資料269 野内浮石の寿蔵碑について  



 

      野内浮石の寿蔵碑について

 
江戸時代中期、常陸国久慈郡相川村に、野内浮石という詩人がいました。著作として、漢詩集『浮石詩草』5冊、『護鷄集』3冊などがありましたが、『浮石詩草』の彰考館蔵本は昭和20年の戦災で焼失してしまったということです。また、『護鷄集』も残っていないようです。
   『浮石詩草』は、『彰考館圖書目録』巻十一 辰部(詩文)に、
       浮石詩草  埜太春 稿 (冊數)五 (番號)四 (寫刊)寫
『國書總目録 第七巻』に、
       浮石詩草 五冊 漢詩。埜太春・著。写本。旧彰考館。
 として書名が出ています。
  なお、野内浮石の遺族が所持していた『浮石詩稿』(前出の『浮石詩草』との関係は不明)を、昭和9年に岡澤慶三郎氏が書写したものが、茨城県立歴史館所蔵の『立原翠軒伝資料 15』の中に記録されています。
(注の10に記したように、資料531に野内太春著「浮石詩稿」があります。)
  野内浮石の経歴を知るために、ここに寿蔵碑の碑文を写しておきます。

  


 



        
野内浮石
の寿蔵碑
 

 

 

 

(碑表)
         
 湘江野太春居士
 

 

 

 

(右側面)
  野太春字子陽號湘江自幼甘心爲世棄物且有志于學稍長知
  一經勝於贏金父從其所好不責其他盖亦適意而已而且遂師
  事藩儒岡先生先生時敎喩曰汝勉旃東都斯文之盛也豈獨遠
  千里乎則更謁南郭服先生亡何亦歸養獨自若也元文中辛遇
  長者之無遺特與郷士並而優游耘耔之間實餘澤哉一日顧

  以爲日月逝矣人之寓乎世復幾時嗚呼令我之後追遠不相忘
  者何歟而今年寛延辛未自書姓名刻石則亦唯僅成爾志已

  春也豈傚古人好爲後世名者哉因亦自識乎爾
寛延四年□□
 

 

 

 

(左側面) 
    天明五乙巳年八月六日
         逝年七十三

 

 

  

(碑陰)
      元文年中亡父格式被仰付候節之御書附写      

 

 

 

     相川村次郎衛門次男

 

 

 

                      兵八

 

 

 

  一、右之者學問心懸才力茂有之由相聞百姓躰ニ者
    別而奇特成事ニ候条郷士並可申付者也 
 

 

  (注) 1.  この野内浮石の寿蔵碑「湘江野太春居士」の碑文は、秋山高志氏の「在郷の文人たち──野内浮石・黒崎洗心を主に──」(『常総の歴史』 №29、平成15年7月)に掲載されている碑の本文をもとに、知人に頂いた碑文の写真と照合して記述しました。
    
寿蔵(じゅぞう)=存命中に建てておく墓。寿冢(じゅちょう)(『広辞苑』第6版による。)

 「在郷の文人たち──野内浮石・黒崎洗心を主に──」は、後に『在郷之文人達 近代之予兆』(那珂書房、2011年6月1日初版第1刷発行)に収録されました。
   
    2.  碑が寛延4年(1751)に建てられたものであるため、碑文の一部に読み取りにくいところがあり、引用者が誤って読み取って記述してある個所があるかもしれないことを、お断りしておきます。    
    3.  野内浮石は、正徳3年(1713)生まれ。碑文に記してあるように、諱は太春。字は、子陽。湘江、浮石、と号し、また吾止叟とも称したようです。俗称、兵八。服部南郭に学び、南郭亡きあとは郷里に帰り、農耕の傍ら詩文に耽り、悠々自適の生活を送ったようです。天明5年(1785)8月6日没、享年73。法名は、儒達院博彦徧碩居士。     
    4.  この碑は、寛延4年(1751)、浮石が39歳の時に建てた寿蔵碑です。
 [右側面]の本文は、1行25字、全8行で、最終行は19字なので、碑文の字数は全部で194字(25×8-6=194)ということになります。5行目と7行目の行末の文字が読み取れません。([右側面]とは、碑の右側、つまり、碑に向かって左側の面のことです。)
 なお、最終行の末尾に、小さく「寛延四年□□」とあります。
   
