資料152 夏目漱石の講演「私の個人主義」




 

   私の個人主義          夏 目 漱 石

           
──大正3年11月25日學習院輔仁會に於て述──

 私は今日初めて此學習院といふものゝ中に這入りました。尤も以前から學習院は多分此見當だらう位に考へてゐたには相違ありませんが、判然
(はつきり)とは存じませんでした。中へ這入つたのは無論今日が初めてで御座います。
 先程岡田さんが紹介旁一寸御話になつた通り此春何か講演をといふ御注文でありましたが、其當時は何か差支があつて、──岡田さんの方が當人の私よりよく御記憶と見えて貴方がたに御納得の出來るやうに只今御説明がありましたが、兎に角一先づ御斷りを致さなければならん事になりました。併し唯御斷りを致すのも餘り失禮と存じまして、此次には參りますからといふ條件を付け加へて置きました。其時念のため此次は何時頃になりますかと岡田さんに伺ひましたら、此年
(ことし)の十月だといふ御返事であつたので、心のうちに春から十月迄の日數を大體繰つて見て、それ丈の時間があればそのうちに何うにか出來るだらうと思つたものですから、宜しう御座いますとはつきり御受合申したのであります。所が幸か不幸か病氣に罹りまして、九月一杯床に就いて居りますうちに御約束の十月が參りました。十月にはもう臥せつては居りませんでしたけれども、何しろひよろひよろするので講演は一寸六づかしかつたのです。然し御約束を忘れてはならないのですから、腹の中では、今に何か云つて來られるだらう今に何か云つて來られるだらうと思つて、内々(ないない)(こは)がつてゐました。
 其うちひよろひよろも遂に癒つてしまつたけれども、此方
(こちら)からは十月末迄何の御沙汰もなく打ち過ぎました。私は無論病氣の事を御通知はして置きませんでしたが、二三の新聞に一寸出たといふ話ですから、或は其邊の事情を察せられて、誰かゞ私の代りに講演をやつて下さつたのだらうと推測して安心し出しました。所へ又岡田さんが又突然見えたのであります。岡田さんはわざわざ長靴を穿いて見えたのであります。(尤も雨の降る日であつたからでもありませうが、)さう云つた身拵えで、早稲田の奥迄來て下すつて、例の講演は十一月の末迄繰り延ばす事にしたから約束通り遣つて貰ひたいといふ御口上なのです。私はもう責任を逃れたやうに考へてゐたものですから實は少々驚ろきました。然しまだ一月も餘裕があるから、其間に何うかなるだらうと思つて、宜しう御座いますと又御返事を致しました。
 右の次第で、此春から十月に至る迄、十月末から又十一月二十五日に至る迄の間に、何か纏つた御話をすべき時間はいくらでも拵えられるのですが、どうも少し氣分が惡くつて、そんな事を考へるのが面倒で堪らなくなりました。そこでまあ十一月二十五日が來る迄は構ふまいといふ横着な料簡を起して、ずるずるべつたりに其日其日を送つてゐたのです。いよいよと時日が逼つた二三日前になつて、何か考へなければならないといふ氣が少ししたのですが、矢張り考へるのが不愉快なので、とうとう繪を描いて暮らして仕舞ました。繪を描くといふと何かえらいものが描けるやうに聞えるかも知れませんが、實は他愛もないものを描いて、それを壁に貼り付けて一人で二日も三日もぼんやり眺めてゐる丈なのです。昨日でしたか或人が來て、此繪は大變面白い──いや面白いと云つたのではありません、面白い氣分の時に描いた畫らしく見えると云つて呉れたのでした。それから私は愉快だから描いたのではない、不愉快だから描いたのだと云つて私の心の状態を其男に説明して遣りました。世の中には愉快で凝としてゐられない結果を畫にしたり、書にしたり、又は文にしたりする人がある通り、不愉快だから、どうかして好い心持になりたいと思つて、筆を執つて畫なり文章なりを作る人もあります。さうして不思議にも此二つの心的状態が結果に現はれた所を見ると能く一致してゐる場合が起るのです。然し是はほんの序
(ついで)に申し上る事で、話の筋に關係した問題でもありませんから深くは立ち入りません。──何しろ私はその變な畫を眺める丈で、講演の内容をちつとも組み立てずに暮らしてしまつたのです。
 其内
(そのうち)愈二十五日が來たので、否(いや)でも應でも此所へ顔を出さなければ濟まない事になりました。それで今朝少し考を纏めて見ましたが、準備がどうも不足のやうです。迚も御滿足の行くやうな御話は出來かねますから、其積りで御辛防を願ひます。
 此會は何時
(いつ)頃から始まつて今日迄續いてゐるのか存じませんが、其都度貴方がたが他所(よそ)の人を連れて來て、講演をさせるのは、一般の慣例として毫も不都合でないと私も認めてゐるのですが、また一方から見ると、それ程あなた方の希望するやうな面白い講演は、いくら何所から何んな人を引張つて來ても容易に聞かれるものではなからうとも思ふのです。貴方がたにはたゞ他所の人が珍らしく見えるのではありますまいか。
 私が落語家
(はなしか)から聞いた話の中に斯んな諷刺的のがあります。──昔しある御大名が二人目黑邊へ鷹狩に行つて、所々方々を馳け廻つた末、大變空腹になつたが、生憎辨當の用意もなし、家來とも離れ離れになつて口腹を充たす糧を受ける事が出來ず、仕方なしに二人は其所にある汚ない百姓家へ馳け込んで、何でも好いから食はせろと云つたさうです。すると其農家の爺さんと婆さんが氣の毒がつて、有合せの秋刀魚(さんま)を炙つて二人の大名に麥飯を勸めたと云ひます。二人は其秋刀魚を肴に非常に旨く飯を濟まして、其所を立出たが、翌日になつても昨日の秋刀魚の香がぷんぷん鼻を衝くといつた始末で、どうしても其味を忘れる事が出來ないのです。夫で二人のうちの一人が他を招待して、秋刀魚の御馳走をする事になりました。其旨を承はつて驚いたのは家來です。然し主命ですから反抗する譯にも行きませんので、料理人に命じて秋刀魚の細い骨を毛拔で一本一本拔かして、それを味淋か何かに漬けたのを、程よく燒いて、主人と客とに勸めました。所が食ふ方は腹も減つてゐず、又馬鹿丁寧な料理方で秋刀魚の味を失つた妙な肴を箸で突つついて見た所で、些とも旨くないのです。其所で二人が顔を見合せて、何うも秋刀魚は目黑に限るねと云つた樣な變な言葉を發したと云ふのが話の落になつてゐるのですが、私から見ると、此學習院といふ立派な學校で、立派な先生に始終接してるゐ諸君が、わざわざ私のやうなものの講演を、春から秋の末迄待つても御聞きにならうといふのは、丁度大牢の美味に飽いた結果、目黑の秋刀魚が一寸味はつて見たくなつたのではないかと思はれるのです。
 此席に居られる大森敎授は私と同年か又は前後して大學を出られた方ですが、其大森さんが、かつて私に何うも近頃の生徒は自分の講義をよく聽かないで困る、どうも眞面目が足りないで不都合だといふやうな事を云はれた事があります。其評は此學校の生徒に就いてではなく、何處かの私立學校の生徒に就いてだつたらうと記憶してゐますが、何しろ私は其時大森さんに對して失禮な事を云ひました。
 此所で繰り返していふのも御恥づかしい譯ですが、私は其時、君などの講義を有難がつて聽く生徒が何處の國にゐるものかと申したのです。尤も私の主意は其時の大森君には通じてゐなかつたかも知れませんから、此機會を利用して、誤解を防いで置きますが、私どもの書生時代、あなたがたと同年輩、もしくはもう少し大きくなつた時代、には、今の貴方がたより餘程横着で、先生の講義などは殆んど聽いた事がないと云つても好い位のものでした。勿論是は私や私の周圍のものを本位として述べるのでありますから、圏外にゐたものには通用しないかも知れませんけれども、何うも今の私から振り返つて見ると、そんな氣が何處かでするやうに思はれるのです。現に此私は上部
