資料392 藤代素人「夏目君の片鱗」

 


 

      夏目君の片鱗             藤代素人   


「オイ夏目!」
 これが僕の夏目君に懸けた最後の言葉となつた。それは大正五年一月十八日に兩國國技館の春場所で、偶然君を見懸けた刹那、思はず僕の口を迸り出た不用意の一語である。
 時も時、折も折、此思懸けない場所で、此思懸けない無遠慮の呼聲に、君も少々驚いた風であつたが、僕を見ると帽を脱いで、「失敬」と云つた限り、二の句を續がずに志す席へと足を運ばれた。君の方では案外であつたに相違ないが、僕は此日に此場所で君を見ることを幾分期待して居つた。それは君が國技館の相撲をよく見物に出掛けると云ふ記事が新聞に出てもゐたし、前日雜司ヶ谷のK君を訪問したら、「昨日大塚が夏目君を誘つて一所に來る積りで來懸に寄つたら、相撲見物に行つた留守であつた相だ」と云ふ話を聞いて居るから、今日君を見懸けたのも別段不思議とは思はなかつた。
 何時も東京へ出る度に一度君を訪問したいと思つて居ながら、生來の無性が祟をなして終に其志を果さなかつた。唯一度君の近所に親類があつて其家を宿として居る時、訪問したら生憎君は不在だつた。其頃君は散歩の序か何か僕が車で其家を出懸る時偶然通り合はせたことがある。其時も話をする暇もなく別れた。君は妙な所から僕が出たと思つたらしく、其家の標札を眺めた。それから一度九段の能樂堂で御前能があつた時、食堂で君に出合ひ、君の説を聽きに行かうと思つてると言つたら、君のを聞かせて呉れと云はれたことがある。最近數年間に於て君と顔を合はせたのは此位のもので、其都度頗る本意ない別れをしたと思つてる。特に殘念に思ふのは大正五年の八月、鎌倉でS君に逢つた時、京大文科から兼て夏目君に講演を賴んだのであるが、一度も實行して呉れないと云つたら、今度君が行つて懇望して見給へ、多分承知するだらうと云ふ話しで、此次に上京したら是非其話を切出して見ようと思ひ込んで居たのに、遂に其志を果さなかつたことは、實に終生の恨事である。
 夏目君の話は大分新聞雜誌にも出たから、更に珍らしい種子を追加することも出來ぬが、唯僕が友人として君に交際した方面に就いて、少しく話して見たいと思ふ。
 君が英文學科に入學したのは明治廿三年であつた。帝國大學に英文學科を設けられてから、第一期の學生は我々と同年の立花君であつた。其翌年には志望者がなくて、一年置いて君が來られた。今度英文科の新入者は大分英語に堪能で、○○先生とは英語でばかり話してる相だと云ふ評判であつた。其評判を裏書すると思ふ事實がある。それは其頃歴史の先生でリースと云ふ獨逸人があつた。此先生の英語には大抵の學生が參つて仕舞つたので、一同分り惡い下手な英語と極めたのであるが、夏目君はリースの英語は獨逸人としては餘程宜い方だと云つた。君から此話を聞く前に僕は或る獨逸人にリースの英語は分り惡くて困ると訴へたら、そんな筈は無い。あの人は日本へ來る前二度も英國へ硏學に行つてるから、英語は確かだと言はれた事がある。それでも半信半疑で居たが、夏目君の話を聞いてから、すると矢張り我々の耳が至らないのだと悟つた。
 學生時代には君が寄宿舎の食堂へ來る都度我々の部屋へも立寄られたが、其頃君は制服の上へ兄さんから讓られたとか云ふ、スコツチの背廣を着て居たことを覺えて居る。一度遊びに來ないかと誘はれて、牛込喜久井町まで同行したことがある。君の部屋でどんな話をしたか思出せないが、君が淨瑠璃にも中々名文句がある。「啼く蟬よりは中々に啼かぬ螢が身を焦がす」などは面白いぢやないかと語つたのを記憶して居る。其頃でも君は學生としては藏書家の方で、英文學の書物が可成り書架に並んで居た樣だ。
