資料324 上杉治憲(鷹山)「持満説」
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持 満 説 上 杉 治 憲 |
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(注) | 1. | 上記の上杉治憲の「持満説」は、日本思想大系38『近世政道論』(奈良本辰也・校注、岩波書店・1976年5月28日第1刷発行)によりました。(「持満説」は、「じまんのせつ」と読むのだと思われます。) | ||
2. | 底本は、東京大学附属図書館所蔵の写本「南亭余韻」(小田切盛叔編、文政10年)の小判写本で、大判を照合し、他に、「羽陽叢書」、『日本経済大典』第15巻、『鷹山公世紀』(1906年刊)を参照した、とあります。 なお、「底本は、漢字片仮名交り文で書かれているが、片仮名を平仮名に訂した」ということです。 |
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3. | 日本思想大系38『近世政道論』巻末の解題に、次のようにあります。 「鷹山は宝暦元年、日向高鍋藩主秋月種美の次男として江戸に生れ、同10年米沢9代藩主上杉重定の養嗣子となり、明和4年(1767)4月に襲封した。天明5年(1785)に至る18年間藩主の地位にあり、以後の37年間はもっぱら米沢にあって治広・斉定の2代の治世に後見した。「名君・賢君」の典型として上杉鷹山の名は早くから世に知られ、明治になってからは内村鑑三の英文著作『代表的日本人』によって外国にまでその名が知られるようになった。 鷹山が「名君・賢君」の典型的存在といわれたのは、自身の日常生活を極端に切りつめ、破産同然だった米沢藩財政を辛うじて建て直したことによる。しかし、そうした具体的な治績のみではあるまい。実践の先に何を展望しているか、その明確な意志の表示もまた「名君・賢君」の重要な要素の一つであろう。」(456頁) (『近世政道論』には、「持満説」の他に、「伝国の詞」「老が心」「夏の夕」「大倹差略」「大倹の大意」「農官へ御諭の書」が採ってあります。) |
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4. | 本文末尾近くにある「祈らずとても神や護らん」は、「心だにまことの道にかなひなばいのらずとても神やまもらん」という、中世から菅原道真の作として広く知られていた歌をさす由です。(『近世政道論』の頭注による。) | |||
5. | 〇上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)=江戸後期の米沢藩主。名は治憲。越前守。日向高鍋藩主秋月種美の次男。重定の養子。細井平洲を師とし、藩政改革を推進。藩校興譲館の設立、節倹の励行、行政の刷新、産業の奨励に努め、荒地開墾に尽力。(1751~1822)(『広辞苑』第6版による。) 〇上杉治憲(うえすぎ・はるのり)=7511~1822(宝暦1-文政5) 米沢藩主。日向高鍋藩主秋月種美の2男。号は鷹山。上杉重定の養子となり、1767(明和4)襲封。85(天明5)隠居。その後も政務をみた。財政改革・殖産興業・新田開発・備荒貯蓄・倹約奨励など藩政全般にわたる改革を断行。また藩校興譲館を建て学問を奨励し、西洋医学をも採用した。秋田藩主佐竹義和・白河藩主松平定信らとならぶ江戸時代の名君の一人。(『角川日本史辞典』第2版による。) |
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6. | 上杉鷹山の作とされる「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」についての記述が、資料4「山本五十六元帥の「述志」(昭和16年)」の注11にありますので、ご覧ください。 | |||
7. | 『国立国会図書館デジタルコレクション』に『羽陽叢書 第四集』甘棠篇(新貝卓次編、米沢活版所・明治13年1月出版)があり、そこで「持満説」を見ることができます。 | |||
8. | 資料76「二宮翁夜話(巻之三)」七七に「山内氏蔵幅之縮図」 があり、そこにこの孔子の話が出ています。 | |||
9. | 『東北芸術工科大学紀要』Vol.15(2008年3月)に掲載されている山田烈氏の論文「雪村筆孔子観欹器図小考」があります。ここには、『荀子』『淮南子』『説苑』などの本文も引かれています。 | |||
10. | 持満(じまん)=1.弓を十分に引きしぼって待っていること。 2.発動の機の熟している時、準備してひかえていること。 3.勢いの盛んな地位に居ること。 (『広辞苑』第6版による。) |