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(注) |
1. |
本文は、『漱石全集月報』昭和3年版、昭和10年版(岩波書店、1976年4月20日第1刷発行)掲載の文章によりました。(藤代素人の「夏目君の片鱗」は、「漱石全集月報」第五號 昭和3年7月第5回配本附録に掲載されています。)
ただし、文中に掲載されている写真4葉(「熊本第五高等學校本館小景(現在)」「(短冊) 酒なくて詩なくて月の靜けさよ 愚陀佛 熊本時代(當時愚陀佛と號す)」「(短冊) 獨り居や思ふ事なき三ヶ日 漱石 (明治四十四年一月)」「ロンドン時代の日記の一部(一九〇一年一月三日より五日まで)」)は、省略してあります。 |
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2. |
本文中の傍点が付けてある語句は、下線を施して代用しました(「むら氣」「うるさく附纏ふ」)。
また、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、もとの言葉を繰り返して表記してあります(「ソコソコに」「トウトウ」)。 |
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3. |
本文中の「夏目君を誘つて一所に來る積りで」「精神に異狀がある」の「一所」(一緒)、「異狀」(異常)などは、原文のままです。 |
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4. |
本文中に、現在の時点から見て穏当でないと思われる表現の見られるところがありますが、これは歴史的文献としてそのまま記載してあることをお断りしておきます。 |
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5. |
藤代素人(ふじしろ・そじん)=独文学者。慶応4年(明治元年)7月24日、千葉県に生まれる。本名、禎輔(ていすけ)、素人は号。明治24年、帝国大学文科大学独逸文学科を卒業して大学院に進学、東京高師・一高でも教えた。明治29年、一高教授に就任、ドイツ語を担当。明治31年、東京帝国大学文科大学講師。明治33年、漱石と同じ船でドイツに留学した。帰国後、明治36年、東京帝国大学文科大学講師に就任。明治40年、京都帝国大学文科大学教授に就任。明治41年、文学博士。昭和2年4月18日、死去。漱石と交遊があり、漱石が文部省から病気を理由に帰国を命ぜられたとき、藤代は漱石を迎えに行き一緒に帰国するはずであったが、都合で漱石の帰国が遅れたため、藤代は先に帰国したという。明治38年、『吾輩は猫である』に対して『猫文士気燄録』を書いたことでも知られている。(慶応4年~昭和2年:1868~1927) |
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6. |
泉健氏の論文pdf 「藤代禎輔(素人)の生涯─瀧廉太郎、玉井喜作との接点を中心に─」(和歌山大学教育学部紀要 人文学部 第60集(2010))があって、大変参考になります。
『NII国立情報学研究所』
→ 日本の論文をさがす → 泉健氏の論文へ
上記の藤代素人の経歴も、主として泉健氏の論文を参考にさせていただきました。 |
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7. |
ホフマンの牡猫ムルに触れたところが、漱石の『吾輩は猫である』の最後に出てきます。その部分を引いておきます。 猫と生れて人の世に住む事もはや二年越しになる。自分では是程の見識家はまたとあるまいと思ふて居たが、先達てカーテル、ムルと云ふ見ず知らずの同族が突然大氣燄を揚げたので、一寸吃驚した。よくよく聞いて見たら、實は百年前(ぜん)に死んだのだが、不圖した好奇心からわざと幽靈になつて吾輩を驚かせる爲に、遠い冥土から出張したのださうだ。此猫は母と對面をするとき、挨拶のしるしとして、一匹の肴を啣へて出掛けた所、途中でとうとう我慢がし切れなくなつて、自分で食つて仕舞つたと云ふ程の不孝ものだけあつて、才氣も中々人間に負けぬ程で、ある時抔は詩を作つて主人を驚かした事もあるさうだ。こんな豪傑が既に一世紀も前に出現して居るなら、吾輩の樣な碌でなしはとうに御暇(おいとま)を頂戴して無何有郷(むかうのきやう)に歸臥してもいゝ筈であつた。(昭和40年版『漱石全集』第1巻、534-5頁)
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この部分についての40年版『漱石全集』第1巻の注解を引いておきます。
先達てカーテル、ムルと云ふ見ず知らずの同族が突然大氣燄を揚げた 『新小説』明治39年5月号に載った、藤代素人の「猫文士怪焰録」をさす。その中には漱石の作にも言及して、「此猫も流石吾輩の同族丈あつて、人間の弱点に向つて中々奇警な観察を下して居る。痛快な批評を加へて居る。但少し気に喰はぬのは、まだ世界文学の知識が足らぬ為めかも知れぬが、文章を以て世に立つのは同族や(ママ)己れが元祖だと云はぬばかりの顔附をして、百年も前に吾輩といふ大天才が独逸文壇の相場を狂はした事を、おくびにも出さない。若し知って居るなら、先輩に対して甚だ礼を欠いて居る訳だ」と述べたところがある。文中吾輩と言っているのは、ドイツの作家ホフマンが1820-22年に発表した『牡猫ムルの人生観』(Lebensansichten des Katers Murr) の主人公である。(昭和40年版『漱石全集』第1巻、613頁)
引用者注: 全集の注解に、藤代素人の「猫文士怪焰録」とあるのは、深田甫訳『牡猫ムルの人生観』(『ホフマン全集 7 』所収)の作品解題には、「猫文士気燄談」とありますが、これは次に引く『漱石文学作品集』(岩波書店、1990年11月19日発行)の後注(斎藤恵子)にある「猫文士気燄録」が正しいようです。
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『漱石文学作品集』(岩波書店、1990年11月19日発行)の後注(斎藤恵子)を引いておきます。
『新小説』(明39 ・5)に藤代素人が」「猫文士気燄録」なる一文を載せ、ホフマンの小説『牡猫ムルの人生観』の主人公の猫が、「吾輩」と名のる体裁で、百年前にドイツに先輩がいたと揶揄した。
○ 参考までに、深田甫訳『牡猫ムルの人生観』の作品解題に引用されている部分も書き写しますと(漢数字を算用数字に直してあります)、
『吾輩は猫である』が雑誌『ホトトギス』に明治38年1月号から1年8か月にわたって連載されている間、明治39年(1906年)5月号の『新小説』に、漱石の友人でもあるドイツ文学者藤代素人(禎輔)が『猫文士気燄談』という一文を草し、「カーテル、ムル口述、素人筆記」としてホフマンの『牡猫ムルの人生観』の存在をあきらかにしたのであった。それは牡猫〔<カーテル>はドイツ語で<牡猫>の意〕ムルがやはり「吾輩」と称して語る形式となっている。そのなかで吾輩ムルが、なるほど「幽霊になって」あらわれたかのように、こう述べている、「但少し気に喰はぬ のは、まだ世界文学の知識が足らぬ為めかも知れぬが、文章を以て世に立つのは同族中己れが元祖だと云はぬばかりの顔附をして、百年も前に吾輩と云ふ大天才が独逸文壇の相場を狂はした事を、おくびにも出さない。若し知て居るのなら、先輩に対して甚だ礼を欠いて居る訳だ。現に吾輩等はチークが紹介してロマンチックの大立物となった『長靴を履いた猫』を斯道の先祖と仰いで、著書の中で敬意至れり尽せりだ」。(以下、略)(同全集、808-9頁) |
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8. |
フリー百科事典『ウィキペディア』に「藤代禎輔」の項があります。
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9. |
資料42に「夏目漱石『吾輩は猫である』(冒頭)」があります。 |
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