資料447 上田秋成「菊花の約」(『雨月物語』より)

 
       

 

     菊 花(きくくは)の 約(ちぎり)      上田秋成『雨月物語』より

靑々
(せいせい)たる春の柳、家園(みその)に種(うゆ)ることなかれ。交(まじは)りは輕薄(けいはく)の人と結ぶことなかれ。楊柳(やうりう)(しげ)りやすくとも、秋の初風(はつかぜ)の吹に耐(たへ)めや。輕薄(けいはく)の人は交(まじは)りやすくしてまた速(すみやか)なり。楊柳いくたび春に染(そむ)れども、輕薄(けいはく)の人は絶(たえ)て訪(とむら)ふ日なし。播磨の國加古の驛(うまや)に丈部(はせべ)左門(もん)といふ博士(はかせ)あり。淸貧(せいひん)を憩(あまな)ひて、友とする書(ふみ)の外はすべて調度(てうど)の絮煩(わづらはしき)を厭(いと)ふ。老母あり。孟子(もうし)の操(みさを)にゆづらず。常に紡績(うみつむぎ)を事として左門がこゝろざしを助く。其季女(いもうと)なるものは同じ里の左用氏(さようぢ)に養(やしな)はる。此左用(さよ)が家は頗(すこぶる)(とみ)さかえて有けるが、丈部(はせべ)母子の賢(かしこ)きを慕(した)ひ、娘子(をとめ)を娶(めと)りて親族となり、屢(しばしば)事に托(よせ)て物を餉(おく)るといへども、口腹(こうふく)の爲に人を累(わづらは)さんやとて、敢(あへ)て承(うく)ることなし。一日(あるひ)左門同じ里の何某(なにがし)が許(もと)に訪(とふら)ひて、いにしへ今の物がたりして興ある時に、壁(かべ)を隔(へだて)て人の痛楚(くるしむ)聲いともあはれに聞えければ、主(あるじ)に尋ぬるに、あるじ答ふ、これより西の國の人と見ゆるが、伴(とも)なひに後(おく)れしよしにて、一宿(ひとよ)を求らるゝに、士家(しか)の風(ふう)ありて卑(いや)しからぬと見しまゝに、逗(とゞめ)まいらせしに、その夜邪熱(じやねつ)(はなはだ)しく、起臥(おきふし)も自(みづから)はまかせられぬを、いとをしさに三日五日は過しぬれど、何地(いづち)の人ともさだかならぬに、主(あるじ)も思ひがけぬ過(あやまり)し出て、こゝち惑(まど)ひ侍りぬといふ。左門聞て、かなしき物がたりにこそ。あるじの心安からぬもさる事にしあれど、病苦(べうく)の人はしるべなき旅の空に此疾(やまひ)を憂(うれ)ひ給ふは、わきて胸窮(むねくる)しくおはすべし。其やうをも看(み)ばやといふを、あるじとゞめて、瘟病(おんびう)は人を過(あやま)つ物と聞ゆるから、家童(わらべ)らもあへてかしこに行しめず。立よりて身を害(がゐ)し給ふことなかれ。左門笑ていふ、死生(しせい)(めい)あり。何の病か人に傳(つた)ふべき。これらは愚俗(ぐぞく)のことばにて、吾們(ともがら)はとらずとて、戸(と)を推(おし)て入つも其人を見るに、あるじがかたりしに違(たが)はで、倫(なみ)の人にはあらじを、病深きと見えて、面(おもて)は黄(き)に、肌(はだへ)(くろ)く瘦(やせ)、古き衾(ふすま)の上に悶(もだ)へ臥(ふ)す。人なつかしげに左門を見て、湯ひとつ惠(めぐ)み給へといふ。左門ちかくよりて、士(し)(うれ)へ給ふことなかれ。必救(すく)ひまいらすべしとて、あるじと計(はか)りて、藥をえらみ、自(みづから)(はう)を案(あん)じ、みづから煮(に)てあたへつも、猶粥(かゆ)をすゝめて、病を看(み)ること同胞(はらから)のごとく、まことに捨がたきありさまなり。かの武士左門が愛憐(あはれみ)の厚きに泪を流して、かくまで漂客(へうかく)を惠(めぐ)み給ふ。死すとも御心に報(むく)ひたてまつらんといふ。左門諌(いさめ)て、ちからなきことはな聞え給ひそ。凡疫(ゑき)は日數あり。そのほどを過ぬれば壽命(ことぶき)をあやまたず。吾日々に詣(まうで)てつかへまいらすべしと、実(まめ)やかに約(ちぎ)りつゝも、心をもちゐて助(たすけ)けるに、病漸(やゝ)(げん)じてこゝち淸(すゞ)しくおぼえければ、あるじにも念比に詞をつくし、左門が陰德(ゐんとく)をたふとみて、其生業(なりはひ)をもたづね、己(おの)が身の上をもかたりていふ。