 君が三年生の時、哲學會雜誌が哲學雜誌と改題して少し世間向の材料を加へようと云ふ方針になつた。君も編輯員の一員として雜錄の原稿を擔當して居たが、或時英國の催眠術師の記事を寄せた時、中に「豐頰細腰の人も亦行く」と云ふ文句があつて同人間の注目を惹いた。それから君は英文雜誌の受賣を屑とせずして「天地山川に對する英國詩人の感想」とか云ふ題で自家の硏究を發表した。君が文藻に豐かなることは、此頃既に同學間の推賞する所と成つた。
 君は其後寄宿舎に入舎した相であるが、其頃僕は神經衰弱に罹つた一人の從弟が、親戚の別莊で美術學校の入學試驗準備中であるのを、監督がてら退舎して、其方に行つて居たから、寄宿舎時代の夏目君を全く知らない。所が君が東京を去つて松山中學へ赴任する際、早稻田の英文科に後任として出て呉れと賴まれた。僕の英語素養は餘程覺束ないもので一應は斷つたが、「何に君なら屹度遣れる」と云ふ君の一言に浮かと乘つて引受けた。君も僕の英語を買被つて居たのだが、僕が君の後釜に据わらうと云ふむら氣を出したのは一期の不覺で、僕の英書講演は散々の不成績で一學期の終りにソコソコに逃出して仕舞つた。後で此事を君に話したら「左樣だつた相だなあ」と云つて君は苦笑して居た。
 それから君が熊本の高等學校時代に僕を熊本へ呼ばうとして、S君を以て交渉して來たが、其頃の僕は東京を離れる氣にどうしても成れぬので、應じなかつた。
 明治卅三年に時の專門學務局長が、始めて高等學校敎授を外國に留學せしむる一新例を開かれた。其時君と僕とが外國語硏究のため派遣せられる事になつた。君は熊本から東京へ出て、當時貴族院書記官長の職に在られた岳父の官舎に足を留めた。僕は其官舎に君を訪問したが、今度留學生となるに就いて腑に落ちない廉を、專門學務局長に話して來たと云つた。其話の内容は何であつたか聞洩したが、僕は唯西洋に行かれると云ふことが一圖に嬉しくて、腑に落ちない事も何も無かつた。君が斯う云ふ際にも内に省みて深く慮る所があるのは、流石だと感じた。此時の一行は文科の芳賀君と農科の稻垣君と陸軍軍醫の戸塚君と都合五名であつた。高山樗牛君も同行の筈であつたが、出發間際に喀血して見合はせることになつた。
 仕度萬端に就いて僕は或獨逸人を顧問としたが、服などは向ふへ渡つてから新調した方が宜いと云ふので、寄せ集め物で間に合はせたが、君は森村組の仕立てなら、何處へ出しても恥しくない相だと云つて、其通り實行した。實際君の服装が一番整うて居た。汽船だけは僕の主張が容れられて、獨逸船で行くことに極つたが、普魯士軍隊式の給仕頭の横暴には、一番多く折衝の局に當つた僕が少からず惱まされた。
 神戸碇泊中諏訪山の中常盤で午餐を認めた。其時大阪から告別に出向いた僕の妹夫婦が三歳の甥を連れて來た。一同風呂に這入つた時、君がよく甥の面倒を見て呉れたことを今でも妹は感謝して居る。其晩當時湊川神社の宮司であつた芳賀君の嚴父に晩餐に招かれ、灘酒の風味に上戸連は羽目を外したが、酒を嗜まぬ君には多少迷惑であつたらう。
 一行中馬鹿に飯の好きな人があつて、愈長崎が日本料理の食納めだと云ふので、向陽亭に上つて、風呂上りの浴衣姿と云ふ日本獨特の快味を飽くまで貪ぼつた。長崎灣口を出る時、丁度上海から入港して來たハムブルグ號から、夕暗の空を破つて「君が代」の曲が聞える。我プロイセン號の音樂隊は獨逸國歌を以て之に酬ゐた。獨逸國歌と英吉利國歌とは全然同一の曲であるから、英文學專攻の夏目君も會心の笑を湛へたに相違ない。横濱埠頭を離れる際には、恰も入込み來つた佛國汽船に敬意を表する爲め、我プロイセン號は馬耳塞の曲を奏した。かう云ふ風に日英佛獨の四國は音樂の微妙なる力により、握手交歡してる體で、我々は世界が一家に成つた樣な氣分になれた。
