資料322 夏目漱石の「猫の死亡通知」(はがき)




   夏目漱石の「猫の死亡通知」 (はがき)



岩波書店版『漱石全集 第14巻』(書簡集、昭和41年発行)所収のはがき

   明治41年9月14日(月) 午後零時─1時 
            牛込區早稻田南町七番地より
     赤坂區表町一丁目二番地山口方 松根豐次郎へ 
   廣島市猿樂町 鈴木三重吉へ
   巣鴨區上駒込三八八 野上豊一郎へ
   本郷區森川町一番地小吉館 小宮豐隆へ

辱知猫義久々病氣の處療養不相叶昨夜いつの間にかうらの物置のヘツツイの上にて逝去致候 埋葬の義は車屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。但主人「三四郎」執筆中につき御會葬には及び不申候 以上
    九月十四日
       

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角川書店版『漱石全集 第5巻』(「坑夫」他、昭和36年初版)所収の書簡から

   明治41年9月14日(月)

       二六 猫の死亡通知

 九月十四日 (月) 午後零時─1時 牛込区早稲田南町
    七番地より
   府下巣鴨町上駒込三百八十八番地内海方野上豊一郎へ
  〔はがき〕及び赤坂区松根豊次郎、広島市鈴木三重吉、
   本郷区小宮豊隆へ各一通

    辱知(じよくち)猫儀(ねこぎ)久々(ひさびさ)病気の処(ところ)、療養不相叶(あひかなはず)、昨夜いつの間にか裏の納屋(なや)のヘッツイの上にて逝去致候(せいきよいたしそろ)。 埋葬の儀は車屋をたのみ蜜柑(みかん)箱へ入れて裏の庭先にて執行仕(つかまつり)候。但(たゞ)し主人「三四郎」執筆中につき、御会葬には及び不申(まうさず)候。以上
    九月十四日  
 
       

  (引用者注) 「裏の納屋(なや)のヘッツイの上」とありますが、
   「物置」でなく「納屋」とした葉書があるのかどうか、確認
    していません。



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角川書店版『漱石全集 第2巻』口絵写真
  猫の死亡通知 漱石自筆の黒枠付のはがき
  (野上豊一郎宛のもの)
    辱知猫義久々病氣の處療養不相叶昨夜いつの間にか裏の物置のヘツツイの上にて逝去致候 埋葬の義は車屋をたのみ蜜柑箱へ入れて裏の庭先にて執行仕候。但し主人「三四郎」執筆中につき御會葬には及び不申候 以上
    九月十四日 
 
 


  (注) 1.   この夏目漱石のはがきの文面は、岩波書店版の『漱石全集 第14巻』書簡集(昭和41年12月24日発行)・書簡番号985、及び、角川書店版の『漱石全集 第5巻』(昭和36年6月25日初版発行)所収の書簡・書簡番号26、同じく角川書店版の『漱石全集第2巻』(昭和35年5月25日初版発行)所収の口絵写真からとったものです。            
    2.  「猫義」「埋葬の義」の「義」は、普通は「儀」となるところですが、漱石自筆の原文は「義」となっています。岩波書店の全集は、はがきの文字画像となっており、角川書店の全集は、活字に起こして「儀」としてあります。    
    3.  「久々」の「々」は、原文には平仮名の「こ」を縦に潰した形の繰り返し符号が用いられています。
 また、一か所だけ句点(。)が打ってあります(「……執行仕候」のあと)。
   
    4.   はがきの周りには、漱石が墨で細く枠をつけてあります。    
    5.   岩波書店版『漱石全集 第14巻』(昭和41年版)に掲げてあるはがき本文の、実際の改行を次に示しておきます。
  辱知猫義久々病氣の處療養
不相叶昨夜いつの間にかうらの物置
のヘツツイの上にて逝去致候 埋葬の
義は車屋をたのみ箱詰にて裏の
庭先にて執行仕候。但主人「三
四郎」執筆中につき御會葬には
及び不申候  以上 
    九月十四日     
   