故(もと)出雲の國松江の郷(さと)に生長(ひととなり)て、赤穴(あかな)宗右衞門といふ者なるが、わづかに兵書(へいしよ)の旨(むね)を察(あきらめ)しによりて、冨田(とみた)の城主塩冶掃部介(えんやかもんのすけ)、吾を師として物學(まな)び給ひしに、近江の佐々木氏綱(うぢつな)に密(みそか)の使(つかひ)にえらばれて、かの舘(みたち)にとゞまるうち、前(さき)の城主尼子經久(あまこつねひさ)、山中黨(とう)をかたらひて大三十日(みそか)の夜不慮(すゞろ)に城を乘(のり)とりしかば、掃部殿も討死(うちじに)ありしなり。もとより雲州(うんしう)は佐々木の持國(もちぐに)にて、塩冶(えんや)は守護代(しゆごだい)なれば、三沢(みざは)三刀屋(みとや)を助けて、經久を亡(ほろ)ぼし給へとすゝむれども、氏綱は外(ほか)(ゆう)にして、内怯(をびへ)たる愚將(ぐしやう)なれば果(はた)さず。かへりて吾を國に逗(とゞ)む。故(ゆゑ)なき所に永く居(を)らじと、己(おの)が身ひとつを竊(ぬす)みて國に還(かへ)る路(みち)に、此疾(やまひ)にかゝりて、思ひかけずも師(し)を勞(わづらは)しむるは、身にあまりたる御恩(めぐみ)にこそ。吾半世(はんせい)の命(いのち)をもて必報(むく)ひたてまつらん。左門いふ、見る所を忍びざるは人たる者の心なるべければ、厚き詞ををさむるに故(ゆゑ)なし。猶逗(とゞま)りていたはり給へと、實(まこと)ある詞を便りにて日比經(ふ)るまゝに、物みな平生(つね)に邇(ちか)くぞなりにける。此日比左門はよき友もとめたりとて、日夜(ひるよる)(まじ)はりて物がたりすに、赤穴(あかな)も諸子百家(しよしひやくか)の事、おろおろかたり出て、問わきまふる心愚(おろか)ならず、兵機(へいき)のことわりはをさをさしく聞えければ、ひとつとして相ともにたがふ心もなく、かつ感(めで)、かつよろこびて、終(つひ)に兄弟の盟(ちかひ)をなす。赤穴(あかな)五歳長(ちやう)じたれば、伯氏(あに)たるべき礼義ををさめて、左門にむかひていふ、吾父母に離(わか)れまいらせていとも久し。賢弟(けんてい)が老母は即(やがて)吾母なれば、あらたに拜(をが)みたてまつらんことを願ふ。老母あはれみてをさなき心を肯(うけ)給はんや。左門歡(よろこ)びに堪(たへ)ず、母なる者常に我孤獨(こどく)を憂(うれ)ふ。信(まこと)ある言(ことば)を告(つげ)なば、齡(よはひ)も延(のび)なんにと、伴(ともな)ひて家に歸る。老母よろこび迎(むか)へて、吾子(わがこ)不才にて、學(まな)ぶ所時にあはず靑雲(せいうん)の便りを失(うし)なふ。ねがふは捨ずして伯氏(あに)たる敎(をしへ)を施(ほどこ)し給へ。赤穴(あかな)拜していふ、大丈夫は義を重(おも)しとす。功名(こうめい)冨貴(ふうき)はいふに足(たら)ず。吾いま母公(ぼこう)の慈愛(めぐみ)をかふむり、賢弟(けんてい)の敬(いや)を納(おさ)むる、何の望(のぞみ)かこれに過べきと、よろこびうれしみつゝ、又日來(ひごろ)をとゞまりける。きのふけふ咲ぬると見し尾上(をのへ)の花も散はてゝ、凉しき風による浪に、とはでもしるき夏の初(はじめ)になりぬ。赤穴(あかな)母子(おやこ)にむかひて、吾(わが)近江を遁(のがれ)來りしも、雲州の動靜(やうす)を見んためなれば、一たび下向(くだり)てやがて歸來り、菽水(しゆくすい)の奴(つぶね)御恩(めぐみ)をかへしたてまつるべし。今のわかれを給へといふ。左門いふ、さあらば兄長(このかみ)いつの時にか歸り給ふべき。赤穴(あかな)いふ、月日は逝(ゆき)やすし。おそくとも此秋は過さじ。左門云、秋はいつの日を定(さだめ)て待べきや。ねがふは約(やく)し給へ。赤穴云、重陽(こゝぬか)の佳節(かせつ)をもて歸來る日とすべし。左門いふ、兄長(このかみ)必此日をあやまり給ふな。