資料324 上杉治憲(鷹山)「持満説」




 

       持 満 説                 上 杉 治 憲

 昔孔夫子魯国の御廟を御覧じけるに、其廟の中に敧器
(きき)ありしを、御廟守の者へ、「是はいかなる器ぞ」と尋給ひしに、御廟守答て、「是こそ宥座(ゆうざ)の器なり」と申す。孔子曰には、「吾聞(きく)、宥坐の器といへるは、水を注すに虚なれば敧(かたむき)て傾き、中分に水を注入(そそぎいる)れば真(ま)ろくに正しく、十分に満れば覆りこぼるゝなり。夫故明君は常に坐右に置て盈満(えいまん)の戒となさるゝこと也」。御門人方に仰て試に水を注れしに、果して中なれば正しく、満れば覆りたり。こゝにをいて夫子歎息し給ひ、「嗚呼、物なんぞ満て覆らざるものあらんや」と曰ひしに、御門人の子路といへる人進て、「其盈満を持(じ)していつまでも覆らぬ道もあるものに候や」と尋申されしに、夫子曰、「其盈満を持する道こそあれ。其道と云は、我こそ耳に能く善悪を聞わけ、この目によく邪正を見わけ、この心に智慮も深けれども、我耳とく目あきらかに智ありとせず、何一つ弁へぬ愚の場へ立返りて守り、我身功業手柄天下をも被(おおう)ほどありとも我功業手柄ありとせず、其功業手柄を人に譲りて居(おご)らず、我身勇力は万夫不当にして一世に振ほどなりとも勇力ありとせず、常に怯なる場を守り、我身の富は四海をも保つほどの富貴なりとも我富貴なりとせず、常に謙の場へ身を居(すえ)て守るなり。是を己が多を損じて又損ずと云は此道のことなり。ヶ様なるときは、外より我に来るものは何ほど盈ち満るといへどもこの身この心は弥損じ弥謙(へりくだ)るゆへ、いつとても盈満の場へ至らず、覆る気遣はなきぞ」と御答ありしなり。
 今世の人、何ぞ過分なる福分
(ふくぶん)仕合に逢へば、冥理が恐しとて後の災難を避んと神や仏に祈る人あり。其恐をいだく心はさる事なれど、思はざるの至なり。それをいかにと云に、其人のいまだ福分仕合に逢ざるうちは物を恐れ慎みて勉るゆへ、功も立、徳もあらはるゝ也。天道は親疎貴賤となく善人に与(くみ)し給ふゆへ、其功其徳に報ひて福分仕合を授け給ふなれば、何ぞ故なく又災難を降し給はんや。然るに其福分仕合の重るに随て恐懼〔謹〕勉の心弛て、人にももてはやされ、知らず知らず驕慢の心生じ其福分仕合に誇り、人にも慮外緩怠をなし、果々は猶も不足を懐くやうになりゆき、其初の功も徳も廃してこの身この心盈満するゆへ、終に自ら覆るの場へ至るなり。此時にしていかに祈るとも神や仏も救ひ給はんや。唯いつまでも始の心を忘れず、我身に立返り顧て善を修し徳を積、福分仕合の重るほど倍(ますます)我多を損じ謙(へりくだ)り、小心翼々と慎み勉るものならば、「祈らずとても神や護らん」と云ごとく、功徳も愈立、其福分仕合我身の上のみか子孫にも及て、目出度栄を保んこと疑ひなきなり。是を持満の説と云。

 

 

 

 


   (注) 1. 上記の上杉治憲の「持満説」は、日本思想大系38『近世政道論』(奈良本辰也・
         校注、岩波書店・1976年5月28日第1刷発行)によりました。
(「持満説」は、「じまん
          のせつ」と読むのだと思われます。)

