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辞世(じせい)=この世に別れを告げること。死ぬこと。また、死にぎわに残す偈頌(げじゅ)・詩歌など。「─の句」
(『広辞苑』第6版による。)
友人から、太平洋戦争の末期の特攻隊員の遺書に見られる「散る桜残る桜も散る桜」という句について、それが誰の作か知りたいというメールが来ました。
ネットで調べてみると、それは良寛の辞世だという記述が見つかりました。良寛の辞世は、一般には「うらを見せおもてを見せて散るもみぢ」という句だと言われています。「散る桜残る桜も散る桜」が良寛の作であるかどうかを含めて、良寛の辞世について少し調べてみました。
調べてみたとはいっても、良寛に詳しくない者の調べたことですから、独りよがりの物言いが多いと思います。お気づきの点を教えていただければ幸いです。(2013年9月23日) |
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1.「散る桜残る桜も散る桜」という句について
友人のメールにあるように、この句は特攻隊員の遺書に引用されたことによって、よく知られていますが、この句のもとの作者は誰かということになると、よく分からない、というのが妥当な結論であるように思われます。
公益財団法人
特攻隊戦没者慰霊顕彰会のホームページ『特攻』に「後に続くを信ず」というページがあり、そこに昭和20年5月24日、沖縄敵航空基地に向かった奥山道郎大尉が弟に残したという遺書「散る桜残る桜も散る桜 兄に後続を望む」が紹介されています。(この遺書は弟に宛てたものだというのですから、「兄」は、この場合、「けい」と読んで、弟に敬意を表したものでしょうか。)
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公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会 → 「後に続くを信ず」
(今
閲覧してみたら、「後に続くを信ず」のページが見当たりません。2023年8月17日)
26歳の奥山大尉は、自分が最期を迎えるにあたって自分の気持ちを弟に示すのに最もふさわしいものとして、この句を引いたものと思われます。なお、奥山道郎大尉の辞世は、「吾が頭南海の島に瞭(さら)さるも我は微笑む国に貢(つく)せば」という歌だそうです。
この「散る桜残る桜も散る桜」という句が良寛の作だとする説がありますが、その根拠は、『底本 良寛全集』第3巻(2007年初版、中央公論新社。「句集」の解説は谷川敏明氏)によれば、高木一夫著『沙門良寛』(短歌新聞社、昭和48年〈1973年〉)に掲載されている写真版に、相馬御風氏が記した「地蔵堂町字下町、小川五平氏(当主長八)ヨリ出デシ反古中ニアリシ」という文書に、「良寛禅師重病之際、何か御心残りは無之哉(これなきや)と人問しに、死にたうなしと答ふ。又辞世はと人問しに、散桜残る桜もちる桜」とあることだそうです。
しかし、これについて解説の谷川敏明氏は、「すると辞世の句ということになるが、良寛の最期を看取った人は、誰もこの句を記していないし、伝承もない。古句が良寛の逸話に紛れこんだのかもしれない」と書いておられます(同書、39頁)。
つまり、「散る桜残る桜も散る桜」という句は、これを良寛の辞世だとする文書はあるのだけれども、良寛の最期を看取った人の誰もがこの句のことを記していないことから見て、「散る桜残る桜も散る桜」という古句が既にあり、その句がいかにも良寛の辞世の句としてふさわしいものなので、良寛の逸話に紛れ込んだのではないか、というわけです。そう見るのが妥当だと私も思います。
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ここで、高木一夫著『沙門良寛』(短歌新聞社、昭和48年〈1973年〉4月2日発行)の204頁上部に掲載されている写真版についての、高木一夫氏の記述を引用させていただきます。
