資料467 「良寛禅師碑石並序」の本文
(1)相馬御風著『良寛を語る』所収の「良寛禪師碑石並序」
良寛禪師碑石並序
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本州出雲崎有逸僧、號大愚字良寛、其爲人、氣宇超邁擧措眞率、幼而異乎常人也、夙因所根、出塵之志不息、會備圓通寺主國仙老師遊化、徃投之、一見器重、爲薙染焉、服勒久之頗領祖意、仙老附偈云、良也如愚道轉寛、騰々任運得誰看、爲附山形爛藤杖、到處壁間午睡間、後叩諸方、未謁宗龍于紫雲、深究道奧、爾來潜行密用、一不與浮花爲伍、山雲水萍居住自由、不蹈三級之世途、無露五宗之圭角、詩歌翰墨、以充法用佛事、妙化擧世風靡、平處嶮々中平不可得而窺、於是上士亦倒退矣、想入神僧傳、非如此人而誰、優游風顚殆五十年、文政丁亥、齡古稀逼招移鉢於嶋崎木村別齋、五易裘葛天保庚寅冬微恙告終、人乞遺誡、師開口一嘆而已、端座示寂、實天保二年辛卯正月六日也、世壽七十四、法臘五十三經日顔貌如生、闍纖日、奔喪者一十餘人、莫弗追慕、嗚呼師者可謂利水之慈航、欲火裡優曇也、余嘗道愛、今聞訃音、悲感之餘、唯恐德行泯沒于世、因忘固陋、述厥梗概、敢爲之銘、竊勒堅珉以謀不朽云、銘曰 |
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(2)東郷豊治編著『良寛全集 上巻』所収の「良寛禅師碑石並序」
良寛禅師碑石並序
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本州出雲崎有逸僧、号大愚、字良寛、其為人、気宇超邁、挙措真率、幼而異乎常人也、夙因所根、出塵之志不息、会備円通寺主国仙老師遊化、往投之、一見器重、為薙染焉、服勒久之、頗領祖意、仙老附偈云、良也如愚道転寛、騰々任運得誰看、為附山形爛藤杖、到処壁間午睡閒、後叩諸方、未謁宗龍于紫雲、深究道奧、爾来潜行密用、一不与浮花為伍、山雲水萍、居住自由、不蹈三級之世途、無露五宗之圭角、詩歌翰墨、以充法用仏事、妙化挙世、風靡平所、嶮々中平、不可得而窺、於是上士亦倒退矣、想入神僧伝、非如此人而誰、優游風顚、殆五十年、文政丁亥、齡古稀逼、招移鉢於嶋崎木村別斎、五易裘葛、天保庚寅冬、微恙告終、人乞遺誡、師開口一嘆而已、端坐示寂、実天保二年辛卯正月六日也、世寿七十四、法臘五十三、経日顔貌如生、闍維日、奔喪者一千余人、莫弗追慕、嗚呼、如師者、可謂利水中之慈航、欲火裡優曇也、余嘗道愛、今聞訃音、悲感之余、唯恐徳行泯没于世、因忘固陋、述厥梗概、敢為之銘、竊勒堅珉、以謀不朽云、銘曰、体寛大道、良玄又玄、若愚似魯、超聖越賢、也出世際、志業無倫、春花濃綻、秋月高円、天保二年辛卯仲秋、參徒 北越証願詩撰、 |
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(3)『越佐研究』第38集所収の「良寛禅師碑石幷序」
良寛禅師碑石幷序
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本州出雲崎有逸僧 号大愚字良寛、其為人、気宇超邁挙措真率 幼而異乎常人也 夙因所根、出塵之志不息、会備円通寺主国仙老師遊化、徃投之、一見器重、為薙染焉、服勤久之頗領祖意、仙老附偈云、良也如愚道転寛、騰々任運得誰看、為附山形爛藤杖、到処壁間午睡間、後叩諸方 未謁宗竜于紫雲、深究道奧、爾来潜行密用、一不与浮花為伍、山雲水萍、居住自由、不踏三級之世途、無露五宗之圭角、詩歌翰墨、以充法用仏事、妙化挙世風靡、平処嶮々中平、不可得而窺、於是上士亦倒退矣、想入神僧伝、非如此人而誰、優游風顚五十年 文政丁亥、齡古稀逼、招移鉢於嶋崎木村別斎五易裘葛、天保庚寅冬微恙告終、人乞遺誡、師開口一嘆而已、端座示寂、実天保二年辛卯正月六日也、世寿七十四法臘五十三、経日顔貌如生、闍維日奔喪者一十余人、莫弗追慕、嗚呼師者可謂利水之慈航、欲火裡優曇也、余嘗道愛、今聞訃音、悲感之余、唯恐徳行泯没于世、因忘固陋、述厥梗概、敢為之銘、竊勒堅珉以謀不朽云 |
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(注) | 1. |
上記の「良寛禅師碑石並序」の本文は、(1)は相馬御風著『良寛を語る』(博文館、昭和16年12月27日発行)所収のもの、(2)は東郷豊治編著『良寛全集 上巻』(東京創元社、昭和34年11月30日発行)の巻末の「参考資料」の中に収められているもの、(3)の「良寛禅師碑石並序」の本文は『越佐研究』第38集(新潟県人文研究会、 昭和52年11月25日発行)に収められている山本哲成・宮栄二両氏による「新発見の「良寛禅師碑銘並序」」に掲載してあるものを、それぞれ原文のまま(明らかな誤植以外の漢字はそのまま)記述しました。 なお、東郷豊治編著『良寛全集 上巻』の本文は、「相馬御風氏著『良寛を語る』載録による」としてあるのですが、昭和16年12月27日発行の『良寛を語る』と一部異なる箇所があります。相馬氏のこの昭和16年発行の『良寛を語る』の本文には誤植・脱字があって、後の版でそれが補訂されているのかもしれません。 昭和16年12月27日発行の相馬御風著『良寛を語る』は、『国立国会図書館デジタルコレクション』で見ることができます。 『国立国会図書館デジタルコレクション』 → 相馬御風著『良寛を語る』 125~126/209 |
