815 武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曾 烏梅乎乎岐都〃 多努之岐乎倍米 大貳紀卿 816 烏梅能波奈 伊麻佐家留期等 知利須義受 和我覇能曾能尒 阿利己世奴加毛 小貳小野大夫 817 烏梅能波奈 佐吉多留僧能〃 阿遠也疑波 可豆良尒須倍久 奈利尒家良受夜 小貳粟田大夫 818 波流佐礼婆 麻豆佐久耶登能 烏梅能波奈 比等利美都〃夜 波流比久良佐武 筑前守山上大夫 819 余能奈可波 古飛斯宜志惠夜 加久之阿良婆 烏梅能波奈尒母 奈良麻之勿能怨 豊後守大伴大夫 820 烏梅能波奈 伊麻佐可利奈理 意母布度知 加射之尒斯弖奈 伊麻佐可利奈理 筑後守葛井大夫 821 阿乎夜奈義 烏梅等能波奈乎 遠理可射之 能弥弖能〃知波 知利奴得母與斯 笠沙弥 822 和何則能尒 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母 主人 823 烏梅能波奈 知良久波伊豆久 志可須我尒 許能紀能夜麻尒 由企波布理都〃 大監伴氏百代 824 烏梅乃波奈 知良麻久怨之美 和我曾乃〃 多氣乃波也之尒 于具比須奈久母 小監阿氏奥嶋 825 烏梅能波奈 佐岐多流曾能〃 阿遠夜疑遠 加豆良尒志都〃 阿素毗久良佐奈 小監土氏百村 826 有知奈毗久 波流能也奈宜等 和我夜度能 烏梅能波奈等遠 伊可尒可和可武 大典史氏大原 827 波流佐礼婆 許奴礼我久礼弖 宇具比須曾 奈岐弖伊奴奈流 烏梅我志豆延尒 小典山氏若麿 828 比等期等尒 乎理加射之都〃 阿蘇倍等母 伊夜米豆良之岐 烏梅能波奈加母 大判事丹氏麿 829 烏梅能波奈 佐企弖知理奈波 佐久良婆那 都伎弖佐久倍久 奈利尒弖阿良受也 藥師張氏福子 830 萬世尒 得之波岐布得母 烏梅能波奈 多由流己等奈久 佐 吉和多流倍子 筑前介佐氏子首 831 波流奈例婆 宇倍母佐枳多流 烏梅能波奈 岐美乎於母布得 用伊母祢奈久尒 壹岐守板氏安麿 832 烏梅能波奈 乎利弖加射世留 母呂比得波 家布能阿比太波 多努斯久阿流倍斯 神司荒氏稻布 833 得志能波尒 波流能伎多良婆 可久斯己曾 烏梅乎加射之弖 多努志久能麻米 大令史野氏宿奈麿 834 烏梅能波奈 伊麻佐加利奈利 毛〃等利能 己惠能古保志枳 波流岐多流良斯 小令史田氏肥人 835 波流佐良婆 阿波武等母比之 烏梅能波奈 家布能阿素毗尒 阿比美都流可母 藥師高氏義通 836 烏梅能波奈 多乎利加射志弖 阿蘇倍等母 阿岐太良奴比波 家布尒志阿利家利 陰陽師礒氏法麿 837 波流能努尒 奈久夜汙隅比須 奈都氣牟得 和何弊能曾能尒 汙米何波奈佐久 笇師志氏大道 838 烏梅能波奈 知利麻我比多流 乎加肥尒波 宇具比須奈久母 波流加多麻氣弖 大隅目榎氏鉢麿 839 波流能努尒 紀理多知和多利 布流由岐得 比得能美流麻提 烏梅能波奈知流 筑前目田氏眞上 840 波流楊那宜 可豆良尒乎利志 烏梅能波奈 多礼可有可倍志 佐加豆岐能倍尒 壹岐目村氏彼方 841 于遇比須能 於登企久奈倍尒 烏梅能波奈 和企弊能曾能尒 佐伎弖知留美由 對馬目高氏老 842 和我夜度能 烏梅能之豆延尒 阿蘇毗都〃 宇具比須奈久毛 知良麻久乎之美 薩摩目高氏海人 843 宇梅能波奈 乎理加射之都〃 毛呂比登能 阿蘇夫遠美礼婆 弥夜古之叙毛布 土師氏御道 844 伊母我陛迩 由岐可母不流登 弥流麻提尒 許〃陀母麻我不 烏梅能波奈可毛 小野氏國堅 845 宇具比須能 麻知迦弖尒勢斯 宇米我波奈 知良須阿利許曾 意母布故我多米 筑前拯門氏石足 846 可須美多都 那我岐波流卑乎 可謝勢例杼 伊野那都可子岐 烏梅能波那可毛 小野氏淡理 |
お断り:平仮名の「こ」をつぶした形の繰り返し符号は、「〃」で代用しました。 数字は『国歌大観』による歌番号です。 |
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(注) | 1. |
上記の原文の本文は、日本古典文学大系 5 『万葉集二』(高木市之助・五味智英・大野晋 校注、岩波書店・昭和34年初版)に拠りました。 〔注〕序にある「請紀落梅之篇」の「請」について 日本古典文学大系5『萬葉集二』(岩波書店、1959年発行)では、底本「西本願寺本」にある「詩紀落梅之篇」を、細井本によって「請紀落梅之篇」と直して「請ふ落梅の篇を紀(しる)さむ」と読んでいますが、新日本古典文学大系1『萬葉集一』(佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之 校注、岩波書店・1999年5月20日第1刷発行)では、「ここで「落梅の篇を作れ」というのは前触れのない唐突な表現となる。また「篇」はもとより文章や詩について言う語であって、歌を指す例は万葉集には見られない。古楽府「梅花落」を例示した上で、梅を愛するのは古今に変わらぬ情だから、今は梅を詠む歌を作ろうと説くのである」として、本文を底本「西本願寺本」にある通り「詩紀落梅之篇」のままにして、「詩に落梅の篇を紀(しる)す」と読み、「詩には落梅の篇を作るが」と訳してあります。 |