 上海の見物を濟ませて本船に歸つた頃、颱風の襲來に遭ひ、船を呉淞河口に留めて風伯の本隊を遣り過したが、發船後も餘波は中々強かつた。一行中芳賀君一人は剛の者で毫も船に醉はない。其他は皆似たり寄たりの弱虫達であつたが、中で夏目君が一番弱かつた。其頃から胃腸病に罹つて居たのではあるまいか。颱風後の航海では芳賀君が面の憎い程船に強くて、今日は食堂に出る人が少いから、ウント食つて遣つたと云ふ樣に、自慢話をする。我々は枕も上らぬ病人の樣に床上に呻吟して、部屋ボーイに一品二品を枕頭に運ばせ命を繋いで居るのである。ドンナに威張られても一言も無い。海の上では迚も敵はないから陸で讎を取つて遣れと心窃かに思ひ定めた。香港でピークに登つた時此機逸すべからずと、トウトウ頂上まで引張り上げた。夏目君は學生時代に文科には珍らしい機械體操の名人であつたから、此位の山を登るのは朝飯前だ。他の二人揃ひも揃つた靑瓢簟ではあるが、目方が輕いだけに何の事はなかつた。獨り芳賀君は一橋時代に豚と異名を授けられた程だから、途中で弱音を出して幾度か下山を主張したが、僕は委細構はずピークの絶巓まで漕ぎ付けた。併し頂上からの眺めは亦一段の絶景で、芳賀君も淋漓たる流汗を十分償うて餘りあつたことと僕は確信して居る。
 古倫母でうるさく附纏ふ乞丐の子供に、君が態々兩換した小錢を振撒いても、猶執念く附いて來るので、辛抱強い君がステツキを揚げた姿は、今に目に殘つてる樣だ。
 船中では書生時代の氣分に立戻つて、お互に揶揄したり、惡口を言合つたりしたこともあるが、總體君は求めずして自ら上品な紳士の態度を得て居た。上海からは英米の宣敎師が妻子眷屬を引連れ二十名餘り乘船した。何れも風采から見ると、迚も人を感化する力は無さ相に思はれたが、中には可なり職務に忠實な向もあつて、熱心に傳道を試みる。夏目君は其一人に見込まれて、神の存在と云ふ樣な問題で、哲學的見地から對手を手古擦らしたこともある。或時僕は君と文學の話をした中に、君は今迄和漢洋の文學を硏究して居るが、何一つ是れが分つたと思ふものは無い。唯俳句のみは其趣味を解し得た樣に思ふと云つたことがある。君が漱石と云ふ號で日本新聞やら、雜誌ホトヽギスに俳句を寄せると云ふ噂は其前から聞いて居たが、其方面の注意を全然怠つて居た僕は、君がそれ程造詣の深いことは知らなかつた。船中からも君は東京の根岸で病を養つて居る子規氏へ折々句を贈つた樣である。
 古倫母から亞丁までの航海が一番長いので、一行は渡歐後の準備として獨逸語やら佛蘭西語やらの俄勉強に取懸つたが、君は英文小説の耽讀一點張りであつた。
 伊太利に着く前に一行間の問題となつたのは、當時巴里に萬國博覽會があつて、ヂエノアから巴里に行けば間に合ふ。それとも博覽會は斷念してナポリで上陸しポムペイを見て羅馬に行かうかと云ふのであつた。出發前東京で坪井先生に旅行中の心得を承はつた時、巴里の博覽會などは、赤毛布の奧山見物と同然だ。それよりはナポリで上陸して、ポムペイ、ペスツムを見物し、羅馬で一週間位滯在した方が、遙かに氣が利いてると云はれた。所が一行中の多數は以太利は留學中でも行かれるが博覽會は今度でなければ見られないと云ふので、巴里行に決した。留學中以太利へ行き損つた僕は、あの時坪井先生の忠告に從へば宜かつたと後悔してる。併し夏目君は以太利觀光に熱心と云ふ譯でもなし、博覽會も強いて見たいと云ふ風でも無かつたらしい。唯目的地の倫敦へ行くには巴里を經由するが一番便利である。そこで初めから其積りで巴里でも二三の人に面會する豫定だつたらしい。けれども若し一行の多數意見が以太利見物に傾いたら、夫れにも反對を唱へなかつたらうと思はれる。兎に角君は航海中始終超然主義とでも云ふ樣な態度を執つて居た。