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2. | 次に、昭和16年発行の『良寛を語る』・東郷豊治編著『良寛全集
上巻』・『越佐研究』第38集に掲載されている「良寛禅師碑石並序」の、三者の異同を示しておきます。この三者は、いずれも相馬御風著『良寛を語る』をもとにしているものですが、以下のような違いが見られます。 昭和16年発行の『良寛を語る』 東郷豊治編著『良寛全集 上巻』『越佐研究』第38集 服勒久之 (勒) 服勒久之 (勒) 服勤久之 (勤) 風顚殆五十年 (殆) 風顚殆五十年 (殆) 風顚五十年 (殆ナシ) 端座示寂 (座) 端坐示寂 (坐) 端座示寂 (座) 闍纖日 (纖。誤植カ?) 闍維日 (維) 闍維日 (維) 一十餘人(十。誤植ナラン) 一千余人 (千) 一十餘人(十。誤植ナラン) 嗚呼師者 (如ナシ) 嗚呼如師者 (如アリ) 嗚呼師者 (如ナシ) 利水之慈航 (中ナシ) 利水中之慈航 (中アリ) 利水之慈航 (中ナシ) なお、『良寛を語る』に「開口一嘆而己」、『越佐研究』に「遠厥梗概」とあるのは明らかな誤植と見て、ここには取り上げてありません。 |
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3. | 相馬御風著『良寛を語る』(博文館、昭和16年12月27日発行)に「新発見の良寛禅師碑文」として引かれている「良寛禅師碑石並序」は、同書の231~233頁に出ています。 この碑について、相馬御風氏は、 「右碑文は東京神田小柳町一丁目虎屋久左衞門氏の藏するところであるといふが、おそらくは建碑されずに終つたものでないかと思ふ。/それにしても良寛和尚遷化の年の秋、既にかかる立派な碑文が撰せられて居たことは隨喜に値する。しかも記述至つて適確、理解甚だ周到である點から考へると、筆者はかなり良寛和尚に接近してゐた人であつたらしい。たゞ證願(しようぐわん)その人が同國越後の禅僧であつたことが自記によつてわかるだけで、その如何なる人物であつたかが、どう調べてもいまだにわからないのは遺憾である。/切に識者の示敎を俟つ」 と書いておられます(同書、232~233頁)。 |
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4. | 『越佐研究』第38集には、相馬御風『良寛を語る』所収の「良禅師碑石並序」と、昭和52年4月に北魚沼郡小出町・茂野氏所有の文書中から発見された「良寛禅師碑銘並序」が、上下に並べて対照的に紹介されていて、たいへん参考になります(原文の他に、書き下し文があります)。 またここに、「新史料は「騰々任運」の一句を脱し、(中略)疑問のあった(旧史料の)「未謁宗竜乎紫雲」は新史料では「末后謁宗竜乎紫雲」とあり、原文の「末后」が書き写しの際に「未」に誤られたのにちがいない」「題名が旧史料では碑石並序とあるが、新史料の碑銘並序とあるのが正しく、筆者名も旧史料の証願は新史料では明らかに証聴と記されており、また詩撰は謹撰であって、これも筆写の誤なのであろう」と記されています(同誌、2~3頁)。 |
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5. | 相馬御風著『良寛を語る』及び東郷豊治編著『良寛全集 上巻』に引かれている「良寛禅師碑石並序」と、『越佐研究』第38集に引かれている「良寛禅師碑銘並序」とには、かなりの違いが見られます。この二つの「碑石並序」と「碑銘並序」がどのような関係にあるのか、よく分かりません。 | ||||
6. | 良寛(りょうかん)=江戸後期の禅僧・歌人。号は大愚。越後の人。諸国を行脚の後、帰郷して国上山(くがみやま)の五合庵などに住し、村童を友とする脱俗生活を送る。書・漢詩・和歌にすぐれた。弟子貞心尼編の歌集「蓮(はちす)の露」などがある。(1758-1831)(『広辞苑』第6版による。) | ||||
7. | 資料465に「「良寛禅師碑石並序」と「良寛禅師碑銘並序」」があります。 | ||||
8. |
新潟県出雲崎町にある『良寛記念館』のホームページがあります。 → 『良寛記念館』 |