資料205 夏目漱石「ケーベル先生」
 
 
 

 

        ケーベル先生                        夏 目 漱 石

 木(こ)の葉の間から高い窓が見えて、其窓の隅からケーベル先生の頭が見えた。傍(わき)から濃い藍色の烟(けむり)が立つた。先生は烟草を呑んでゐるなと余は安倍君に云つた。
 此前此處を通つたのは何時
(いつ)だか忘れて仕舞つたが、今日見ると僅かの間にもう大分樣子が違つてゐる。甲武線の崖上は角並(かどなみ)新らしい立派な家に建て易へられて、何(いづ)れも現代的日本の産み出した富の威力と切り放す事の出來ない門構許(ばかり)である。其中に先生の住居(すまひ)だけが過去の記念(かたみ)の如くたつた一軒古ぼけたなりで殘つてゐる。先生は此燻(くす)ぶり返つた家の書齋に這入つたなり滅多に外へ出た事がない。其書齋は取も直さず先生の頭が見えた木(こ)の葉の間の高い所であつた。
  余と安倍君とは先生に導びかれて、敷物も何も足に觸れない素裸の儘の高い階子段
(はしごだん)を薄暗がりにがたがた云はせながら上(のぼ)つて、階上の右手にある書齋に入つた。さうして先生の今迄腰を卸して窓から頭丈を出してゐた一番光に近い椅子に余は坐つた。そこで外面(そと)から射す夕暮に近い明りを受けて始めて先生の顔を熟視した。先生の顔は昔と左迄違つて居なかつた。先生は自分で六十三だと云はれた。余が先生の美學の講義を聽きに出たのは、余が大學院に這入つた年で、慥(たし)か先生が日本へ來て始めての講義だと思つてゐるが、先生は其時から已(すで)に斯う云ふ顔であつた。先生に日本へ來てもう二十年になりますかと聞いたら、左樣(さう)はならない、たしか十八年目だと答へられた。先生の髮も髯(ひげ)も英語で云ふとオーバーンとか形容すべき、ごく薄い麻の樣な色をしてゐる上に、普通の西洋人の通り非常に細くつて柔かいから、少しの白髮が生えても丸で目立たないのだらう。夫(それ)にしても血色が元の通りである。十八年を日本で住み古した人とは思へない。
 先生の容貌が永久にみづみづしてゐる樣に見えるのに引き易へて、先生の書齋は耄
(ぼ)け切つた色で包まれてゐた。洋書といふものは唐本や和書よりも装飾的な背皮に學問と藝術の派出やかさを偲ばせるのが常であるのに、此部屋は余の眼を射る何物をも藏してゐなかつた。たゞ大きな机があつた。色の褪めた椅子が四脚あつた。マツチと埃及(エヂプト)烟草と灰皿があつた。余は埃及烟草を吹かしながら先生と話をした。けれども部屋を出て、下の食堂へ案内される迄、余は遂に先生の書齋にどんな書物がどんなに並んでゐたかを知らずに過ぎた。
 花やかな金文字や赤や靑の背表紙が余の眼を刺激しなかつた許りではない。純潔な白色
(はくしよく)でさへ遂に余の眼には觸れずに濟んだ。先生の食卓には常の歐洲人が必要品とまで認めてゐる白布(はくふ)が懸(かゝ)つてゐなかつた。其代りにくすんだ更紗形(さらさがた)を置いた布(きれ)が一杯に被(かぶ)さつてゐた。さうして其布(きれ)は此間迄余の家(うち)に預かつてゐた娘の子を嫁(かた)づける時に新調して遣つた布團の表と同じものであつた。此卓を前にして坐つた先生は、襟も襟飾も着けてはゐない。千筋(せんすぢ)の縮みの襯衣(しやつ)を着た上に、玉子色の薄い脊廣を一枚無造作に引掛けた丈である。始めから儀式ばらぬ樣にとの注意ではあつたが、あまり失禮に當つてはと思つて、余は白い襯衣と白い襟と紺の着物を着てゐた。君が正装をしてゐるのに私(わたし)はこんな服(なり)でと先生が最前云はれた時、正装の二字に痛み入る許(ばかり)であつたが、成程洗ひ立ての白いものが手と首に着いてゐるのが正装なら、余の方が先生よりも餘程正装であつた。
 余は先生に一人で淋しくはありませんかと聞いたら、先生は少しも淋しくはないと答へられた。西洋へ歸りたくはありませんかと尋ねたら、夫程
(それほど)西洋が好いとも思はない、然し日本には演奏會と芝居と圖書館と畫館(ぐわくわん)がないのが困る、それ丈(だけ)が不便だと云はれた。一年位暇を貰つて遊んで來ては何うですと促がして見たら、そりや無論遣つて貰へる、けれども夫(それ)は好まない。私がもし日本を離れる事があるとすれば、永久に離れる。決して二度とは歸つて來ないと云はれた。
