資料313 「第十七課 間宮林蔵」(『尋常小学国語読本巻十二』より)  
 

 

         

  

   第十七課  間宮林藏 

 


樺太
(からふと)は大陸の地續なりや、又は離れ島なりや、世界の人は久しく之を疑問としたりき。然るに其の實際を調査して此の疑問を解決したる人、遂に我が日本人の中より現れぬ。間宮林藏これなり。
今より百二十年ばかり前、即ち文化五年の四月に、林藏は幕府の命によつて、松田傳十郎と共に樺太の海岸を探檢せり。樺太が離れ島にして大陸の地續にあらざることは、此の探檢によりて略々知ることを得たれども、更によく之を確めんがために、同年七月林藏は單身にてまた樺太におもむけり。
先づ樺太の南端なる白主
(しらぬし)といふ處に渡り、此處にて土人を雇ひて從者となし、小舟に乗じていよいよ探檢の途に上りぬ。それより一年ばかりの間、風波をしのぎ、飢(き)寒と戰ひ、非常なる困難ををかして樺太の北端に近きナニヲーといふ處にたどり着きたり。これより北は波荒くして舟を進むべくもあらず、山を越えて東海岸に出でんとすれば、從者の土人等ゆくての危險を恐れて從ふことをがへんぜず。止むなく南方のノテトといふ處に引返し、酋(しう)長コーニの宅に留りてしばらく時機の至るを待ちぬ。
網をすき、舟を漕ぎ、漁業の手傳などして土人に親しみ、さてさまざまの物語を聞くに、對岸の大陸に渡りて其の地の模樣を探るは、かへつて目的を達するに便なることを知りぬ。たまたまコーニが交易のため大陸に渡らんとするに際し、林藏は好機至れりとひそかに喜びて、切に己をともなはんことを求む。コーニは「容貌
(ばう)の異なる汝が彼の地に行かば、必ずや人に怪しまれ、なぶりものにせられて、或は命も危かるべし。」とて、しきりに止むれども林藏きかず、遂に同行することに決せり。
出發の日近づくや、林藏はこれまでの記録一切を取りまとめ、之を從者に渡していふやう、「我若し彼の地にて死したりと聞かば、汝必ず之を白主に持歸りて日本の役所に差出すべし。」と。
文化六年六月の末、コーニ・林藏等の一行八人は、小舟に乗じて今の間宮海峽
(けふ)を横ぎり、デカストリー灣の北に上陸したり。それより山を越え、河を下り、湖を渡りて黒龍(こくりゆう)江の河岸なるキチーに出づ。其の間、山にさしかゝれば舟を引きて之を越え、河・湖に出づればまた舟を浮べて進む。夜は野宿すること少からず。木の枝を伐りて地上に立て、上を木の皮にておほひ、八人一所にうづくまりて僅かに雨露をしのぐ。
キチーにて土人の家に宿る。土人等林藏を珍しがりて之を他の家に連行き、大勢にて取圍みながら、或は抱き或は懷を探り、或は手足をもてあそびなどす。やがて酒食を出したれども、林藏は其の心をはかりかねて顧みず。土人等怒りて林藏の頭を打ち、強ひて酒を飲ましめんとす。折よく同行の樺太人來りて土人等を叱し、林藏を救ひ出しぬ。
翌日此の地を去り、河をさかのぼること五日、遂に目的地なるデレンに着せり。デレンは各地の人々來り集りて交易をなす處なり。林藏の怪しみもてあそばるゝこと、此處にては更に甚だしかりしが、かゝる中にありても、彼は土地の事情を研究することを怠らざりき。
コーニ等の交易は七日にして終りぬ。歸途一行は黒龍江を下りて河口に達し、海を航してノテトに歸れり。此處にて林藏はコーニ等に別れを告げ、同年九月の半ば、白主に歸着しぬ。
林藏が二回の探檢によりて、樺太は大陸の一部にあらざること明白となりしのみならず、此の地方の事情も始めて我が國に知らるゝに至れり。     
 

 

