樺太(からふと)は大陸の地續なりや、又は離れ島なりや、世界の人は久しく之を疑問としたりき。然るに其の實際を調査して此の疑問を解決したる人、遂に我が日本人の中より現れぬ。間宮林藏これなり。 今より百二十年ばかり前、即ち文化五年の四月に、林藏は幕府の命によつて、松田傳十郎と共に樺太の海岸を探檢せり。樺太が離れ島にして大陸の地續にあらざることは、此の探檢によりて略々知ることを得たれども、更によく之を確めんがために、同年七月林藏は單身にてまた樺太におもむけり。 先づ樺太の南端なる白主(しらぬし)といふ處に渡り、此處にて土人を雇ひて從者となし、小舟に乗じていよいよ探檢の途に上りぬ。それより一年ばかりの間、風波をしのぎ、飢(き)寒と戰ひ、非常なる困難ををかして樺太の北端に近きナニヲーといふ處にたどり着きたり。これより北は波荒くして舟を進むべくもあらず、山を越えて東海岸に出でんとすれば、從者の土人等ゆくての危險を恐れて從ふことをがへんぜず。止むなく南方のノテトといふ處に引返し、酋(しう)長コーニの宅に留りてしばらく時機の至るを待ちぬ。 網をすき、舟を漕ぎ、漁業の手傳などして土人に親しみ、さてさまざまの物語を聞くに、對岸の大陸に渡りて其の地の模樣を探るは、かへつて目的を達するに便なることを知りぬ。たまたまコーニが交易のため大陸に渡らんとするに際し、林藏は好機至れりとひそかに喜びて、切に己をともなはんことを求む。コーニは「容貌(ばう)の異なる汝が彼の地に行かば、必ずや人に怪しまれ、なぶりものにせられて、或は命も危かるべし。」とて、しきりに止むれども林藏きかず、遂に同行することに決せり。 出發の日近づくや、林藏はこれまでの記録一切を取りまとめ、之を從者に渡していふやう、「我若し彼の地にて死したりと聞かば、汝必ず之を白主に持歸りて日本の役所に差出すべし。」と。 文化六年六月の末、コーニ・林藏等の一行八人は、小舟に乗じて今の間宮海峽(けふ)を横ぎり、デカストリー灣の北に上陸したり。それより山を越え、河を下り、湖を渡りて黒龍(こくりゆう)江の河岸なるキチーに出づ。其の間、山にさしかゝれば舟を引きて之を越え、河・湖に出づればまた舟を浮べて進む。夜は野宿すること少からず。木の枝を伐りて地上に立て、上を木の皮にておほひ、八人一所にうづくまりて僅かに雨露をしのぐ。 キチーにて土人の家に宿る。土人等林藏を珍しがりて之を他の家に連行き、大勢にて取圍みながら、或は抱き或は懷を探り、或は手足をもてあそびなどす。やがて酒食を出したれども、林藏は其の心をはかりかねて顧みず。土人等怒りて林藏の頭を打ち、強ひて酒を飲ましめんとす。折よく同行の樺太人來りて土人等を叱し、林藏を救ひ出しぬ。 翌日此の地を去り、河をさかのぼること五日、遂に目的地なるデレンに着せり。デレンは各地の人々來り集りて交易をなす處なり。林藏の怪しみもてあそばるゝこと、此處にては更に甚だしかりしが、かゝる中にありても、彼は土地の事情を研究することを怠らざりき。 コーニ等の交易は七日にして終りぬ。歸途一行は黒龍江を下りて河口に達し、海を航してノテトに歸れり。此處にて林藏はコーニ等に別れを告げ、同年九月の半ば、白主に歸着しぬ。 林藏が二回の探檢によりて、樺太は大陸の一部にあらざること明白となりしのみならず、此の地方の事情も始めて我が國に知らるゝに至れり。
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