   
    6.   岩波の全集には、[野上宛のはがきには「箱詰にて」が「蜜柑箱へ入れて」とある]と、注記がありますが、この野上宛のはがきが、平成21年(2009年)10月に出て来て、鹿児島県薩摩川内市の「川内まごころ館」で展示されました。
 2009年(平成21年)10月22日付の読売新聞によれば、このはがきは漱石が41歳だった1908年(明治41年)9月14日に、門下生だった英文学者野上豊一郎(1883~1950)にあてたもので、野上の子孫が保管していた。10月20日から11月23日まで開かれている鹿児島県薩摩川内市の「川内まごころ館」の特別企画展「夏目漱石─漱石山房の日々─」で公開されている、ということでした。
 野上宛てはがきの写真によると、「うら」が「裏」、「箱詰にて」が「蜜柑箱へ入れて」、「但」が「但し」となっています。
 なお、「いつの間にか」を「何時の間にか」と書いたはがきもあるようです。        
   
    7.   「漱石の猫の死亡通知」で画像検索をしてみると、漱石のはがきの画像がいくつか見つかります。    
    8.   「辱知(じょくち)」とは、その人と知り合いであることをへりくだっていう語なので、ここでは、漱石が「猫を知っていること(猫の知り合いであること)」をへりくだって言っていることになるのでしょう。つまり漱石は、猫と知り合いであったことを光栄に思って、へりくだって、「私が光栄にも知り合いであった猫」という意味で、「辱知猫」と言ったものと考えられます。勿論、漱石のユーモアです。
 辱知(じょくち)=(知を辱(かたじけな)くする意)その人と知合いであることの謙譲語。辱交。「先生とは─の間柄です」(『広辞苑』第6版)
   
    9.  集英社版『漱石文学全集』別巻「漱石研究年表」(昭和49年10月20日初版第1刷発行)から、猫の死亡関係の記事を引いておきます。(漢数字を算用数字に改めた個所があります。) 

 明治41年(1908) 
 ★9月13日(日)、夜、『吾輩は猫である』の猫が死ぬ。
 ★9月14日(月)、『吾輩は猫である』の猫の死亡通知を出す(葉書のまわりを黒くぬり、身近の門下生たち・小宮豊隆・鈴木三重吉・松根東洋城・野上豊一郎などへ出す)。老衰で物置のへっついの上で死んでいた(注)ので、鏡は、蜜柑箱に入れて、漱石山房の北側の裏庭に埋める。木の角材を求めて来て、何か書いて欲しいと頼むので、「猫の墓」の裏に「此の下に稻妻起る宵あらん 漱石」と書き込み墓標とする。(鏡は、猫の月々の命日には鮭の切身一片と鰹節をふりかけた飯を一皿供える。この猫は、千駄木、西片町、早稲田南町へと移されたが、名前はつけて貰えなかった。13回忌に、鏡は、九重の石の供養塔を建てる。)
 (注)墓標は何時か朽ちて、沢庵石ほどの自然石を目印に置く。やがて犬のヘクトーの墓ができ、猫の13回忌に、犬猫文鳥を合祀して供養塔を建てる。
        
   
    10.  『永日小品』(明治42年1~3月)の中に、「猫の墓」があり、青空文庫で読むことができます。 
 青空文庫 
  → 「猫の墓」(『永日小品』所収)
   
    11.  資料42 に「夏目漱石『吾輩は猫である』(冒頭)」があります。    
    12.  『国立国会図書館デジタルコレクション』に、大正7年に発行された『漱石全集第1巻』(吾輩は猫である)があり、それを画像で見る(読む)ことができます。(『漱石全集 第1巻』(吾輩は猫である)、漱石全集刊行会・大正7年1月1日発行)
 『国立国会図書館デジタルコレクション』
  →『漱石全集第1巻』(吾輩は猫である)
   
13.  資料384に「ホフマンの「牡猫ムルの死亡通知」」があります。
    14.  資料392に「藤代素人「夏目君の片鱗」」があります。    







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