資料448 范巨卿鷄黍死生交(『古今小説』より)

 
       

 

古今小説
 

 

 

 范巨卿雞黍死生交

 

 

種樹莫種垂楊枝結交莫結輕薄兒楊枝不耐秋風吹輕薄易結還易離君不見昨日書來兩相憶今日相逢不相識不如楊枝猶可久一度春風一回首

 

 

 

 

這篇言語是結交行言語*交最難今日説一箇秀才乃漢明帝時人姓張名劭字元伯是汝州南城人氏家本農業苦志讀書年三十五歳不曾婚娶其老母年近六旬井弟張勤努力耕種以供二膳時漢帝求賢劭辭老母別兄弟自負書囊來到東都洛陽應擧在路非只一日到洛陽不遠當日天晩投店宿歇是夜常聞鄰房有人聲喚劭至晩問店小二間壁聲喚的是誰小二荅道是一箇秀才害時症在此將死劭曰既是斯文當以看視小二曰瘟病過人我們尚自不去看他秀才儞休去劭曰死生有命安有病能過人之理吾須視之小二勸不住劭乃推門而入見一人仰面臥於土榻之上面黃肌瘠口内只叫救人劭見房中書囊衣冠都是應擧的行動遂扣頭邊而言曰君子勿憂張劭亦是赴選之人今見汝病至篤吾竭力救之藥餌粥食吾自供奉且自寛心其人曰若君子救得我病容當厚報劭隨即凂人請醫用藥調治蚤晩湯水粥食劭自供給數日之後汗出病減漸々將息能起行立劭問之乃是楚州山陽人氏姓范名式字巨卿年四十歳世本商賈幼亡父母有妻小近棄商賈來洛陽應擧比及范巨卿將息得無事了誤了試期范曰今因式病有誤足下功名甚不自安劭曰大丈夫以義氣爲重功名富貴乃微末耳已有分定何誤之有范式自此與張劭情如骨肉結爲兄弟式年長五歳張劭拜范式爲兄結義後朝暮相隨不覺半年范式思歸張劭與計算房錢還了店家二人同行數日到分路之處張劭欲送范式范式曰若如此某又送回不如就此一別約再相會二人酒肆共飲見花紅葉粧點秋光以助別離之興酒座間杯泛茱茰問酒家方知是重陽佳節范式曰吾幼亡父母屈在商賈經書雖則留心奈爲妻子所累幸賢弟有老母在堂汝母即吾母也來年今日必到賢弟家中登堂拜母以表通家之誼張劭曰但村落無可爲款倘蒙兄長不棄當設雞黍以待幸勿失信范式曰焉肯失信於賢弟耶二人飲了數杯不忍相捨張劭拜別范式范式去後劭凝望墮涙式亦回顧涙下兩各悒怏而去有詩爲證
  手採黃菊
泛酒巵  殷懃先訂隔年期
  臨岐不忍輕分別   執手依々各涙垂
且説張伯元
到家參見老母母曰吾兒一去音信不聞令我懸望如饑似渇張劭曰不孝男於途中遇山陽范巨卿結爲兄弟以此逗留多時母曰巨卿何人也張劭備述詳細母曰功名事皆分定既逢信義之人結交甚快我心少刻弟歸亦以此事從頭説知各々歡喜自此張劭在家再攻書史以度歳月光陰迅速漸近重陽劭乃預先畜養肥雞一隻杜醞濁酒是日蚤起灑掃草堂中設母座傍列范巨卿位遍插菊花於瓶中焚信香於座上呼弟宰雞炊飯以待巨卿母曰山陽至此迢遞千里恐巨卿未必應期而至待其至殺雞未遲劭曰巨卿信士也必然今日至矣安肯誤雞黍之約入門便見所許之物足見我之待久如候巨卿來而後宰之不見我倦々之意母曰吾兒之友必是端士遂烹炰以待是日天晴日朗萬里無雲劭整其衣冠獨立莊門而望看々近午不見到來母恐誤了農桑令張勤自去田頭收割張劭聽得前村犬吠又往望之如此六七遭因看紅日西沉現出半輪新月母出戸令弟喚劭曰兒久立倦矣今日莫非巨卿不來且自晩膳劭謂弟曰汝豈知巨卿不至耶若范兄不來吾誓不歸汝農勞矣可自歇息母弟再三勸歸劭終不許候至更深各自歇息劭倚門如醉如癡風吹草木之聲莫是范來皆自驚訝看見銀河耿々玉宇澄々漸至三更時分月光都沒了隱々見黑影中一人隨風而至劭見之乃巨卿也再拜踴躍而大喜曰小弟自蚤直候至今知兄非爽信也兄果至矣舊歳所約雞黍之物備之已久路遠風塵別不曾有人同來便請至草堂與老母相見范式並不答話逕入草堂張劭指座榻曰特設此位專待兄來兄當高座張劭笑容滿面再拜於地曰兄既遠來路途勞困且未可與老母相見杜釀雞黍聊且充饑言訖又拜范式僵立不語但以衫袖反掩其面劭乃自