入 西 御 房。 雪中枕石、大慈放光、鑑察肖像、無上法皇。 (十五番) 惠みふかき雪をしとねの御法(みのり)のみ 朽ちぬためしの枕石(まくらいし)かな。 高祖聖人上足二十四輩第十五、道圓坊の遺蹟(ゆゐせき)也。 道圓法師は、舊(もと)江州(ごうしう)蒲生郡(がまふごほり)日野の産にして、俗姓(ぞくしやう)は日野左近將監(さこんしやうげん)頼秀が後胄(こうちう)、日野左衛門(ひの・さゑもん)の尉(じよう)頼秋と云へる士(さむらひ)なり、當時不遇にして世をあぢきなく思ふ心より、自(おのづ)と人の交(まじはり)も疎く、終に流浪して當國久慈郡(くじごほり)大門(おほかど)と云ふ地に逼塞(ひつそく)してありけるが。頃は建保五年の秋、聖人當國御敎化の折から、一日(あるひ)此(この)大門を經回(けいくわい)し給ふに、思ひの外に日暮れて、前路(ゆくて)程遠ければ、即(すなはち)佐衛門が家に立寄り、宿りを需(もと)め給ひしに。左衛門性質(うまれつき)むくつけき男にて、御覽のごとく我だに住(すみ)うき貧家なれば、いかでか旅人を宿すべき、とくとく歸り給へと、愛想(あいさう)なく申けるが、さればとて外(ほか)に求むべき家居もなければ、聖人強(しひ)てこれを乞はせ給ひしかば。左衛門以(もつて)の外に立腹し、こはくどくどしき法師かな、さらずばさらぬまでよ、先(まづ)我(わが)棒を受(うく)べしと、有合(ありあふ)杖(しもと)おつ取り、既にこれを打たんとす。聖人此形勢(ありさま)を見給ふより、矢庭に外面(そとも)に出(いで)給ひしが、日ははやとく暮(くれ)はてゝ、行先とても見へわかねば、詮方なく又立もどらせ給ひ、彼が軒端にて、折柄降りしきる雪をしとねに、石を假の枕とし夜寒をわびて臥(ふし)給ふに。相隨ふ二三の御弟子(おでし)、此御姿(おすがた)を見るよりも御(お)いたはしさ云はん方なく、涙とゝもに御介抱をなし參らせけるに。聖人少しも憂ひ給ふけしきなく、夫(それ)彌陀因位(いんゐ)の御修行に、肉の山を築き血の海をながし、焦熱冱寒(せうねつごかん)の苦惱を凌ぎ、超載永劫(てうさいえうごふ)身命(しんみやう)を惜(をし)み給はず、菩薩無量の德行(とくがう)を積植(しやくじき)し給ふ、御艱難(ごかんなん)を思ひめぐらせば、今此軒端の假寢は物の數かは、元より樹下石上(じゆげせきじやう)は我(わが)釋氏(しやくし)の敎(をしへ)なれば、何(な)にしにこれを厭(いとは)んや。是(これ)に付(つけ)ても唯仰ぐべきは、彌陀の御恩德なれば彌(いよいよ)報謝の稱名(しようみやう)を歓ぶべしと、念佛の御聲(みこゑ)最(いと)殊勝に、既に其夜も更(ふけ)にけり。 扨(さて)も左衛門は前(さき)に聖人を追出し奉り、臥所(ふしど)に入りて休らひけるが、子(ね)の一つばかりと思(おぼ)しき頃、一人の化僧(けそう)枕上(まくらもと)に立(たち)て、いかに左衛門爾(なんぢ)凡夫のあさましさ、前(さき)に汝が門(もん)に來迎ましませし御僧(おんそう)こそ、則(すなはち)西方(さいはう)の敎主覺王阿彌陀如來にてをはします、勿體なや百福莊嚴(しやうごん)の尊像を、衆生濟度の爲にあられぬ法師の姿とかへ、結縁(けちえん)のために塵(ちり)にまじはり給ふなるを、さもあらけなく云罵り、難有(ありがたき)悲願にもれぬる事の愚(おろか)さよ、されども爾(なんぢ)が宿善開發(かいほつ)の時至りぬれば、幸(さいはひ)に他所(たしよ)へうつり給はず、軒端をかりの宿として石に枕し臥(ふし)給へば、とくとく屈請(くつしやう)申參らせ、尊恭(そんきやう)怠るなかれ、我はこれ爾が多年頂禮(てうらい)せる所の、救世菩薩(くせぼさつ)也と宣ふと見て夢さめぬ。