資料384 ホフマンの「牡猫ムルの死亡通知」




         牡猫ムルの死亡通知   ホフマン


  ドイツの作家ホフマン(1776-1822)は、1821年に飼い猫ムルが死んだとき、ムルの死亡通知を友人たちに書き送ったそうです。
彼の「牡猫ムルの死亡通知」は、次のようなものでした。
死亡通知のカードは、(A)11月30日付けのものと、(B)12月1日付けのものとが見られます。
 



 Die von Hoffmann geschriebene Todesanzeige des
   Kater Murr

 (A)
     In  der  Nacht  vom  29.  bis  zum  30. Novbr. d. J.
     entschlief nach kurzem aber schweren Leiden,  zu
     einem  bessern  Daseyn  mein  geliebter  Zögling,
     der  Kater  Murr  im  vierten  Jahr   seines  hoff=
     nungsvollen Alters, welches irn theilnehmenden
     Gönnern und Freunden ganz ergebenst anzuzeigen
     nicht  ermangle.  Wer  den verewigten  Jüngling
     kannte, wird meinen tiefen Schmerz gerecht finden
     und  ihn‐durch  Schweigen  ehren.
       Berlin  d. 30  novbr 1821.    Hoffmann


 (B)
     In der  Nacht  vom  29. bis  zum  30.  November
     d.  J.  entschlief,  um  zu  einem  bessern  Dasein
     zuerwachen,  mein theurer geliebter Zögling der      
     Kater  Murr  im  vierten   Jahre  seines  hoff–
     nungsvollen Lebens. Wer den verewigten Jüngling
     kannte, wer ihn wandeln sah auf der Bahn der
     Tugend und des Rechts, misst meinen  Schmerz
     und ehrt ihn durch Schweigen.
       Berlin d. 1. Decbr. 1821                 Hoffmann
 

(日本語訳)
      ホフマンの「牡猫ムルの死亡通知」
(A)
今年11月29日から30日の夜にかけて、将来の夢多い4年目に、私の愛しい猫君のムルは、短くも辛い苦しみの後、天国への眠りにつきました。これまで共に彼を見守ってくださった友人の皆様に、謹んでこのことをお知らせしないわけには参りません。この永遠の眠りについた若き猫君を知るものは、どなたも私の心の痛みを理解され、彼のために無言の祈りを捧げていただけるでしょう。
  ベルリン 1821年11月30日    ホフマン

(B)
今年11月29日から30日の夜にかけて、私の大切な愛しい猫君のムルは、その夢多い4年の命を生き、より良い天国で目覚めるためにと眠りにつきました。彼が有徳と正義の道を歩む姿を見てこられた方々は、どなた様も私の今の苦しみに加えて、彼のために敬意をもって黙祷を捧げていただけるものと思います。 
  ベルリン 1821年12月1日    ホフマン    


  (注) 1.   ホフマンの「牡猫ムルの死亡通知」のドイツ語本文は、次のものによりました。
 (A) “三省堂 Word‐Wise Web”に掲載されている「クラウン独和辞典─編集こぼれ話」の中の新井皓士氏の「クラウン独和辞典─編集こぼれ話─(15)」 〈猫と文学─漱石「吾輩は猫である」とホフマン「牡猫ムルの人生観」─〉に出ているホフマン自筆の「牡猫ムルの死亡通知」の写真。
 (B) “Kater Paul”というサイトに出ているホフマン自筆の「牡猫ムルの死亡通知」の写真と文章。
 なお、本文の改行は、写真の通りにしてあります。
     
    2.  「牡猫ムルの死亡通知」の日本語訳は、小生の友人に依頼しました。ここに記して謝意を表します。
 なお、(A)の文中の irn (i r n) は、ich と見て訳してあるそうです。          
     
    3.  岩波文庫から秋山六郎兵衛氏の訳でホフマンの『牡猫(おねこ)ムルの人生観』上巻が出たのは、昭和10年(1935年)11月30日のことでした。下巻は、翌11年4月15日に出ています。改訳新字新かな版が出たのは、上巻が昭和31年12月5日、下巻が翌32年4月5日でした。
 この岩波文庫の題名には「牡猫(おねこ)」と読みがついていますが、「牡猫」という言葉は、現在は普通、「おすねこ」と読んでいるのではないでしょうか。
     
    4.   フリー百科事典『ウィキペディア』「牡猫ムルの人生観」の項があります。      
    5.   E. T. A. Hoffmann “Lebensansichten des Katers Murr” 『牡猫ムルの人生観』)の本文を、Zeno.org というサイトで読むことができます。      
    6.  『牡猫ムルの人生観』の翻訳は、秋山六郎兵衛訳の岩波文庫の他に、次のものがあります。
 深田甫訳『牡猫ムルの人生観』(『ホフマン全集 7 』所収、創土社・昭和47(1972)年9月15日発行)
 石丸静雄訳 角川文庫『牡猫ムルの人生観』(上下巻) (1958年発行)
     