一枝の菊花に薄酒(うすきさけ)を備(そな)へて待たてまつらんと、互(たがひ)に情(まこと)をつくして赤穴(あかな)は西に歸りけり。あら玉の月日はやく經(へ)ゆきて、下枝(したえ)の茱萸(ぐみ)色づき、垣根の野ら菊艶(にほ)ひやかに、九月(ながつき)にもなりぬ。九日(こゝぬか)はいつもよりも蚤(はや)く起(おき)出て、草の屋の席(むしろ)をはらひ、黄菊しら菊二枝三枝小瓶(こがめ)に插(さし)、囊(ふくろ)をかたふけて酒飯(しゆはん)の設(まうけ)をす。老母云、かの八雲たつ國は山陰(ぎた)の果(はて)にありて、こゝには百里を隔(へだ)つると聞ば、けふとも定がたきに、其來(こ)しを見ても物すとも遲(おそ)からじ。左門云、赤穴は信(まこと)ある武士(ものゝべ)なれば必約(ちぎり)を誤(あやま)らじ。其人を見てあはたゝしからんは思はんことの恥かしとて、美酒(よきさけ)を沽(か)ひ鮮魚(あさらけき)を宰(に)て厨(くりや)に備(そな)ふ。此日や天晴(そらはれ)て、千里(ちさと)に雲のたちゐもなく、草枕旅ゆく人の群(むれ)むれかたり行くは、けふは誰某(たれがし)がよき京入(みやこいり)なる。此度(たび)の商物(あきもの)によき德とるべき祥(さが)になんとて過。五十(いそぢ)あまりの武士(ものゝべ)、廿(はたち)あまりの同じ出立なる、日和(には)はかばかりよかりしものを、明石より船もとめなば、この朝びらきに牛窗(うしまど)の門(と)の泊(とま)りは追(おふ)べき。若き男(をのこ)は却(けく)物怯(をびへ)して、錢おほく費(つい)やすことよといふに、殿(との)の上(のぼ)らせ給ふ時、小豆嶋(あづきじま)より室津(むろづ)のわたりし給ふに、なまからきめにあはせ給ふを、從(みとも)に侍(はべ)りしものゝかたりしを思へば、このほとりの渡りは必怯(をびゆ)べし。な恚(ふくつみ)給ひそ。魚が橋の蕎麥(くろむぎ)ふるまひまをさんにといひなぐさめて行。口とる男(をのこ)の腹(はら)だゝしげに、此死馬(しにうま)は眼(まなこ)をもはたけぬかと、荷鞍(にぐら)おしなほして追もて行。午時(ひる)もやゝかたふきぬれど、待つる人は來らず。西に沈(しづ)む日に、宿り急(いそ)ぐ足のせはしげなるを見るにも、外(と)の方(かた)のみまもられて心醉(ゑへ)るが如し。老母左門をよびて、人の心の秋にはあらずとも、菊の色こきはけふのみかは。歸りくる信(まこと)だにあらば、空(そら)は時雨にうつりゆくとも何をか怨(うらむ)べき。入て臥(ふし)もして、又翌(あす)の日を待べしとあるに、否(いな)みがたく、母をすかして前(さき)に臥(ふ)さしめ、もしやと戸(と)の外(そと)に出て見れば、銀河(ぎんが)影きえぎえに、氷輪(ひやうりん)我のみを照(てら)して淋しきに、軒守る犬の吼(ほゆ)る聲すみわたり、浦浪の音ぞこゝもとにたちくるやうなり。月の光も山の際(は)に陰(くら)くなれば、今はとて戸(と)を閉(たて)て入んとするに、たゞ看(みる)。おぼろなる黑影(かげろひ)の中に人ありて、風の隨(まにまに)(く)るをあやしと見れば赤穴宗右衞門なり。踊(をど)りあがるこゝちして、小弟(しやうてい)(はや)くより待て今にいたりぬる。盟(ちかひ)たがはで來り給ふことのうれしさよ。いざ入せ給へといふめれど、只點頭(うなづき)て物をもいはである。左門前(さき)にすゝみて、南の窗(まど)の下(もと)にむかへ座につかしめ、兄長(このかみ)來り給ふことの遲(おそ)かりしに、老母も待わびて、翌こそと臥所(ふしど)に入らせ給ふ。寤(さま)させまいらせんといへるを、赤穴又頭(かしら)を搖(ふり)てとゞめつも、更(さら)に物をもいはでぞある。左門云、既に夜を續(つぎ)て來(こ)し給ふに、心も倦(うみ)足も勞(つか)れ給ふべし。幸(さいはひ)に一杯(はい)を酌(くみ)て歇息(やすませ)給へとて、酒をあたゝめ、下物(さかな)を列(つら)ねてすゝむるに、赤穴袖をもて面(おもて)を掩(おほ)ひ其臭(にほ)ひを嫌放(いみさく)るに似たり。