コノ都ニ聞ヘシ
上総屋今助ハ、初メ渡リ手廻リヲ業トシテ所々ノ侯家ヘ出入シ、沼津侯
水野/羽州ノ草履取ヲモ為シトゾ、其才貨殖ニ長ジ芝居歌舞伎ノ金元シ、老テ水府ノ家人トナリ、大久保伊麻佑ト称シ槍箱ヲ従ヘ御紋服ヲ着セシニ至ルハ、人普ク知ル所ナリ、但(タダ)盲(メクラ)千人目明(メアキ)千人トヤラ、称(ホム)ル者半(ナカバ)、詆ル者半ナリ、予モユヱ有リテ屢々面会セシガ、何(イカ)ニモ豪気ニシテ、世ノ沙汰ニハ似ザル質朴ノ男ナリシ、後ニ湖辺墾田ノ事ニ因テ上京シ、江州ニテ老病ヲ成シテ帰東シ、二月ノ大火其宅ヲ焚亡シ、避ヲ檀縁ナル築地西本願ニ往ント為シガ、コノ寺モ亦焼シカバ、増上寺中某院ニ寓シテ没シタリ、年ヲ享ル事七十余歳。
コノ人ヲ世ニハ、戯場(シバキ)ノ役者菊之丞ノ従徒ナリシガ後巨富ヲナセシ抔云フ、能ク其本ヲ聞ケバ、常州ノ産ニテ実ニ大久保氏也トゾ、随分大久保
(1)ノ枝流ニハ違ヒナク、常陽ニ居ル由緒モ亦正シキ事也ト、ソノ東都ニ出シハ、渠モト其家ノ二男ニテ若年ノ放蕩ヨリ無頼ノ体トナリシガ、遂ニ時運ヲ得テ初ニ復スル体ニ成リ、富ハ天縦トモ云ベク、貴ハ水戸侯ノ臣ト称スル身マデニ昇レリ、是モ常州ハ水府ノ御領内ニテ、今モ其本宗ハ郷士ニシテ素ヨリ帯刀ノ家ナリト。
(1)今助ガ常ニ着セシ肩衣等ノ紋ヲ見シニモ、小田原侯ノ家紋ト異ラザリシ。
今助没セント為ルトキ、麻上下熨斗目ヲ着シ端坐瞑目セシト、死後未ダ喪ヲ発セザル中、予ガモトニ旅行帰府ニ土産ナド贈リキ、使セシ者渠ガ生前ニ言シ事ヲ伸ブ、其言偽ナラザルヲ覚フ。
又斯人年少遊治ノトキ義太夫浄瑠理ヲ好シガ、交遊ノ侠客(キホイ)ニ文身(ホリモノ)ヲ為ヨト勧ル者アリ、今助サラバ好(スキ)ナル浄瑠理ノ三弦ヲホラン迚、ホリシガ、半ニシテ殊ニ痛ク覚ユル体ナリ、ホル者サラバ文身(ホリモノ)ヲ消(ケサ)ント云ヘバ、
コノ文身ヲ滅(ケ)スワザ世ニアリトゾ、今助曰、イヤイヤ生レ得シ皮膚ニ瘍(キズ)ヅケシガ、今ハ滅モ亦不本意ナリ、サレド遂ニハ富貴ノ身トモ成ルベケレバ、其時カゝル狂骨不為ノ所業ナリシ片身(カヨミ)トモ為(ナシ)ナント云シガ、果シテ御紋ヲ着スル身トハ成レリ、何レニモ大量漢ニテ、其志ハ非常ノ人也計理。
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(注) |
1. |
上記の本文(上総屋今助カ事)は、国立国会図書館デジタルコレクション所収の『未刊甲子夜話 第一』巻之三(松浦静山著、坂田勝校訂、有光書房・昭和39年3月10日刊)によりました。ただし、この資料を見るには国立国会図書館の「利用者登録」をする必要があります。
→ 国立国会図書館デジタルコレクション
→ 『未刊甲子夜話 第一』
→ 巻之三 今助カ事(43~44/283)
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2. |
資料690に、上総屋今助(大久保今助) 『甲子夜話』より があります。
→ 資料690 上総屋今助(大久保今助) 『甲子夜話』より
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3. |
資料692に、うなぎ飯の始並に蒲焼の事(『俗事百工起源』より)があります。
→ 資料692 うなぎ飯の始並に蒲焼の事(『俗事百工起源』より) |
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4. |
Wikipedia(ウィキペディア)に「大久保今助」の項があります。
→ Wikipedia(ウィキペディア)
→「大久保今助」
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5. |
歌舞伎座のホームページに、「四季で楽しむ江戸グルメ」の一つとして「うな丼の誕生と芝居町」があって、そこで大久保今助が紹介されています。
→ 歌舞伎座「四季で楽しむ江戸グルメ」
→「うな丼の誕生と芝居町」
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6. |
2025年(令和7年)6月17日の茨城新聞の「時論」の欄に、長山靖生氏が「「文化資産」の再評価を」という題で「鰻丼を生んだ大久保今助」のことを紹介しておられます。
そこに、「暑い盛りに鰻を食べる習慣が一般化したのは安永・天明(1772~89年)の頃、(中略)安永・天明年間の蒲焼は、皿に盛られて単品で出されていた。御飯と同じ器に盛る鰻丼・鰻重が生まれたのは文化年間で、そこには常陸国出身の大久保今助(1757~1834)が大きく関わっている。」とあって、以下、大久保今助のことが詳しく紹介されています。
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