奔入厨下取雞黍幷酒列於面前再拜以進曰酒殽雖微劭之心也幸兄勿責但見范於影中以手綽其氣而不食劭曰兄意莫不怪老母幷弟不曾遠接不肯食之容請母出與同伏罪范搖手止之劭曰喚舍弟拜見若何范亦搖手而止之劭曰兄食雞黍後進酒若何范蹙其眉似敎張退後之意劭曰雞黍不足以奉長者乃劭當日之約幸勿見嫌范曰弟稍退後吾當盡情訴之吾非陽世之人乃陰魂也劭大驚曰兄何故出此言范曰自與兄弟相別之後回家爲妻子口腹之累溺身商賈中塵世滾々歳月匆々不覺又是一年向日雞黍之約非不掛心近被蠅利所牽忘其日期今蚤鄰佑送茱茰酒至方知是重陽忽記賢弟之約此心如醉山陽至此千里之隔非一日可到若不如期賢弟以我爲何物雞黍之約尚自爽信何况大事乎尋思無計常聞古人有云人不能行千里魂能日行千里遂囑付妻子曰吾死之後且勿下葬待吾弟張元伯至方可入土囑罷自刎而死魂駕陰風特來赴雞黍之約萬望賢弟憐憫愚兄恕其輕忽之過鑒其兇暴之誠不以千里之程肯爲辭親到山陽一見吾屍死亦瞑目無憾矣言訖涙如迸泉急離坐榻下階砌劭乃趨歩逐之不覺忽踏了蒼苔顚倒於地陰風拂面不知巨卿所在有詩爲證
  風吹落月夜三更  千里幽魂叙舊盟
  只恨世人多負約  故將一死見平生
張劭如夢如醉放聲大哭那哭聲驚動母親幷弟急起視之見堂上陳列雞黍酒果張元伯昏倒於地用水救醒扶到堂上半晌不能言又哭至死母問曰汝兄巨卿不來有何利害何苦自哭如此劭曰巨卿以雞黍之約已死於非命矣母曰何以知之劭曰適間親見巨卿到來邀迎入坐具雞黍以迎但見其不食再三懇之巨卿曰爲商賈用心失忘了日期今蚤方醒恐負所約遂自刎而死陰魂千里特來一見母可容兒親到山陽葬兄之屍兒明蚤收拾行李便行母哭曰古人有云囚人夢赦渇人夢漿此是吾兒念々在心故有此夢警耳劭曰非夢也兒親見來酒食見在逐之不得忽然顚倒豈是夢乎巨卿乃誠信之士豈妄報耶弟曰此未可信如有人到山陽去當問其虚實劭曰人稟天地而生天地有五行金木水火土人則有五常仁義禮智信以配之惟信非同小可仁所以配木取其生意也義所以配金取其剛斷也禮所以配水取其謙下也智所以配火取其明達也信所以配土取其重厚也聖人云大車無輗小車無軏其何以行之哉又云自古皆有死民無信不立巨卿既已爲信而死吾安可不信而不去哉弟專務農業足可以奉老母吾去之後倍加恭敬晨昏甘旨勿使有失遂拜辭其母曰不孝男張劭今爲義兄范巨卿爲信義而亡須當往弔已再三叮嚀張勤令侍養老母母須蚤晩勉強飲食勿以憂愁自當善保尊體劭於國不能盡忠於家不能盡孝徒生於天地之間耳今當辭去以全大信母曰吾兒去山陽千里之遙月餘便回何故出不利之語劭曰生如浮漚死生之事旦夕難保慟哭而拜弟曰勤與兄同去若何元伯曰母親無人侍奉汝當盡力事母勿令吾憂灑涙別弟背一箇小書囊來蚤便行有詩爲證
  辭親別弟到山陽  千里迢々客夢長
  豈爲友朋輕骨肉  只因信義迫中腸
沿路上饑不擇食寒不思衣夜宿店舍雖夢中亦哭毎曰蚤起趕程恨不得身生兩翼行了數日到了山陽問巨卿何處住徑奔至其家門首見門戸鎖着問及鄰人鄰人曰巨卿死已過二七其妻扶靈柩往郭外去下葬送葬之人尚自未回劭問了去處奔至郭外望見山林前新築一所土牆牆外有數十人面々相覷各有驚異之狀劭汗流如雨走往觀之見一婦人身披重孝一子約有十七八歳伏棺而哭元伯大叫曰此處莫非范巨卿靈柩乎其婦曰來者莫非張元伯乎張曰張劭自來不曾到此何以知名姓耶婦泣曰此夫主再三之遺言也夫主范巨卿自洛陽回常談賢叔盛德前者重陽日夫主忽擧止失措對妾曰我失却元伯之大信徒生何益常聞人不能行千里吾寧死不敢有誤雞黍之約死後且不可葬待元伯來見我屍方可入土今日已及二七人勸云元伯不知何日得來先葬訖後報知未晩因此扶柩到此衆人拽棺入金井並不能動因此停住墳前衆都驚怪見叔々遠來如此慌速必然是也元伯乃哭倒於地婦亦大慟送殯之人無不下涙元伯於囊中取錢令買祭物香燭紙帛陳列於前取出祭文酹酒再拜號泣而讀文曰