 ナポリ碇泊中にも敏捷な船客はポンペイの見物を濟ました人もあるが、我々は不慣れのことではあり、以太利案内者の乞食根性に就いては隨分警戒を加へられて居るから、市内の見物だけで船に還つた。ヂエノアで船を乘捨て、モン・セニーの隧道を夜間に通過して巴里に着いた。大博覽會は二日程見物したら厭氣がさして、ルウブルも見ず、グラントペラも覗かず倫敦へ渡る夏目君と袂を分つて他の四人は伯林へと志したのである。
 程經て伯林の或る料理店から數名の日本人連署の繪葉書を夏目君に贈つたら、「君達は賑かで羨ましいね。僕は一人ポツチで淋しい」と云ふ意味の返事が來た。其後「巴里で懷郷病の講釋を谷本君から聽かされたが、此頃になつて成程と思當ることがある」と云ふ樣な手紙もあつた。「一度賑かな我々の方へ遣て來ないか」と言送つたら、「大陸へ渡る氣分にはなれない」と云ふ挨拶だつた。
 立花の銑さんが病氣で歸朝するとき、君は常陸丸へ尋ねて行つて、「銑さんは可哀相だ、實に氣の毒だ」と云ふ文通があつた。其の頃既に「縁起の惡い船」と云ふ評判を立てられた常陸丸が香港を離れると間もなく銑さんは船中で瞑目したのである。銑さんは歸朝の航海中芳賀君へ宛てた書信の都度、俳句めいたものを書送つたが、倫敦碇泊中の端書に「戰爭で日本負けよと夏目云ひ」と云ふ一句があつた。憂國の士を以て自ら任じ、人からも許された同君と常陸丸の船室で夏目君が會見した折り、倫敦邊に迂路付いて居る、片々たる日本の輕薄才子の言動に嘔吐を催ほして居た君が、此奇矯の言を吐いた光景が目に見える樣である。
 我々の留學は滿二年の期限であつた。其期の滿つる一ヶ月程前に「夏目ヲ保護シテ歸朝セラルベシ」と云ふ電命が僕に傳へられた。これは君の精神に異狀があると云ふことが大袈裟に當局者の耳に響いた爲めである。それでなくても僕は無論同船して歸朝する積りで、其前に君と打合せを仕て置いた。所が倫敦へ着くなり郵船會社の支店へ行くと事務員が「夏目さんは一度乘船を申込んで置きながらお斷りになりました」とさも不平らしく訴へる。「若し同船して歸ると云たら船室の都合は附きますか」と聞いたら、「それはどうにかなりませう」と云ふ返答だ。そこで夏目君に端書を出したら翌朝僕の下宿へ來て呉れた。君より前に來て居たO君は、例の電報を取次いだ關係で、是非一所に連れて歸れ、荷物の始末は跡でどうにでも付ける。あゝいふ電報のあつた以上若しもの事があつたら君は申譯はあるまいと熱心に同行を主張する。兎に角同行を勸めて見ようと答へて置いて、其日は夏目君とナシヨナル、ギアレリーを一所に見て、午餐を共にし、それから君の下宿に一泊した。君が歸朝を後らせることになつたのは、蘇格蘭へ旅行して、豫定よりも長逗留をし、荷物が出來ない爲めだ。そこで荷造りは人に賴んで體だけ僕と一所に歸つたらどうかと再三勸めて見たが、どうしても應じない。成る程君の部屋には留學生としてはよくもこんなに買集めたと思ふ程書籍が多い。これを見捨てゝ他人に後始末を任せると云ふことは僕にしても出來相もない。それに今日一日見た樣子では別段心配する程の事もないらしい。此上無益の勸告を試みるでもないと僕は斷念した。其翌日君にケンシントン博物館と圖書館を案内して貰ひ、圖書館のグリル・ルームで一片の燒肉でエールを飲んだ。「モウ船までは送つて行かないよ」と云ふ言葉を最後に別れた。
 君は僕より二タ船後れて明治卅六年の正月歸朝した。それから後の消息は新聞やら雜誌やらに、委細出て居るから一切省略する。君が人物を評し君が作物を論ずる適任者は世上其人に乏しくあるまい。唯あの長途の旅行を共にした一人として、僕は適不適を顧みる遑なく此一篇を綴つて見たのである。
                           