(うはべ)丈は温順らしく見えながら、決して講義などに耳を傾ける性質ではありませんでした。始終怠けてのらくらしてゐました。其記憶をもつて、眞面目な今の生徒を見ると、何うしても大森君のやうに、彼等を攻撃する勇氣が出て來ないのです。さう云つた意味からして、つい大森さんに對して濟まない亂暴を申したのであります。今日は大森君に詫まる爲にわざわざ出掛けた次第ではありませんけれども、序だからみんなのゐる前で、謝罪して置くのです。
 話がつい飛んだ所へ外
(そ)れてしまいましたから、再び元へ引き返して筋の立つやうに云ひますと、つまり斯うなるのです。
 貴方がたは立派な學校に入
(はい)つて、立派な先生から始終指導を受けてゐらつしやる、又其方々の專門的もしくは一般的の講義を毎日聞いてゐらつしやる。それだのに私見たやうなものを、殊更に他所から連れて來て、講演を聽かうとなされるのは、丁度先刻御話した御大名が目黑の秋刀魚を賞翫したやうなもので、つまりは珍らしいから、一口食つて見ようといふ料簡ぢやないかと推察されるのです。實際をいふと、私のやうなものよりも、貴方がたが毎日顔を見てゐらつしやる常雇(じやうやと)ひの先生の御話の方が餘程有益でもあり、かつまた面白からうとも思はれるのです。たとひ私にした所で、もし此學校の敎授にでもなつてゐたならば、單に新らしい刺戟のないといふ丈でも、此位の人數が集つて私の講演を御聽きになる熱心なり好奇心なりは起るまいと考へるのですがどんなものでせう。
 私が何故そんな假定をするかといふと、此私は現に昔し此學習院の敎師にならうとした事があるのです。尤も自分で運動した譯でもないのですが、此學校にゐた知人が私を推薦して呉れたのです。其時分の私は卒業する間際まで何をして衣食の道を講じていゝか知らなかつた程の迂闊者でしたが、さて愈世間へ出て見ると、懷手をして待つてゐたつて、下宿料が入
(はい)つて來る譯でもないので、敎育者になれるかなれないかの問題は兎に角、何處かへ潛(もぐ)り込む必要があつたので、つい此知人のいふ通り此學校へ向けて運動を開始した次第であります。其時分私の敵が一人ありました。然し私の知人は私に向つてしきりに大丈夫らしい事をいふので、私の方でも、もう任命されたやうな氣分になつて、先生はどんな着物を着なければならないのか抔と訊いて見たものです。すると其男はモーニングでなくては敎場へ出られないと云ひますから、私はまだ事の極らない先に、モーニングを誂らえてしまつたのです。其癖學習院とは何處にある學校か能く知らなかつたのだから、頗る變なものです。偖(さて)愈モーニングが出來上つて見ると、豈計らんや折角頼みにしてゐた學習院の方は落第と事が極つたのです。さうしてもう一人の男が英語敎師の空位を充たす事になりました。其人は何といふ名でしたか今は忘れて仕舞ひました。別段悔しくも何ともなかつたからでせう。何でも米國歸りの人とか聞いてゐました。──それで、もし其時にその米國歸りの人が採用されずに、此私がまぐれ當りに學習院の敎師になつて、しかも今日まで永續してゐたなら、斯うした鄭重な御招きを受けて、高い所から貴方がたに御話をする機會も遂に來なかつたかも知れますまい。それを此春から十一月迄も待つて聽いて下さろうといふのは、取も直さず、私が學習院の敎師に落第して、貴方がたから目黑の秋刀魚のやうに珍らしがられてゐる證據ではありませんか。
 私は是から學習院を落第してから以後の私に就いて少々申上げやうと思ひます。是は今迄御話をして來た順序だからといふ意味よりも、今日の講演に必要な部分だからと思つて聽いて頂きたいのです。
 私は學習院は落第したが、モーニング丈は着てゐました。それより外に着るべき洋服は持つてゐなかつたのだから仕方がありません。其モーニングを着て何處へ行つたと思ひますか? 其時分は今と違つて就職の途は大變樂でした。何方
(どちら)を向いても相當の口は開いてゐた樣に思はれるのです。つまりは人が拂底な爲だつたのでせう。私のやうなものでも高等學校と、高等師範から殆んど同時に口が掛りました。私は高等學校へ周旋して呉れた先輩に半分承諾を與へながら、高等師範の方へも好い加減な挨拶をしてしまつたので、事が變な具合にもつれて仕舞ひました。もともと私が若いから手ぬかりやら、不行屆勝で、とうとう自分に祟つて來たと思へば仕方がありませんが、弱らせられた事は事實です。私は私の先輩なる高等學校の古參の敎授の所へ呼びつけられて、此方(こつち)へ來るやうな事を云ひながら、他(ほか)にも相談をされては、仲に立つた私が困ると云つて譴責されました。私は年の若い上に、馬鹿の肝癪持ですから、一(いつ)そ雙方とも斷つてしまつたら好いだらうと考へて、其手續きを遣り始めたのです。すると或日當時の高等學校長、今では慥か京都の理科大學長をしてゐる久原さんから、一寸學校まで來てくれといふ通知があつたので、早速出掛けて見ると、其座に高等師範の校長嘉納治五郎さんと、それに私を周旋して呉れた例の先輩がゐて、相談は極つた、此方(こつち)に遠慮は要らないから高等師範の方へ行つたら好からうといふ忠告です。私は行掛り上否(いや)だとは云へませんから承諾の旨を答へました。が腹の中では厄介な事になつてしまつたと思はざるを得なかつたのです。といふものは今考へると勿體ない話ですが、私は高等師範などを夫程有難く思つてゐなかつたのです。嘉納さんに始めて會つた時も、さうあなたの樣に敎育者として學生の模範になれといふやうな注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡した位でした。嘉納さんは上手な人ですから、否さう正直に斷わられると、私は益貴方に來て頂きたくなつたと云つて、私を離さなかつたのです。斯ういふ譯で、未熟な私は雙方の學校を懸持しやうなどゝいふ慾張根性は更になかつたに拘はらず、關係者に要らざる手數を掛けた後、とうとう高等師範の方へ行く事になりました。
 然し敎育者として偉くなり得るやうな資格は私に最初から缺けてゐたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました。嘉納さんも貴方はあまり正直過ぎて困ると云つた位ですから、或はもつと横着を極めてゐても宜かつたのかも知れません。然し何うあつても私には不向な所だとしか思はれませんでした。奥底のない打ち明けた御話をすると、當時の私はまあ肴屋が菓子屋へ手傳ひに行つたやうなものでした。
 一年の後私はとうとう田舎の中學へ赴任しました。それは伊豫の松山にある中學校です。貴方がたは松山の中學と聞いて御笑ひになるが、大方私の書いた「坊ちやん」でも御覽になつたのでせう。「坊ちやん」の中に赤シヤツといふ渾名を有つてゐる人があるが、あれは一體誰の事だと私は其時分よく訊かれたものです。誰の事だつて、當時其中學に文學士と云つたら私一人なのですから、もし「坊ちやん」の中の人物を一々實在のものと認めるならば、赤シヤツは即ちかういふ私の事にならなければならんので、──甚だ有難い仕合せと申上げたいやうな譯になります。
 松山にもたつた一
年しか居りませんでした。立つ時に知事が留めて呉れましたが、もう先方と内約が出來てゐたので、とうとう斷つて其所を立ちました。さうして今度は熊本の高等學校に腰を据ゑました。斯ういふ順序で中學から高等學校、高等學校から大學と順々に私は敎へて來た經驗を有つてゐますが、たゞ小學校と女學校丈はまだ足を入れた試(ためし)が御座いません。
 熊本には大分長く居りました。突然文部省から英國へ留學をしては何うかといふ内談のあつたのは、熊本へ行つてから何年目になりませうか。私は其時留學を斷わらうかと思ひました。それは私のやうなものが、何の目的も有たずに、外國へ行つたからと云つて、別に國家の爲に役に立つ譯もなからうと考へたからです。然るに文部省の内意を取次いで呉れた敎頭が、それは先方の見込みなのだから、君の方で自分を評價する必要はない、兎も角も行つた方が好からうと云ふので、私も絶對に反抗する理由もないから、命令通り英國へ行きました。然し果せるかな何もする事がないのです。
