資料690 上総屋今助(大久保今助) 『甲子夜話』より 




        上總屋今助(大久保今助) 
                   
『甲子夜話』より

〇都下銀主ト呼者ノ中上總屋今助ト云フハ人ノヨリ知ル所ナリ予モ久クソノ名ヲ聞クコノ男始メハ戯塲ニテ瀬川菊之丞ト云役者ノ衣裳番ナリシガ段々身アガリシテ剩ヘ富テ貨財ヲ人ニ貸スニ及ブ又今ハ水府ノ御用ヲ辨ズルニ因テ彼侯ノ何格トヤランニ命ゼラレ大久保今助ト称シコノ頃ハ本棒ノ駕ニ乘リ鎗箱ヲ持セ侯ヨリ賜ハリシ葵御紋ノ時服ヲ着スル体ナリ予未ダソノ面ヲ見ザルユヱ肥大倨慢ナル男ナラントセシニ肥州ノ話ニ聞ケバ年既ニ七十踰ヘ行歩モ遲々トシタレド豪氣ハ人下ニ屈スル者ニ非ズト予一度ソノ面ヲ見ント思フ因テ来ラバ告ラレヨト云へバ発途ノトキ品川ニハ必ズ送リ来ラン其時御言ヲ達スベシト云コレヨリ肥州ヲ彼駅ニ送ルニ及テ今助果シテ来ル肥州前言ヲ通ズ今助喜ビ予ガ鮫津ニ居ルニ追到レリ予引見スルニ小長(コタケ)ノ老人ニシテ實ニ聞シニハ劣リシ碌々ノ一夫ナリ今ハ中々劇塲ニ出タル者トモ思ハレヌ形容ナリ
又銀主玉村某ガ話レルハ今助モト手廻奉公ヲシテ虎門ナル内藤侯ニ草履取ヲシテアリシガ爰ヨリ工面ナホリテ今ノ身分トハ成レリコノコト生涯忘レズトテ歳首ニハ必此侯邸ニ来リ元日ノ登城ニ我ガ乗リ来リシ駕鎗等ハ侯ノ門外ニノコシ置キ己レハカノ御紋ノ時服ヌギステ侯ノ手廻ノ看判ヲ着シ裾ヲカゝゲ侯ノ草履ヲ取テ玄関ヨリ門前マデ随ヒ出ルコト旧日ノ如シト云
是ニ由リ思出スハ予ガ中ニ庄次郎ト呼テモト駕陸尺ナリシガ後取揚テ双刀ヲ許シ士ニ次テ勤メサセタリ彼レ賎キトキ今助ハソノ子分ナリト後庄次郎出身シテ今助モ富ニ至ル庄次郎年老死シケルトキ今助云フヤウ我嚮ニ子分タリ奚ゾコレヲ忘レンヤ迚庄次郎ガ小屋ニ来リ宿スルコト三日己ガ財ヲ散ジ葬送ヲ辨ジ畢テ退キシト其行率斯ノ若シ


  (注) 1.  上記の本文は、国立公文書館デジタルアーカイブ所収の『甲子夜話続篇』巻十六によりました。
 → 国立公文書館デジタルアーカイブ
  →『甲子夜話続篇』巻十六・十七・十八
  → 続篇巻十六8~9/96)

   
    2. 『未刊甲子夜話 第一』巻之三の「上総屋今助が事」が資料691にあります。
 → 資料691『未刊甲子夜話 第一』巻之三「上総屋今助が事」

   
    3.  資料692に、うなぎ飯の始並に蒲焼の事(『俗事百工起源』より)があります。
 → 資料692 うなぎ飯の始並に蒲焼の事(『俗事百工起源』より)

   
    4.  上総屋今助は、鰻丼・鰻重の発明者・大久保今助として知られている人物です。ネット上には「大久保今助」についての記述がいろいろ出ています。
   
5.  龍ケ崎市観光物産協会のホームページに、「うな丼発祥の地 龍ケ崎市の牛久沼(市内うな丼専門店一覧)」のページがあり、そこに「うな丼誕生の秘密」「龍ケ崎は、うな丼発祥の地」という紹介が出ています。
 → 龍ケ崎市観光物産協会
  →「うな丼発祥の地 龍ケ崎市の牛久沼(市内うな丼専門店一覧)」
    6.  歌舞伎座のホームページに、「四季で楽しむ江戸グルメ」の一つとして「うな丼の誕生と芝居町」があって、そこで大久保今助が紹介されています。
 → 歌舞伎座「四季で楽しむ江戸グルメ」
  →「うな丼の誕生と芝居町」

   
    7.   『レファレンス協同データベース』に、「うな丼の発祥の地はどこか知りたい」という質問とその回答がでていて参考になります。
 →『レファレンス協同データベース』
  →「うな丼の発祥の地はどこか知りたい」
   
    8.  2025年(令和7年)6月17日の茨城新聞の「時論」の欄に、長山靖生氏が「「文化資産」の再評価を」という題で「鰻丼を生んだ大久保今助」のことを紹介しておられます。
 そこに、「暑い盛りに鰻を食べる習慣が一般化したのは安永・天明(1772~89年)の頃、(中略)安永・天明年間の蒲焼は、皿に盛られて単品で出されていた。御飯と同じ器に盛る鰻丼・鰻重が生まれたのは文化年間で、そこには常陸国出身の大久保今助(1757~1834)が大きく関わっている。」とあって、以下、大久保今助のことが紹介されています。

   
    9.  Wikipedia(ウィキペディア)に「大久保今助」の項があります。
 → Wikipedia(ウィキペディア)
  →「大久保今助」
   
           










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