 

維某年月日契弟張劭謹以炙雞絮酒致祭於仁兄巨卿范君之靈曰於維巨卿氣貫虹霓義高雲漢幸傾蓋於窮途締盍簪於荒痁黃花九日肝膈相盟靑劒三秋頭顱可斷堪憐月下凄凉恍似日間眷戀弟今辭母來尋碧水青松兄亦囑妻竚望素車白練故友那堪死別誰將金石盟寒大夫自是生輕欲把昆吾鍔按歴千古而不磨期一言之必踐倘靈爽之猶存料冥途之長伴嗚呼哀哉尚饗

 

元伯發棺視之哭聲慟地回顧嫂曰兄爲弟亡豈能獨生耶囊中已具棺槨之費願嫂垂憐不棄鄙賤將劭葬於兄側平生之大幸也嫂曰叔何故出此言也劭曰吾志已決請勿驚疑言訖掣佩刀自刎而死衆皆惊愕爲之設祭具衣棺營葬於巨卿墓中本州太守聞知將此事表奏明帝憐其信義深重兩生雖不登第亦可褒贈以勵後人范巨卿贈山陽伯張元伯贈汝南伯墓前建廟號信義之祠墓號信義之墓旌表門閭官給衣糧以膳其子巨卿子范純綬及第進士官鴻臚寺卿至今山陽古跡猶存題詠極多惟有無名氏踏莎行一詞最好詞云千里途遙隔年期遠片言相許心無變寧將信義托遊魂堂中雞黍空勞勸○月暗燈昏涙痕如線死生雖隔情何限靈輀若候故人來黃泉一笑重相見

 

 


  (注) 1.  上記の本文は、『神奈川大学学術機関リポジトリ』所収『古今小説』の「范巨卿雞黍死生交」によりました。 この『古今小説』は、沢田重淵(一斎)の撰、自筆であるが、出版地・出版年ともに不明ということです(注2参照) 。この「范巨卿雞黍死生交」の本文は、                             
 『古今小説』 01〕古今小説一沢田 重淵(一斎)〔撰〕
 → ファイル「1-2、pdf 」Patial data №2の 17~19/19
  ファイル「1-3、pdf 」Patial data №3 の 1~8/19
 で見ることができます。
 
今はダウンロードしないと見られないようなのでリンクを外しました。(2023年10月2日)
  → 神奈川大学図書館OPAC(古今小説[マイクロ資料])

 『古今小説』の原文は、『法政大学デジタルアーカイブ』の『正岡子規文庫』に入っているのを見ることができます。(注4参照)

 (お断り:「范巨卿雞黍死生交」の「雞」が環境依存文字なので、目次には「鷄」にしてあります。
 なお、題名にある「雞黍(けいしょ)」とは、心をこめて人をもてなすことで、『広辞苑』に、次のようにあります。<けいしょ【鶏黍】〔論語
微子「子路を止(とど)めて宿(しゅく)せしめ、鶏を殺し黍を為(つく)りて之を食せしむ」〕鶏を殺し黍飯(きびめし)を炊いて食べさせること。転じて、心をこめて人をもてなすこと。>引用者が読みを少し補いました。なお、注5を参照のこと。)