(「藝文」第八年第二號より)
 

 



  (注) 1.  本文は、『漱石全集月報』昭和3年版、昭和10年版(岩波書店、1976年4月20日第1刷発行)掲載の文章によりました。(藤代素人の「夏目君の片鱗」は、「漱石全集月報」第五號 昭和3年7月第5回配本附録に掲載されています。)
 ただし、文中に掲載されている写真4葉(「熊本第五高等學校本館小景
(現在)」「(短冊) 酒なくて詩なくて月の靜けさよ 愚陀佛 熊本時代(當時愚陀佛と號す)」「(短冊) 獨り居や思ふ事なき三ヶ日 漱石 (明治四十四年一月)」「ロンドン時代の日記の一部(一九〇一年一月三日より五日まで)」)は、省略してあります。       
   
    2.  本文中の傍点が付けてある語句は、下線を施して代用しました(「むら氣」「うるさく附纏ふ」)
 また、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、もとの言葉を繰り返して表記してあります(「ソコソコに」「トウトウ」)。
   
    3.  本文中の「夏目君を誘つて一所に來る積りで」「精神に異狀がある」の「一所」(一緒)、「異狀」(異常)などは、原文のままです。    
    4.  本文中に、現在の時点から見て穏当でないと思われる表現の見られるところがありますが、これは歴史的文献としてそのまま記載してあることをお断りしておきます。    
    5.  藤代素人(ふじしろ・そじん)=独文学者。慶応4年(明治元年)7月24日、千葉県に生まれる。本名、禎輔(ていすけ)、素人は号。明治24年、帝国大学文科大学独逸文学科を卒業して大学院に進学、東京高師・一高でも教えた。明治29年、一高教授に就任、ドイツ語を担当。明治31年、東京帝国大学文科大学講師。明治33年、漱石と同じ船でドイツに留学した。帰国後、明治36年、東京帝国大学文科大学講師に就任。明治40年、京都帝国大学文科大学教授に就任。明治41年、文学博士。昭和2年4月18日、死去。漱石と交遊があり、漱石が文部省から病気を理由に帰国を命ぜられたとき、藤代は漱石を迎えに行き一緒に帰国するはずであったが、都合で漱石の帰国が遅れたため、藤代は先に帰国したという。明治38年、『吾輩は猫である』に対して『猫文士気燄録』を書いたことでも知られている。(慶応4年~昭和2年:1868~1927)    
    6.  泉健氏の論文pdf 「藤代禎輔(素人)の生涯─瀧廉太郎、玉井喜作との接点を中心に─」(和歌山大学教育学部紀要 人文学部 第60集(2010))があって、大変参考になります。
 『NII国立情報学研究所』
  → 日本の論文をさがす 
  → 泉健氏の論文へ

    上記の藤代素人の経歴も、主として泉健氏の論文を参考にさせていただきました。
   
    7.  ホフマンの牡猫ムルに触れたところが、漱石の『吾輩は猫である』の最後に出てきます。その部分を引いておきます。
 
猫と生れて人の世に住む事もはや二年越しになる。自分では是程の見識家はまたとあるまいと思ふて居たが、先達てカーテル、ムルと云ふ見ず知らずの同族が突然大氣燄を揚げたので、一寸吃驚した。よくよく聞いて見たら、實は百年前(ぜん)に死んだのだが、不圖した好奇心からわざと幽靈になつて吾輩を驚かせる爲に、遠い冥土から出張したのださうだ。此猫は母と對面をするとき、挨拶のしるしとして、一匹の肴を啣へて出掛けた所、途中でとうとう我慢がし切れなくなつて、自分で食つて仕舞つたと云ふ程の不孝ものだけあつて、才氣も中々人間に負けぬ程で、ある時抔は詩を作つて主人を驚かした事もあるさうだ。こんな豪傑が既に一世紀も前に出現して居るなら、吾輩の樣な碌でなしはとうに御暇(おいとま)を頂戴して無何有郷(むかうのきやう)に歸臥してもいゝ筈であつた。(昭和40年版『漱石全集』第1巻、534-5頁)

