資料565 潘岳の「悼亡詩」   




        悼亡詩 三首      潘 安 仁


晋の詩人・潘岳(はんがく)は、字を安仁(あんじん)
といい、妻楊氏の死を悼んだ 「悼亡詩」で知られてい
ます。その「悼亡詩」三首を『文選』から引用します。



   
悼亡詩 三首

荏苒冬春謝   寒暑忽流易
之子歸窮泉 重壤永幽隔
私懷誰克從 淹留亦何益
僶俛恭朝命 廻心反初役
望廬思其人 入室想所歴
帷屏無髣髴 翰墨有餘跡
流芳未及歇 遺挂猶在壁
悵怳如或存 周遑忡驚惕
如彼翰林鳥 雙栖一朝隻
如彼遊川魚 比目中路析
春風縁隟來 晨霤承檐滴
寢興何時忘 沈憂日盈積  
庶幾有時衰 莊缶猶可撃

皎皎窓中月 照我室南端
清商應秋至 溽暑隨節闌
凜凜涼風升 始覺夏衾單
豈曰無重纊 誰與同歳寒
歳寒無與同 朗月何朧朧
展轉眄枕席 長簞竟牀空
牀空委清塵 室虚來悲風
獨無李氏靈 髣髴覩爾容
撫衿長歎息 不覺涕霑胸
霑胸安能已 悲懷從中起
寢興目存形 遺音猶在耳
上慙東門呉 下愧蒙莊子
賦詩欲言志 此志難具紀
命也可奈何 長戚自令鄙

曜靈運天機 四節代遷逝
淒淒朝露凝 烈烈夕風厲
奈何悼淑儷 儀容永濳翳
念此如昨日 誰知已卒歳
改服從朝政 哀心寄私制
茵幬張故房 朔望臨爾祭
爾祭詎幾時 朔望忽復盡
衾裳一毀撤 千載不復引
亹亹朞月周 戚戚彌相愍
悲懷感物來 泣涕應情隕
駕言陟東阜 望墳思紆軫
徘徊墟墓閒 欲去復不忍
徘徊不忍去 徙倚歩踟蹰
落葉委埏側 枯荄帶墳隅
孤魂獨焭焭 安知靈與無
投心遵朝命 揮涕強就車
誰謂帝宮遠 路極悲有餘

 ※1首目の「寢興」…李善注本は「寢息」。玉台新詠に従う。


    1.  上記の「悼亡詩」は、新釈漢文大系14『文選(詩篇)上』(内田泉之助・網祐次著、明治書院・昭和38年10月30日初版発行・昭和46年8月30日9版発行)によりました。         
    2.  新釈漢文大系『文選(詩篇)上』には、返り点のついた本文と、書き下し文、通釈、語釈がついていますが、ここでは返り点その他は省略しました。 (なお、注9に挙げた齋藤希史氏の論文「潘岳『悼亡詩』論」に、齋藤氏によるものと思われる書き下し文が出ていて参考になります。)
 なお、新釈漢文大系本では、「悼亡詩」を「悼亡の詩」と「の」を入れて読んでいます。
   
    3.  「悼亡」という言葉について、『旺文社漢和辞典』(赤塚忠・阿部吉雄編。改訂新版、1986年10月20日発行)には、
「【悼亡】 妻の死をいたみ悲しむ。晋の潘岳 (はんがく)が亡妻のために「悼亡詩」を作ったことによる。」
と出ています。
   
    4.   潘岳(はんがく)=晋の詩人。字は安仁。栄陽中牟(河南中牟)の人。給事黄門侍郎などの官を歴任。陸機とともに潘陸と並称される。「悼亡詩」のほか、「秋興賦」「西征賦」などを「文選」に収める。(247-300)(『広辞苑』第7版による。)
 

 妻の楊氏は、東武戴侯・楊肇の娘。潘岳の「懐旧賦」に、「余十二而獲見于父友東武戴侯楊君、始見知名、遂申之以婚姻」とあります。(「懐旧賦」は、 新釈漢文大系81『文選(賦篇)下』に入っています。)       
   
    5.  晋の詩人・潘岳(はんがく)は、悼亡詩や秋興賦などで知られ、また美男としても有名で、潘岳が弾き弓を持って洛陽の道を歩くと、彼に出会った女性はみな手を取り合って彼を取り囲み、彼が車に乗って出かけると、女性達が果物を投げ入れ、帰る頃には車いっぱいになっていたといいます。 
 → フリー百科事典『ウィキペディア』「潘岳」の項を参照。
   
