野内浮石(太春)が50歳の時に、妻が亡くなりました。江戸時代中期の宝暦12年(1762)4月11日のことです。 太春は詩を作って妻の死を悼みました。いわゆる悼亡詩と言われるものです。その詩が妻の墓石に刻んであります。 |
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(注) | 1. | 「悼亡」という言葉について、『旺文社漢和辞典』(赤塚忠・阿部吉雄編。改訂新版、1986年10月20日発行)には、「【悼亡】 妻の死をいたみ悲しむ。晋の潘岳(はんがく)が亡妻のために「悼亡詩」を作ったことによる。」と出ています。 | |||
2. | 野内浮石については、資料269「野内浮石の寿蔵碑について」を参照してください。 → 資料269「野内浮石の寿蔵碑について」 |
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3. | 晋の詩人・潘岳(はんがく)は、悼亡詩や秋興賦などで知られ、また美男としても有名で、潘岳が弾き弓を持って洛陽の道を歩くと、彼に出会った女性はみな手を取り合って彼を取り囲み、彼が車に乗って出かけると、女性達が果物を投げ入れ、帰る頃には車いっぱいになっていたといいます。 → フリー百科事典『ウィキペディア』の「潘岳」の項を参照。 |
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4. |
『晋書』潘岳伝(『晋書』巻55 列伝第25 夏侯湛、潘岳、張載)に、次のようにあります。
岳美姿儀、辭藻絶麗、尤善爲哀誄之文。少時常挾彈出洛陽道、婦人遇之者、皆聯手縈繞、投之以果、遂滿車而歸。時張載甚醜、毎行、小兒以瓦石擲之、委頓而反。 |
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5. |
潘岳の「悼亡詩」が、資料565にあります。 → 資料565 潘岳の「悼亡詩」 |
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