資料465 「良寛禅師碑石並序」と「良寛禅師碑銘並序」
         



            
良寛禪師碑石序       

 

本州出雲崎有逸僧號大愚字良寛其爲人氣宇超邁擧措眞率幼而異乎常人也夙因所根出塵之志不息會備圓通寺主國仙老師遊化徃投之一見器重爲薙染焉服勒久之頗領祖意仙老附偈云良也如愚道轉寛騰々任運得誰看爲附山形爛藤杖到處壁間午睡間後叩諸方未謁宗龍于紫雲深究道奧爾來潜行密用一不與浮花爲伍山雲水萍居住自由不蹈三級之世途無露五宗之圭角詩歌翰墨以充法用佛事妙化擧世風靡平處嶮々中平不可得而窺於是上士亦倒退矣想入神僧傳非如此人而誰優游風顚殆五十年文政丁亥齡古稀逼招移鉢於嶋崎木村別齋五易裘葛天保庚寅冬微恙告終人乞遺誡師開口一嘆而已端坐示寂實天保二年辛卯正月六日也世壽七十四法臘五十三經日顔貌如生闍維日奔喪者一千餘人莫弗追慕嗚呼如師者可謂利水中之慈航欲火裡優曇也余嘗道愛今聞訃音悲感之餘唯恐德行泯沒于世因忘固陋述厥梗概敢爲之銘竊勒堅珉以謀不朽云銘曰
 體寛大道 良玄又玄 若愚似魯
 超聖越賢 也出世際 志業無倫
 春花濃綻 秋月高圓
   天保二年辛卯仲秋
       參徒北越證願詩撰

 
        

 

注:  相馬御風著『良寛を語る』に掲載された文のうち、「闍纖日」「一十餘人」は「闍維日」
 「一千餘人」と改め、「如師者」「利水中之慈航」の「如」「中」を補いました。
  また、「碑石」「服勒久之」「證願」「詩撰」は、それぞれ「碑銘」「服勤久之」
 「證聽」「謹撰」が正しいと思われますが、これらの部分は『良寛を語る』に掲載されてい
 る文のままにしてあります。

 

 

              *  *  *  *  *



            
良寛禪師碑銘並序  

 

夫古聖先德之處于世雖隱顯異途收放不同然至弘妙道濟群情則其歸一揆本邦雲浦良寛禪師爲人也氣宇超邁而擧措迂濶也夙因所根自懷出塵之志安永八己亥歳廿二時會承備之圓通國仙忍老行化將謂曇花易逢知識難遇時不可失俄往詣欲遂宿願仙一見器重爲薙染立名號曰大愚服勤久之於其眞參實踐也大有古德風貌忍老附偈曰良也如愚道轉寛爲附山形爛藤杖到處壁間午睡閑師已雖有省悟猶叩諸方末后謁宗龍乎紫雲深究道奧爾來道業彌純一不與他浮花爲伍潛行密用眞醇淸白山雲水萍居居無常愚魯日用無一法與人雖然詩歌以寓心墨蹟以寄情淳々乎敎誨妙能安懷老少而平坦處直壁立萬仭不垂手下具垂手眼是以設久參上士倒退三千如斯活手段自不非常之人孰能立非常之功哉文政十丁亥齡古稀逼招移衣鉢於島崎木村氏別齋五易裘葛天保紀元庚寅冬示微恙臨終環坐咸乞遺偈師即開口阿一聲耳端然坐化焉實是同暦二辛卯正月六日世壽七十四法臘五十三也遷時顔貌如如(衍)生四縁哀悼不啻闍維日千有餘人來聚靡弗齋擎手流泣也嗚呼如師實苦海慈航澆代優曇予嘗荷道愛今聞訃音悲感切于衷且恐景行遺烈遂泯沒而不傳乎世因忘固陋述厥梗概敢爲之銘乃勒堅珉以貽不朽云
   銘曰
 體寛大道 良徹幽玄 騰々任運 受記忍仙
 春秋皮裡 默識愚賢 據無出也 與餘輩懸
 有時孤峻 人難近前 有時落艸 童打鞦韆
 文童
(章)筆硯 布施有縁 外訥内敏 眼辨烏焉
 權實兼帶 宗説莞全 氣貴回互 宛轉正徧
   天保二辛卯仲秋
       參徒北越
         證聽謹撰

 

 

 

 

 

 

 

  (注)   A.「良寛禅師碑石並序」について    
    1.   上記の「良寛禅師碑石並序」の本文は、相馬御風著『良寛を語る』(博文館、昭和16年12月27日発行)に拠りました。ただし、一部、東郷豊治編著『良寛全集 上巻』(東京創元社、昭和34年11月30日発行)に収められている「良寛禅師碑石序」、及び『越佐研究』第38集(新潟県人文研究会、昭和52年11月25日発行)に収められている山本哲成・宮栄二両氏による「新発見の「良寛禅師碑銘並序」」に収めてある「良寛禅師碑石並序」よって補正し、読点は省略してあります。
 