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糸魚川の御風記念館に、「良寛臨終に関する重要文献」というものが、丁寧に封筒に入れて保存されている。これは小さな一枚の紙片に書かれたもので、裏には
地蔵堂町宮※下町
小川五平氏
(当主長八)
ヨリ出デシ反古中ニアリシ
と書かれていて、表には次のように書かれている。
良寛禅師重病之
際何か御心残りハ無之哉と
人問シニ
死にたうなし
と答ふ
又辞世はと人問ひしニ
散桜残る桜もちる桜
遁世之際
波の音聞じと山へ入ぬれは
又いろかいて松風のおと
最後の歌の「聞じ」は「きかじ」であり、「いろかいて」は「かへて」を訛ったものである。筆者については何も書いてないので、どれ程の信憑性があるか分らないが、小川五平家ではこれを捨てずにいたのであった。最後の言葉として「死にたうなし」と答えたというのは、素直で切実な感があると思う。「散る桜残る桜もちる桜」は、如何にも気力の失せた感じで、死に近い人の口から出た句のようでもある。気力の整っている時であれば、もう少し調子の上で張ったものがあったであろうという気がするのである。遁世の際の歌が書き添えてあるが、恐らくこれを書いた人は、良寛の事をよく知らない人で、誰かに聞いて付加えたのではないかと思われる。(中略)この歌は従来ある良寛歌集にはない。果して良寛の歌と言えるか否か。(同書、204~206頁)
※ 小川五平氏の住所が「地蔵堂町宮下町」となっていますが、これは『底本良寛全集』第3巻や、谷川敏朗著『校注
良寛全句集』(同書、60頁)にあるように、「地蔵堂町字下町」が正しいのではないかと思われます。
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谷川敏朗著『校注 良寛全句集』(春秋社、平成12年2月10日第1刷発行)の「散桜残る桜も散る桜」のページからも引かせていただきます。
そこには、「出典は高木一夫氏著『沙門良寛』である」として同書の写真版の文言を引いて、
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するとこの俳句は、辞世ということになる。だが、良寛の最期を看取った人は、誰もこの句を記していないし、伝承もない。もしかすると、古句が良寛の逸話にまぎれこんだのかもしれない。 |
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としてあります。(同書、60~61頁)
次に、良寛の実弟・由之が書いた日記『八重菊』(『八重菊日記』)の、良寛臨終の場面を引いておきます。
由之(ゆうし)=山本新左衛門、または左衛門泰儀(やすよし)といい、良寛の実弟。次男。山本家は代々、出雲崎の名主および神職で、橘屋と号した。由之は宝暦12年(1762)に生まれ、25歳で家督を継いだ。49歳のときに家財取上げ所払いの処分を受け、諸国流浪の後、剃髪出家して与板に隠棲し、無花果苑由之(むかかえん・ゆうし)と称した。国学・和歌・俳諧・書画にすぐれた。天保5年(1834)73歳で死去。(『定本
良寛全集 第3巻』319頁より抄出。)
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みくにの名の文政、こぞ天保とあらたまりて其(その)二とせの春は来つれど、ぜじ(禅師)の君の御いたはりいかにいかにと思ひやりまゐらすとて、冬とも春とも思ひわかねば、まいて歌などは出(いで)こず。よかの日、又塩ねり坂の雪かき分(わけ)つゝまうでゝ見奉れば、今はたのむかたなくいといたうよわりたまひながら、見つけてうれしとおぼしゝこそかなしかりしか。かくてむゆか日の申(さる)の時に、つひに消果(きえはて)させ給へる、あへなしともかなしとも思ひわくかたなかりしに、家あるじの泣まどふも、御別のかなしきにそへて、おほきなる、ちひさき、何くれのわざも心に定めかぬるをばとひきゝて、の給ふまにまに行ひし人なりければ、舟流したる海人(あま)に似て、いかにたよりあらじと思ふもかなしくて、
世の中のおふさきるさもあすよりは
誰にとひてか君は定めむ
かうだにいはるゝも、いづこに残れる心にか、と我ながらいとにくかりき。やうかの夜、野に送りまゐらせし烟りさへほどなく消(きえ)て、はかなき灰のかぎりを御形見と見奉る、又はかなしかし。