左門いふ、井臼(せいきう)の力(つとめ)はた欵(もてな)すに足(たら)ざれども、己(おの)が心なり。いやしみ給ふことなかれ。赤穴猶答へもせで、長嘘(ながきいき)をつぎつゝ、しばししていふ。賢弟が信(まこと)ある饗應(あるじぶり)をなどいなむべきことわりやあらん。欺(あざむ)くに詞なければ、実(じつ)をもて告(つぐ)るなり。必しもあやしみ給ひそ。吾は陽世(うつせみ)の人にあらず、きたなき靈(たま)のかりに形(かたち)を見えつるなり。左門大に驚きて、兄長(このかみ)何ゆゑにこのあやしきをかたり出給ふや。更に夢ともおぼえ侍らず。赤穴いふ、賢弟とわかれて國にくだりしが、國人(くにびと)大かた經久が勢(いきほ)ひに服(つき)て、塩冶(えんや)の恩(めぐみ)を顧(かへりみ)るものなし。從弟(いとこ)なる赤穴(あかな)丹治、冨田の城にあるを訪(とむ)らひしに、利害(りがゐ)を説(とき)て吾を經久に見(まみ)えしむ。假(かり)に其詞を容(いれ)て、つらつら經久がなす所を見るに、萬夫(ばんふ)の雄(ゆう)人に勝(すぐ)れ、よく士卒(いくさ)を習練(たならす)といへども、智を用(もち)うるに狐疑(こぎ)の心おほくして、腹心(ふくしん)爪牙(さうが)の家の子なし。永く居(を)りて益(やう)なきを思ひて、賢弟が菊花の約(ちぎり)ある事をかたりて去(さら)んとすれば、經久怨(うら)める色ありて、丹治に令(れい)し、吾を大城(おほぎ)の外にはなたずして、遂(つひ)にけふにいたらしむ。此約(ちかひ)にたがふものならば、賢弟吾を何ものとかせんと、ひたすら思ひ沈(しづ)めども遁(のが)るゝに方なし。いにしへの人のいふ、人一日に千(ち)里をゆくことあたはず、魂(たま)よく一日に千里をもゆくと。此ことはりを思ひ出て、みづから刃(やいば)に伏(ふし)、今夜(こよひ)陰風(かぜ)に乘(のり)てはるばる來り菊花の約(ちかひ)に赴(つく)。この心をあはれみ給へといひをはりて泪わき出るが如し。今は永きわかれなり。只母公(ぼこう)によくつかへ給へとて、座を立と見しがかき消(きえ)て見えずなりにける。左門慌忙(あわて)とゞめんとすれば、陰風(いんふう)に眼(まなこ)くらみて行方(ゆくへ)をしらず。俯向(うつぶし)につまづき倒(たを)れたるまゝに、聲を放(はなち)て大に哭(なげ)く。老母目さめ驚(おどろ)き立て、左門がある所を見れば、床上(とこのべ)に酒瓶(さかがめ)(な)(もり)たる皿(さら)どもあまた列(なら)べたるが中に臥倒(ふしたを)れたるを、いそがはしく扶起(たすけおこ)して、いかにととへども、只聲を呑(のみ)て泣く泣くさらに言(ことば)なし。老母問ていふ、伯氏(あに)赤穴(あかな)が約(ちかひ)たがふを怨(うらむ)るとならば、明日(あす)なんもし來るには言(ことば)なからんものを。汝かくまでをさなくも愚(おろか)なるかとつよく諌(いさむ)るに、左門漸(やゝ)答へていふ、兄長(このかみ)今夜(こよひ)菊花の約(ちかひ)に恃
(わざわざ)來る。酒殽(しゆかう)をもて迎(むか)ふるに、再三(あまたゝび)(いなみ)給ふて云、しかしかのやうにて約(ちかひ)に背(そむ)くがゆゑに、自(みづから)(やいば)に伏(ふし)て陰魂(なきたま)百里を來るといひて見えずなりぬ。それ故にこそは母の眠(ねむり)をも驚(おどろ)かしたてまつれ。只々赦(ゆる)し給へと(さめざめ)と哭(なき)入を、老母いふ、牢裏(らうり)に繋(つな)がるゝ人は夢(ゆめ)にも赦さるゝを見え、渇(かつ)するものは夢に漿水(しやうすい)を飲(のむ)といへり。汝も又さる類(たぐひ)にやあらん。よく心を靜(しづ)むべしとあれども、左門頭(かしら)を搖(ふり)て、まことに夢の正(まさ)なきにあらず。兄長(このかみ)はこゝもとにこそありつれと、また聲を放(あげ)て哭倒(なきたを)る。老母も今は疑(うたが)はず、相叫(よび)て其夜は哭(なき)あかしぬ。