    7.   ホフマン〔Ernst Theodor Amadeus Hoffmann〕=ドイツの作家・判事。絵画・音楽にも長じ、その小説は夢幻的要素が強い。小説「黄金の壺」「悪魔の美酒」「牡猫ムルの人生観」など。(1776-1822)    (『広辞苑』第6版による。)      
    8.
 次に、深田甫訳『牡猫ムルの人生観』(創土社『ホフマン全集 7 』所収)の最後に載せてある「編輯発行人の後記」の初めの部分を引用させていただきます。
 第二巻を閉じるにあたって編輯発行人は事情やむをえずここに、好意ある読者にきわめて憂うべき情報をお伝えせざるをえない。──賢明で、思慮もある、哲学者にして文学者でもあった牡猫ムルを非情の死がかれの美わしき生涯のなかばに拉し去ったのである。十一月二十九日から三十日にいたる夜半、わずかな時間ながら烈しく苦しんだのち、賢者たるにふさわしい落ちつきと平静さをもってこの世に別れを告げたのであった。──こうしてここにまた、早熟な天才というものはいつもきまって、まともにはどうもうまく行かないという証明をもうひとつ追加することになったのである。彼等は漸減的に下降していって、特性もなければ精神性もない、どうでもよいものにまでなりさがって、大衆のなかに没し去るか、もしくは年ふるうちにそれに耐えられないものと化してしまうかのどちらかである。──哀れなるムル! 君の友なるムツィウスの死こそは君自身の死の先触れであったのだ。もし僕が君のために弔辞を読むとするならば、それはかの同情心薄きヒンツマンなどとは違い、心底深くより湧き出でたものとなるであろう。なぜなら、僕は君が好きだったのだから。他の誰にも劣らず好きだったのだ──それはそれとして!──ぐっすりと眠りたまえ!──灰と化した君に平和のあらんことを! ── (後略)(同書、763-4頁)

引用者注:
 〇ムツィウス……ムルの友人の牡の黒猫。犬たちの仕掛けた罠に後脚を挟まれた傷がもとで死亡した。
 〇ヒンツマン……白と黒の毛並みの牡猫。ムツィウスの葬儀で、弔辞を読んだ。       
     
    9.  資料322に「夏目漱石の「猫の死亡通知(はがき)」」があります。      
    10.  資料42に「夏目漱石『吾輩は猫である』(冒頭)」があります。       
    11.
  ホフマンの牡猫ムルに触れたところが、漱石の『吾輩は猫である』の最後に出てきます。その部分を引いておきます。

 猫と生れて人の世に住む事もはや二年越しになる。自分では是程の見識家はまたとあるまいと思ふて居たが、先達てカーテル、ムルと云ふ見ず知らずの同族が突然大氣燄を揚げたので、一寸吃驚した。よくよく聞いて見たら、實は百年前(ぜん)に死んだのだが、不圖した好奇心からわざと幽靈になつて吾輩を驚かせる爲に、遠い冥土から出張したのださうだ。此猫は母と對面をするとき、挨拶のしるしとして、一匹の肴を啣へて出掛けた所、途中でとうとう我慢がし切れなくなつて、自分で食つて仕舞つたと云ふ程の不孝ものだけあつて、才氣も中々人間に負けぬ程で、ある時抔は詩を作つて主人を驚かした事もあるさうだ。こんな豪傑が既に一世紀も前に出現して居るなら、吾輩の樣な碌でなしはとうに御暇(おいとま)を頂戴して無何有郷(むかうのきやう)に歸臥してもいゝ筈であつた。(昭和40年版『漱石全集』第1巻、534-5頁)

 この部分についての40年版『漱石全集』第1巻の注解を引いておきます。
 先達てカーテル、ムルと云ふ見ず知らずの同族が突然大氣燄を揚げた点……『新小説』明治39年5月号に載った、藤代素人の「猫文士怪焰録」をさす。その中には漱石の作にも言及して、「此猫も流石吾輩の同族丈あつて、人間の弱点に向つて中々奇警な観察を下して居る。痛快な批評を加へて居る。但少し気に喰はぬのは、まだ世界文学の知識が足らぬ為めかも知れぬが、文章を以て世に立つのは同族や(ママ)己れが元祖だと云はぬばかりの顔附をして、百年も前に吾輩といふ大天才が独逸文壇の相場を狂はした事を、おくびにも出さない。若し知って居るなら、先輩に対して甚だ礼を欠いて居る訳だ」と述べたところがある。文中吾輩と言っているのは、ドイツの作家ホフマンが1820-22年に発表した『牡猫ムルの人生観』(Lebensansichten des Katers Murr)の主人公である。(昭和40年版『漱石全集』第1巻、613頁)