         2.  底本は、東京大学附属図書館所蔵の写本「南亭余韻」(小田切盛叔編、文政
         10年)の小判写本で、大判を照合し、他に、「羽陽叢書」、『日本経済大典』第15
         巻、『鷹山公世紀』(1906年刊)を参照した、とあります。    
             なお、「底本は、漢字片仮名交り文で書かれているが、片仮名を平仮名に訂し
         た」ということです。
         3. 日本思想大系38『近世政道論』巻末の解題に、次のようにあります。
          「鷹山は宝暦元年、日向高鍋藩主秋月種美の次男として江戸に生れ、同10年
         米沢9代藩主上杉重定の養嗣子となり、明和4年(1767)4月に襲封した。天明
         5年(1785)に至る18年間藩主の地位にあり、以後の37年間はもっぱら米沢に
         あって治広・斉定の2代の治世に後見した。「名君・賢君」の典型として上杉鷹山
         の名は早くから世に知られ、明治になってからは内村鑑三の英文著作『代表的
         日本人』によって外国にまでその名が知られるようになった。
          鷹山が「名君・賢君」の典型的存在といわれたのは、自身の日常生活を極端に
         切りつめ、破産同然だった米沢藩財政を辛うじて建て直したことによる。しかし、
         そうした具体的な治績のみではあるまい。実践の先に何を展望しているか、その
         明確な意志の表示もまた「名君・賢君」の重要な要素の一つであろう。」(456頁)
          (『近世政道論』には、「持満説」の他に、「伝国の詞」「老が心」「夏の夕」「大倹
         差略」「大倹の大意」「農官へ御諭の書」が採ってあります。)
         4. 本文末尾近くにある「祈らずとても神や護らん」は、「心だにまことの道にかな
         ひなばいのらずとても神やまもらん」という、中世から菅原道真の作として広く知
         られていた歌をさす由です。(『近世政道論』の頭注による。)
         5. 上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)=江戸後期の米沢藩主。名は治憲。越前守。
              日向高鍋藩主秋月種美の次男。重定の養子。細井平洲を師とし、藩政
              改革を推進。藩校興譲館の設立、節倹の励行、行政の刷新、産業の奨
              励に努め、荒地開墾に尽力。(1751~1822) 
(『広辞苑』第6版による。)   
           上杉治憲(うえすぎ・はるのり)=1751~1822(宝暦1-文政5) 米沢藩主。
              日向高鍋藩主秋月種美の2男。号は鷹山。上杉重定の養子となり、17
              67(明和4)襲封。85(天明5)隠居。その後も政務をみた。財政改革・
              殖産興業・新田開発・備荒貯蓄・倹約奨励など藩政全般にわたる改革
              を断行。また藩校興譲館を建て学問を奨励し、西洋医学をも採用した。
              秋田藩主佐竹義和・白河藩主松平定信らとならぶ江戸時代の名君の
              一人。                  
 (『角川日本史辞典』第2版による。)
         6. 上杉鷹山の作とされる「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の
          なさぬなりけり
」についての記述が、資料4「山本五十六元帥の「述志」(昭和
          16年)」注11にありますので、ご覧ください。
         7.
『国立国会図書館デジタルコレクション』『羽陽叢書』(新貝卓次編、米沢活
         版所・明治13年1月出版)があり、そこで
「持満説」を見ることができます。(「譲
         陽之詞(伝国の詞)」「老か心」「夏の夕」「大倹差略」「大倹大意」「農官諭言(農
         官へ御諭の書)」も入っています。)
         8. 資料76
「二宮翁夜話(巻之三)」七七に「山内氏蔵幅之縮図」 があり、そこ
         にこの孔子の話が出ています。
         9. 『東北芸術工科大学紀要』Vol.15(2008年3月)に掲載されている山田烈
         氏の論文
「雪村筆孔子観欹器図小考」があります。ここには、『荀子』『淮南子』
         『説苑』などの本文も引かれています。
         
『東北芸術工科大学紀要』Vol.15 で、ファイルをダウンロードして見ることができます。
        10. 持満(じまん)=1.弓を十分に引きしぼって待っていること。
                     2.発動の機の熟している時、準備してひかえていること。
                     3.勢いの盛んな地位に居ること。 

                                                  (『広辞苑』第6版による。) 




                   トップページ(目次)   前の資料へ  次の資料へ