    5.  上に掲げた碑文の改行は、碑文の通りにしてあります。    
    6.  本文中の「一經勝於贏金」は、漢書・韋賢伝に「鄒魯諺曰、遺子黄金滿籯、不如一經」(「鄒魯、遺2スハ黄金滿籯1ヲ、不2カ一經1ニ」鄒魯(すうろ)の諺に曰く、子に黄金滿籯(まんえい)を(のこ)すは、一經(いつけい)に如(し)かず。)とあります。(籯エイは、物を入れておく竹で作ったかご。)〔孔子の生地(魯)と孟子の生地(鄒)に、「遺子黄金滿籯、不如一經」という諺(ことわざ)が伝えられている。
 碑の本文にある「贏」(余り、利益)は、「籯」に通じて用いられたものと思われます。 
   
    7.  野内浮石の寿蔵碑に、「師事藩儒岡先生」とある「岡先生」とは、岡井嵰州(名は、孝先)のことでしょうか。
 岡井嵰州(おかい・けんしゅう)=元禄15年(1702)-明和2年(1765)。名は、孝先。字は、仲錫。高松藩の儒者・岡井氷室の次男。若くして徂徠門の俊才と言われた。享保9年(1724)、22歳のとき徂徠の推薦で水戸藩に仕え、彰考館に入る。享保12年(1727)、彰考館が水戸に移るに伴い、水戸に移る。享保18年(1733)、高松藩に仕えていた兄が没したため、岡井家の家督を継ぎ、高松藩に移る。宝暦13年(1763)、致仕。明和2年(1765)、没す。享年、64。著書に『琴経』『世説逸』等があるというが、今は伝わらない。没後、明和6年(1769)、詩集『嵰州遺稿』が板行された。『嵰州文稿』は、『嵰州遺稿』をもとに、多くの詩と序跋記銘牘等を5巻にまとめた稿本である。
(お断り:「岡井嵰州」の項は、秋山高志著『水戸の文林』(那珂書房、2015年7月15日初版第1刷発行)によって引用者がまとめたものです。詳しくは、同書35~36頁を参照してください。) (2015年9月18日付記)
    なお、『嵰州遺稿』は、国立公文書館デジタルアーカイブで、画像で見ることができます。
             (2019年6月2日付記)
 国立公文書館デジタルアーカイブ
  → 
嵰州遺稿 

 岡井嵰州が水戸にいた期間が享保9年(1724)~享保18年(1733)だとすると、浮石が15歳~21歳の時ということになりますが、果たして「藩儒岡先生」は岡井嵰州のことでしょうか。
   
    8.  「在郷の文人たち─野内浮石・黒崎洗心を主に─」の中で、秋山高志氏は、浮石 の号の由来についての、浮石の次の詩を紹介しておられます。
      浮石歌  (吾止叟自號浮石)
  白石江頭白石浮  昔人已入白雲遊
  由來此地求仙好  獨笑江頭漁父舟
 (この詩も、『
立原翠軒伝資料15』に記載されている『浮石詩稿』に収められています。)        
 

 このことに関連して、
京都大学電子図書館の中に収めてある『仙仏奇踪』(『僊仏奇踪』)という本に、爾朱洞(字・微通、号・歸元子)という人の話として、次のようなことが出ています。
(前略)洞賣丹藥毎一粒要錢十二萬時有某太守欲買之曰太守金多非一百二十萬不可太守以爲移言惑衆命納之竹籠沉於江中至涪陵上流二漁人乘舟而漁擧綱出之乃洞也漁曰此必異人入定乎扣銅缶寤之少頃洞開目問漁人曰此去銅梁幾何有三都乎漁人曰我白石江人此去銅梁四百里自是而東即豐都縣平都山仙都觀也洞曰吾師謂吾遇三都白石浮水乃仙去殆比地耶洞既登岸語二漁人曰視子類有道者亦有所傳乎二漁曰我昔從海上仙人得三一之旨煉陽修陰亦有年矣洞於是索酒與劇飲取丹分餌之至茘枝園中三人昇雲而去
二漁人附
 
 ※ 「殆比地耶」とあるのは、あるいは「殆此地耶」かとも思われますが、原文のままにしてあります。また、最後の「二漁人附」の4字は、1行に小さく2行に書いてあります。
 なお、爾朱洞の字「微通」は、『十國春秋』やその他の記述では「通微」となっているようです。
   
    9.  この 『仙仏奇踪』(『僊仏奇踪』)という本は、京都大学電子図書館の中で、画像 によって読む(見る)ことができます。(表紙には『仙佛奇踪』とありますが、扉には『僊佛奇踪』となっています。京都大学電子図書館では「僊仏奇踪」という名前で登録してあるそうです。)
 京都大学電子図書館
  → 貴重資料画像
  → かんたん検索に「僊仏奇踪」と入力して検索