   
   (注)  1.  上記の「間宮林蔵」の本文は、『尋常小學 國語讀本 巻十二』(著作兼発行者:文部省、
         発行所:大阪書籍株式会社、昭和12年4月20日修正発行、昭和12年5月20日翻刻発
         行:復刻版)によりました。    
        2.  文中、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の仮名に直してありま
         す(「いよいよ」「さまざま」「たまたま」)。 
          また、平仮名の「こ」を押しつぶしたような形の繰り返し符号は、「々」で代用してありま
         す(「略々」)。 
           なお、教科書の「黒」の漢字は、「黑」ではなく「黒」が使ってあります。                
        3. 間宮林蔵(まみや・りんぞう)=江戸後期の探検家、幕府隠密。名は倫宗
ともむね。常陸
                 の人。伊能忠敬に測量術を学び、幕命によって北樺太を探検。1809年(文
                 化6)、後の間宮海峡を発見。シーボルト事件を幕府に密告したとされる。
                 著「東韃紀行」。(1775~1844)          
(『広辞苑』第6版による。)
           間宮林蔵(まみや・りんぞう)=(1775-1844) 江戸後期の探検家。諱(いみな)は倫宗
                 
(ともむね)。常陸(ひたち)の生まれ。幕府の蝦夷(えぞ)地御用雇となり蝦夷地に
                 勤務、伊能忠敬に測量術を学ぶ。千島・西蝦夷・樺太を探検。間宮海峡を
                 発見し、樺太(サハリン)が島であることを実証。シーボルト事件の告発者と
                 いわれる。                       
(『大辞林』第2版による。)          
        4. 間宮林蔵の生年について
           下の注14に紹介したNHK総合TV『その時歴史が動いた』のホームページに、間宮
          林蔵の生年について次のように出ています。
           <以前、間宮の生年については「安永4年(1775年)説」と「安永9年(1780年)説」の
          2つの説がありましたが、近年はさまざまな研究の結果、安永9年(1780年)説が一般
          的となっております。今回の番組でもこれに従いまして安永9年説をとっています。>
          
   第328回 「北方探検 異境の大地を踏破せよ ~間宮林蔵 執念の旅路~」
                
放送日:平成20年(2008年)6月4日(水) 
                 
(お断り) 現在は見られないようです。(2011年4月9日)      
         5.
NHK総合テレビ『その時歴史が動いた』で、平成20年6月4日(水)、間宮林蔵が取り上げられまし
          た。 
               第328回 「北方探検 異境の大地を踏破せよ ~間宮林蔵 執念の旅路~」  
           また、平成21年2月25日(水)の『その時歴史が動いた』でも、伊能忠敬・ジョン万次郎とともに取      
      
り上げられました。
              
 第352回 「江戸の世に挑んだ男たち ~伊能忠敬・間宮林蔵・ジョン万次郎~」 
       6. つくばみらい市上平柳(旧・筑波郡伊奈町上平柳)にある『間宮林蔵記念館』の紹介が、
         
『間宮林蔵の世界へようこそ』というホームページの中にあります。
        7. 『北海道デジタル図鑑』というサイトの「未踏の地を歩いた探検家」の中の「[樺太が大き
         な島であることを発見した]間宮林蔵」のページがあり、そこに松岡映丘筆の間宮林蔵の肖
         像画と解説が出ています。
         8. 『世界と日本人』というサイトのFile.19に「世界地図に載った日本人  間宮林蔵」があり、
         そこに間宮林蔵の肖像画(顔の部分)と解説が出ています。
               
(お断り) 現在は見られないようです。(2011年4月9日)
        9. 『ぶらり重兵衛の歴史探訪2』というサイトの「会ってみたいな、この人に」(銅像巡り)の
         中に、「間宮林蔵」のページがあり、そこに銅像の写真のほか、間宮林蔵記念館・生家・
         間宮林蔵をめぐる人々・シーボルト事件と間宮林蔵・お墓のある専称寺などについての
         写真や記事があって参考になります。    
          10. 資料275に「志賀重昂撰「間宮先生埋骨之処」碑文(間宮林蔵顕彰碑)」があります。       






            
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