明る日左門母を拜していふ、吾幼(をさ)なきより身を翰墨(かんぼく)に托(よす)るといへども、國に忠義の聞えなく、家に孝信をつくすことあたはず、徒(いたづら)に天地のあひだに生(うま)るゝのみ。兄長(このかみ)赤穴(あかな)は一生を信義の爲に終(をは)る。小弟けふより出雲に下り、せめては骨(ほね)を藏(をさ)めて信(しん)を全(まつた)うせん。公(きみ)尊體(おほんみ)を保(たもち)給ふて、しばらくの暇(いとま)を給ふべし。老母云、吾兒(わがこ)かしこに去ともはやく歸りて老が心を休めよ。永く逗(とゞ)まりてけふを舊(ひさ)しき日となすことなかれ。左門いふ、生(しやう)は浮(うき)たる漚(あわ)のごとく、旦(あさ)にゆふべに定めがたくとも、やがて歸りまいるべしとて泪を振(ふる)ふて家を出。佐用氏にゆきて老母の介抱(いたはり)を苦(ねんごろ)にあつらへ、出雲の國にまかる路(みち)に、飢(うえ)て食(しよく)を思はず、寒きに衣をわすれて、まどろめば夢にも哭(なき)あかしつゝ、十日を經(へ)て冨田の大城(ぎ)にいたりぬ。先赤穴丹治が宅(いへ)にいきて姓名をもていひ入るに、丹治迎(むか)へ請(せう)じて、翼(つばさ)ある物の告るにあらで、いかでしらせ給ふべき。謂(いはれ)なしとしきりに問尋(もと)む。佐門いふ、士(し)たる者は富貴(ふうき)消息(せうそく)の事ともに論ずべからず。只信義をもて重しとす。伯氏(あに)宗右衞門一旦(たび)の約(ちかひ)をおもんじ、むなしき魂(たま)の百里を來るに報(むく)ひすとて、日夜を逐(おふ)てこゝについてくだりしなり。吾學(まな)ぶ所について士に尋ねまいらすべき旨(むね)あり。ねがふは明らかに答へ給へかし。昔魏(ぎ)の公叔座(こうしゆくざ)病の牀(ゆか)にふしたるに、魏王(ぎわう)みづからまうでゝ手をとりつも告(つぐ)るは、若(もし)(いむ)べからずのことあらば誰をして社稷(くに)を守らしめんや。吾ために敎(をしへ)を遺(のこ)せとあるに、叔座(しゆくざ)いふ、商鞅(しやうをう)年少しといへども奇才(きさい)あり。王(きみ)(もし)此人を用ゐ給はずば、これを殺(ころ)しても境(さかひ)を出すことなかれ。他の國にゆかしめば必も後の禍(わざはひ)となるべしと、苦(ねんごろ)に敎(をし)へて、又商鞅(しやうをう)を私(ひそか)にまねき、吾汝をすゝむれども王許(ゆる)さゞる色あれば、用ゐずはかへりて汝を害(がゐ)し給へと敎ふ。是君を先にし、臣を後にするなり。汝速(はや)く他(ひと)の國に去(さり)て害(がい)を免(のが)るべしといへり。此事士(し)と宗右衞門に比(たぐへ)てはいかに。丹治只頭(かしら)を低(たれ)て言(ことば)なし。左門座をすゝみて、伯氏(あに)宗右衞門塩冶(えんや)が舊交(よしみ)を思ひて尼子に仕へざるは義士なり。士は旧主(きうしゆ)の塩冶を捨て尼子に降(くだ)りしは士たる義なし。伯氏(あに)は菊花の約(ちかひ)を重(おも)んじ、命を捨て百里を來(こ)しは信(まこと)ある極(かぎり)なり。士は今尼子に媚(こび)て骨肉(こつにく)の人をくるしめ、此横死(わうし)をなさしむるは友とする信(まこと)なし。經久強(しひ)てとゞめ給ふとも、舊(ひさ)しき交(まじ)はりを思はゞ、私(ひそか)に商鞅(しやうをう)叔座(しゆくざ)が信(まこと)をつくすべきに、只榮利(えいり)にのみ走(はし)りて士家(しか)の風(ふう)なきは、即(すなはち)尼子の家風(かふう)なるべし。さるから兄長(このかみ)何故此國に足をとゞむべき。吾今信義を重(おも)んじて態々(わざわざ)こゝに來る。汝は又不義のために汚名(をめい)をのこせとて、いひもをはらず拔打(ぬきうち)に斬(きり)つくれば、一刀(かたな)にてそこに倒(たを)る。家眷(いへのこ)ども立騷(さわ)ぐ間(ひま)にはやく逃(のが)れ出て跡なし。尼子經久此よしを傳(つた)へ聞て、兄弟信義(しんぎ)の篤(あつ)きをあはれみ、左門が跡をも強(しひ)て逐(おは)せざるとなり。咨(あゝ)輕薄(けいはく)の人と交はりは結(むす)ぶべからずとなん