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良寛の最期を看取った貞心尼の「はちすの露」の記述は、次の「2.「うらを見せおもてを見せて散るもみぢ」という句について」をご覧ください。
なお、
『レファレンス協同データベース』の「新県図-00108」に、
「「散る桜 残る桜も 散る桜」を良寛の辞世とする出典を知りたい」という質問に対する新潟県立図書館の回答が出ていて参考になります。
2.「うらを見せおもてを見せて散るもみぢ」という句について
この句について、『定本 良寛全集 第三巻』(句集の解説は谷川敏朗氏の執筆)には、この句は、芭蕉の友人であった谷木因(たに・ぼくいん)に「裏ちりつ表を散りつ紅葉かな」という句があり、良寛の「うらを見せ……」の句はこの木因の句を踏まえて詠まれたものであるが、「句の意味するところは同じようでも、良寛の句には自分の人生のすべての重みがかかっていて、あきらかに別趣の独立した作品となっている」としてあります。
この句については、立松和平氏もその著『良寛 行に生き行に死す』(春秋社、2010年6月20日第1刷発行)の中で、「この発句は谷木因(たに・ぼくいん)の「裏ちりつ表を散りつ紅葉かな」からきているのだが、良寛は自分の生涯を見据えながら万感を込めて吟じた。すでに良寛の句といってよいかと思う」と言っておられます(同書、56頁)。
この句は、良寛の辞世と考えてよいものだと思われます。
この句の出所は、同書(『定本 良寛全集 第三巻』)に、貞心尼の『はちすの露』とあり、そこに、「こは御みづからのにはあらねど時にとりあひのたまふいといとたふとし」(この発句は御自身の作ではないけれど、そのおりにかなって口ずさまれ、たいそうご立派である)とする、とあります。また、相馬御風『大愚良寛』には「病篤かりし頃」と詞書がある、とあります(同全集、58頁)。
相馬昌治(御風)著『大愚良寛』(春陽堂、大正7年6月4日発行)の「良寛の俳句」の項に、
病篤かりし頃
裏を見せ表を見せて散る紅葉
とあります。(同書、556頁)
『国立国会図書館デジタルコレクション』
→
相馬御風著『大愚良寛』(291/328)
ここで、貞心尼の『はちすの露』の本文を引いておきます。
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そののちはとかく御こゝちさはやぎ給はず。冬になりてはたゞ御庵りにのみこもらせ給ひて、人にたいめもむつかしとて、うちより戸さしかためてものし給へるよし、人の語りければ、せうそこ奉るとて |
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そのまゝになほたへしのべいまさらにしばしのゆめをいとふなよきみ 貞
と申つかはしければ、其後給はりけること葉はなくて
あづさゆみはるになりなばくさのいほをとくでて来ませあひたきものを 師
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かくてしはすのすゑつかた、俄におもらせ給ふよし、人のもとよりしらせたりければ、打おどろきていそぎまうでて見奉るに、さのみなやましき御気しきにもあらず。床のうへに座しゐたまへるが、おのが参りしをうれしとやおもほしけむ |
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いついつとまちにしひとはきたりけりいまはあひ見てなにかおもはむ (師)
むさし野のくさばのつゆのながらひてながらひはつるみにしあらねば
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かゝれば、ひる夜る御かたはらに有て、御ありさま見奉りぬるに、たゞ日にそへてよはりによはりゆき給ひぬれば、いかにせん、とてもかくても遠からずかくれさせ給ふらめと思ふに、いとかなしうて |
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いきしにのさかひはなれてすむみにもさらぬわかれのあるぞかなしき 貞