  → 「1 [近衛:画像] 僊仏奇踪」
  → 右の「本の絵」
  →  [仙仏奇踪] の1をクリック

  → [1,128/140] へ
  → 
歸元子 [1,128~129 /140]
   
    10.  資料531に「野内太春著「浮石詩稿」」があります。
 資料537に「野内太春著「浮石詩稿」注(暫定)」があります。
   
    11.  野内浮石は、第3代月居城主・野内隼人佐の三男・野内刑部の6代目の子孫にあたる人物とのことです。    
    12.  長久保赤水が長崎に居留していた清国人と交換した漢詩を記録した『清槎唱和集』の跋文を、 「明和五年戊子春三月 湘江野太春撰」として野内浮石が書いています。
 ただし、明和五年版には、
  清槎唱和序……明和五秊戊子春正月  松江 盧玄淳識
  清槎唱龢跋……明和五年戊子春三月  湘江 野太春撰 
   (龢は、和の異体字)
となっているものが、安永三年版、寛政四年版には、
  清槎唱和序……安永三年甲午秋九月  平安皆川愿拜撰并書 
  清槎唱和序……明和五秊戊子春正月  松江 盧玄淳識  
となって、皆川愿(皆川淇園)の序が新たに載せられ、野太春(野内太春)の跋文が削除されて、盧玄淳(鈴木玄淳)の序が跋文の位置に置かれています。

 (参考)
『長久保赤水顕彰会』のホームページがあります。
   
    13.  参考書
 〇秋山高志 「在郷の文人たち─野内浮石・黒崎洗心を主に─」
(『常総の歴史』 №29、平成15年7月) 
 〇秋山高志著『在郷之文人達
近代之予兆』(那珂書房、2011年6月1日初版第1刷発行)
 〇青山辨著『月居城─常陸北限の守り─』 ふるさと文庫
(筑波書林1983年3月15日第1刷発行) 
 〇青山辨著『雲間遥けき熊野城月居城・野内月居氏歩む青史断編』
(限定本、平成6年12月発行)  
 〇『彰考館圖書目録』(彰考館文庫、大正7年9月30日発行)
 〇『國書總目録 第七巻』(岩波書店、1970年発行) 
   
    14.  京都大学電子図書館所収の 『仙仏奇踪』(『僊仏奇踪』)から、「歸元子」全文を引いておきます。 
  歸元子
爾朱洞字微通少遇異人傳還元抱一之道因
自號
歸元子初隱蓬山後賣藥蜀漢間行動如飛
逆旅主人毎夕怪其屋有聲因窺之見其身自
榻而升觸棟而止或於枯骸中得物如雀卵持
以問洞洞曰繇服神丹而不能修煉故純陰剥
消無陽與倶獨就丹田成此耳唐末王建圍成
都洞亦在城中城久不下建約城陷日誅夷無
噍類洞乃施席作法籠攝建與三軍皆見神人
乘黑雲叱建曰敢有禍吾民者禍即反汝建等
怖伏後入成都戒兵勿殺民不改肆洞賣丹藥
毎一粒要錢十二萬時有某太守欲買之曰太
守金多非一百二十萬不可太守以爲移言惑
衆命納之竹籠沉於江中至涪陵上流二漁人
乘舟而漁擧綱出之乃洞也漁曰此必異人入
定乎扣銅缶寤之少頃洞開目問漁人曰此去
銅梁幾何有三都乎漁人曰我白石江人此去
銅梁四百里自是而東即豐都縣平都山仙都
觀也洞曰吾師謂吾遇三都白石浮水乃仙去
殆比地耶洞既登岸語二漁人曰視子類有道
者亦有所傳乎二漁曰我昔從海上仙人得三
一之旨煉陽修陰亦有年矣洞於是索酒與劇
飲取丹分餌之至茘枝園中三人昇雲而去
二漁
人附 
 

(注)
 1.改行は元の本文と同じにしてあります。

 2.本文2行目の「歸元」の2字は、小さく右から左に横に並べて書いてあります。 
     
 3.また、最終行の「二漁人附」も、同じく小さく横に並べて書いてあります。 
   
    15.  『僊仏奇踪』には、直接「浮石」という語が見えませんが、『十國春秋』という本には、「浮石」という語が出ていますので、次に引いておきます。 

 爾朱先生成都人也字通微亦號歸元子唐僖宗時隱錬於金雞關下石室居
 久之有異人與藥一丸且戒曰子見浮石而服之仙道成矣自是遇石必投之
 水間視其浮沉人皆笑以爲狂一日遊峽上有叟艤舟相待叩其姓氏對曰涪
 州石姓也遂豁然悟曰異人浮石言斯其應乎因服藥輕擧而去時天復末年
 也先生有還丹歌傳於蜀中 
一云先生後自果州至合州賣丹于市價十二萬刺史召問其
 直更増十倍怒其反覆以筏籠沉之江遇漁人白石者救之授以丹倶仙去(『十國春秋』巻47)