 

 





  引用者注: 原文の表記(特に送り仮名)が現在のものと違うので、その点注意が必要です。
         以下に、参考までにいくつかの例をあげておきます。          

     (1)動詞の活用語尾が送られていない。

 

 

秋の初風のめや  秋の初風の吹く耐へめや
富みさかえてけるが  富みさかえて有りけるが
思ひがけぬ過
(あやまり)て  思ひがけぬ過(あやまり)出で
おろおろ語りて  おろおろ語り出で
(と)の外(そと)て  戸(と)の外(そと)出で
かたり給ふや  かたり出で給ふや
(なみだ)わき出るが如し  泪(なみだ)わき出づるが如し
泪を振
(ふる)ふて家を  泪を振(ふる)ふて家を出づ
(さかひ)すことなかれ  境(さかひ)出だすことなかれ
命をて百里を來
(こ)しは  命を捨てて百里を來(こ)しは

 

      特に、「出づ」「捨つ」という動詞の活用語尾に注意が必要です。

 

     (2)副詞の一部、助詞などが書かれていない。 

 

 

(すく)ひまいらすべし  必ず(すく)ひまいらすべし
(ゑき)は日數あり  凡そ(ゑき)は日數あり
孤獨を憂
(うれ)ふ  我が孤獨を憂(うれ)ふ 

 

 

 

 


   (注) 1. 上記の上田秋成「菊花の約」の本文は、日本古典文学大系56『上田秋成集』(中村幸彦校注、
         岩波書店・昭和34年7月6日第1刷発行)によりました。
          ただし、本文に施してある段落分けや会話の鉤括弧「 」、また丸括弧( )で補った送り仮名は、
         これをすべて省略しました。できるだけ版本の原文に近い形にしようと考えたからです。
        2. (1)底本について
            凡例に、「本書の底本は安永五年、京都梅村・大坂野村二肆合刻の初版本を用いた」とあ
           ります。これは半紙本5巻5冊のものです。
            所収は、巻一に白峯・菊花の約、巻二に浅茅が宿・夢応の鯉魚、巻三に仏法僧・吉備津の
           釜、巻四に蛇性の淫、巻五に青頭巾・貧福論の9篇です。        
            
