資料555 長久保赤水編著『清槎唱和』跋(野太春筆)

  
   
     
    
 
    
清槎唱龢跋       

 

盖聞古者禮會因古詩以見意而非獨見則當以觀所謂泱々乎大風也而二國之好則成文亦然耶余讀清槎唱和書詩若干有賦者有答賦者投以桃報以李者乃能已炳鳴文化於其間著哉彼有望無焉乎此巻也長子玉及從姪崎土于役之餘力而其職方雖事小以若所爲試若所好則亦足以爲
國光輝爾何唯詩三百而不辱
也可知子玉寄示請余有言吾豈敢雖然此且子玉使乎之則不可固辭因言是以附其浮又羔之袖有悪於一狐裘哉
 明和五年戊子春三月
            湘江野太春撰
           
〔太春〕〔子陽氏〕
           松岡山玄常書
            〔山玄常印〕

 


 (注) 1. 上記の「清槎唱龢跋」の本文は、明和五年の日付のある序・跋の
        出ている版本によりました。「
」は、「和」の異体字です。翻字
      についてお気づきの点をお知らせいただければ幸いです。 なお、
      翻字には、あるお方の多大な助力を得ました。ここに記して厚く
        御礼申し上げます。 

     2. 『清槎唱和』(しんさしょうわ)は、「集」をつけて『清槎唱和
      集』と言われることもあります。『清槎唱和』(『清槎唱和集』)

      は、長久保赤水たちが長崎に居留していた清国人と交換した漢詩を
      記録したものです。
       長久保片雲著『
地政学者 長久保赤水』(暁印書館、昭和53年9月
      15日初版発行)によれば、「赤水の「清槎唱和集」は、十二月二十
      日に赤浜に帰ると直ちに清書して、翌明和五年に出版された」とい
      うことです。 
       なお、『清槎唱和』の明和五年版は、注8,9に記してあるよう
        に、バイエルン州立図書館のホームページとグーグルブックの両方

      で、画像を見ることができます。(グーグルブックの『清槎唱和』
は、
       バイエルン州立図書館のものをデジタル化したものだそうです。)
     3. 『国書総目録』によれば、 『清槎唱和』(『清槎唱和集』)の
      版本には次の三種があるようです。
         明和五年版
         安永三年版      
         寛政四年版
     4. 
明和五年版、安永三年版、寛政四年版それぞれの序・跋を
        次に示します。
     (1) 明和五年版        
       
 清槎唱和序……明和五秊戊子春正月  松江 盧玄淳識
          清槎唱龢跋……明和五年戊子春三月  湘江 野太春撰 
     (2) 安永三年版・寛政四年版           
         清槎唱和序……安永三年甲午秋九月  平安皆川愿拜撰并書 
         清槎唱和跋……明和五秊戊子春正月  松江 盧玄淳識 
         松江盧玄淳の跋は、明和五年版の序をそのまま跋とした
           ものです。つまり、明和五年版に置かれていた湘江野太春の
         跋が、安永三年版の時には削除され、明和五年版の盧玄淳の
           序が跋の位置に移され、今までの序に代わって皆川愿(淇園)
           の序が新たに置かれた、というわけです。  

         したがって、野太春の跋文は、明和五年版を見なければ見
        ることができません。    

         なお、盧玄淳の序が跋の位置に移され、序の文字を跋と改
        めずにそのまま「清槎唱和序」として載せられている版本も
                      あるようです。

      
※ 寛政四年版の『清槎唱和集』は、安永三年版のものと内容
       は同じで出版された年だけが違うということなのでしょうか。
     5.
 本文の注。
     
   全文の現代語訳をつけたいところですが、よく読めないところがあ
     り、意味のとれないところがあって、うまく訳せません。とりあえず、
         分かったところだけ注をつけておきます。