御かへし
うらを見せおもてを見せてちるもみぢ
こは御みづからのにはあらねど、時にとりあひのたまふ、いといとたふとし
口ずさみ給ふほつ句のおぼえたるを
おちつけばこゝもろ山の夜るの雨
風れいや竹をさること二三尺
人の皆ねぶたき時のぎやうぎやうし
青みたる中にこぶしの花ざかり
雨のふる日はあはれなり良寛坊
我恋はふくべでどぢやうおすごとし
新いけやかはづとびこむ音もなし
とうろうのかた書て
来ては打ゆきてはたゝく夜もすがら
くるに似てかへるに似たりおきつ波 貞
かく申たりければとりあひず
あきらかりけりきみがことのは 師
天保二卯年
正月六日遷化
貞心尼
よはひ七十四 |
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なお、『定本 良寛全集 第二巻』(歌集)にも、『はちすの露』が引いてあり、良寛のこの句が取り上げられています。(同書、227頁)
『蓮の露』は、“UNIVERSITY of VIRGINIA LIBRARY”というサイトの”“Japanese Text
Initiative”に収録されている『良寛歌集』の中に入っていて、読む(見る)ことができます。(底本は、『良寛歌集』(岩波書店、1933年)だそうです。)
(『良寛歌集』は、「長歌」「旋頭歌 その他」「短歌」「蓮の露」「戯歌」「増補 最近某家の歌反古の中から発見のもの」の順に並んでいます。)
→“
UNIVERSITY of VIRGINIA
LIBRARY”
→“Japanese Text Initiative”→
『良寛歌集』→
『蓮の露』
3.「形見とて何かのこさむ春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉」という歌について
良寛の実弟・無花果苑由之の日記「八重菊」の天保2年3月の項に、
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おはせし世によせ子が御形見こひし歌の御かへし
かたみとて何をおくらむ春は花夏時鳥秋のもみぢ葉
此短冊をかけぢの上におして下には其をふとてづから御姿をもの
して「箱に書付せよ」といひければ、蓋のうらに
春は花秋は紅葉のことの葉ぞ散にし後のかたみ成ける |
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とあります。(相馬昌治(御風)著『良寛と蕩児 その他』所収の「八重菊日記」による。)
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相馬昌治(御風)著『良寛と蕩児
その他』(
Taiju's
Notebook による)
この歌は、井本農一著『良寛
(下)』(講談社学術文庫、昭和53年1月10日第1刷発行)に、「かたみとて何かのこさむ春は花夏ほととぎす秋は(「の」─「八重菊」)もみぢば」という形で引かれていて、井本氏は、「辞世ではないが、辞世的な歌ではあろう」と言っておられます。(同書、72頁)
『定本 良寛全集 第二巻』(歌集)には、
形見とて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉
という形でとられてあり、「私の亡くなった後の思い出の品として、何を残したらよいだろう。春は花、夏はほととぎす、秋はもみじの葉であるよ。」という訳とともに、「▽由之(ゆうし)の『八重菊日記』には、「おはせし世に、よせ子が御形見こひし歌の御返しと」。この歌及び歌1462
(引用者注:「亡き跡の 記念(かたみ)ともがな 春は華 夏如帰鳥(ほととぎす) 秋は栬葉(もみぢば)」)は「辞世」ともされるが、作歌の月日はよくわからない」という解説がついています。(同書、535頁)なお、この「亡き跡の」の歌の出所は、片桐某『良寛師集歌帖全』とあります。(同書、同頁)
また、この歌の「參考」として、道元の「春は花夏ほとゝぎす秋は月冬雪さえて冷(すゞ)しかりけり」(『傘松道詠』)と、「なき跡のかたみとまでや契りけんおも影のこす秋の夜の月」(『続後拾遺和歌集』巻18)が挙げてあります。