 それを説明するためには、夫迄の私といふものを一應御話ししなければならん事になります。其御話が即ち今日の講演の一部分を構成する譯なのですから其積で御聞きを願ひます。
  私は大學で英文學といふ專門をやりました。其英文學といふものは何んなものかと御尋ねになるかも知れませんが、それを三年專攻した私にも何が何だかまあ夢中だつたのです。其頃はヂクソンといふ人が敎師でした。私は其先生の前で詩を讀ませられたり文章を讀ませられたり、作文を作つて、冠詞が落ちてゐると云つて叱られたり、發音が間違つてゐると怒られたりしました。試驗にはウオーヅウオースは何年に生れて何年に死んだとか、シエクスピヤのフオリオは幾通りあるかとか、或はスコツトの書いた作物を年代順に竝べて見ろとかいふ問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にも略想像が出來るでせう、果してこれが英文學か何うだかといふ事が。英文學はしばらく措いて第一文學とは何ういふものだか、是では到底解る筈がありません。それなら自力でそれを窮め得るかと云ふと、まあ盲目
(めくら)の垣覗きといつたやうなもので、圖書館に入(はい)つて、何處をどううろついても手掛がないのです。是は自力の足りない許でなく其道に關した書物も乏しかつたのだらうと思ひます。兎に角三年勉強して、遂に文學は解らずじまひだつたのです。私の煩悶は第一此所に根ざしてゐたと申し上げても差支ないでせう。
 私はそんなあやふやな態度で世の中へ出てとうとう敎師になつたといふより敎師にされて仕舞つたのです。幸に語學の方は怪しいにせよ、何うか斯うか御茶を濁して行かれるから、其日々々はまあ無事に濟んでゐましたが、腹の中は常に空虚でした。空虚なら一そ思ひ切りが好かつたかも知れませんが、何だか不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至る所に潛んでゐるやうで堪まらないのです。しかも一方では自分の職業としてゐる敎師といふものに少しの興味も有ち得ないのです。敎育者であるといふ素因の私に缼乏してゐる事は始めから知つてゐましたが、たゞ敎場で英語を敎へる事が既に面倒なのだから仕方がありません。私は始終中腰で隙があつたら、自分の本領へ飛び移らう飛び移らうとのみ思つてゐたのですが、さて其本領といふのがあるやうで、無いやうで、何處を向いても、思ひ切つてやつと飛び移れないのです。
 私は此世に生れた以上何かしなければならん、と云つて何をして好いか少しも見當が付かない。私は丁度霧の中に閉ぢ込められた孤獨の人間のやうに立ち竦んでしまつたのです。さうして何處からか一筋の日光が射して來ないか知らんといふ希望よりも、此方から探照燈を用ひてたつた一條
(ひとすぢ)で好いから先迄明らかに見たいといふ氣がしました。所が不幸にして何方の方角を眺めてもぼんやりしてゐるのです。ぼうつとしてゐるのです。恰も囊の中に詰められて出る事の出來ない人のやうな氣持がするのです。私は私の手にたゞ一本の錐さへあれば何處か一所突き破つて見せるのだがと、焦燥(あせ)り拔いたのですが、生憎其錐は人から與へられる事もなく、又自分で發見する譯にも行かず、たゞ腹の底では此先自分はどうなるだらうと思つて、人知れず陰鬱な日を送つたのであります。
 私は斯うした不安を抱いて大學を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、又同樣の不安を胸の底に疊んで遂に外國迄渡つたのであります。然し一旦外國へ留學する以上は多少の責任を新たに自覺させられるには極つてゐます。それで私は出來るだけ骨を折つて何かしやうと努力しました。然し何んな本を讀んでも依然として自分は囊の中から出る譯に參りません。此囊を突き破る錐は倫敦中探して歩いても見付りさうになかつたのです。私は下宿の一間の中で考へました。詰らないと思ひました。いくら書物を讀んでも腹の足
(たし)にはならないのだと諦めました。同時に何の爲に書物を讀むのか自分でも其意味が解らなくなつて來ました。
 此時私は始めて文學とは何んなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外に、私を救ふ途はないのだと悟つたのです。今迄は全く他人本位で、根のない萍(うきぐさ)のやうに、其所いらをでたらめに漂よつてゐたから、駄目であつたといふ事に漸く氣が付いたのです。私のこゝに他人本位といふのは、自分の酒を人に飲んで貰つて、後から其品評を聽いて、それを理が非でもさうだとして仕舞ふ所謂人眞似を指すのです。一口に斯う云つて仕舞へば、馬鹿らしく聞こえるから、誰もそんな人眞似をする譯がないと不審がられるかも知れませんが、事實は決してさうではないのです。近頃流行るベルグソンでもオイケンでもみんな向ふの人が兎や角いふので日本人も其尻馬に乘つて騷ぐのです。まして其頃は西洋人のいふ事だと云へば何でも蚊でも盲從して威張つたものです。だから無暗に片假名を竝べて人に吹聽して得意がつた男が比々皆是なりと云ひたい位ごろごろしてゐました。他
(ひと)の惡口ではありません。斯ういふ私が現にそれだつたのです。譬へばある西洋人が甲といふ同じ西洋人の作物を評したのを讀んだとすると、其評の當否は丸で考へずに、自分の腑に落ちやうが落ちまいが、無暗に其評を觸れ散らかすのです。つまり鵜呑と云つてもよし、又機械的の知識と云つてもよし、到底わが所有とも血とも肉とも云はれない、餘所々々しいものを我物顔に喋舌つて歩くのです。然るに時代が時代だから、又みんながそれを賞めるのです。
  けれどもいくら人に賞められたつて、元々人の借着をして威張つてゐるのだから、内心は不安です。手もなく孔雀の羽根を身に着けて威張つてゐるやうなものですから。それでもう少し浮華を去つて摯實に就かなければ、自分の腹の中は何時迄經つたつて安心は出來ないといふ事に氣がつき出したのです。
 たとへば西洋人が是は立派な詩だとか、口調が大變好いとか云つても、それは其西洋人の見る所で、私の參考にならん事はないにしても、私にさう思へなければ、到底受賣をすべき筈のものではないのです。私が獨立した一個の日本人であつて、決して英國人の奴婢でない以上はこれ位の見識は國民の一員として具へてゐなければならない上に、世界に共通な正直といふ德義を重んずる點から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。
 然し、私は英文學を專攻する。其本場の批評家のいふ所と私の考と矛盾しては何うも普通の場合氣が引ける事になる。そこで斯うした矛盾が果して何處から出るかといふ事を考へなければならなくなる。風俗、人情、習慣、溯つては國民の性格皆此矛盾の原因になつてゐるに相違ない。それを、普通の學者は單に文學と科學とを混同して、甲の國民に氣に入るものは屹度乙の國民の賞讚を得るに極つてゐる、さうした必然性が含まれてゐると誤認してかゝる。其所が間違つてゐると云はなければならない。たとひ此矛盾を融和する事が不可能にしても、それを説明する事は出來る筈だ。さうして單に其説明丈でも日本の文壇には一道の光明を投げ與へる事が出來る。──斯う私は其時始めて悟つたのでした。甚だ遲蒔の話で慚愧の至でありますけれども、事實だから僞らない所を申し上げるのです。
 私はそれから文藝に對する自己の立脚地を堅めるため、堅めるといふより新らしく建設する爲に、文藝とは全く縁のない書物を讀み始めました。一口でいふと、自己本位といふ四字を漸く考へて、其自己本位を立證する爲に、科學的な研究やら哲學的の思索に耽り出したのであります。今は時勢が違ひますから、此邊の事は多少頭のある人には能く解せられてゐる筈ですが、其頃は私が幼稚な上に、世間がまだそれ程進んでゐなかつたので、私の遣り方は實際已を得なかつたのです。