  先生は斯ういふ風に夫程
(それほど)故郷を慕ふ樣子もなく、あながち日本を嫌ふ氣色もなく、自分の性格とは容れ惡(にく)い程に矛盾な亂雜な空虚にして安つぽい所謂新時代の世態が、周圍の過渡層の底から次第々々に浮き上つて、自分を其中心に陷落せしめねば已まぬ勢を得つゝ進むのを、日毎眼前に目撃しながら、それを別世界に起る風馬牛の現象の如く餘所(よそ)に見て、極めて落ち付いた十八年を吾邦で過ごされた。先生の生活はそつと煤烟の巷に棄てられた希臘(ぎりしや)の彫刻に血が通ひ出した樣なものである。雜鬧(ざつたう)の中に己れを動かして如何にも靜かである。先生の踏む靴の底には敷石を嚙む鋲の響がない。先生は紀元前の半島の人の如くに、しなやかな革で作つたサンダルを穿いて音なしく電車の傍(そば)を歩るいてゐる。
 先生は昔し烏を飼つて居られた。何處から來たか分らないのを餌
(ゑ)を遣つて放し飼いにしたのである。先生と烏とは妙な因縁に聞える。此二つを頭の中で結び付けると一種の氣持が起る。先生が大學の圖書館で書架の中からポーの全集を引き卸したのを見たのは昔しの事である。先生はポーもホフマンも好きなのだと云ふ。此夕(ゆふべ)其烏の事を思ひ出して、あの烏は何うなりましたと聞いたら、あれは死にました、凍えて死にました。寒い晩に庭の木の枝に留つたまんま、翌日(あくるひ)になると死んでゐましたと答へられた。
 烏の序に蝙蝠
(かうもり)の話が出た。安倍君が蝙蝠は懷疑(スケプチツク)な鳥だと云ふから、何故と反問したら、でも薄暗がりにはたはた飛んでゐるからと謎の樣な答をした。余は蝙蝠の翼(はね)が好(すき)だと云つた。先生はあれは惡魔の翼(はね)だと云つた。成程畫にある惡魔は何時でも蝙蝠の羽根を脊負(しよ)つてゐる。
 其時夕暮の窓際に近く日暮しが來て朗らに鋭どい聲を立てたので、卓を圍んだ四人
(よつたり)はしばらくそれに耳を傾けた。あの鳴聲にも以太利(イタリヤ)の連想があるでせうと余は先生に尋ねた。是は先生が少し前に蜥蜴(とかげ)が美くしいと云つたので、靑く澄んだ以太利の空を思ひ出させやしませんかと聞いたら、左樣(さう)だと答へられたからである。然し日暮しの時には、先生は少し首を傾むけて、いや彼(あれ)は以太利ぢやない、何うも以太利では聞いた事がない樣に思ふと云はれた。
 余等は熱い都の中心に誤つて點ぜられたとも見える古い家の中で、靜かにこんな話をした。夫
(それ)から菊の話と椿の話と鈴蘭の話をした。果物の話もした。其果物のうちで尤も香りの高い遠い國から來たレモンの露を搾つて水に滴らして飲んだ。珈琲も飲んだ。凡ての飲料のうちで珈琲が一番旨いといふ先生の嗜好も聞いた。夫から靜かな夜(よ)の中に安倍君と二人で出た。
 先生の顔が花やかな演奏會に見えなくなつてから、もう餘程になる。先生はピヤノに手を觸れる事すら日本に來ては口外せぬ積
(つもり)であつたと云ふ。先生は夫程浮いた事が嫌(きらひ)なのである。凡ての演奏會を謝絶した先生は、たゞ自分の部屋で自分の氣に向いたとき丈(だけ)樂器の前に坐る、さうして自分の音樂を自分丈で聞いてゐる。其外にはたゞ書物を讀んでゐる。
 文科大學へ行つて、此處で一番人格の高い敎授は誰だと聞いたら、百人の學生が九十人迄は、數ある日本の敎授の名を口にする前に、まづフォン・ケーベルと答へるだらう。斯程
(かほど)に多くの學生から尊敬される先生は、日本の學生に對して終始渝(かは)らざる興味を抱いて、十八年の長い間哲學の講義を續けてゐる。先生が疾(と)くに索寞たる日本を去るべくして、未だに去らないのは、實に此愛すべき學生あるが爲である。
 京都の深田敎授が先生の家にゐる頃、何時でも閑な時に晩餐を食べに來いと云はれてから、行かずに經過した月日を數へるともう四年以上になる。漸く其約を果して安倍君と一所
(いつしよ)に大きな暗い夜(よ)の中に出た時、余は先生は是から先、もう何年位(ぐらゐ)日本に居る積(つもり)だらうと考へた。さうして一度日本を離れゝばもう歸らないと云はれた時、先生の引用した“no more, never more”(ノーモアー ネヷーモアー)といふポーの句を思ひ出した。
                             