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2. | これは、2019年の新元号「令和」の出典です。元号は、「初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香(初春の令月にして、氣淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(かう)を薫ず)」の部分から採られています。 → 資料576「元号「令和」の出典・『万葉集 巻第五』梅花の歌三十二首 序を并せたり の序」を参照してください。 日本古典文学大系 5 『万葉集二』の頭注には、「令月はよい月。初春正月をほめていう」とあります。『万葉集』では、令月は正月をさして言っています。 令月(れいげつ)=①万事をなすのによい月。めでたい月。和漢朗詠集「嘉辰─」②陰暦二月の異称。(『広辞苑』第7版による。) |
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3. | 天平二年正月十三日に、大宰府の帥・大伴旅人(当時66歳)が邸宅で宴会を開いた時に詠まれた32首の梅の花の歌の序です。 日本古典文学大系『万葉集二』の頭注に、「この序の作者については、大伴旅人説、山上憶良説、某官人説などがある。序の文章構成は、王羲之の蘭亭集序のほかに唐詩の詩序をもまねている」とあります。 中西進氏は、その著『万葉集 全訳注 原文付』(一)(講談社文庫、昭和53年8月15日第1刷発行)の脚注に、「序の筆者は旅人」と書いておられます。 新日本古典文学大系1『万葉集一』(佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之 校注、岩波書店・1999年5月20日第1刷発行)の脚注には、「「帥老」は当時66歳であった大宰帥大伴旅人の自称。旅人自身が、序を作り、歌を配列したものであろう。旅人以外の人の作だとすると、822の旅人の歌の作者名注記が「主人」であって「主人卿」でないことの説明が難しい。序の作者を山上憶良とする説があるが、818の憶良の歌の作者名「筑前守山上大夫」は他称である」とあり、序の作者は大伴旅人だとしてあります。 また、万葉集「梅花謌卅二首幷序」の序の「初春令月、氣淑風和」の部分について、後漢の張衡(張平子)の「歸田賦」(『文選』巻十五所収)に、「於是仲春令月、時和氣清。」(是(ここ)に於て仲春令月、時和し氣清し。)とある由です。 (引用者注:「歸田賦」には、「仲春令月」とあって、この「令月」は陰暦二月のことです。) この「歸田賦」のことは、伊藤博著『萬葉集釋注』三(集英社、1996年5月20日発行)や新日本古典文学大系1『萬葉集一』(佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之 校注、岩波書店・1999年5月20日第1刷発行)などでも触れてあります。 伊藤博著『萬葉集釋注』三 ── 令月にして…「令月」は善き月。ここは正月をほめていったもの。『文選』巻十五帰田賦にも「是(ここ)ニ仲春ノ令月ニシテ、時和(やわら)カニ気清(す)メリ。」(於是仲春令月、時和気清)とある。また、「蘭亭集序」にも、「是ノ日ヤ、天朗カニ気清(す)ミ、恵風和暢(けいふうわちょう)セリ」(是日也、天朗気清、恵風和暢)とある。(同書、85頁) 新日本古典文学大系1『萬葉集一』 ── 「令月」は「仲春令月、時和し気清らかなり」(後漢・張衡「帰田賦」・文選十五)とある。(同書、529頁) → 資料577 張平子「歸田賦」(『文選』所収) |
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4. | 「令」には、「①命じる。②命令。「軍令」③教え。戒め。④法律。「法令」⑤長官。「県令」⑥善い。清らかで美しい。「令名」▽他人の妻・兄弟姉妹・子女に対する敬称としても用いられる。「令室」「令兄」「令妹」「令嬢」。⑦使役の助字。」などの意味があります。 元号に用いられた「令」は、勿論「善い」「清らかで美しい」の意味です。 〔「令」については、『角川 新字源』(昭和43年初版発行、昭和55年149版発行)・『改訂新版 漢字源』(学研・2002年改訂新版発行)などを参考に記述しました。〕 |
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