この歌は、臨終において詠まれたものでない、という意味では、辞世とは言えないものですが、井本氏が言われるように、「辞世的な歌」といってよいものだと思います。
この歌の語句には、上に見たようにいろいろな形が見られます。
かたみとて何をおくらむ春は花夏時鳥秋のもみぢ葉
(「八重菊」)
形見とて何かのこさむはるは花山時鳥あきはもみぢ葉
(玉木礼吉編『良寛全集』大正7年)
形見とて何か残さむ春は花山ほとゝぎす秋はもみぢ葉
(東郷豊治編著『良寛全集下巻』昭和34年、東京創元社)
形見とてなに残すらむ春は花夏ほとゝぎす秋はもみぢ葉
(同上)
亡きあとの形見ともがな春は花夏ほとゝぎす秋はもみぢ葉
(同上)
かたみとて何かのこさむ春は花夏ほととぎす秋はもみぢば
(井本農一著『良寛(下)』昭和53年)
形見とて何か残さん春は花山ほととぎす秋はもみぢ葉
(川端康成『美しい日本の私』(1968年)に引用。「僧良寛の辞世」としている。)
亡き跡の記念(かたみ)ともがな春は華夏如帰鳥(ほととぎす)秋は栬葉(もみぢば)
(片桐某『良寛師集歌帖全』:この出典は『定本 良寛全集 第二巻』による。)
なお、由之の日記「八重菊」は、相馬昌治(御風)『良寛と蕩児 その他』には「八重菊日記」として掲載されていて、その注記に、
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こゝに収めた「山つと」「八重菊日記」の二巻は、良寛和尚の実弟で、和尚出家後出雲崎橘屋山本家を相続した無花果苑由之の文政十三年三月から翌天保二年八月に至る日記である。即ち良寛和尚が示寂し、由之の長子眺島斎泰樹(馬之助)が又その後を追うて歿したのは、丁度その間のことである。随て此の日記は筆者にとりては一生涯中の最も悲痛な経験の記録であつたと同時に、良寛和尚の生涯を研究する上にも、亦橘屋一家の当時に於ける有様を知る上にも、最も貴重な文献の一つである。筆者由之はその頃は孤独な漂泊生活を与板町の仮寓で営んでゐたのである。
なほ此の日記の原本は新潟郡(*県)西蒲原郡国上村大字牧ヶ花の解良家を(*に)秘蔵されて来たもので、同家の当主淳二郎氏が私の為めにわざわざ全部を筆写して贈られ、更に今かうして公表することをも許諾された。これは私の為にもまた多くの研究者の為にも感謝に堪へない次第である。
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とあります。
4.その他、辞世として逸話に挙げられる歌や言葉などについて
(1)良寛に辞世あるかと人問はば南無阿弥陀仏と言ふと答へよ
『定本 良寛全集 第二巻』(歌集)に、出所は玉木礼吉『良寛全集』だとあります。
(2)良寛が辞世を何と人問はば死にたくないというたとしてくれ
出所は、相馬御風著『一人想ふ』に、『観聴掌記』にある、とあるそうです。
(3)「死にたうなし」
最期の言葉の逸話として、良寛の臨終の際、ある人が「何かお心残りはありませんか」と尋ねたところ、「死にとうない」と答えた、と谷川敏朗著『良寛の逸話』(恒文社、1998年5月15日第1版第1刷発行)にあります(同書、228頁)。これについて谷川氏は、「遺言を求められて「死にとうない」と言った話は、一休や千厓の逸話になっているから、それが良寛にも用いられたのだろう」と書いておられます。
(4)「阿」
谷川敏朗著『良寛の逸話』に、「臨終の時人々が周りに座って、最期のことばを願った。すると良寛は口を開いて、「阿(あ)」と言っただけであった」とあります(同書、228頁)。これについて谷川氏は、「「阿」は密教でいう大宇宙で、宇宙に帰(き)することの意味か。それとも単なる嘆息だったか」と書いておられます。
この話の出所は、証聴の「良寛禅師碑銘並序」だと思われます。証聴の「良寛禅師碑銘並序」には、「天保紀元庚寅冬示微恙、臨終環坐咸乞遺偈、師即開口阿一聲耳、端然坐化焉、實是同暦二辛卯正月六日、世壽七十四、法臘五十三也」(天保紀元庚寅冬、微恙を示す。終るに臨み環坐咸(みな)遺偈を乞ふ。師即ち口を開いて阿(あ)と一声せしのみ。端然として坐化す。実に是(これ)同暦二辛卯正月六日、世壽七十四、法臘五十三なり)とあるそうです。