 私は此自己本位といふ言葉を自分の手に握つてから大變強くなりました。彼等何者ぞやと氣慨が出ました。今迄茫然と自失してゐた私に、此所に立つて、この道から斯う行かなければならないと指圖をして呉れたものは實に此自我本位の四字なのであります。
 自白すれば私は其四字から新たに出立したのであります。さうして今の樣にたゞ人の尻馬にばかり乘つて空
(から)騷ぎをしてゐるやうでは甚だ心元ない事だから、さう西洋人振らないでも好いといふ動かすべからざる理由を立派に彼等の前に投げ出して見たら、自分も嘸愉快だらう、人も嘸喜ぶだらうと思つて、著書其他の手段によつて、それを成就するのを私の生涯の事業としやうと考へたのです。
 其時私の不安は全く消えました。私は輕快な心をもつて陰鬱な倫敦を眺めたのです。比喩で申すと、私は多年の間懊惱した結果漸く自分の鶴嘴をがちりと鑛脈に掘り當てたやうな氣がしたのです。猶繰り返していふと、今迄霧の中に閉ぢ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を敎へられた事になるのです。
 斯く私が啓發された時は、もう留學してから、一年以上經過してゐたのです。それでとても外國では私の事業を仕上る譯に行かない、兎に角出來る丈材料を纏めて、本國へ立ち歸つた後に、立派に始末を付けやうといふ氣になりました。即ち外國へ行つた時よりも歸つて來た時の方が、偶然ながらある力を得た事になるのです。
 所が歸るや否や私は衣食の爲に奔走する義務が早速起りました。私は高等學校へも出ました。大學へも出ました。後では金が足りないので、私立學校も一軒稼ぎました。其上私は神經衰弱に罹りました。最後に下らない創作などを雜誌に載せなければならない仕儀に陷りました。色々の事情で、私は私の企てた事業を半途で中止してしまひました。私の著はした文學論はその記念といふよりも寧ろ失敗の亡骸
(なきがら)です。然も畸形兒の亡骸です。或は立派に建設されないうちに地震で倒された未成市街の廢墟のやうなものです。
 然しながら自己本位といふ其時得た私の考は依然としてつゞいてゐます。否年を經るに從つて段々強くなります。著作的事業としては、失敗に終りましたけれども、其時確かに握つた自己が主で、他は賓であるといふ信念は、今日の私に非常の自信と安心を與へて呉れました。私は其引續きとして、今日猶生きてゐられるやうな心持がします。實は斯うした高い壇の上に立つて、諸君を相手に講演をするのも矢張り其力の御蔭かも知れません。
 以上はたゞ私の經驗だけをざつと御話ししたのでありますけれども、其御話しを致した意味は全く貴方がたの御參考になりはしまいかといふ老婆心からなのであります。貴方がたは是からみんな學校を去つて、世の中へ御出掛になる。それにはまだ大分時間のかゝる方も御座いませうし、又は追付け實社界に活動なさる方もあるでせうが、いづれも私の一度經過した煩悶(たとひ種類は違つても)を繰返しがちなものぢやなからうかと推察されるのです。私のやうに何處か突き拔けたくつても突き拔ける譯にも行かず、何か摑みたくつても藥罐頭を摑むやうにつるつるして焦燥
(じ)れつたくなつたりする人が多分あるだらうと思ふのです。もし貴方がたのうちで既に自力で切り開いた道を持つてゐる方は例外であり、又他(ひと)の後に從つて、それで滿足して、在來の古い道を進んで行く人も惡いとは決して申しませんが、(自己に安心と自信がしつかり附隨してゐるならば、)然しもし左右(さう)でないとしたならば、何うしても、一つ自分の鶴嘴で掘り當てる所迄進んで行かなくつては行けないでせう。行けないといふのは、もし掘り中てる事が出來なかつたなら、其人は生涯不愉快で、始終中腰になつて世の中にまごまごしてゐなければならないからです。私の此點を力説するのは全く其爲で、何も私を模範になさいといふ意味では決してないのです。私のやうな詰らないものでも、自分で自分が道をつけつゝ進み得たといふ自覺があれば、あなた方から見て其道が如何に下らないにせよ、それは貴方がたの批評と觀察で、私には寸毫の損害がないのです。私自身はそれで滿足する積りであります。然し私自身がそれがため、自信と安心を有つてゐるからといつて、同じ徑路が貴方がたの模範になるとは決して思つてはゐないのですから、誤解しては不可(いけま)せん。
 それは兎に角、私の經驗したやうな煩悶が貴方がたの場合にも屢起るに違ひないと私は鑑定してゐるのですが、何うでせうか。もし左右
(さう)だとすると、何かに打ち當る迄行くといふ事は、學問をする人、敎育を受ける人が、生涯の仕事としても、或は十年二十年の仕事としても、必要ぢやないでせうか。あゝ此處におれの進むべき道があつた! 漸く掘り當てた! 斯ういふ感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事が出來るのでせう。容易に打ち壞されない自信が、其叫び聲とともにむくむく首を擡げて來るのではありませんか。既に其域に達してゐる方も多數のうちにはあるかも知れませんが、若し途中で霧か靄のために懊惱してゐられる方があるならば、何んな犧牲を拂つても、あゝ此所だといふ掘當てる所迄行つたら宜からうと思ふのです。必ずしも國家の爲ばかりだからといふのではありません。又あなた方の御家族の爲に申し上げる次第でもありません。貴方がた自身の幸福のために、それが絶對に必要ぢやないかと思ふから申上げるのです。もし私の通つたやうな道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もし何處かにこだわりがあるなら、それを踏潰す迄進まなければ駄目ですよ。──尤も進んだつて何う進んで好いか解らないのだから、何かに打つかる所迄行くより外に仕方がないのです。私は忠告がましい事を貴方がたに強ひる氣は丸でありませんが、それが將來貴方がたの幸福の一つになるかも知れないと思ふと默つてゐられなくなるのです。腹の中の煮え切らない、徹底しない、あゝでもあり斯うでもあるといふやうな海鼠のやうな精神を抱いてぼんやりして居ては、自分が不愉快ではないか知らんと思ふからいふのです。不愉快でないと仰しやれば夫迄です、又そんな不愉快は通り越してゐると仰しやれば、それも結構であります。願くは通り越してありたいと私は祈るのであります。併し此私は學校を出て三十以上迄通り越せなかつたのです。其苦痛は無論鈍痛ではありましたが、年々歳々感ずる痛には相違なかつたのであります。だから若し私のやうな病氣に罹つた人が、もし此中にあるならば、何うぞ勇猛に御進みにならん事を希望して已まないのです。もし其所迄行ければ、此處におれの尻を落ちつける場所があつたのだといふ事實を御發見になつて、生涯の安心と自信を握る事が出來るやうになると思ふから申し上げるのです。
 今迄申し上げた事は此講演の第一篇に相當するものですが、私は是から其第二篇に移らうかと考へます。學習院といふ學校は社會的地位の好い人が這入る學校のやうに世間から見傚されて居ります。さうして夫が恐らく事實なのでせう。もし私の推察通り大した貧民は此所へ來ないで、寧ろ上流社會の子弟ばかりが集まつてゐるとすれば、向後貴方がたに附隨してくるものゝうちで第一番に擧げなければならないのは權力であります。換言すると、あなた方が世間へ出れば、貧民が世の中に立つた時よりも餘計權力が使へるといふ事なのです。前申した、仕事をして何かに掘り中てるまで進んで行くといふ事は、つまりあなた方の幸福の爲め安心の爲めには相違ありませんが、何故それが幸福と安心とをもたらすかといふと、貴方方の有つて生れた個性がそこに打つかつて始めて腰がすわるからでせう。さうして其所に尻を落付けて漸々前の方へ進んで行くと其個性が益發展して行くからでせう。あゝ此所におれの安住の地位があつたと、あなた方の仕事とあなたがたの個性が、しつくり合つた時に、始めて云ひ得るのでせう。
 是と同じやうな意味で、今申し上げた權力といふものを吟味して見ると、權力とは先刻