    6.  『晋書』潘岳伝(『晋書』巻55 列伝第25 夏侯湛、潘岳、張載)に、次のようにあります。 
岳美姿儀、辭藻絶麗、尤善爲哀誄之文。少時常挾彈出洛陽道、婦人遇之者、皆聯手縈繞、投之以果、遂滿車而歸。時張載甚醜、毎行、小兒以瓦石擲之、委頓而反。  
   
    7.  『世説新語』の「容止第十四」には、次のようにあります。(新釈漢文大系78 『世説新語 下』(目加田誠著、明治書院・昭和53年8月25日初版発行)による。) 
 潘岳妙有姿容、好神情。少時、挾彈出洛陽道、婦人遇者、莫不連手共縈之。左太沖絶醜。亦復效岳遊遨。於是群嫗齊共亂唾之、委頓而返。
   
    8. 「以果擲之」(潘岳が車に乗って出かけると、女性達が果物を投げ入れたということ)について、『世説新語 下』の語釈に、次のようにあります。(同書、766頁)
 聞一多氏は、この潘岳の逸話(但し『晋書』潘岳伝を引く)を、擲果(てきか)の風習のなごりであると考えた。聞氏の説によれば、古代の風俗に次のようなことがあったという──果実の熟する夏の日に、収穫の祭りがある。その時、人々は果樹園の中に集まり、男女が分かれて立ち、女は果物を取って思う人に投げつける。あたった者は、佩玉などを贈って夫婦の契りを結ぶ。その風習のあらわれが、『詩経』召南の「摽有梅」であり、衛風の「木瓜」であろう、と。
 つまり、“果物を投げつける”という行為は、女が思う男に果物を投げつける、という古代の習俗に連なる意味が含まれているとするのである。(「詩経通義」摽有梅の条、『聞一多全集』乙集所収。) 

注 : 『詩経』 召南の「摽有梅」と衛風の「木瓜」

    摽有梅         木 瓜
摽有梅  其實七兮   投我以木瓜 報之以瓊琚
求我庶士  迨其吉兮    匪報也 永以爲好也
                  
摽有梅  其實三兮   投我以木桃 報之以瓊瑤
求我庶士  迨其今兮    匪報也 永以爲好也

摽有梅  頃筐墍之   投我以木李 報之以瓊玖
求我庶士  迨其謂之    匪報也 永以爲好也
   
9.  齋藤希史氏(現在・東京大学人文社会系研究科教授)が、嘗て1988年10月発行の京都大学中國文學會発行の『中國文學報』第三十九册に発表された「潘岳『悼亡詩』論」を読むことができます。
 → 齋藤希史「潘岳『悼亡詩』論」(『中國文學報』第三十九册)
    10.  opera (大阪府立大学学術情報リポジトリ)に、林雪云氏の博士論文 「北宋の文学者梅堯臣・曾鞏・蘇軾の妻に対する観念」があって、その序論に次のようにあります。
 悼亡文学、つまり亡くなった人を悼む文学は、『詩経』までさかのぼれるが、晋の潘岳の「悼亡詩三首」(『文選』巻23)以来、「悼亡詩」はもっぱら亡くなった妻を悼む作品を指すようになった。潘岳以後、悼亡詩は作りつづけられ、佳作も少なくなかったが、唐代中期すなわち中唐以後になると、量的にも質的にも悼亡詩は発展した。たとえば韋応物、元稹、李商隠などの悼亡詩は、その代表的なものである。こうした歴代の悼亡詩については、すでにいくつかの論考が発表されている。そして、北宋に至ると、南宋の劉克荘に宋詩の「開祖」と言われた梅堯臣に、大量の悼亡詩を見ることができる。(以下、略)
   
    11. 上に挙げたものを含めて、参考書をいくつか挙げておきます。
 〇新釈漢文大系14『文選(詩篇)上』 内田泉之助・網祐次著、明治書院・昭和38年10月30日初版発行・昭和46年8月30日9版発行
 〇『漢魏六朝の詩 下』 石川忠久編著、明治書院・2009年11月10日発行
 〇中国詩文選〈10〉『潘岳・陸機』興膳宏著、筑摩書房・1973年発行
 〇『髙橋和巳作品集 第9』中国文学論集、河出書房新社・1972年発行      
   
    12.  潘岳が亡妻を悼んで書いたとされる作品には、上に掲げた「悼亡詩」の他に、「悼亡賦」「哀永逝文」があります。それらを資料566 潘岳「悼亡賦」「哀永逝文」に収めましたので、ご覧ください。
 → 資料566 潘岳「悼亡賦」「哀永逝文」
   





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