相馬御風著『良寛を語る』(博文館、昭和16年12月27日発行)にある「新発見の良寛禅師碑文」には、「証願」の「良寛禅師碑石並序」が引かれてあり、そこには、「天保庚寅冬微恙告終、人乞遺誡、師開口一嘆而已、端座示寂、實天保二年辛卯正月六日也、世壽七十四、法臘五十三」とあります(231~232頁)。ここには「証願」とあり、「良寛禅師碑石並序」となっており、本文も「良寛禅師碑銘並序」のものとは違っています。
→『国立国会図書館デジタルコレクション』
→
相馬御風著『良寛を語る』
125~126/209
なお、『定本
良寛全集 第三巻』(書簡集 法華転・法華讃)の巻末に記載してある「良寛略年譜」の1833年(天保2年)の項には、「証聴の「良寛禅師碑銘並序」成る」とあります
(「並」は、全集には「幷」の漢字が使ってあります)。
この「良寛禅師碑石並序」とあるのは「良寛禅師碑銘並序」が正しく、「証願」も「証聴」が正しいと思われます。
(2013年10月11日)
なお、この話は、立松和平著『良寛のことば こころと書』(考古堂書店、2010年1月20日発行)にも、「良寛の臨終の時、そばにいた僧は貞心尼と証徳(しょうとく)和尚であった。後に証徳は良寛の臨終の様子を、「良寛禅師碑銘竝(ならびに)序」で石に刻みつけている。その情景はこうだ。/
良寛がいよいよ臨終をむかえようとする時、人々は輪をつくって遺偈(ゆいげ)、すなわち禅僧がこの世で最後につくる偈(げ)を乞うた。すると良寛は口を開いて、「阿(あ)」と一声発した。そのまま端然と坐って遷化(せんげ)した。七十四歳、僧の法臘(ほうろう)では五十三歳であった。/
阿とは阿吽(あうん)の阿であり、梵語の第一字母である。阿字は万物の根源の象徴であり、不生不滅(ふしょうふめつ)の境地にあることを表現している。この阿こそ、良寛が不生不滅の究極の境地、釈尊が最後にはいった涅槃の世界に到達したことを象徴している。涅槃とは現象としては死であるが、煩悩の最後をきれいに燃やしつくした、究極のさとりの境地である。良寛は阿と一声して仏になったのであった」として、取り上げてあります。(同書、111頁)
ここでは、立松氏は、僧の名を「証徳(しょうとく)」としていますが、同じ立松氏の『良寛 行に生き行に死す』
(春秋社、2010年6月20日第1刷発行)の「臨終の一声」では、「臨終の時、そばにいたのは貞心尼(ていしんに)と証聴(しょうとく)法師であった。証聴は「良寛禅師碑銘并(ならびに)序」と題する碑文を刻んでいる」と書いています。
この僧については、「遍澄」と書かれたものもあり、相馬氏の「良寛禅師碑石並序」の碑文には「證願」とありますが、新潟良寛研究会のホームページ『良寛さんの心に学ぶ』の年譜には、「天保2年(1831)8月証聴(寺泊町蛇塚の僧)『良寛禅師碑石並序』を記す」とあります。
なお、立松氏は、「後に証徳は良寛の臨終の様子を、「良寛禅師碑銘竝(ならびに)序」で石に刻みつけている。」
(『良寛のことば こころと書』)、「証聴は「良寛禅師碑銘并(ならびに)序」と題する碑文を刻んでいる」
(『良寛 行に生き行に死す』)と書いておられますが、これについて相馬御風氏の『良寛を語る』には、「良寛禅師碑石並序」を引いて、「右碑文は東京神田小柳町一丁目虎屋久左衞門氏の蔵するところであるといふが、おそらくは建碑されずに終つたものでないかと思ふ」とあります。(同書、232頁)
大橋毅著『良寛─その任運の生涯』(新読書社、2004年8月20日初版発行)には、次のようにあります。「最期を看取った釈証聴は「良寛禅師碑銘並序」の中で、良寛の臨終を次のように記している。「終るに臨み、環坐みな遺偈(ゆいげ)を乞う。師すなわち口を開いて阿(あ)と一声せしのみ。端然として坐化す。実にこれ同暦(天保)二辛卯正月六日、世寿七十四、法臘五十三なり。時を遷すも顔貌あたかも生けるが如し。師四縁の哀悼啻(ただ)ならず。闍維(じゃい)の日、千有余人来(きた)り聚(あつま)り、ひとしく手を擎(ささ)げ流泣せざるなきなり。……」とある。/証聴は遍澄と同一人物ともとれるが明確ではない。」(同書、349頁)