 引用者注: 全集の注解に、藤代素人の「猫文士怪焰録」とあるのは、『漱石文学作品集』(岩波書店、1990年11月19日発行)の後注には「猫文士気燄録」とあり、深田甫訳『牡猫ムルの人生観』(『ホフマン全集 7 』所収)の作品解題には、「猫文士気燄談」とありますが、これは次に引く『漱石文学作品集』(岩波書店、1990年)の後注(斎藤恵子)の「猫文士気燄録」が正しいようです。

 ○  『漱石文学作品集』(岩波書店、1990年11月19日発行)の後注(斎藤恵子)を引いておきます。
 『新小説』(明39・5)に藤代素人が「猫文士気燄録」なる一文を載せ、ホフマンの小説『牡猫ムルの人生観』の主人公の猫が、「吾輩」と名のる体裁で、百年前にドイツに先輩がいたと揶揄した。        
 ○ 参考までに、深田甫訳『牡猫ムルの人生観』の作品解題に引用されている部分も書き写しますと(漢数字を算用数字に直してあります)、
 『吾輩は猫である』が雑誌『ホトトギス』に明治38年1月号から1年8か月にわたって連載されている間、明治39年(1906年)5月号の『新小説』に、漱石の友人でもあるドイツ文学者藤代素人(禎輔)が『猫文士気燄談』という一文を草し、「カーテル、ムル口述、素人筆記」としてホフマンの『牡猫ムルの人生観』の存在をあきらかにしたのであった。それは牡猫〔<カーテル>はドイツ語で<牡猫>の意〕ムルがやはり「吾輩」と称して語る形式となっている。そのなかで吾輩ムルが、なるほど「幽霊になって」あらわれたかのように、こう述べている、「但少し気に喰はぬのは、まだ世界文学の知識が足らぬ為めかも知れぬが、文章を以て世に立つのは同族中己れが元祖だと云はぬばかりの顔附をして、百年も前に吾輩と云ふ大天才が独逸文壇の相場を狂はした事を、おくびにも出さない。若し知て居るのなら、先輩に対して甚だ礼を欠いて居る訳だ。現に吾輩等はチークが紹介してロマンチックの大立物となった『長靴を履いた猫』を斯道の先祖と仰いで、著書の中で敬意至れり尽せりだ」。(以下、略) (同全集、808-9頁) 

 ○ 藤代素人(ふじしろ・そじん)=独文学者。慶応4年(明治元年)7月24日、千葉県に生まれる。本名、禎輔(ていすけ)、素人は号。明治24年、帝国大学文科大学独逸文学科を卒業して大学院に進学、東京高師・一高でも教えた。明治29年、一高教授に就任、ドイツ語を担当。明治31年、東京帝国大学文科大学講師。明治33年、漱石と同じ船でドイツに留学した。帰国後、明治36年、東京帝国大学文科大学講師に就任。明治40年、京都帝国大学文科大学教授に就任。明治41年、文学博士。昭和2年4月18日、死去。漱石と交遊があり、漱石が文部省から病気を理由に帰国を命ぜられたとき、藤代は漱石を迎えに行き一緒に帰国するはずであったが、都合で漱石の帰国が遅れたため、藤代は先に帰国したという。明治38年、『吾輩は猫である』に対して『猫文士気燄録』を書いたことでも知られている。(慶応4年~昭和2年:1868~1927)
          
参考:(1) 泉健氏の論文「藤代禎輔(素人)の生涯─瀧廉太郎、玉井喜作との接点を中心に─」(和歌山大学教育学部紀要 人文学部 第60集(2010) )があって、大変参考になります。
 
 上記の藤代素人の経歴も、主として泉健氏の論文を参考にさせていただきました。
 (2) フリー百科事典『ウィキペディア』「藤代禎輔」の項があります。
 (3) 『国立国会図書館デジタルコレクション』に、藤代素人(禎輔)の次の著書が入っています。(この他に、数冊の訳書も入っています。)
 『草露集』 藤代素人(禎輔)著 大倉書店 明治39年(1906)9月10日発行
 『文化境と自然境』 藤代素人著 文献書院 大正11年(1922)10月25日発行
     
    12.  『国立国会図書館デジタルコレクション』に、大正7年に発行された『漱石全集第1巻』(吾輩は猫である)があり、それを画像で見る(読む)ことができます。(『漱石全集 第1巻』(吾輩は猫である)、漱石全集刊行会・大正7年1月1日発行)      
    13 .   資料392に「藤代素人「夏目君の片鱗」」があります。        







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