸崎町

まかべ屋

 

 




(注)  1.平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の仮名に直してありま
     す。(「やうやう」「いよいよ」「ごしごし」など)
      明らかに誤字と思われるものは一部訂正してありますが、判断のつかないあいまい
     なものはそのままにしてあります。また、 仮名の清濁は、不統一になってい
る部分
     があり(同じ文で濁点の付いているものと付いていないものが混在するなど)
、不統
     一のままにしてある箇所があるなど、厳密に原文のままではない部分があることを
     お断りしておきます。
    2.雑誌『志らぎく』の所在について
      現在のところ、次の3か所に保管されていることが分かっています。
      (1)東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター
            (明治新聞雑誌文庫)…………第一巻第一号の雑誌とマイクロフィルム
      (2)成田山仏教図書館…………第一巻第一号~第三号の3冊
      (3)東京都立大学
(旧首都大学東京)図書館……第一巻第二号・第三号の2冊
      (4)茨城県立図書館……………第一巻第一号のマイクロフィルム
                                (2020年4月1日現在) 
    
3. 「雑誌『志らぎく』第1巻第1号について」が、資料104にあります。
      「雑誌『志らぎく』第1巻第2号について」が、資料236にあります。
      「雑誌『志らぎく』第2巻第1号について」が、資料238にあります。
    4.『東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター(明治雑誌
      文庫・原資料部)』のホームページへは、
         → 
近代日本法政史料センター(明治新聞雑誌文庫・原資料部)
      なお、
『東京大学OPAC』に、『志らぎく』第一巻第一号の蔵書目録があります。
         → 『東京大学OPAC』で、「志らぎく」と入力して検索。     
    5. 成田山仏教図書館は、(財)成田山文化財団が経営する公共図書館です。新勝
      寺の傍らに建っています。
       「成田山仏教図書館 逐次刊行物目録(雑誌・新聞)」
の中に、『志らぎく』の
     目録が出ています。
           シ306 志らぎく 1-1~3(M38.9~12)        
    6.『東京都立大学(旧首都大学東京)図書館』のホームページの記載は、下記
     のとおりです。
       東京都立大学
(旧首都大学東京)図書館』の『志らぎく』の記載 
    7.『志らぎく』の中に出ている、稻の里人・穗波庵主人・宮本秋光は、すべて発行
     者・宮本長之助の別名(号)です。「秋光」は、「ときみつ」と読ませたようで、
     時には「宮本ときみつ」とも名乗ったようです。
        宮本長之助(1885・明治18年~1954・昭和29年)
    8.『志らぎく』の表紙を描いた平福百穂や印刷所・三秀社については、資料104
     「雑誌『志らぎく』第1巻第1号について」の注をご覧ください。

  

 

 


 


                    
トップページ(目次)  前の資料へ  次の資料へ