室長室001 詩「合歓の樹」



         合歓の樹

    からからに乾いた
    小さな赤土の運動場に
    初夏の香りと
    少年の夢とを
    淡黄色の花に乗せて
    一面にふりまいた 二本の
    古い合歓の樹── 

    今は異国となった
    あの 南国の片田舎に
    小さな赤土の運動場に
    二本の古い合歓の樹は
    もう 美しい花を
    ふりまいているだろう
    平和の輝かしい
    初夏を讃えながら
    懐かしい追憶に耽っているだろう
 


  (注) 1.   これは、研究社発行の高校生対象の雑誌 『受験と学生』 昭和27年7月号(第37巻第3号 )の「読者文芸」欄に掲載された小生の詩です。
  選評は、「『合歓の樹』は、永く住み慣れた南国からの引揚者として、そこに残してきた合歓の樹に対する思慕の情がはっきりと感じられる。自らの感情を抑えて合歓の樹に追憶させたところに、この詩のよさがある。」というものでした。 
 この詩に出てくる合歓の樹は、台湾の新竹州新竹郡新埔庄にかつて存在した日本人小学校「新埔国民学校」の校庭の真ん中にあった、二本の古い大きな合歓の樹のことです。  日本の合歓とは違って、黄色い花をつける合歓でした。
   
    2.   新埔(しんぽ)国民学校 は、昭和16年4月から昭和20年8月(?)までが国民学校で、それ以前は「新埔小学校」(新埔尋常小学校)と言いました。
 新埔国民学校の初代(昭和16年度)の校長先生は、昭和13年度から引き続いて福岡県ご出身の早野富次先生で、昭和17年度から終戦までは佐賀県ご出身の豆田光夫先生でした。ですから、僕らの相撲の贔屓力士は、当然、佐賀ノ花でした。 
  新埔国民学校(新埔小学校)は、残念なことに、終戦とともに廃校となってしまいました。 かつて新埔国民学校(新埔小学校)が存在していたということを、 ここに記録しておきたいと思います。 

 資料494に「新埔小学校(新埔国民学校)の歴史」があります。
   
    3.   佐賀県の佐賀市立日新小学校の嘗てのホームページによれば、豆田光夫という先生が、昭和3年当時、日新小学校におられて、その豆田先生が作詞作曲された「相撲体操」という歌に、他の先生方が振り付けをなさったものが、現在、同校の「相撲体操」という校技になっている、ということです。
 『「相撲体操」は1928年(昭和3年)日新小学校の職員であった豆田光夫先生が作詞・作曲された歌に合わせて、光岡・香月・広木ほか諸先生方の協力で振り付けされたものです。戦争のため中断されていましたが、1960年(昭和35年)よみがえりました。九州場所本場所などで披露されたこともあります。』
  日新小学校には、校技「相撲体操」をかたどった「少年の像」が建っているそうで、 日新小学校のホームページでその像の写真を見ることができます。 (「学校長のあいさつ」→「学校教育目標」→「◇三つのシンボル」→「〇少年の像」へ)
   
    4.   日新小学校の「相撲体操」という歌を作詞作曲された豆田先生は、新埔国民学校の校長先生になられた豆田先生と同じ先生だろう、と私は考えています。なぜなら、お名前が同じで、佐賀県のご出身だということが符合するばかりでなく、私たちは、新埔国民学校の4年生か5年生だった時に、豆田先生から先生ご自身が作詞作曲なさった歌を 教えていただいたことがあるからです。
  その歌は、メロディーは覚えていますが、 歌詞は全く忘れてしまいました。歌詞の一部に新竹市の海岸「南寮浜」(なんりょうはま)という言葉があったことだけを覚えています。豆田先生は、作詞作曲を趣味とされていたに違いありません。 

 「豆田光夫先生の作曲された歌(メロディー)」を、別のページで紹介しています。 どうぞ、聞いてみてください。       
 → 豆田光夫先生の作曲された歌(メロディー)へ
                  
  思い出の中の、懐かしい新埔国民学校です。(2005年2月8日)          
   
    5.  少し調べてみたところでは、この合歓の木は、ビルマネムだろうということになりました。沖縄の『東南植物楽園』というサイトの「学芸員の部屋」に、
  「ビルマネム  Albizzia lebbek /
  別名 ビルマゴウカン、オオバネム /
  英名 womans-tongue tree, Lebbek tree /
  中国名 大叶合歓、大葉合歓 /
  マメ科 インド、エジプト原産」
とあって、花の写真とともに解説が出ています。花の香りが高い、とありますが、香りの記憶がないのが残念です。(2008年10月5日)
 お断り: 「学芸員の部屋」は、現在は見られないようですので、「学芸員の部屋」のリンクをはずしました。(2019年11月5日)
   
    6.  室長室002に、新埔国民学校の思い出」という文章があります。     
    7.  豆田光夫校長先生のこと
 昭和24年12月10日土曜日の『官報』(第6874号)136頁の「叙任及び辞令」の欄に、
  ◎昭和二十四年十一月二十一日
     法務府教官 
   二級に陞叙する
と出ています。
 この頃、法務府の教官をしておられたようです。(2020年8月16日付記)