 ○
この部分についての40年版『漱石全集』第1巻の注解を引いておきます。
 
先達てカーテル、ムルと云ふ見ず知らずの同族が突然大氣燄を揚げた  『新小説』明治39年5月号に載った、藤代素人の「猫文士怪焰録」をさす。その中には漱石の作にも言及して、「此猫も流石吾輩の同族丈あつて、人間の弱点に向つて中々奇警な観察を下して居る。痛快な批評を加へて居る。但少し気に喰はぬのは、まだ世界文学の知識が足らぬ為めかも知れぬが、文章を以て世に立つのは同族や(ママ)己れが元祖だと云はぬばかりの顔附をして、百年も前に吾輩といふ大天才が独逸文壇の相場を狂はした事を、おくびにも出さない。若し知って居るなら、先輩に対して甚だ礼を欠いて居る訳だ」と述べたところがある。文中吾輩と言っているのは、ドイツの作家ホフマンが1820-22年に発表した『牡猫ムルの人生観』(Lebensansichten des Katers Murr) の主人公である。(昭和40年版『漱石全集』第1巻、613頁)

 
引用者注: 全集の注解に、藤代素人の「猫文士怪焰録」とあるのは、深田甫訳『牡猫ムルの人生観』(『ホフマン全集 7 』所収)の作品解題には、「猫文士気燄談」とありますが、これは次に引く『漱石文学作品集』(岩波書店、1990年11月19日発行)の後注(斎藤恵子)にある「猫文士気燄録」が正しいようです。

 ○  『漱石文学作品集』(岩波書店、1990年11月19日発行)の後注(斎藤恵子)を引いておきます。
 『新小説』(明39 ・5)に藤代素人が」「猫文士気燄録」なる一文を載せ、ホフマンの小説『牡猫ムルの人生観』の主人公の猫が、「吾輩」と名のる体裁で、百年前にドイツに先輩がいたと揶揄した。

 ○ 参考までに、深田甫訳『牡猫ムルの人生観』の作品解題に引用されている部分も書き写しますと
(漢数字を算用数字に直してあります)
 『吾輩は猫である』が雑誌『ホトトギス』に明治38年1月号から1年8か月にわたって連載されている間、明治39年(1906年)5月号の『新小説』に、漱石の友人でもあるドイツ文学者藤代素人(禎輔)が『猫文士気燄談』という一文を草し、「カーテル、ムル口述、素人筆記」としてホフマンの『牡猫ムルの人生観』の存在をあきらかにしたのであった。それは牡猫
〔<カーテル>はドイツ語で<牡猫>の意〕ムルがやはり「吾輩」と称して語る形式となっている。そのなかで吾輩ムルが、なるほど「幽霊になって」あらわれたかのように、こう述べている、「但少し気に喰はぬ のは、まだ世界文学の知識が足らぬ為めかも知れぬが、文章を以て世に立つのは同族中己れが元祖だと云はぬばかりの顔附をして、百年も前に吾輩と云ふ大天才が独逸文壇の相場を狂はした事を、おくびにも出さない。若し知て居るのなら、先輩に対して甚だ礼を欠いて居る訳だ。現に吾輩等はチークが紹介してロマンチックの大立物となった『長靴を履いた猫』を斯道の先祖と仰いで、著書の中で敬意至れり尽せりだ」。(以下、略)(同全集、808-9頁)        
   
    8.  フリー百科事典『ウィキペディア』に「藤代禎輔」の項があります。          
    9.  資料42に「夏目漱石『吾輩は猫である』(冒頭)」があります。    


   
        
       
        


                           
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