「雨月物語」の版本には、この他に、大本仕立ての文栄堂版の3冊本があり、巻一が上、巻二と巻三が
             中、巻四と巻五が下になっています。

          (2)句読点・振り仮名・送り仮名・濁点等について
            底本の句読は皆「。」で示してあるが、文意によって、「、」・「。」に区別した、とあります。
            また、「振仮名の底本にあるものは皆とどめ」た、とあります。「送仮名は、底本の振仮名で
           示すものはそのままにし、全く欠くもののみ補い、それには( )を加えた」た、とありますが、こ
           こでは送り仮名を欠くものを( )で補うことはせず、そのままにしてあります。
            濁点については、濁点の不統一なものは、よろしきに統一した。しかし作者なりの用意の
           下に用いた清濁は、そのままにした。例えば、半濁点は仏法僧鳥の鳴声以外には全く用い
           ていない。「こと」が下につく熟語は、「俳諧(わざごと)」・「妖言(およづれごと)」・「政(まつり
           ごと)」以外は清んで用いる。(中略)「若侍(わかさむらひ)」・「旅人(たびひと)」の如く、連濁
           を普通とするものにも清むものがある。「眠(ねふり)」・「とふらひ」・「浮ふ」・「かたふく」の如
           く、「む」ともかえて用いられる「ふ」、及びその活用の「浮ひ」の如きは悉く清むなどである
           あります。
            また、「明らかな誤字・極端な異体字以外の漢字は、略字と共にそのまま存した。仮名は悉
           く現行字体に改めた」とあります。
(引用者注:例えば、同じ漢字でも「富」「冨」、「舊」「旧」が使われ、
           「実」「礼」などの略字体も用いられています。ただし、「社」など一部の漢字は、正字が表記できないので、
           原文には正字なのにここでは略字体になっているものもありますから、必ずしも漢字の字体は厳密ではあり
           ません。この点、ご注意ください。)
             
なお、原文にない句点を校訂者が補った部分があります。
              丈部
(はせべ)左門(もん)といふ博士あり
             
ねがふは捨ずして伯氏
(あに)たる敎(をしへ)を施(ほどこ)し給へ
             
功名
(こうめい)冨貴(ふうき)はいふに足(たら)
        3. 古典文学大系本では、会話の鉤括弧が用いてあるため、〈あるじ答ふ。「これより……」〉となっ
         ているのを、ここでは鉤括弧を省いたため、〈あるじ答ふ、これより……」〉と鉤括弧の前の句点
         を読点に改めてあります。
          そのために、会話文が終わっていないのに、途中で句点が出て来るという、やや不自然な形
         (誰それ曰く、**。***。**と。)になっていますが、ご了承ください。
              原      文   誰それ曰く。**。***。**と。
              古 典 大系本     誰それ曰く、「**。***。**」と。
              ここでの本文    誰それ曰く、**。***。**と。

        4. ここでは、本文の振り仮名を丸括弧( )に入れて示しました。また、本文や振り仮名の、平仮名
         の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の文字に直してあります。
(「をさをさしく」「きえぎえ
           に」「つらつ ら」「泣く泣く」など。ただし、「只只」となる場合だけ、「只々」としました)