明治四四、七、一六─一七
 

 

 


 

 

        (注)   1. この「ケーベル先生」という文章は、『漱石全集 第八巻』小品集(岩波書店、昭和
         41年7月23日発行)によりました。
        2. 全集の本文は総ルビになっていますが、ここでは一部を除いて省略しました。
        3. 平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の仮名に置き換えてありま
         す。(「がたがた」「みづみづ」「はたはた」) 
        4. 全集巻末の「注解」に、ケーベル先生について、「哲学者。ロシヤに生れ、ドイツに
         赴き哲学および文学を修めた。明治26年東京帝国大学教師となり、西洋哲学を講ず
         る傍ら、好んでギリシャ語・ラテン語を教えた。退職後は横浜の友人の邸内に仮寓し、
         東京音楽学校でピヤノを教えたこともある。彼の広い教養と高潔な人格は多くの人に
         影響を与えた。(後略)」とあります。
          また、「安倍君」は、門下生安倍能成のこと。「紀元前の半島の人」は、ギリシャ人の
         こと。「卓を囲んだ四人(よったり)」とは、ケーベル博士・漱石・安倍能成・久保勉
(まさる)
             
のこと。「深田教授」は、京都帝国大学教授であった深田康算のこと、とあります。
          なお、文末にある「先生が引用したポーの句」については、「ポーの詩「大鴉(
The
         Raven
)」中の句をさしたものであろう」としてあります。詳しくは、同全集の「注解」
         566~567頁を参照してください。

          ※ 明治44年7月10日の漱石の日記に、ケーベル先生を訪問した折の詳しいメモが
           あるそうです。
            (『漱石全集 第13巻』(日記及断片)からその部分を引用しておきます。)

           明治44年7月10日[月]
             晴。暑甚。朝 社の會議に行く。歸つて長椅子の上でぼんやりしてゐた。五時
            頃車で安倍の家へ行く夫からケーベル先生の宅へ行く。御茶の水で電車を降り
            て先生の家の前迄來ると、高い二階の窓から先生の頭が出てゐる。烟草の烟り
            が見える。入口で安倍が久保君々々々と云ふ。久保君は海軍中尉であつたが
            軍人をやめて大學へ來て哲學を研究してゐる。久保君が二階へ上つて行くと、
            先生が高い處から降りて來た。 ミスター ナツメ、アイ アム グラツド ツー 
            シー ユーと云ふ。階子段の下で握手をして二階へ上る。先生の書齋は大きな
            テーブルがあつて本があつて古い椅子が二三脚ある。頗る古びてゐる。少しも
            雅な所も華奢な所もない。たゞ荒凉の感がある。先生は縮のシヤツにケンドンの
            上衣をきた丈である。襟さへ着けてゐなかつた。「君が盛装してゐるのに私はこ
            んななりで」と云はれた。
              