(さつき)御話した自分の個性を他人の頭の上に無理矢理に壓し付ける道具なのです。道具だと斷然云ひ切つてわるければ、そんな道具に使ひ得る利器なのです。
 權力に次ぐものは金力です。是も貴方がたは貧民よりも餘計に所有して居られるに相違ない。此金力を同じくさうした意味から眺めると、是は個性を擴張するために、他人の上に誘惑の道具として使用し得る至極重寶なものになるのです。
 して見ると權力と金力とは自分の個性を貧乏人より餘計に、他人の上に押し被せるとか、又は他人を其方面に誘
(をび)き寄せるとかいふ點に於て、大變便宜な道具だと云はなければなりません。斯ういふ力があるから、偉いやうでゐて、其實非常に危險なのです。先刻申した個性はおもに學問とか文藝とか趣味とかに就いて自己の落ち付くべき所迄行つて始めて發展するやうに御話し致したのですが、實をいふと其應用は甚だ廣いもので、單に學藝丈にはとゞまらないのです。私の知つてゐるある兄弟で、弟の方は家に引込んで書物などを讀む事が好きなのに引き易へて、兄は又釣道樂に憂身をやつして居るのがあります。すると此兄が自分の弟の引込思案でたゞ家にばかり引籠つてゐるのを非常に忌まはしいものゝやうに考へるのです。必竟は釣をしないからあゝいふ風に厭世的になるのだと合點して、無暗に弟を釣に引張り出さうとするのです。弟は又それが不愉快で堪らないのだけれども、兄が高壓的に釣竿を擔がしたり、魚籃(びく)を提げさせたりして、釣堀へ隨行を命ずるものだから、まあ目を瞑つて食つ付いて行つて、氣味の惡い鮒などを釣つていやいや歸つてくるのです。それが爲に兄の計畫通り弟の性質が直つたかといふと、決してさうではない、益此釣といふものに對して反抗心を起してくるやうになります。つまり釣と兄の性質とはぴたりと合つて其間に何の隙間もないのでせうが、それは所謂兄の個性で、弟とは丸で交渉がないのです。是は固より金力の例ではありません、權力の他を威壓する説明になるのです。兄の個性が弟を壓迫して無理に魚を釣らせるのですから。尤もある場合には、──例へば授業を受ける時とか、兵隊になつた時とか、又寄宿舎でも軍隊生活を主位に置くとか──凡てさう云つた場合には多少此高壓的手段は免かれますまい。然し私は重に貴方がたが一本立になつて世間へ出た時の事を云つてゐるのだから其積で聽いて下さらなくては困ります。
 そこで前申した通り自分が好いと思つた事、好きな事、自分と性の合ふ事、幸にそこに打
(ぶ)つかつて自分の個性を發展させて行くうちには、自他の區別を忘れて、何うかあいつもおれの仲間に引き摺り込んで遣らうといふ氣になる。其時權力があると前云つた兄弟のやうな變な關係が出來上るし、又金力があると、それを振り蒔いて、他(ひと)を自分のやうなものに仕立上げやうとする。即ち金を誘惑の道具として、其誘惑の力で他を自分に氣に入るやうに變化させやうとする。どつちにしても非常な危險が起るのです。
 それで私は常から斯う考へてゐます。第一に貴方がたは自分の個性が發展出來るやうな場所に尻を落ち付けべく、自分とぴたりと合つた仕事を發見する迄邁進しなければ一生の不幸であると。然し自分がそれ丈の個性を尊重し得るやうに、社會から許されるならば、他人に對しても其個性を認めて、彼等の傾向を尊重するのが理の當然になつて來るでせう。それが必要でかつ正しい事としか私には見えません。自分は天性右を向いてゐるから、彼奴が左を向いてゐるのは怪しからんといふのは不都合ぢやないかと思ふのです。尤も複雜な分子の寄つて出來上つた善惡とか邪正とかいふ問題になると、少々込み入つた解剖の力を借りなければ何とも申されませんが、さうした問題の關係して來ない場合もしくは關係しても面倒でない場合には、自分が他
(ひと)から自由を享有してゐる限り、他にも同程度の自由を與へて、同等に取り扱はなければならん事と信ずるより外に仕方がないのです。
 近頃自我とか自覺とか唱へていくら自分の勝手な眞似をしても構はないといふ符徴に使ふやうですが、其中には甚だ怪しいのが澤山あります。彼等は自分の自我を飽迄尊重するやうな事を云ひながら、他人の自我に至つては毫も認めてゐないのです。苟しくも公平の眼を具し正義の觀念を有つ以上は、自分の幸福のために自分の個性を發展して行くと同時に、其自由を他にも與へなければ濟まん事だと私は信じて疑はないのです。我々は他が自己の幸福のために、己れの個性を勝手に發展するのを、相當の理由なくして妨害してはならないのであります。私は何故こゝに妨害といふ字を使ふかといふと、貴方がたは正しく妨害し得る地位に將來立つ人が多いからです。貴方がたのうちには權力を用ひ得る人があり、又金力を用ひ得る人が澤山あるからです。
 元來をいふなら、義務の附着して居らない權力といふものが世の中にあらう筈がないのです。私が斯うやつて、高い壇の上から貴方方を見下して、一時間なり二時間なり私の云ふ事を靜肅に聽いて頂だく權利を保留する以上、私の方でも貴方方を靜肅にさせる丈の説を述べなければ濟まない筈だと思ひます。よし平凡な講演をするにしても、私の態度なり樣子なりが、貴方がたをして禮を正さしむる丈の立派さを有つてゐなければならん筈のものであります。たゞ私は御客である、貴方がたは主人である、だから大人しくしなくてはならない、と斯う云はうとすれば云はれない事もないでせうが、それは上面
(うはつら)の禮式にとゞまる事で、精神には何の關係もない云はゞ因襲といつたやうなものですから、てんで議論にはならないのです。別の例を擧げて見ますと、貴方がたは敎場で時々先生から叱られる事があるでせう。然し叱りつ放(ぱな)しの先生がもし世の中にあるとすれば、其先生は無論授業をする資格のない人です。叱る代りには骨を折つて敎へて呉れるに極つてゐます。叱る權利をもつ先生は即ち敎へる義務をも有つてゐる筈なのですから。先生は規律をたゞすため、秩序を保つために與へられた權利を十分に使ふでせう。其代り其權利と引き離す事の出來ない義務も盡さなければ、敎師の職を勤め終(おほ)せる譯に行きますまい。
 金力に就いても同じ事であります。私の考によると、責任を解しない金力家は、世の中にあつてならないものなのです。其譯を一口に御話しすると斯うなります。金錢といふものは至極重寶なもので、何へでも自由自在に融通が利く。たとへば今私が此所で、相場をして十萬圓儲けたとすると、其十萬圓で家屋を立てる事も出來るし、書籍を買ふ事も出來るし、又は花柳社界を賑はす事も出來るし、つまりどんな形にでも變つて行く事が出來ます。そのうちでも人間の精神を買ふ手段に使用出來るのだから恐ろしいではありませんか。即ちそれを振り蒔いて、人間の德義心を買ひ占める、即ち其人の魂を墮落させる道具とするのです。相場で儲けた金が德義的倫理的に大きな威力を以て働らき得るとすれば、何うしても不都合な應用と云はなければならないかと思はれます。思はれるのですけれども、實際その通りに金が活動する以上は致し方がない。たゞ金を所有してゐる人が、相當の德義心をもつて、それを道義上害のないやうに使ひこなすより外に、人心の腐敗を防ぐ道はなくなつてしまふのです。それで私は金力には必ず責任が付いて廻らなければならないといひたくなります。自分は今是丈の富の所有者であるが、それを斯ういふ方面に斯う使へば、斯ういふ結果になるし、あゝいふ社會にあゝ用ひればあゝいふ影響があると呑み込む丈の見識を養成する許でなく、其見識に應じて、責任を以てわが富を所置しなければ、世の中に濟まないと云ふのです。いな自分自身にも濟むまいといふのです。
 今迄の論旨をかい摘んで見ると、第一に自己の個性の發展を仕遂げやうと思ふならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないといふ事。第二に自己の所有してゐる權力を使用しやうと思ふならば、それに附隨してゐる義務といふものを心得なければならないといふ事。第三に自己の金力を示さうと願ふなら、それに伴ふ責任を重んじなければならないといふ事。つまり此三