 本文冒頭の「這篇言語是結交行言語*交最難」の「言交最難」は、「言交最難」ではないかと思われますが、「語*」として原文のままにしてあります。
 また、初めのほうに出て来る詩の「手採黃菊泛酒巵」の「黄」も、普通の本文は「黄」になっているようですが、原文のまま「黄菊
*」にしてあります。 
 このすぐ後に出ている「且説張伯元
到家參見老母」の「伯元」も、「元伯」ではないかと思われますが、原文のまま「伯元」にしてあります。 
   
    2.  『古今小説』の解説は、同じ『神奈川大学 学術機関リポジトリ』の「古今小説」をご覧ください。(今はダウンロードしないと見られないようです。2023年10月2日)
 解説の一部を引かせていただくと、

 『古今小説』は、中国明代の末期に、馮夢龍が、みずから収拾した話本のうち、まず40編を『全像古今小説』40巻(1巻1話)として刊行し、これを改編改題して『喩世明言』24巻として重刻、ついで『警世通言』40巻、『醒世恒言』40巻を刊行した。『喩世明言』の見返しには「重刻増補古今小説」、『醒世恒言』の見返しには「絵像古今小説」と題されており、『古今小説』とは、以上3言120種の小説全体に与えられた総称である。
 神奈川大学図書館所蔵の『古今小説』は、沢田重淵(一斎)の撰、自筆であるが、出版地・出版年ともに不明。沢田重淵(1701-1782)は、江戸の儒者で、京都書肆・風月堂の店主として多数の学術書を出版した。

 引用者注:馮夢竜(龍)(フウ ボウリョウ・フウ ムリョウ)=〔人名〕1574-1645。明
(ミン)末の文人。字(アザナ)は猶竜または子猶。江蘇(コウソ)省呉県の人。宋(ソウ)・元以来の短編小説を集めた「三言」や、笑話を集めた「笑府」の編者。(『旺文社漢和辞典』改訂新版、1964年3月15日初版、1986年10月20日改訂新版発行による。)
 「三言」とは、『喩世
(ユセイ)明言』『警世通言』『醒世恒言(セイセイコウゲン)』のこと。
   
    3.  漢字の字体は、必ずしも原文の字体になっているとは限りません。(新字体のものを旧字体にしてある場合があります。)    
    4.  『法政大学デジタルアーカイブ』『正岡子規文庫』があり、その中に『古今小説』自十四 到十六があり、そこで巻十六「范巨卿雞黍死生交」(コマ番号44~/54)を見ることができます。    
    5.  『古今小説』の「范巨卿雞黍死生交」は、上田秋成の「菊花の約(ちぎり)」のもとになった小説として知られています。
 
資料447に、上田秋成「菊花の約」(『雨月物語』より)があります。
   
    6.  題名にある「雞黍」について、『論語』微子篇から一部を引用しておきます。
 子路從而後。遇丈人以杖荷蓧。子路問曰、子見夫子乎。丈人曰、四體不勤、五穀不分。孰爲夫子。植其杖而芸。子路拱而立。止子路宿、殺鷄爲黍而食之、見其二子焉。
(以下、略)
 この「爲黍(きびをつくる)」について、諸橋徹次先生の『掌中論語の講義』に、「黍を爲るは、当時は五穀の中では黍(きび)が最上等のものとされたので、これを炊いて食べさせたのは、優遇したこととなる」とあります。五穀とは、黍・稷・稲・粱・麦、とあります。
 手元の『改訂新版漢字源』(2002年)には、<五穀=(1)五種の穀物。稲(米)・黍
ショ(もちきび)・稷ショク(こうりゃん)・麦・菽シュク(豆)のこと。▽一説に、麻・黍・稷・麦・豆とも。(2)穀物類の総称。(3)〔国語〕米・麦・黍きび・粟あわ・豆のこと>とあります。
   
    7.  『高崎経済大学論集』第48巻第4号に、中田妙葉氏の「「菊花の約」における「信義」について─中国白話小説「范巨卿鶏黍死生交」との関係による一考察─」という論文があります。     
    8.  李国勝氏の「「菊花の約」考」という論文(同志社国文学会・昭和61年12月30日発行の『同志社国文学』第28号掲載)があります。
  → 李国勝 「菊花の約」考
   
    9.  フリー百科事典『ウィキペディア』 に「馮夢竜」(ふう むりゅう(ぼうりゅう とも))の項があります。(ただし、今のところ書きかけ項目だそうです。2013年1月18日現在)    
    10.  『寄暢園』というサイトで、「范巨卿雞黍死生交」の訳が見られます。
  → 『寄暢園』
  → 樂志堂 
  → 重陽の約束(一)~(六             
   


   

          

      
      

      
                                   
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