      
古者禮會因古詩以見意……『春秋左氏伝』第六「僖公」二十三年
          の「公賦六月」(公、六月を賦す)の注に、「古者禮會因
          古詩以見意」とある。「古は禮會、古詩に因りて以て意を
          見(あらは)す。」(公は、秦の繆公(穆公・ぼくこう)。
          六月は、詩経の小雅。)
           『漢籍国字解全書』(先哲遺著第十三巻)に、「〇古者 
          昔は禮を以て會するには、古詩の内に似たことを賦して意をあ
          らはしたとなり、日本でも上代は催馬樂(さいばら)を
謠た、
          今は四海浪を謠ふ、」とあります。
       泱泱乎大風也……『史記』呉太伯世家第一に、「歌齊。曰、美哉。
          泱泱乎、大風也哉。表東海者、其太公乎。國未可量也。」
         (斉を歌ふ。曰く、「美なるかな。泱泱として、大風なるか
な。
          東海に表たりし者は、其れ太公なるか。国未だ量るべからざる
          なり」と。)とあります。
          「泱泱乎、大風也哉。」は、「美しいなあ。洋々として雄大、
          まことに大国らしい音楽だなあ」という意味。(新釈漢文大系
           『史記五』(世家上)吉田賢抗著を参考にしました。)
          なお、『春秋左氏伝』襄公二十九年にも、同様の記事が
         見られます。
        燕好……なごやかにもてなすこと。酒宴を開き、引き出物を贈ること。
         (同)宴好。(『漢字源』
による。)              
       投以桃報以李 ……『詩経』大雅の「蕩之什」11篇の中の詩
         「抑(よく)」に、「投我以桃 報之以李」(我に投ずるに
          桃を以てすれば、之に報ゆるに李(すもも)を以てす)とありま
         す。善い行いをすれば、善い報いがあること。「投桃報李」と
             いう形で用いられることもあります。
       炳鳴文化於其間……ここのところどう読むのか、不詳。
       彼有望無焉乎……読み方、不詳。 『春秋左氏伝』昭公十六年に、
         「宣子曰、孺子善哉。吾有望矣。」(吾望むこと有り)とあり
         ますが、「無焉」が出ていません。関係はないでしょうか。あるい
         は、「彼望み有りや無しや」と読むのでしょうか。
       以若所爲試若所好……『孟子』梁恵王上に「以若所爲求若所欲、
         猶縁木而求魚也」(若(かくのごと)き爲す所を以て若(かく
         のごと)き欲する所を求むるは、猶ほ木に縁りて魚を求むるがご
         とし)とあるので、ここも、「若(かくのごと)き爲す所
を以て若
       (かくのごと)き好む所を試むるは」と読むのであろうと思われます。
       詩三百……『論語』為政第二に、「子曰、詩三百、一言以蔽之、
         曰思無邪。」(詩経には、およそ三百の詩篇があるが、その
         全体を覆う一貫しているものは、「思い邪(よこしま)なし」と
         いうことだ。)とありますが、これと関係があるでしょうか。あ
         るいは、「詩三百」で単に詩経を指しているのでしょうか。この
         上にある「爾」をどう読むか(「のみ」と読んで上につけるか、
         「これ」と読んで下へつけるか)も、迷うところです。
       吾豈敢……吾、豈に敢へてせんや。『論語』述而第七に、「子曰、
         若聖與仁、則吾豈敢。」とあります。
       此且子玉使乎之榮……ここをどう読むのか、不明。
       浮顧……この語も、不詳。翻字に問題あるか。
       羔之袖有悪於一狐裘哉……『春秋左氏伝』襄公十四年に、「余
         狐裘而羔袖」とあります。「狐裘而羔袖」(狐裘(こきゅう)
         して羔袖(こうしゅう)す)とは、「狐の皮を以て袖とする
のは至っ
         て美であるが、子羊の皮を以て袖とするのは醜いこと。一身盡く
         善であつて唯々少しく惡い所のある喩」(『大漢和辞典』巻七)。
         「狐裘羔袖」(こきゅうこうしゅう)──全体としては立派だが、
              よく見れば多少の難があるというたとえ。

    
      明和五年戊子……明和五年は、西暦1768年。  
     6.
野太春の跋が削除されたことについて、木村謙次が「大いに
      不平を称えた」と、杉田雨人がその著『長久保赤水』(昭和9

      年発行)に書いています。(
このことは、長久保片雲著『長久保
     
赤水の交遊に教えていただきました。)
       赤水が此書を公にしたのは、明和五年正月である。其時の序文は鈴
            木玄淳で、湘江野太春が跋を撰してゐた。寛政四年出版する時に到つ
       て序跋の人を變へてゐる。野太春は相川村の郷士である。字は子陽、
       湘江は其號。野内氏、兵八と稱した人である。素より赤水とは昵懇の
       間柄であつたであらう。此野太春に換ふるに、皆川淇園を以てした事
       に、大いに不平を稱へたのは、天下野
(けがの)木村謙次である。木
       村謙次は斯う言つてゐる。「清槎唱和集、初め梓する所、則ち野太春
       之に序す。今は平安皆川先生之に序す、太春の筆に代るに淇園先生の
       辭を以てす。然れども故舊野太春を貶する者、何の意有るを知らず。
       辟めに淇園先生の麗辭を冠する、稗史小説たるを免るべからざる也」
       
そして、続けて次のように書いています。

      
實に謙次の言ふ通りである。私も亦初稿のやうに、郷黨野太春の跋、
       其まゝで有つた事を希望する。野太春の文章書体は共に優れたもの
       である。(同書、98頁)  

     7. 野太春は、野内太春(1713~1785)の中国風表記で、太春は浮石
      と号して漢詩集を出
しています。その詩集『浮石詩草』は現存してい
       ませんが、一部の草稿が残されています
。 
        なお、野太春については、資料269 「野内浮石の寿蔵碑につい
      て」をご覧ください。

        → 資料269 「野内浮石の寿蔵碑について」 
     8. ドイツのバイエルン州立図書館のホームページで、『清槎唱和』
      の明和五年版を、画像で見ることができます。 

     
BSB( BayerischeStaatsBibliothek  digital)バイエルン州立図書館
            
 → 『清槎唱和』(明和五年版)
     9.
バイエルン州立図書館の『清槎唱和』をデジタル化したものを、
      グーグルブックで見ることができます。

       → 
グーグルブックの『清槎唱和』(明和五年版)
        10.『清槎唱和』の参考書
      野太春の跋文は出ていませんが、皆川淇園の序、鈴木玄淳の序を跋文
     の位置に置いた『
清槎唱和集を取り上げて訳解したものとして、次の
     ものがあります。
       長久保片雲著『長崎行役日記 
付 安南国漂流物語 清槎唱和集』
          (編著者・長久保片雲、訳解者・関根七郎、筑波書林・
                      1994年11月23日第1刷発行)

 

 

 

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