條に歸着するのであります。
 是を外の言葉で言ひ直すと、苟しくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を發展する價値もなし、權力を使ふ價値もなし、又金力を使ふ價値もないといふ事になるのです。それをもう一遍云ひ換へると、此三者を自由に享け樂しむためには、其三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起つて來るといふのです。もし人格のないものが無暗に個性を發展しやうとすると、他
(ひと)を妨害する、權力を用ひやうとすると、濫用に流れる、金力を使はうとすれば、社會の腐敗をもたらす。隨分危險な現象を呈するに至るのです。さうして此三つのものは、貴方がたが將來に於て最も接近し易いものであるから、貴方がたは何うしても人格のある立派な人間になつて置かなくては不可(いけな)いだらうと思ひます。
 話が少し横へそれますが、御存じの通り英吉利といふ國は大變自由を尊ぶ國であります。それ程自由を愛する國でありながら、又英吉利ほど秩序の調つた國はありません。實をいふと私は英吉利を好かないのです。嫌ひではあるが事實だから仕方なしに申し上げます。あれ程自由でさうしてあれほど秩序の行き屆いた國は恐らく世界中にないでせう。日本などは到底比較にもなりません。然し彼等はたゞ自由なのではありません。自分の自由を愛するとともに他の自由を尊敬するやうに、小供の時分から社會的敎育をちやんと受けてゐるのです。だから彼等の自由の背後には屹度義務といふ觀念が伴つてゐます。England expects every man to do his duty といつた有名なネルソンの言葉は決して當座限りの意味のものではないのです。彼等の自由と表裏して發達して來た深い根柢をもつた思想に違ないのです。
 彼等は不平があると能く示威運動を遣ります。然し政府は決して干渉がましい事をしません。默つて放つて置くのです。其代り示威運動をやる方でもちやんと心得てゐて、無暗に政府の迷惑になるやうな亂暴は働かないのです。近來女權擴張論者と云つたやうなものが無暗に狼藉をするやうに新聞などに見えてゐますが、あれはまあ例外です。例外にしては數が多過ぎると云はれゝばそれ迄ですが、何うも例外と見るより外に仕方がないやうです。嫁に行かれないとか、職業が見付からないとか、又は昔しから養成された、女を尊敬するといふ氣風に付け込むのか、何しろあれは英國人の平生の態度ではないやうです。名畫を破る、監獄で絶食して獄丁を困らせる、議會のベンチへ身體を縛り付けて置いて、わざわざ騷々しく叫び立てる。是は意外の現象ですが、ことによると女は何をしても男の方で遠慮するから構はないといふ意味で遣つてゐるのかも分りません。しかしまあ何ういふ理由にしても變則らしい氣がします。一般の英國氣質といふものは、今御話しした通り義務の觀念を離れない程度に於て自由を愛してゐるやうです。
 それで私は何も英國を手本にするといふ意味ではないのですけれども、要するに義務心を持つてゐない自由は本當の自由ではないと考へます。と云ふものは、さうした我儘な自由は決して社會に存在し得ないからであります。よし存在してもすぐ他から排斥され踏み潰されるに極つてゐるからです。私は貴方がたが自由にあらん事を切望するものであります。同時に貴方がたが義務といふものを納得せられん事を願つて已まないのであります。斯ういふ意味に於て、私は個人主義だと公言して憚らない積です。
 此個人主義といふ意味に誤解があつては不可
(いけま)せん。ことに貴方がたのやうな御若い人に對して誤解を吹き込んでは私が濟みませんから、其邊はよく御注意を願つて置きます。時間が逼つてゐるから成るべく單簡に説明致しますが、個人の自由は先刻御話した個性の發展上極めて必要なものであつて、其個性の發展がまた貴方がたの幸福に非常な關係を及ぼすのだから、何うしても他に影響のない限り、僕は左を向く、君は右を向いても差支ない位の自由は、自分でも把持し、他人にも附與しなくてはなるまいかと考へられます。それが取も直さず私のいふ個人主義なのです。金力權力の點に於ても其通りで、俺の好かない奴だから疊んでしまへとか、氣に喰はない者だから遣つ付けてしまへとか、惡い事もないのに、たゞそれ等を濫用したら何うでせう。人間の個性はそれで全く破壞されると同時に、人間の不幸も其所から起らなければなりません。たとへば私が何も不都合を働らかないのに、單に政府に氣に入らないからと云つて、警視總監が巡査に私の家を取り巻かせたら何んなものでせう。警視總監に夫丈の權力はあるかも知れないが、德義はさういふ權力の使用を彼に許さないのであります。又は三井とか岩崎とかいふ豪商が、私を嫌ふといふ丈の意味で、私の家の召使を買收して事ごとに私に反抗させたなら、是又何んなものでせう。もし彼等の金力の背後に人格といふものが多少でもあるならば、彼等は決してそんな無法を働らく氣にはなれないのであります。
 斯うした弊害はみな道義上の個人主義を理解し得ないから起るので、自分だけを、權力なり金力なりで、一般に推し廣めようとする我儘に外ならんのであります。だから個人主義、私のこゝに述べる個人主義といふものは、決して俗人の考へてゐるやうに國家に危險を及ぼすものでも何でもないので、他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬するといふのが私の解釋なのですから、立派な主義だらうと私は考へてゐるのです。
 もつと解り易く云へば、黨派心がなくつて理非がある主義なのです。朋黨を結び團隊を作つて、權力や金力のために盲動しないといふ事なのです。夫だから其裏面には人に知られない淋しさも潛んでゐるのです。既に黨派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行く丈で、さうして是と同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。其所が淋しいのです。私がかつて朝日新聞の文藝欄を擔任してゐた頃、だれであつたか、三宅雪嶺さんの惡口を書いた事がありました。勿論人身攻撃ではないので、たゞ批評に過ぎないのです。然も夫がたつた二三行あつたのです。出たのは何時頃でしたか、私は擔任者であつたけれども病氣をしたから或は其病氣中かも知れず、又は病氣中でなくつて、私が出して好いと認定したのかも知れません。兎に角その批評が朝日の文藝欄に載つたのです。すると「日本及び日本人」の連中が怒りました。私の所へ直接には懸け合はなかつたけれども、當時私の下働きをしてゐた男に取消を申し込んで來ました。それが本人からではないのです。雪嶺さんの子分──子分といふと何だか博奕打の樣で可笑
(をかし)いが、──まあ同人といつたやうなものでせう、何うしても取り消せといふのです。それが事實の問題なら尤もですけれども、批評なんだから仕方がないぢやありませんか。私の方では此方の自由だといふより外に途はないのです。しかもさうした取消を申し込んだ「日本及び日本人」の一部では毎號私の惡口を書いてゐる人があるのだから猶の事人を驚ろかせるのです。私は直接談判はしませんでしたけれども、其話を間接に聞いた時、變な心持がしました。といふのは、私の方は個人主義で遣つてゐるのに反して、向ふは黨派主義で活動してゐるらしく思はれたからです。當時私は私の作物をわるく評したものさへ、自分の擔任してゐる文藝欄へ載せた位ですから、彼等の所謂同人なるものが、一度に雪嶺さんに對する評語が氣に入らないと云つて怒つたのを、驚ろきもしたし、又變にも感じました。失禮ながら時代後れだとも思ひました。封建時代の人間の團隊のやうにも考へました。然しさう考へた私は遂に一種の淋しさを脱却する譯に行かなかつたのです。私は意見の相違は如何に親しい間柄でも、何うする事も出來ないと思つてゐましたから、私の家に出入りをする若い人達に助言はしても、其人々の意見の發表に抑壓を加へるやうな事は、他に重大な理由のない限り、決して遣つた事がないのです。私は他(ひと)の存在をそれ程に認めてゐる、即ち他に夫丈の自由を與へてゐるのです。だから向ふの氣が進まないのに、いくら私が汚辱を感ずるやうな事があつても、決して助力は頼めないのです。其所が個人主義の淋しさです。個人主義は人を目標として向背を決する前に、まづ理非を明らめて、去就を定めるのだから、或場合にはたつた一人ぼつちになつて、淋しい心持がするのです。それは其筈です。槇雜木(まきざつぽう)でも束になつてゐれば心丈夫ですから。
