浮 石 詩 稿 詩 稿 十七 |
(注) | 1. |
上記の野内太春著「浮石詩稿」の本文は、茨城県立歴史館所蔵の岡澤慶三郎氏の筆写による『立原翠軒伝資料 15
補遺』に収められている「浮石詩稿」を写させていただきました。 詩稿十三の途中から詩稿十七までがここにあるものと思われます。詩稿十四の前に「右并四十七首」とあり、詩稿十三としてはここに31首出ているので、詩稿十三の16首が欠けているものと考えられます。 |
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2. | 作者の浮石は、姓を野内といい、正徳3年(1713)、常陸国久慈郡相川村(現、大子町)生まれ。諱は太春。字は、子陽。湘江、浮石、と号し、また、吾止叟とも称したようです。俗称、兵八。服部南郭に学び、南郭亡きあとは郷里に帰り、農耕の傍ら詩文に耽り、悠々自適の生活を送ったようです。天明5年(1785)8月6日没、享年73。法名は儒達院博彦徧碩居士。著作として、漢詩集『浮石詩草』5冊、『護鷄集』3冊などがありましたが、『浮石詩草』の彰考館蔵本は昭和20年の戦災で焼失、また、『護鷄集』も残っていないようです。 | ||||
3. |
本文に付いている訓点(返り点・送り仮名)と句点のうち、句点だけを残して、訓点はこれを省略してあります。 本文が小さな文字で表記してある部分は、原文が二行に分かち書きされている部分です。 |
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4. | 詩の右側につけてある数字は、引用者がつけた通し番号です。 | ||||
5. | 「義享禪師住長福精舎賦代祝詞」という詩の中の「祗樹林」の「祗」、 及び「自喜 隱居作」という詩の中の「聲咳」は、それぞれ、「祇」・「謦咳」の誤写と見て、「祇」・「謦咳」としてあります。 | ||||
6. | 『立原翠軒伝資料 15
補遺』には、上記の「浮石詩稿」の末尾に、「石﨑脩文氏ヨリ清水恒太郎氏ヲ介シ同氏ヨリ依上小学校長 氏ヲ介シテ」とあり、学校長のお名前が抜けていますが、この時の校長先生は木村昌興先生だったということを依上小学校に教えていただきました。ありがとうございました。 また、「浮石先生ノ事略ハ左ニ略記ス」とありますが、次の頁には「野内浮石事歴」という見出しがあるだけで、事歴は書かれていません。 |
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7. | 上記の本文中に「(「岸」←山+岸。岸の異体字)」とあるのは、手書きで「山+岸」とある文字を、「岸」と表記してある、という意味です。 | ||||
8. | 上記の本文中、手書きの文字がどういう漢字かはっきりしないものがあって、誤った漢字を宛ててある個所もあると思いますので、お気づきの点を教えていただければ幸いです。 | ||||
9. |
この「浮石詩稿」に収められている詩は、全部で198首(詩稿十三 31、詩稿十四 24、詩稿十五 64、詩稿十六 61、詩稿
18)です。 詩の右に、通し番号を付けてあります。 |
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10. | 〇岡澤慶三郎(おかざわ・けいさぶろう)慶應3年(1867)~昭和22年(1947)=雅号、稲里。茨城県稲敷市に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業し参謀本部に勤務。日清・日露両戦役に従軍、金鵄勲章を受け、陸軍中将で退官。晩年に地方史研究に関心を寄せ、特に水戸藩彰考館総裁・立原翠軒研究に励んだ。著書に『咸章堂岩田健文』がある。(秋山高志著『水戸の文英』による。) | ||||
11. | 資料537に野内太春著「浮石詩稿 注」(暫定)があります。 | ||||
12. | 資料269に「野内浮石の寿蔵碑について」があります。 | ||||
13. | 資料533に「野内太春著「浮石詩稿」目次」があります。 |