資料340 枕石寺について

 

 

        枕石寺について  
       

1.枕石寺の草創

 

 

 

 

 


 
日野左衛門尉頼秋は、文治2年(1186)京都は日野の里に生まれる。幼名を光徳麿といい、父は藤原氏日野左大辨頼秀卿の孫、母は藤原氏右大臣豊成卿の末孫である。幼少の頃より文武両道にすぐれた英雄なれども、驕慢な振る舞いが仇となり、うその告げ口をされて、承元元年(1207)の春、流刑の勅宣を受けて、常陸国大門の里に流罪となった。建暦元年(1211)流罪勅免となったが、文武両道にすぐれていたので、常陸国には既に多くの門弟がおり、帰洛を許さなかった。
 その翌年、親鸞聖人は、越後から常陸国をご教化の際に、文武両道にすぐれた隠士が京都から流罪となり大門の里に住んでいることを聞き、讒奏されて流罪となったことや、生まれ故郷、日野という俗姓までが同じという奇遇に、懐かしさのあまり、お弟子二人を伴って、大雪の中、日野左衛門の館を訪ねたのが、建暦2年(1212)旧暦11月27日の夕方であった。主はそれとは知らず、一夜の宿も貸さぬばかりか、仏道修行をする者は身命を惜しまず野や山に寝るのがあたりまえ、雪や嵐を苦にして安楽に宿をとるとは何事か、と悪口を申して門前まで追い出してしまった。聖人は、日野左衛門のこのような態度に腹も立てず、自分を戒め、日野左衛門のみ教えの未熟さを歎かれ、この者をここで救わなかったなら、彼は一生苦しむであろう、あの邪険驕慢な態度を直して救うのが私の務めだ、と決心された。
 厳冬の夜、降り積む雪の中では、いくら修行の身とはいえ、寒さが身にしむので、心配したお弟子がお声をかけると、「寒くとも袂
(たもと)に入(い)れよ西の風弥陀の国より吹くと思へば」と詠まれ、二人のお弟子を諭し門の扉止めの石を引き寄せてお休みになられた石がお枕石であり、枕石寺というこの寺の名前になったと伝えられております。
 その夜、日野左衛門は、守り本尊の観音様のお告げにより、聖人を館にお招きして改心し、お弟子となった。聖人からは、西方の門(弥陀の国)に入る人という意味で、入西房釈の道円という法名をいただき、あなたの邪険驕慢な心を早く捨て、大海のような心でお慈悲を喜ぶ身になってくれよ、と仰せられて、昨夜お休みになられた石の上に「大心海」という3字をお書きになりました。「祖蹟巡拝わらじの祖師が目に浮かぶ」 
 

 

 

 

 

2.枕石寺の建立及び移転

 

 

 

 

 

(1)大門村時代(跡地不明)=建立は建暦2年(1212)ここに21年間滞在して、日野左衛門存命中に内田村に移る。
(2)内田村時代(跡地不明)=貞永元年(1232)佐竹義繁侯の時に移転、ここに309年間居住して、河合村に移る。
(3)河合村時代(常陸太田市上河合町)=天文9年(1541)、枕石寺9代目、道清法師の時に現在地に移転、ここに移ってから昭和50年で434年、建立以来実に763年、住職は28代目となる。
 延宝6年(1679)11月、中納言水戸義公様から「大門山」の山号と額が贈られた。

 以上のように、再三にわたる移転のため、戦後発行の書籍の中には、大門村に本派の枕石寺があるとか、開基入西房道円の墓があるとか記載されているものがあるが、事実無根である。大門村時代の枕石寺跡地と間違えたものと思うが、跡地も亦、土地の人の言い伝えで明確ではない。
 枕石寺伝記によれば、開基入西房道円は、寛元3年(1245)6月15日に亡くなっており、これは内田に移って14年後であり、大門に墓地があるはずがなく、その後河合移転に際し、法宝物、墓地等一切、現在地に安置された。将来誤解を招く恐れがあるので、特記しておく。

 

 

    

 

 


    以上の本文は、以前枕石寺を訪れたときに頂いた案内の
   印刷物から転記しました。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
1.  上記の「1.枕石寺の草創 2.枕石寺の建立及び移転」の本文は、だいぶ前に枕石寺を訪れたときに頂いた案内の印刷物から転記しました。    
    2.  文中に、「枕石寺9代目、道清法師の時に現在地に移転、ここに移ってから昭和50年で434年、建立以来実に763年、……となる」とあるのは、平成22年(2010年)現在に直せば、「平成22年で469年、建立以来実に798年、……となる」となります。    
    3.  常陸太田市のホームページには、枕石寺の紹介が次のように出ています。
  枕石寺(ちんせきじ)
 親鸞聖人の法弟入西房道円の開基と言われる寺院で、真宗24拝の第15番寺。開基当初は大門地域にあったが、その後内田町に移され、天文9(1540)年に現在の場所に移建されました。開基の道円は、北面の武士(平安後期に上皇の御所の守護などにあたった武士)であったが、とある罪により大門地域に隠棲していました。建暦2(1212)年の雪の夜、関東教化のために当地を訪れた親鸞は、一夜の宿を頼んだが、道円はこれを断りました。そこで親鸞は、「寒くとも たもとに入れよ 西の風 弥陀の国より 吹くと思へば」と詠んで、石を枕に身を横たえたといいます。親鸞の偉大さに感銘を受けた道円は、師の行為にちなんでこの寺を「枕石寺」と名付けたといいます。本尊は、延宝元年(1673)年に徳川光圀公が寄贈した阿弥陀如来で、寺宝として親鸞の筆とさる六字名号、大心海の文字が刻まれた、親鸞が身を横たえたという枕石が所蔵されています。なお、この枕石は、年に1度、11月26日にのみ公開されています。
  所在地:常陸太田市上河合町1102-1 
  電 話:0294-72-2652
 
引用者注:引用者の判断で、文中、一部手直しをした個所があります。
   
    4.  語句の読みについて
  日野左衛門尉頼秋……ひのさえもんのじょう・よりあき
  常陸国大門の里………ひたちのくに・おおかどのさと
  入西房道円……………にゅうさいぼう・どうえん
                
   
    5.  枕石寺は、倉田百三の戲曲『出家とその弟子』でも知られているお寺です。
 『出家とその弟子』は、岩波文庫で読むことができます。また、これはワイド版岩波文庫にも入っています。   
 参考: 岩波書店による岩波文庫『出家とその弟子』についての紹介文
 苦境にあって『聖書』と『歎異抄』を熟読した倉田の代表作。「今日のアジアにおいてこれほど純粋な宗教的芸術作品をわたしは知らない」(ロマン・ロラン)
 
 
岩波文庫の『出家とその弟子』は、青空文庫に入っていますので、そこで読むこともできます。
 青空文庫
  →『出家とその弟子』 (底本:岩波文庫)
   
       資料342に、「枕石寺(大峰貫道編『親鸞聖人二十四輩順拝記』より)」があります。
 資料343に、「大門村枕石寺・日野左衛門の事(佐竹智応編『御開山聖人御伝記絵鈔』より)」があります。
   







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