 それからもう一つ誤解を防ぐ爲に一言して置きたいのですが、何だか個人主義といふと一寸國家主義の反對で、それを打ち壞すやうに取られますが、そんな理窟の立たない漫然としたものではないのです。一體何々主義といふ事は私のあまり好まない所で、人間がさう一つ主義に片付けられるものではあるまいとは思ひますが、説明の爲ですから、こゝには已を得ず、主義といふ文字の下に色々の事を申し上げます。或人は今の日本は何うしても國家主義でなければ立ち行かないやうに云ひ振らし又さう考へてゐます。しかも個人主義なるものを蹂躙しなければ國家が亡びるやうな事を唱道するものも少なくはありません。けれどもそんな馬鹿氣た筈は決してありやうがないのです。事實私共は國家主義でもあり、世界主義でもあり、同時に又個人主義でもあるのであります。
 個人の幸福の基礎となるべき個人主義は個人の自由が其内容になつてゐるには相違ありませんが、各人の享有する其自由といふものは國家の安危に從つて、寒暖計のやうに上つたり下つたりするのです。是は理論といふよりも寧ろ事實から出る理論と云つた方が好いかも知れません、つまり自然の状態がさうなつて來るのです。國家が危くなれば個人の自由が狹められ、國家が泰平の時には個人の自由が膨張して來る、それが當然の話です。苟くも人格のある以上、それを踏み違へて、國家の亡びるか亡びないかといふ場合に、疳違ひをして只無暗に個性の發展ばかり目懸けてゐる人はない筈です。私のいふ個人主義のうちには、火事が濟んでもまだ火事頭巾が必要だと云つて、用もないのに窮屈がる人に對する忠告も含まれてゐると考へて下さい。また例になりますが、昔し私が高等學校にゐた時分、ある會を創設したものがありました。その名も主意も詳しい事は忘れてしまひましたが、何しろそれは國家主義を標榜した八釜しい會でした。勿論惡い會でも何でもありません。當時の校長の木下廣次さんなどは大分肩を入れてゐた樣子でした。其會員はみんな胸にめだるを下げてゐました。私はめだる丈は御免蒙りましたが、それでも會員にはされたのです。無論發起人でないから、隨分異存もあつたのですが、まあ入
(はい)つても差支なからうといふ主意から入會しました。所が其發會式が廣い講堂で行なはれた時に、何かの機(はずみ)でしたらう、一人の會員が壇上に立つて演説めいた事を遣りました。所が會員ではあつたけれども私の意見には大分反對の所もあつたので、私は其前隨分其會の主意を攻撃してゐたやうに記憶してゐます。然るに愈發會式となつて、今申した男の演説を聽いて見ると、全く私の説の反駁に過ぎないのです。故意だか偶然だか解りませんけれども勢ひ私はそれに對して答辯の必要が出て來ました。私は仕方なしに、其人のあとから演壇に上りました。當時の私の態度なり行儀なりは甚だ見苦しいものだと思ひますが、それでも簡潔に云ふ事丈は云つて退(の)けました。では其時何と云つたかと御尋ねになるかも知れませんが、それは頗る簡單なのです。私は斯う云ひました。──國家は大切かも知れないが、さう朝から晩まで國家々々と云つて恰も國家に取り付かれたやうな眞似は到底我々に出來る話でない。常住坐臥國家の事以外を考へてならないといふ人はあるかも知れないが、さう間斷なく一つ事を考へてゐる人は事實あり得ない。豆腐屋が豆腐を賣つてあるくのは、決して國家の爲に賣つて歩くのではない。根本的の主意は自分の衣食の料を得る爲である。然し當人はどうあらうとも其結果は社會に必要なものを供するといふ點に於て、間接に國家の利益になつてゐるかも知れない。是と同じ事で、今日の午(ひる)に私は飯を三杯たべた、晩には夫を四杯に殖やしたといふのも必ずしも國家の爲に増減したのではない。正直に云へば胃の具合で極めたのである。然し是等も間接の又間接に云へば天下に影響しないとは限らない、否觀方によつては世界の大勢に幾分か關係してゐないとも限らない。然しながら肝心の當人はそんな事を考へて、國家の爲に飯を食はせられたり、國家の爲に顔を洗はせられたり、又國家の爲に便所に行かせられたりしては大變である。國家主義を獎勵するのはいくらしても差支ないが、事實出來ない事を恰も國家の爲にする如くに装ふのは僞りである。──私の答辯はざつとこんなものでありました。
 一體國家といふものが危くなれば誰だつて國家の安否を考へないものは一人もない。國が強く戰爭の憂が少なく、さうして他から犯される憂がなければない程、國家的觀念は少なくなつて然るべき譯で、其空虚を充たす爲に個人主義が這入つてくるのは理の當然と申すより外に仕方がないのです。今の日本はそれ程安泰でもないでせう。貧乏である上に、國が小さい。從つて何時どんな事が起つてくるかも知れない。さういふ意味から見て吾々は國家の事を考へてゐなければならんのです。けれども其日本が今が今潰れるとか滅亡の憂目にあふとかいふ國柄でない以上は、さう國家々々と騷ぎ廻る必要はない筈です。火事の起らない先に火事装束をつけて窮屈な思ひをしながら、町中駈け歩くのと一般であります。必竟ずるに斯ういふ事は實際程度問題で、愈戰爭が起つた時とか、危急存亡の場合とかになれば、考へられる頭の人、──考へなくてはゐられない人格の修養の積んだ人は、自然そちらへ向いて行く譯で、個人の自由を束縛し個人の活動を切り詰めても、國家の爲に盡すやうになるのは天然自然と云つていゝ位なものです。だから此二つの主義はいつでも矛盾して、何時でも撲殺し合ふなどゝいふやうな厄介なものでは萬々ないと私は信じてゐるのです。此點に就いても、もつと詳しく申し上げたいのですけれども時間がないから此位にして切り上げて置きます。たゞもう一つ御注意までに申し上げて置きたいのは、國家的道德といふものは個人的道德に比べると、ずつと段の低いものの樣に見える事です。元來國と國とは辭令はいくら八釜しくつても、德義心はそんなにありやしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。だから國家を標準とする以上、國家を一團と見る以上、餘程低級な道德に甘んじて平氣でゐなければならないのに、個人主義の基礎から考へると、それが大變高くなつて來るのですから考へなければなりません。だから國家の平穩な時には、德義心の高い個人主義に矢張重きを置く方が、私にはどうしても當然のやうに思はれます。其邊は時間がないから今日はそれより以上申上げる譯に參りません。
 私は折角の御招待だから今日まかり出て、出來る丈個人の生涯を送らるべき貴方がたに個人主義の必要を説きました。是は貴方がたが世の中へ出られた後、幾分か御參考になるだらうと思ふからであります。果して私のいふ事が、あなた方に通じたか何うか、私には分りませんが、若し私の意味に不明の所があるとすれば、夫は私の言ひ方が足りないか、又は惡いかだらうと思ひます。で私の云ふ所に、もし曖昧の點があるならば、好い加減に極めないで、私の宅迄御出下さい。出來る丈は何時でも説明する積でありますから。又さうした手數を盡さないでも、私の本意が充分御會得になつたなら、私の滿足は是に越した事はありません。餘り時間が長くなりますから是で御免を蒙ります。

