資料692 うなぎ飯の始並に蒲焼の事(『俗事百工起源』より)




        うなぎ飯の始並に蒲燒の事
               
『俗事百工起源』より


うなぎ飯の始は文化年中、堺町芝居金主大久保今助より始る、此の今助は昔は至て輕き者の方に勤めしが、其身頴悟なる故、何事によらず氣轉拔群の者故、段々都合宜敷、終に芝居の金主と迄になれども、其身は少しも驕慢の心なく、常に綿服を著し、藁草履にて外見に不拘、されども狂言當り大入毎に直樣役者は勿論茶屋始め木戸番、其外芝居出方の者迄殘なく祝儀差出す、斯る氣質故、實に飛ぶ鳥も落る位の勢なりしと云ふ、前文の如く少しも奢心なく日々自身芝居に出る、此今助常に鱣を好み、飯毎に用ふれども百文より餘分に用ひしことなしと、いつも芝居へ取寄用ひし故、燒さましに成しをいとひて、今助の工夫にて、大きなる丼に飯とうなぎを一處に入交ぜ、蓋をなして飪にて用ひしが、至て風味よろしとて、皆人同じく用ひしが始なりと云ふ、今は何れの鱣屋にても丼うなぎ飯の看板のなき店はなしと云ふ、右故うなぎめしは百文に限りし處、當時は二百文より三百文となりしと或人予に語りぬ、
 因に云ふ鱣蒲燒文字の事、近頃印板傍廂と云へる書に曰く、昔蒲燒は鱣の口より尾迄竹串を通して鹽燒にしたるなり、今の魚田樂の類なり、今は脊よりひらき竹串さして燒なり、昔のより遙にまさりて無双の美味なり、其圖、
   (ここに蒲の穂の図あり)
      蒲の穂
   (ここに蒲燒の図あり)
  蒲燒の圖、蒲の穂に似たる故、蒲燒と云ふ、
右文化元年より當丑年迄六十三年となる、



  (注) 1.  上記の『俗事百工起源』の本文は、国立国会図書館デジタルコレクション所収の『未刊随筆百種 第三』(三田村鳶魚校訂、山田清作編輯兼発行、米山堂・昭和2年6月20日発行)によりました。
 → 国立国会図書館デジタルコレクション
  →『未刊随筆百種 第三』
  →『俗事百工起源』
  → うなぎ飯の始並に蒲燒の事131/255)

   
    2.  〇本文に出ている「鱣」の漢字は、ここでは「うなぎ」と読ませているのだろうと思います。手元の辞書には次のように出ていました。 
  「鱣」=音「テン、セン、ゼン」。
      訓「ちょうざめ、たうなぎ、かわへび」
 〇「飪にて用ひし」の「飪」は、音:じん、にん。意味:にる。しんがとおって柔らかくなるまで、食物をにる。また、にかた。にえかた。

   
    3.  2025年(令和7年)6月17日の茨城新聞の「時論」の欄に、長山靖生氏が「「文化資産」の再評価を」という題で「鰻丼を生んだ大久保今助」のことを紹介しておられます。
 そこに、「暑い盛りに鰻を食べる習慣が一般化したのは安永・天明(1772~89年)の頃、(中略)安永・天明年間の蒲焼は、皿に盛られて単品で出されていた。御飯と同じ器に盛る鰻丼・鰻重が生まれたのは文化年間で、そこには常陸国出身の大久保今助(1757~1834)が大きく関わっている。」とあって、以下、大久保今助のことが紹介されています。

   
    4.  龍ケ崎市観光物産協会のホームページに、「うな丼発祥の地 龍ケ崎市の牛久沼(市内うな丼専門店一覧)」のページがあり、そこに「うな丼誕生の秘密」「龍ケ崎は、うな丼発祥の地」という紹介が出ています。
 → 龍ケ崎市観光物産協会
  →「うな丼発祥の地 龍ケ崎市の牛久沼(市内うな丼専門店一覧)」

   
    5. 『レファレンス協同データベース』に、「うな丼の発祥の地はどこか知りたい」という質問とその回答がでていて参考になります。
 →『レファレンス協同データベース』
  →「うな丼の発祥の地はどこか知りたい」
   
    6.  Wikipedia(ウィキペディア)に「大久保今助」の項があります。
 → Wikipedia(ウィキペディア)
  →「大久保今助」
   

 


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