(『良寛全集 上巻』には、同書巻末の「参考資料」の中に収められています。なお、『良寛全集上巻』と『越佐研究』 第38集に引かれている本文には常用漢字が用いられているのを、ここでは旧漢字に直してあります。)
 東郷豊治編著『良寛全集 上巻』の本文は、「相馬御風氏著『良寛を語る』載録による」としてあるのですが、昭和16年12月27日発行の『良寛を語る』と一部異なる箇所があります。相馬氏のこの昭和16年発行の『良寛を語る』の本文には誤植・脱字があって、後の版でそれが補訂されているのかもしれません。
   
    2.  次に、昭和16年発行の『良寛を語る』・東郷豊治編著『良寛全集 上巻』・『越佐研究』第38集に掲載されている「良寛禅師碑石並序」の、三者の異同を示しておきます。
 
昭和16年発行の『良寛を語る』 東郷豊治編著『良寛全集 上巻』『越佐研究』第38集
   服勒久之 (勒)       服勒久之 (勒)     服勤久之 (勤)
   風顚殆五十年 (殆)     風顚殆五十年 (殆)    風顚五十年 (殆ナシ) 
   端座示寂 (座)      端坐示寂 (坐)     端座示寂 (座) 
   闍纖日 (纖。
誤植カ?)   闍維日   (維)     闍維日  (維)
   一十餘人(十。
誤植ナラン)  一千余人 (千)   一十餘人(十。誤植ナラン)  
   嗚呼師者 (如ナシ)      嗚呼如師者 (如アリ)  嗚呼師者 (如ナシ)  
   利水之慈航 (中ナシ)   利水中之慈航 (中アリ) 利水之慈航 (中ナシ) 
 
 なお、
『良寛を語る』に「開口一嘆而」、『越佐研究』に「厥梗概」とあるのは明らかな誤植と見て、ここには取り上げてありません。 
   
    3.  「良寛禅師碑石並序」は、相馬御風著『良寛を語る』(博文館、昭和16年12月27日発行)に、「新発見の良寛禅師碑文」として引かれています(231~233頁)
 この碑について、相馬御風氏は、
 「右碑文は東京神田小柳町一丁目虎屋久左衞門氏の藏するところであるといふが、おそらくは建碑されずに終つたものでないかと思ふ。/それにしても良寛和尚遷化の年の秋、既にかかる立派な碑文が撰せられて居たことは隨喜に値する。しかも記述至つて適確、理解甚だ周到である點から考へると、筆者はかなり良寛和尚に接近してゐた人であつたらしい。たゞ證願
(しようぐわん)その人が同國越後の禅僧であつたことが自記によつてわかるだけで、その如何なる人物であつたかが、どう調べてもいまだにわからないのは遺憾である。/切に識者の示敎を俟つ」
と書いておられます
(同書、232~233頁)
   
      B.「良寛禅師碑銘並序」について    
    4.  上に掲げた「良寛禅師碑銘並序」は、『越佐研究』第38集(新潟県人文研究会、昭和52年11月25日発行)に収められている山本哲成・宮栄二両氏による「新発見の「良寛禅師碑銘並序」」によったものです。ただし、ここでは読点を省略しました。
 『越佐研究』第38集には、相馬御風『良寛を語る』所収の「良禅師碑石並序」と、昭和52年4月に北魚沼郡小出町・茂野氏所有の文書中から発見されたという「良寛禅師碑銘並序」が、上下に並べて対照的に紹介されていて、たいへん参考になります
(原文の他に、書き下し文があります)

 またここに、「新史料は「騰々任運」の一句を脱し、
(中略)疑問のあった(旧史料の)「未謁宗竜乎紫雲」は新史料では「末后謁宗竜乎紫雲」とあり、原文の「末后」が書き写しの際に「未」に誤られたのにちがいない」「題名が旧史料では碑石並序とあるが、新史料の碑銘並序とあるのが正しく、筆者名も旧史料の証願は新史料では明らかに証聴と記されており、また詩撰は謹撰であって、これも筆写の誤なのであろう」と記されています(同誌、2~3頁)
   
      C.両者の関係について    
    5.  相馬御風著『良寛を語る』及び東郷豊治編著『良寛全集 上巻』に引かれている「良寛禅師碑石並序」と、『越佐研究』第38集に引かれている「良寛禅師碑銘序」とには、かなりの違いが見られます。この二つの「碑石並序」と「碑銘序」がどのような関係にあるのか、よく分かりません。
   
      D.その他    
    6.  良寛(りょうかん)=江戸後期の禅僧・歌人。号は大愚。越後の人。諸国を行脚の後、帰郷して国上山(くがみやま)の五合庵などに住し、村童を友とする脱俗生活を送る。書・漢詩・和歌にすぐれた。弟子貞心尼編の歌集「蓮(はちす)の露」などがある。(1758-1831)(『広辞苑』第6版による。)    
    7.   新潟県出雲崎町にある『良寛記念館』のホームページがあります。
  →  『良寛記念館』           
   
    8.  資料467に、「「良寛禅師碑石並序」の本文」があります。    
    9.  資料464に、「良寛禅師の辞世とされる句と歌について」があります。    
           
           

 




      
       
                                トップページ(目次)へ