 「ハーン」の話 アブノーマル
               「ウード」の話
               昔しケーベル先生の處へ行つて置いてもらへと牧
(原)巻から云はれた話、     
               十八年日本にゐるといふ話、失望ハシナイ、大ナル豫期を持つて來なか
               つたからと云ふ話
               圖書舘とコンサートと芝居がなくて日本は困る丈だと云ふ話
               日暮が庭の樹に鳴く話 日暮が好だと云ふ話 トカゲが美くしいと云ふ話
               ロシア人には日本人によく似た顔があるといふ話。三十年前の寫眞
               烏が凍へ死んだ話
             下の食堂に行く白布がない。四人一方に一人づゝ坐る。何を飲むジン、ブランデ
            ー?と聞かれる。余は葡萄酒とビールを飲んだ。
                梟が好きだと云ふ話
                  蝙蝠が好きだと云ふ話。羽はデヸルの羽だ。
                椿がきらひの話。菊は紙造りの樣だと云ふ話、リヽーオフゼヷレーの好きな
                  話。
                  日本の果物は林檎丈食へる。他は駄目だと云ふ話
                 今から百年したら日本にオペラが出來るだらうと云ふ話。
               日本で音樂家の資格あるものは幸田だけだ。尤もピやニストと云ふ意味で
               はない。たゞ音樂家と云ふ丈だ。日本人は指丈で彈くからだめだ。頭がないか
                  ら駄目だ。
                自分が音樂をやるといふ事は日本へ來たら誰にも知らせない筈だつた。處
                 がどうしてかそれが知れた。然しもう近頃は斷然どこへも出ない事に極めた。
                 自分で獨り樂しむ丈である。音樂學校は音樂の學校ぢやない、スカンダルの
                 學校だ。第一あの校長は駄目だ。
                ブラウニングは嫌だ。ウオヅウオースの哲學の詩は全く厭だ。ポーは好だ。
                 ホフマンは猶好だ、新らしいのはあまり好かない。アンドレーフは厭だ。チエ
                 ホフは非常に立派な文體だ。
                    自分が日本を去れば永久に去る。一寸歸國などはしない。
                自分のやつてゐる仕事はすきだ。自分の書生が好だ。淋しい事はない。散
                 歩つて、何處へ散歩する。町へも出られまい。本を讀んでゐる丈だ
                メレジコースキーのアレキザンダーと云ふ小説をよんだ。甚だ佳い。
                コフヒーが、凡ての飲料のうちで一番好きだ。此間和蘭公使館で飲んだコフ
                  ヒーが一番上等である。
                儀式は大嫌だ。あしたも卒業式があるが無論缺席をする。どうも三時間も
               立つてゐるのは敵はない。もつた
(原)簡單に出來る事をわざわざあんなに面
                  倒にする。
        5. ケーベル(Raphael Koeber)=哲学者・音楽家。ドイツ系ロシア人。ドイツで哲学を学
             んだ。1893年(明治26)来日、東京大学で西洋哲学・ドイツ文学・古典語学を
             講じ、また、東京音楽学校でピアノを教授。(1848~1923) 
                                               
(『広辞苑』第6版による) 
                       
 ケーベル先生のお墓は、漱石のお墓と同じく雑司ヶ谷墓地(現:雑司ヶ谷霊園)にある由です。   
        6. 『東北大学百年史編纂室ニュース』第3号(1999.1.31)に「
点描・百年史ケーベル先生
         と東北大学」があって、参考になります。
          
   (お断り) 残念ながら現在は見られないようですので、リンクを外しました。
                                                 (2011年4月12日)

        7.
東北大学附属図書館の特殊文庫の一つに「ケーベル文庫」があります。これは、
         ケーベル先生の晩年、10年にわたり先生と起居を共にされた、先生の最も身近な弟
         子である久保勉(くぼ・まさる)・東北大学法文学部哲学教授(1883~1972)が、先生
         から継承した先生の蔵書を東北大学に将来された(昭和17年3月)ものの由です。
         蔵書の内容は、ギリシャ・ラテンの古典学を中心に、哲学・文学関係の図書が多数を
         占める、ということです。
            ○
『主要特殊文庫紹介』に、「23.ケーベル文庫」があります。
        8. 久保勉著『ケ-ベル先生とともに』 (岩波書店 1951)があります。
        9. 岩波文庫『ケーベル博士随筆集』(久保勉 訳・編、1957年11月25日発行)がありま
         すが、現在品切で重版未定の由です。
(2007年8月6日現在)          
       10. フリー百科事典『ウィキペディア』「ラファエル・フォン・ケーベル」の項があります。 
       11. ケーベル会による
『ケーベル先生とともに』というホームページがあります。
       12. 『ぶらり重兵衛の歴史探訪2』というサイトの「会ってみたいな、この人に」(銅像巡り・
          銅像との出会い)の中に、東京都新宿区早稲田南町の漱石公園(漱石山房跡)にある
         「夏目漱石の胸像」の写真や、漱石誕生の地の紹介などがあります。

         13. ケーベル先生について書いた寺田寅彦の随筆「廿四年前」が、『青空文庫』に入って
         います。
             『青空文庫』 → 「廿四年前」
       14. 
資料207に「夏目漱石「ケーベル先生の告別」「戦争から来た行違ひ」 」があります。
                           
                       

 

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