ここで大橋氏は、「証聴は遍澄と同一人物ともとれるが明確ではない」と言っておられます。
東郷豊治編著『良寛全集 下巻』(東京創元社、昭和34年12月25日発行)の巻頭の解説「3 最初の刊本詩集について」の中に、「遍澄」について次のようにあります。
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遍澄は三島郡島崎村の早川甚五右衛門の長男、一説に佐藤某の二男といい、しばしば良寛を五合庵に訪ねて、親しく師事したという。良寛をその晩年に国上山から招いて、自分の屋敷内の別舎に住まわせた同じ島崎村の木村元右衛門は、恐らく遍澄の紹介で良寛の人となりを知ったのであろう。解良栄重(けらよししげ)の『良寛禅師奇話』のなかに、「師仏ニ入ル、初ハ如何ナル故ナルヲ不知。釈遍澄ニ問フベシ」とあるのを以てしても、余程早くから良寛と交わりのあったことが推察される。(14~15頁) |
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(5)我ながらうれしくもあるか弥陀仏の今その国に行くと思へば
これも死亡前日に詠まれたという逸話として、谷川敏朗著『良寛の逸話』に挙げてある歌です(同書、227頁)。
〔良寛の臨終の様子について〕
小松正衛著『良寛さま』(カラーブックス691、保育社・昭和60年9月30日発行)に、
「(弟子の)遍澄は晩年の良寛の生活をよく助け、その手足となって働いた。良寛が絶世の書、詩歌を残すことができたのも、遍澄が日頃生活の世話をしてくれた恩恵が大きいであろう。/
後に良寛は示寂の際、この遍澄の膝に頭をのせて最期を迎えたという。」とあります(同書、129頁)。
また、「いよいよ臨終の刻(とき)は近づいた。かたわらの者が良寛に、「なにか偈(げ)を」と頼んだところ、良寛は弱った息の下から、ただ「あゝ」と言っただけであった、という」とあります(同書、149頁)。
水上勉著『良寛のすべて』(自選仏教文学全集3)の「良寛を歩く」には、「(由之は)正月あけて四日には、島崎にきて、良寛のよろこぶ顔に接した。六日の午後四時すぎに良寛は二人(引用者注:由之と貞心尼)の前で息をひきとった」とあります。ただ、これが臨終の場にいたのが二人だけだったというのか、二人の他に木村家の人もいたのかは、はっきりしません。ただ、証澄がいたとは考えられないように思います。
高木一夫著『沙門良寛』には、「良寛は臨終の時、遍澄の膝にもたれていたと伝えられている。何処か儀式めいた感じがして、ひどく緊張感を与える話である。逝く者は何かを伝え、伝えられた者は、それを大切に保持してゆくであろうことが想像される。仏家は臨終には座るらしく、その時背後から支えている人があるわけであるが、縁の深い人が支えるに違いない。その人が遍澄であった。こうして一生寺を持つ事はおろか、新しい庵さえ持つことを拒んだ良寛は円寂した」とあります(同書、202頁)。ここでは、遍澄が臨終の席に侍っていた、とされています。
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《まとめ》
以上のことから考えて、「辞世」を本来の意味──死に臨んで詠まれる詩歌ととれば、良寛の辞世は、「うらを見せおもてを見せて散るもみぢ」という句である、ということになると思います。
これに対して「辞世」を広い意味でとらえ、必ずしも臨終に詠まれたものとは限らず、自分の死を念頭に詠まれた詩歌、ととらえれば、「形見とて……」の歌も、辞世(辞世の一種)とみることができる(みてよい)、と考えます。
以上が、「良寛の辞世」についての、現在における私の考えです。
(2013年9月4日)
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(注) |
1. |
上記の「良寛の辞世とされる句と歌について」の文章は、主として『定本 良寛全集』第3巻(内山知也・谷川敏朗・松本市壽
編集、中央公論新社・2007年3月20日初版発行、2008年10月30日4版発行。「句集」の注釈は、谷川敏明氏)に拠り、その他、下記の書籍を参照して記述しました。