  豆田先生のことを少し調べて、略年譜を作ってみました。
  年代の不明な個所やその他の項目、あるいは誤りなど、
  お気づきの点を教えていただければ幸いです。

  豆田光夫先生略年譜
明治39年(1906)佐賀県   に生まれる。
明治  年(   )佐賀県師範学校を卒業。
明治  年(   )佐賀市立日新小学校に勤務。
         ここで、「相撲体操」を作詞・作曲する。
昭和10年(1935)台湾新竹州新竹尋常小学校に勤務。
昭和16年(1941)新竹州竹南宮前国民学校に勤務。
昭和17年(1942)新竹州新竹郡新埔国民学校に勤務。
昭和 年(   ) 月、新埔国民学校が廃校となる。
昭和21年(1946)終戦により引き揚げる。
  同年、佐賀県立有田工業高等学校に体育教師として勤務(1年間のみ)。
  通勤の列車の中で民謡「ひし売り娘」(後に「菱やんよう」と改題)を作詞する。
  佐賀県師範時代に知り合った原岡研一がこの詞に曲をつけた。
昭和23年(1948)「ひし売り娘」の発表会を開く。この時、NHKラジオで放送される。
昭和24年(1949)このころ法務府教官をしておられたようです。
昭和29年(1954)8月、ビクターから「ひしやんよう」としてレコードが発売される。
昭和38年(1963)新たに「ひしやんよう」をビクター合唱団がレコードに吹き込む。
  同年、逝去。享年57。
   
    8.  昭和29年(1954)8月にビクターから発売されたレコード「ひしやんよう」について
   豆田光夫作詞
   原岡研市作曲
     小沢直与志編曲
   ビクター女声コーラス
     ビクターオーケストラ伴奏
(レコードには「原岡研一」が「原岡研市」となっています。レコードの表示は、わざと文字を変えたのでしょうか。)

 〇  このレコードは、YouTube に出ています。ここでこのレコードを聞くことができます。(2024年7月2日付記)

 → YouTube「ビクター女声コーラスの  ひしやんよう」
(ビクターレコード 1963年発売。
 ビクター女声コーラス、ビクターオーケストラ)
     *
 このレコードは、国立国会図書館に歴史的音源として保存されていますしかし、国立国会図書館または歴史的音源配信提供参加館でしか聴取することができないのが残念です。
 お近くの図書館が歴史的音源配信提供参加館になっていれば、そこで聞くことができます。

   → 国立国会図書館歴史的音源「ひしやんよう」
  → 歴史的音源について  

   
    9.  豆田光夫先生が作詞された「ひしやんよう」の歌詞が、『さがの歴史・文化お宝帳』というホームページで見られます。
 →『さがの歴史・文化お宝帳』
 →「菱やんよう」  
         (2018年4月3日付記) 

 なお、ここに次のような説明が記されています。
 (作曲者)原岡研一は、本庄町寺小路出身で音楽教師。昭和23年(1948)に成章中学勤務。この頃から作詞者・豆田光夫とのコンビで「菱やんよう」をはじめ10曲の作品を生み出した。この「菱やんよう」は、当時の風情を感じられる佐賀地方の代表的な民謡。
         (2024年7月6日付記)
   
    10.  以上のことは、次の資料によって記述しました。

 1. 佐賀市立日新小学校の(嘗ての)ホームページ
  2.『東南植物楽園』というサイトの「学芸員の部屋」
 3. 『台湾総督府職員録系統』というサイト。
    →  『台湾総督府職員録系統』
 4.昭和24年12月10日土曜日の『官報』(第6874号)の136頁
 5. 『九州のうた100─その風土とこころ─』

   (朝日新聞西部本社編。朝日ソノラマ
       昭和57年6月30日初版発行)
 『九州のうた100─その風土とこころ─』という書籍については、佐賀市教育委員会文化振興課の福田義彦様に教えていただきました。ここに記して厚く御礼申し上げます。(平成28年3月17日)  
 6. 国立国会図書館の歴史的音源のサイト
 . 『さがの歴史・文化お宝帳』
    →『さがの歴史・文化お宝帳』
    →「菱やんよう」  

 8.YouTube
   
    11.  『国立国会図書館サーチ』に、「いく春秋:陶山聡作曲集」が出ていて、そこに「27 追悼歌 豆田光夫 作詩」とありますが、この曲集をまだ見ていません。(2024年7月3日) 
 →『国立国会図書館サーチ』
 →『いく春秋』陶山聡作曲集
   
    12.  『佐賀県立図書館データベース』の「コレクション/人名データベース」に、

  豆田光夫 栄城人国記 72 佐賀少年刑務所補導部長、長崎刑務所補導部長

と出ていました。72は頁数です。
 →『佐賀県立図書館データベース』
   「コレクション/人名データベース」豆田光夫

 『栄城人国記』は、1959年3月に佐賀新聞社から出版された「佐賀県立佐賀中学校、佐賀高等学校出身者の銘々伝」だそうです。(2024年7月6日付記)
   









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