 
この本文は、“INTERNET ARCHIVE”というサイトの『十國春秋』によりました。最後の小字の部分(一云先生……)は、二行書きされているものです。

 “INTERNET ARCHIVE”
のTOPページで、「十國春秋」と入力して検索 
  → 「十國春秋・巻四十二~四十七」
    → 
“View the book” の映像をクリック
  
→ 十國春秋・巻四十七 の 134/144
   
    16.  『五代史補』という本にも、この話が出ているようです。

爾朱先生忘其名蜀人也功行甚至遇異人與藥一丸先生欲服異人曰今若服必死未若見浮石而后服之則仙道成矣先生如其敎自是毎遇石必投之水欲其浮如此者殆一紀人皆以爲狂或聚而笑之而先生之心愈堅居無何因游峽上將渡江有叟艤舟相待先生異之且問叟何姓氏對曰石氏此地何所答曰涪州先生豁悟曰異人浮石之言斯其應乎遂服前藥即輕擧
 (この『五代史補』の本文も、『百度百科』の「浮石」の項の下方に出ている「浮石的傳説」に出ているものを引用させて頂きました。)
 
   
    17.  金沢美術工芸大学附属図書館の「近世絵手本画譜類」の中に、慶安3年(1650)に京都で刊行された『有象列仙全傳』(王世貞・編、汪雲鵬・後補)という本があって、画像で本文が見られます。その中の爾朱洞の部分(請求番号66の「七本文11オ~七本文12ウ」)を引いておきます。(訓点が施されていますが、ここでは句点だけを記して、訓点は省略しました。句点も、よく見えない部分があるので、打ち方は正確ではありません。)文は、大体は『僊仏奇踪』と同じ文ですが、中に所々本文に違いが見られます。

爾朱洞。字通微。其先出於元魏爾朱族。少遇異人。傳還元抱一之道。因自號歸元子。初隱蓬山。後賣藥蜀漢間。行動如飛。好飲猪血酒。吟哦詩。逆旅主人毎夕怪其室有聲。因窺之。見其身自榻而升觸棟而止。 或於枯骸中得物如雀卵。持以問洞洞曰。繇服神丹而不能修煉。故純陰剥消。無陽與倶。獨就丹田成此耳。若女子呑之。當生異兒。唐末。王建圍成都。洞亦在城中。城久不下。建約城陷日。誅夷無噍類。主人翁甚懼。洞曰無憂也。乃施席作法籠攝。建與建三軍皆見。神人乘黑雲叱建曰。敢有禍吾民者。禍即反汝。建等怖伏曰。不敢。後入成都。戒兵勿殺民不改肆。洞賣丹藥毎一粒要錢十二萬。時有某太守欲買之。曰。太守金多。非一百二十萬不可。太守以爲移言惑衆。命納之竹籠沉於江中。至涪陵上流。二漁人乘舟而漁。擧網怪其重。出之乃洞也。漁曰此必異人入定乎。扣銅缶寤之。少頃洞開目問漁人曰。此去銅梁幾何。有三都乎。漁人曰。我白石江人此去銅梁四百里。自是而東即豐都縣。平都山。仙都觀也。洞曰。吾師謂吾遇三都白石浮水。乃仙去。殆此地耶。先是洞毎至江濱。輙投白石驗其浮沉。人不解也。洞既登岸。語二漁人曰。視子類有道者亦有所傳乎。二漁曰。我昔從海上仙人得三一之旨。煉陽修陰。亦有年矣。洞於是索酒與劇飲。取丹分餌之。至茘枝園中。三人昇雲而去。
二漁人附
   
    18.  秋山高志氏の著書『水戸の文英』(那珂書房、2014年7月15日初版第1刷発行)から、野内浮石の詩を引かせていただきます。(漢字を旧漢字に改めました。)

