資料207 夏目漱石「ケーベル先生の告別」「戦争から来た行違ひ」

 
 

 

    ケーベル先生の告別       夏 目 漱 石 

 ケーベル先生は今日(八月十二日)日本を去る筈になつてゐる。然し先生はもう二三日前から東京にはゐないだらう。先生は虚儀虚禮を嫌ふ念の強い人である。二十年前
(ぜん)大學の招聘に應じて獨逸を立つときにも、先生の氣性を知つてゐる友人は一人も停車場(ステーシヨン)へ送りに來なかつたといふ話である。先生は影の如く靜かに日本へ來て、又影の如くこつそり日本を去る氣らしい。
 靜な先生は東京で三度居を移した。先生の知つてゐる所は恐らく此の三軒の家と、其處から學校へ通ふ道路位
(くらゐ)なものだらう。かつて先生に散歩をするかと聞いたら、先生は散歩をする處がないから、爲(し)ないと答へた。先生の意見によると、町は散歩すべきものでないのである。
 斯ういふ先生が日本といふ國について何も知らう筈がない。また知らうとする好奇心を有つてゐる道理もない。私
(わたし)が早稻田にゐると云(いつ)てさへ、先生には早稻田の方角が分らない位である。深田君に大隈伯の宅(うち)へ呼ばれた昔を注意されても、先生は既に忘れてゐる。先生には大隈伯の名さへ初めてゞあつたかも知れない。
 私が先月十五日の夜
(よ)晩餐の招待を受けた時、先生に國へ歸つても朋友がありますかと尋ねたら、先生は南極と北極とは別だが、外の處なら何處へ行つても朋友はゐると答へた。是は固より笑談であるが、先生の頭の奥に、區々たる場所を超越した世界的の觀念が潛んでゐればこそ斯んな挨拶も出來るのだらう。又斯んな挨拶が出來ればこそ、大した興味もない日本に二十年も永くゐて、不平らしい顔を見せる必要もなかつたのだらう。
 場處ばかりではない、時間の上でも先生の態度は全く普通の人と違つてゐる。郵船會社の汽船は半分荷物船
(にもつぶね)だから船足が遲いのに何故それを撰んだのかと私が聞いたら、先生はいくら永く海の中に浮いてゐても苦にはならない、それよりも日本から伯林(ベルリン)迄十五日で行けるとか十四日で着けるとか云つて、旅行が一日でも早く出來るのを、非常の便利らしく考へてゐる人の心持が解らないと云つた。
 先生の金錢上の考へも、全く西洋人とは思はれない位無頓着である。先生の宅
(うち)に厄介になつてゐたものなどは、隨分經濟の點にかけて、普通の家(いへ)には見るべからざる自由を與へられてゐるらしく思はれた。此前會つた時、ある蓄財家の話が出たら、一體あんなに金を溜めて何うする料簡だらうと云つて苦笑してゐた。先生はこれから先、日本政府から貰ふ恩給と、今迄の月給の餘りとで、暮らして行くのだが、其月給の餘りといふのは、天然自然に出來た本當の餘りで、用意の結果でも何でもないのである。
 總て斯んな風に出來上つてゐる先生に一番大事なものは、人と人を結びつける愛と情
(なさけ)だけである。ことに先生は自分の敎へて來た日本の學生が一番好きらしく見える。私が十五日の晩に、先生の家を辭して歸らうとした時、自分は今日本を去るに臨んで、たゞ簡單に自分の朋友、ことに自分の指導を受けた學生に、「左樣なら御機嫌よう」といふ一句を殘して行きたいから、それを朝日新聞に書いてくれないかと頼まれた。先生は其外の事を云ふのは厭だといふのである。又いふ必要がないと云ふのである。同時に廣告欄に其文句を出すのも好まないといふのである。私は已(やむ)を得ないから、こゝに先生の許諾を得て、「さよなら御機嫌よう」の外に、私自身の言葉を蛇足ながら付け加へて、先生の告別の辭が、先生の希望通り、先生の薫陶を受けた多くの人々の眼に留まるやうに取り計らふのである。さうして其多くの人々に代つて、先生に恙なき航海と、穩かな餘生とを、心から祈るのである。
                    
──大正三、八、一二──



 

 

 

    戰爭から來た行違ひ       夏 目 漱 石 

 十一日の夜(よ)床に着いてから間もなく電話口へ呼び出されて、ケーベル先生が出發を見合すやうになつたといふ報知を受けた。然し其時はもう「告別の辭」を社へ送つてしまつた後なので私(わたし)は何うする譯にも行かなかつた。先生がまだ横濱の露西亞の總領事の許に泊つてゐて、日本を去る事の出來ないのは、全く今度の戰爭のためと思はれる。從つて私に此正誤を書かせるのも其戰爭である。つまり戰爭が正直な二人を嘘吐(うそつき)にしたのだと云はなければならない。
 然し先生の告別の辭は十二日に立つと立たないとで變る譯もなし、私のそれに付け加へた蛇足な文句も、先生の去留によつて其價値に狂ひが出て來る筈もないのだから、我々は書いた事云つた事について取消しをだす必要は固より認めてゐないのである。たゞ「自分の指導を受けた學生によろしく」とあるべきのを、「自分の指導を受けた先生によろしく」と校正が誤つてゐるの丈は是非取り消して置きたい。斯んな間違の起るのも亦校正掛(かうせいがゝり)を忙殺する今度の戰爭の罪かも知れない。  
               
                     
──大正三、八、一三──



 

 

        (注)   1. この文章は、岩波書店版『漱石全集 第八巻』小品集(昭和41年7月23日発行)
         によりました。
        2. ケーベル先生は、漱石のこの文章にもある通りドイツに帰国するはずでしたが、第
         一次世界大戦が勃発したために帰国できず、大正12年(1923)に、横浜でなくなりま
         した。ケーベル先生のお墓は、漱石のお墓のある雑司が谷墓地にあるそうです。
        3. 資料205に、夏目漱石「ケーベル先生」があります。
           ケーベル先生については、資料205を参照してください。
        4.  『ぶらり重兵衛の歴史探訪2』というサイトの「会ってみたいな、この人に」(銅像巡
         り・銅像との出会い)の中に、新宿区早稲田南町の漱石公園(漱石山房跡)にある
         「夏目漱石の胸像」の写真や、漱石誕生の地の紹介などがあります。
        5.
ケーベル先生について書いた寺田寅彦の随筆「廿四年前」が、『青空文庫』に入っ
         ています。
             『青空文庫』 → 「廿四年前」

                 
         
                       

 

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