           なお、本文中に「家童
(わらべ)」「御恩(めぐみ)」「陰風(かぜ)」と下線をほどこしたのは、「家童」「御
         恩」「陰風」の2字で、それぞれ「わらべ」「めぐみ」「かぜ」と読むことを示 したもので、原文に下線
          があるわけではありません。
             また原文に、「古」の下に「又」と書いた異体字「事」が出ていますが、これはうまく表記できない
         ので、「事」としてあります。
          ○ 「恃
*(わざわざ)」の「恃」は、〈「特」の誤刻〉と大系の頭注にあります。
          ○ 「このほとりの渡りは必怯
(をびゆ)べし。な恚(ふくつみ)給ひそ。」の「ふくつみ」について、古典大
         系本の頭注に、〈字典「恨怒也」。神代紀上「哭恚
(なきふづくむこと)」。秋成は長く、このように誤り用
         いた。〉とあります。(『広辞苑』
(第6版):「ふつくむ【恚む・憤む】〔自四〕(後世、フズクムとも)怒る。
         腹を立てる。大唐西域記
長寛点「戒日王殊に忿フツクメる色無く」)
        5. 「
(さめざめ)」の「」という漢字は、島根県立大学の“e漢字”を利用させていただきました。
        6. 「雨月物語」についての巻頭の解説を少し引かせていただくと、「(「菊花の約」は)中国白話小
         説集古今小説の「范巨卿雞黍死生交」を原話とし、後漢書の范式伝に発する中国舌耕文学の筋
         を、文章のとるべき所は採って、かなり忠実に追う翻案小説の正系を行くものである。従ってその
         寓意も、冒頭に訳出した原話の結交行が説く信愛である。が秋成はその日本化に幾つかの相違
         でその手腕を示した。(以下略)」(同書、11頁)
           とあります。詳しくは、同書を参照してください。
          なお、「古今小説」の解説については、『神奈川大学
学術機関リポジトリ「古今小説」をご覧く
         ださい。
                   『古今小説』の「范巨卿雞黍死生交」の本文は、
                 ファイル「1-2、pdf 」 Patial data NO.2 の 17~19/19
                 ファイル「1-3、pdf 」 Patial data NO.3 の   1~8/19
         で見られます。
                 なお、資料448 「范巨卿雞黍死生交(『古今小説』より)」があります。
        7. 岩波文庫の『雨月物語』(上田秋成作・鈴木敏也校訂、昭和9年9月30日第1刷発行)は、文栄
         堂版(3冊本)を底本にしています。
          文庫巻頭の解題によれば、『雨月物語』は明和5年(秋成35歳)の執筆で、安永5年(43歳)に出

          
版されたが、その刊本には野梅堂版(安永5年出版)と文栄堂版(出版年代不明。文栄堂版のほうが早くは
         
ないかという説もある由)の2種あるが、板下は両本とも同一で、用紙と綴じ方が異なっているだけだそ
         うです。(同書、4頁)
        8. 上田秋成(うえだ・あきなり)=江戸後期の国学者・歌人・読本作者。本名は東作。大坂の人。
               加藤宇万伎に師事。万葉集・音韻学にも通じ、宣長と論争。著「雨月物語」「春雨物語」
               「胆大小心錄」「癇癖談
(くせものがたり)」「藤簍冊子(つづらぶみ)」など。(1734-1809)        
          雨月物語(うげつものがたり)=読本
(よみほん)。上田秋成作。5巻5冊。1768年(明和5)成稿、
               76年(安永5)刊。「白峰」以下日本・中国の古典から脱化した怪異小説9編から成る。
                                                    
(以上、『広辞苑』第6版による。)
        9. フリー百科事典『ウィキペディア』に「上田秋成」「雨月物語」の項があります。
       10. 『日本古典文学摘集』というサイトに、『雨月物語』の原文・現代語訳があります。
               → 巻之一 「二 菊花の約」の本文(振り仮名なし)
          ここには、「菊花の約」の現代語訳もあります。
               → 巻之一 「二 菊花の約」の現代語訳
       11. 『東京大学総合研究博物館』というサイトで、文栄堂蔵板・全3冊の『雨月物語』(東京大学文学
         部国文学研究室・所蔵)を映像で見ることができます。
              『東京大学総合研究博物館』 → 
「デジタルミュージアム展 展示内容」
                   → 『雨月物語』 → 
『雨月物語』(文栄堂蔵板・全3冊
       12. 『バージニア大学図書館』の「日本文学テキストイニシアチブ」というサイトに、野梅堂版の『雨月
         物語』(原文)があって、全文を読むことができます。
          このサイトは、
The University of Virginia Library Electronic Text Center and the University of     
         Pittsburgh East Asian Library によって運営されているものだそうです。
       13. 『高崎経済大学論集』第48巻第4号に、中田妙葉氏の
「「菊花の約」における「信義」について
         
─中国白話小説「范巨卿鶏黍死生交」との関係による一考察─」という論文があります。
       14.
Osaka University Knowledge Archive (大阪大学リポジトリ)に、飯倉洋一氏の
         
「「菊花の約」の読解─〈近世的な読み〉の試み─」があります。 
       15. 李国勝氏の「「菊花の約」考」という論文(同志社国文学会・昭和61年12月30日発行の『同志
         社国文学』第28号掲載)があります。
              → 
李国勝 「菊花の約」考

 




                                      
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