                 
──大正4、3、22『輔仁會雜誌』──
  

 

 

 


 

  
  (注) 1.  上記の「私の個人主義」は、岩波書店版『漱石全集 第11巻 評論 雜篇』(岩波書店、昭和41年10月24日発行)によりました。         
    2.  平仮名の「く」を縦に長く伸ばした形の踊り字(繰り返し符号)は、平仮名や漢字を繰り返して表記しました。(例: ひよろひよろ、わざわざ、ずるずるべつたりに、其日其日、など)
 なお、「今に何か云つて來られるだらう」の次に、平仮名の「く」を縦に長く伸ばした形の踊り字が来ている部分は、上の本文では、「今に何か云つて來られるだらう今に何か云つて來られるだらう」としましたが、 
『日本ペンクラブ電子文藝館』所収の本文では、「今に何かいって来られるだろうだろう」としてあり、『青空文庫』所収の本文(底本の親本:ちくま文庫『夏目漱石全集10』)では、「今に何か云(い)って来られるだろう来られるだろう」としてあります。
 
    3.  全集本文では傍点が施してある「こだわり」と2か所の「めだる」は、上記の本文では傍点の代わりに下線を施してあります。         
    4.  全集本文に施してあるルビは、括弧に入れて示しました。  
    5.  歴史的仮名遣いに合わない仮名遣いも、全集本文のままにしてあります。(例:外(そ)れてしまいました、聽いて下さろうといふ、少々申上げやう、私の生涯の事業としやう、など)
 また、「気概」が「気慨」となっているのも、全集本文のままにしてあります。
 
    6.  文中の「煮」の漢字は、全集本文には「者」の下に「火」の漢字が使ってあります。  
    7.  文中に「比々皆是なり」とありますが、この「比々」について辞書を見ておきます。
 『広辞苑』(第6版)によれば、< ひひ(比比)=物事のつらなるさま。また、みな同じ状態にあるさま。「─として皆然り」>という意味で、ここは「ひひ みな これなり」と読むことになります。
 なお、『大辞林』(第2版)には、< ひひ(比比)=(ト/タル)[文]形動タリ 物事の並び連なるさま。「怪を信ずる者─として皆然り/明六雑誌 25」 (副)並んでいるものがみな同じ状態にあるさま。どれもどれも。しばしば。「裏店の奥─此類なり/獺祭書屋俳話(子規)」>とあります。
 
    8.  「私の個人主義」は、岩波文庫の『漱石文明論集』(三好行雄編、1986年10月16日第1刷発行)にも収録してあります。この本文では、仮名遣いを現代仮名遣いに改め、また、一部の漢字を仮名に直したり、漢字にルビを増やしたりして読みやすくしてあります。 (「学習院輔仁会」の「輔仁会」に、「ほじんかい」とルビがふってあります。)          
    9.  新字新かな表記の「現代日本の開化」の本文は、電子図書館「青空文庫のほか、『日本ペンクラブ電子文藝館』所収の本文などで読むことができます。  
    10.  東北大学附属図書館のホームページに、「漱石文庫」があります。 
  
「東北大学デジタルコレクション」に、「漱石文庫データベース(2309)」と 「漱石文庫データベース(2020年再撮影)(811)」があります。 
 
    11.  「漱石文庫関係文献目録」は、夏目漱石旧蔵書(東北大学「漱石文庫」を含む)について言及している文献を収集したもので、該当部分の記事を抜粋して収録してあります。    
    12.  「ウェブ上の漱石」という、漱石関連の情報を集めたページがあります。
        
 
    13.   2019年5月9日の朝日新聞デジタルが、ロンドン漱石記念館の再開を伝えています。
 
 「漱石記念館、ロンドンで再開 天皇陛下の記帳など公開 文豪・夏目漱石(1867~1916)が英国に留学した際の資料を集めた「ロンドン漱石記念館」が8日、ロンドン郊外で開館した。2016年までロンドン市内にあった同館の展示を移し、3年ぶりに再開した。」
 
  
『小林恭子の英国メディア・ウオッチ』というブログに、ロンドン漱石記念館の
紹介記事があって、参考になります。
 
 『小林恭子の英国メディア・ウオッチ』→ ロンドン漱石記念館   
 
    14. 『ぶらり重兵衛の歴史探訪2』というサイトの「会ってみたいな、この人に」(銅像巡り・銅像との出会い)に、  新宿区早稲田南町の漱石公園(漱石山房跡)にある「夏目漱石の胸像」の写真や、漱石誕生の地の紹介などがあります。  
 

  
 
        
        
        
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