(注) | 1. |
上記の『俗事百工起源』の本文は、国立国会図書館デジタルコレクション所収の『未刊随筆百種 第三』(三田村鳶魚校訂、山田清作編輯兼発行、米山堂・昭和2年6月20日発行)によりました。 → 国立国会図書館デジタルコレクション →『未刊随筆百種 第三』 →『俗事百工起源』 → うなぎ飯の始並に蒲燒の事(131/255) |
|||
2. |
〇本文に出ている「鱣」の漢字は、ここでは「うなぎ」と読ませているのだろうと思います。手元の辞書には次のように出ていました。 「鱣」=音「テン、セン、ゼン」。 訓「ちょうざめ、たうなぎ、かわへび」 〇「飪にて用ひし」の「飪」は、音:じん、にん。意味:にる。しんがとおって柔らかくなるまで、食物をにる。また、にかた。にえかた。 |
||||
3. |
2025年(令和7年)6月17日の茨城新聞の「時論」の欄に、長山靖生氏が「「文化資産」の再評価を」という題で「鰻丼を生んだ大久保今助」のことを紹介しておられます。 そこに、「暑い盛りに鰻を食べる習慣が一般化したのは安永・天明(1772~89年)の頃、(中略)安永・天明年間の蒲焼は、皿に盛られて単品で出されていた。御飯と同じ器に盛る鰻丼・鰻重が生まれたのは文化年間で、そこには常陸国出身の大久保今助(1757~1834)が大きく関わっている。」とあって、以下、大久保今助のことが紹介されています。 |
||||
4. |
龍ケ崎市観光物産協会のホームページに、「うな丼発祥の地 龍ケ崎市の牛久沼(市内うな丼専門店一覧)」のページがあり、そこに「うな丼誕生の秘密」「龍ケ崎は、うな丼発祥の地」という紹介が出ています。 → 龍ケ崎市観光物産協会 →「うな丼発祥の地 龍ケ崎市の牛久沼(市内うな丼専門店一覧)」 |
||||
5. |
『レファレンス協同データベース』に、「うな丼の発祥の地はどこか知りたい」という質問とその回答がでていて参考になります。 →『レファレンス協同データベース』 →「うな丼の発祥の地はどこか知りたい」 |
||||
6. | Wikipedia(ウィキペディア)に「大久保今助」の項があります。 → Wikipedia(ウィキペディア) →「大久保今助」 |