〇貞心尼(編)『蓮(はちす)の露』(柏崎市立図書館蔵。自筆写本、天保6年(1835))
〇相馬御風著『大愚良寛』(春陽堂、大正7年(1918))
〇相馬昌治(御風)著『良寛と蕩児 その他』(実業之日本社、1931)所収の「八重菊日記」
〇高木一夫著『沙門良寛』(短歌新聞社、昭和48年(1973)4月2日発行)
〇谷川敏朗著『良寛の逸話』(恒文社、1998年5月15日第1版第1刷発行)
〇谷川敏朗著『校注 良寛全句集』(春秋社、平成12年(2000)2月10日第1刷発行)
〇水上勉『良寛のすべて』(水上勉自選仏教文学全集3)(2002年7月20日初版発行)
〇大橋毅著『良寛──その任運の生涯』(新読書社、2004年8月20日初版発行)
〇『定本 良寛全集』第2巻(中央公論新社・2007年3月20日初版発行)
〇立松和平著『良寛のことば こころと書』(考古堂書店、2010年1月20日発行)
〇立松和平著『良寛 行に生き行に死す』(春秋社、2010年6月20日第1刷発行) |
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新潟県立図書館/『越後佐渡デジタルライブラリー』に、貞心尼自筆の「蓮(はちす)の露」(「貞心尼之遺書及辞世歌」柏崎市立図書館所蔵の写本。天保6年(1835))があって、本文を画像で見ることができます。
この「蓮(はちす)の露」についての解説を、『越後佐渡デジタルライブラリー』から次に引用させていただきます。
「蓮(はちす)の露」柏崎市立図書館蔵 貞信尼自筆の歌集。体裁は和紙を袋とじにした冊子本である。「蓮の露」の構成は、序文で良寛の略伝等が記され、本文では、良寛歌集、及び良寛・貞心唱和の歌と続き、この後には、不求庵のこと、山田静里翁のこと、良寛禅師戒語、「蓮の露」命名のことなどが、すべて貞信尼の筆によって書かれている。昭和50年7月1日柏崎市文化財第55号に指定を受け、当館中村文庫に大切に保管されている。
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相馬御風著『大愚良寛』(春陽堂、昭和23年3月10日発行)は、『国立国会図書館デジタルコレクション』で、画像で見る(読む)ことができます。
『国立国会図書館デジタルコレクション』
→ 相馬御風著『大愚良寛』 |
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良寛(りょうかん)=江戸後期の禅僧・歌人。号は大愚。越後の人。諸国を行脚の後、帰郷して国上山(くがみやま)の五合庵などに住し、村童を友とする脱俗生活を送る。書・漢詩・和歌にすぐれた。弟子貞心尼編の歌集「蓮(はちす)の露」などがある。(1758-1831) (『広辞苑』第6版による。) |
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新潟県出雲崎町にある『良寛記念館』のホームページがあります。
→ 『良寛記念館』 |
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『越佐研究』第38集(新潟県人文研究会、昭和52年11月25日発行)に、山本哲成・宮栄二両氏による「新発見の「良寛禅師碑銘並序」」があり、相馬御風『良寛を語る』所収の「良寛禅師碑石並序」と、昭和52年4月に北魚沼郡小出町・茂野氏所有の文書中から発見された「良寛禅師碑銘並序」が、上下に並べて対照的に紹介されています(原文と書き下し文があります)。
ここに、「題名が旧史料では碑石並序とあるが、新史料の碑銘並序とあるのが正しく、筆者名も旧史料の証願は新史料では明らかに証聴と記されており、また詩撰は謹撰であって、これも筆写の誤なのであろう」と記されています(同誌、3頁)。(2013年10月12日追記) |
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7. |
資料465に「良寛禅師碑石並序」と「良寛禅師碑銘並序」があります。 |
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