       陸奥十勝        
 慈水   見説慈川水  向東流不留
       古今來往客  可以問沈浮
 猿戒壇  此山何所似  異態削成看
       且識神通跡  傳言猿戒壇
 矢祭山  矢祭山奇絶  東關鎭撫年
       風烟已邈矣  別駐一祠傳
 麻績山  不知何老嫗  績罷幾千年
       猶有山丘在  堪歌七月篇
 達摩石  趺座石岩上  曇摩安在哉
       不聞斷臂者  道味爲誰開
 大日岩  日出光明遍  幽岩萬古新
       誰人看取去  應是遮那身
 龍劍堀  堀穴窺龍劍  難臨不測淵
       由來靈異物  顧指斗牛邊
 夢想瀧  飛泉隔岸落  咫尺勝情迷
       洗耳盤渦處  眞縁夢想題
 弘法窟  地幽古靈窟  試坐淨無塵
       知使法宗笑  誰今傾葢人
 猿渡   水激大江口  山山兩岸齊
       自餘三峽趣  勿恠夜猿啼
           (『野内浮石先生詩集』)
   
    19.  前に示した秋山高志氏の著書『在郷之文人達 近代之予兆』によれば、
 (1)大子町下野宮の近津神社に野内浮石の次の奉納額があるそうです。
  維石嵌空 驅得神鏤  盥漱萬年 應與山壽
                   太春謹題〔湘江〕〔太春〕  
 (2)吉成英文氏蔵の次の野内浮石の書があるそうです。
  求仙才子氣雄哉幽僻偏能令否栽早已奪將三世力翩々不獨賦都回
         進呈  木秀才
木君已學醫京師而還云                   
                             埜
浮石拜 印 印
   注:木秀才とは、木村謙のこと。
 
   
    20.  石川久徴の『桃蹊雑話』巻之十に、次のような記事が出ています。ただし、話の内容は、記事の最後に「本文の事、異説紛紜」とあるように、事実はどうであったか、はっきりしないところがあるようです。 
〇良公御代、相川村に次郎左衛門齋藤氏
と云へる富家あり。彼村古へは佐竹家の臣野内月居齋と云へる人の住せる處なり。今其城趾皆畑となりて郷民これを耕す。然に此所に大なる白蛇ありて作物を害す。古老相傳ふ野内氏の靈なりと、近世に至ては其土地漸く荒れにつく、強勇の者ありて此蛇を殺せ共、又元の如く來る、或は燒き、或は川に流しけれども元の如し。郷民詮方なく、畑皆荒廢に至らんとす。時に次郎左衛門屹と工夫を廻らし、彼の蛇を甕に藏め、郷民の内、野内氏の遺臣と言傳る者の子孫並己が一族を會して葬禮やんごとなく執行ひ、且其靈に告て曰、舊主不幸にして世嗣を絶つ。祀を廢すること二百年に(なんなん)とす。豈怨恨なきことを得んや。今吾次男兵八を以て野内氏を冒して其後を繼しめ、永く祀りを奉ぜしめん。靈魂重て形を現して民の害をなす事なかれと云て、彼埋めし所に一小祠を建てたりし。以後白蛇出ることなく荒田再び良田となれり。彼兵八は學問を好み、最詩に巧なり。詩集世に行はる。此又松岡七賢の輩と同時なり。後に江都に出て南郭の門人となれり。 先人淸閑話 本文の事、異説紛紜、今老人の話に從て書。
 (石川久徴『
桃蹊雑話歴史図書社・昭和54年8月31日発行による。)
 
 
桃蹊雑話』……水戸藩に仕えた学者・石川久徴(いしかわ・ひさもと。宝暦6年(1756)~天保8年(1837)が著した江戸時代後期の水戸藩見聞誌。寛政2年(1790)成る。
 
 松岡七賢……享保末から元文の時期にかけて水戸領多賀郡松岡地方(現・高萩市)の庶民の間に現れた、中国晋代の竹林七賢人にあやかって松岡七友と自称した好学の人々のこと。世に、松岡七賢、松岡七賢人と称された。初め、鈴木玄淳(松江。下手綱医者。1703-1784)、僧宿雲(大塚村西明寺住職)、大塚祐謙(孤山。石岡村修験者。1702-1764)、大塚玄説(青嶂。石岡村医者。1717-1785)、柴田平蔵(東江。木皿村農民。1715-1766)、福地充宣(東園。友部村医者。1697-1770 )、朝日祐 誠(旭峰、諏訪村修験者。1713-1780)の七人だったが間もなく宿雲に代わって長久保赤水(玄珠。1717-1801)がこれに加わった。宝暦3年(1753)には、学問精励によって水戸藩5代藩主徳川宗翰(良公)から金子を与えられている。
   







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