左衛門大(おほい)に驚き、即(すなはち)示現(じげん)に隨ひ、密(ひそか)に戸外を伺ふに、恰(あたか)も日光の再びてらせるがごとく、光明傍(あたり)をかゞやかし、其(その)明(あかる)き事白晝のごとし。左衛門心中に彌(いよいよ)恐れ、聖人の御側(おそば)近く伺ひ奉るに、よく熟睡なし給ふ御息(おいき)の下より、其光赫然(くわくぜん)としてあらはれければ。左衛門は忽ち大地に身を抛(なげうち)、せんぴを悔(くひ)て泣(なき)わびつゝ、我家に請(しやう)じ參らせ、觀音大士(くわんおんだいし)の御靈夢を物語り、改悔(かいげ)の心しきりなりしかば。聖人大(おほい)に喜ばせ給ひ、一樹の蔭一河の流れ、皆これ他生(たしやう)の縁なれば、今更心おく事なかれと、即(すなはち)終夜(よもすがら)隨類隨機(ずゐるゐずゐき)の大悲(だいひ)をたれ、機見機應(きけんきおう)の善巧(ぜんぎやう)を以て、他力本願の奥旨(おうし)、凡夫直入(じきにふ)の敎法を、いと懇ろに示し給ひければ。左衛門立所(たちどころ)に信心發得(ほつとく)し、速(すみやか)に御弟子(おでし)の列に從はん事を願ひけるに。聖人これを許して、即(すなはち)釋道圓(しやくだうゑん)と法名を授け給ふ、かゝりしより道圓房彌(いよいよ)本願を信じ、聖人を尊重し奉る事他に超(こえ)たり。爰(こゝ)において一宇を造立(ぞうりふ)し、更に聖人を請じ奉りければ、心よく入御(にふぎよ)ならせ給ひ、聞法(もんはふ)更にこまやかなり。道圓房つくづく思ふやう、聖人御化益(ごけやく)御辛勞の恩德須彌(しゆみ)も高きをあらそはず蒼海も深きを讓(ゆづ)れり、是(これ)を末世の衆生に遺し置かんと、聖人に願ひ奉り、枕石(しんせき)を以て終に寺號とはなしにけるとなん。 枕石寺(しんせきじ)は中世廢退に及び、昔しの大門村(だいもんむら)より
二里餘り水戸に近かよりたる川合村(かあひむら)、即現今の所に轉寺再興
す。舊大門村寺跡(じせき)に淨土宗の寺院を造築すと、是亦(これまた)廢
寺となれり、今は靑蓮寺(しやうれんじ)の念佛堂、及左衛門事(こと)道圓
房の墓あるのみなり。 (55~60頁)
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●枕石村御舊跡 谷河原太田町より一里人力車あり 往昔(むかし)聖人石を枕とし、日野左衛門(ひのさゑもん)を化度(けど)し給ひし舊地なり。是(こゝ)に於て終に村の名とせりと云ふ(此村畑中に日野左衛門が宅地の跡基(あと)あり、遺跡の廢(す)たらんことを恐れ、靑蓮寺(しやうれんじ)の老僧私財を以て、墓の側(かたはら)に年佛堂を建てあり) (60頁)
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(『親鸞聖人二十四輩巡拝記』後編、扉挿絵より) ☆画像をクリックすると拡大画像が見られます。
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