資料357 佐久間象山の「加藤氷谷宛書簡」
加藤氷谷宛書簡(天保13年10月9日) 佐久間象山
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度々の瑤簡其時々期の如く相達し致拜見候先以貴體御淸健御侍養候狀欣慰此事に御座候殊に中元には被掛御心頭方金一方御餽被下奉謝候其節早速拜謝可申之所秋來殊の外多忙に罷在心外に御無音愧入候次第に御座候幸に御宥恕可被下候偖又令兄之御一件も于今御方付候はぬよし扨々長き御引籠り嘸かし御困屈と推察致し候乍去古人には往々家人といへども其面を見る事を不得十數年抔申もの御座候へば事長く候義に候はゞ彌愼密に御心を用ひられ罅隙を伺ひ候小人をして施す所の術なからしめられ候樣願はしき事に奉存候此段御序に御傳へ被下度候令兄も久敷御籠居にて候へば必ず御新得の義も不少其上足下も春より御同居候へば事々につき御討論も御座候て御力を得られ候べく致健羨候内山生も兎角不快勝にて暫らく弊塾を退き旅店に下宿致し療養を加へ候へども果敢々々しき事に無之候故一先歸山よく致調護候樣申勸め此度當人にても其氣に相成り匆々歸装を促し申候定めて御城下に一宿致し候都合に相成候べく足下にも御目に掛り可申候に付中元之拜謝其後の御報旁此紙を呈し候 |
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(注)
1.
上記の本文は、岩波書店刊の日本思想大系55『渡辺崋山
高野長英 佐久間象山 横井小楠 橋本左内』(1971年6月25日第1刷発行)によりました。
同書の佐久間象山の校注者は植手通有氏で、この書簡の頭注に、「加藤氷谷は上田藩士加藤彦五郎のことだろうとされている。この手紙は、アヘン戦争の衝撃を受けた直後の象山の動静を示している点で、重要である。全集でみるかぎり、この年以前には海防の問題にふれた文章はない」とあります。
なお、注10.で紹介した日本の名著『佐久間象山 横井小楠』で、この本の責任編集・訳を担当された松浦玲氏は、同書巻末の補注で、加藤氷谷について、「上田市の小林利通氏のご教示によると、加藤氷谷は上田藩士加藤天山(勤・彦五郎)のことだと考えてよいだろうとのことである。兄の励次郎が、藩の内紛に関係があると推定されている理由によって家督を相続できず、氷谷が代わって天保8年(1837)に家を継いでいた。氷谷は父の維藩と同じく江戸の昌平黌に学び、父子ともに象山と親交があった。この書簡の文中に兄が引き籠っていることが出てくるが、氷谷自身もこのあと、藩政をめぐる対立関係のために譴責を受け、10年も引き籠らされた」と書いておられます(同書、509頁)。
2.
日本思想大系のこの本文には、句読点のほか、返り点や部分的に振り仮名が付けられていて、読みやすくなっていますが、ここでは書簡の原形に近づけるため、日本思想大系本の表記から、常用漢字を旧漢字に改め、句読点や振り仮名、返り点等を省いてあることをお断りしておきます。(読みやすい形の本文をご希望の方は、日本思想大系55『渡辺崋山 高野長英 佐久間象山 横井小楠 橋本左内』をご覧ください。)
この書簡の底本は、『象山全集』(信濃教育会編、昭和9-10年刊)だそうです。
なお、日本思想大系の凡例に、「仮名の濁音符号は校注者が施した」「仮名の古体・変体・合字などは通行の字体に改めた」とあります。
3.
『国立国会図書館デジタルコレクション』には、大正2年9月30日に尚文館から発行された、信濃教育会編の『象山全集 上巻・下巻』が収められています。(この手紙は、『象山全集 下巻』の「書簡」・「玉池時代 天保十年二月より弘化三年閏五月迄」の中に収められています。)
なお、全集下巻巻末の「書簡宛名索引」に、「赤松氷谷 上田藩士象山江都遊學當時 の交友」とあります。
→『国立国会図書館デジタルコレクション』 (『象山全集 下巻』 63~66/717)
4.
佐久間象山(さくま・しょうざん)=(ショウザンは一説に、ゾウザンとも)幕末の思想家・兵学者。信州松代(まつしろ)藩士。名は啓(ひらき)。通称、修理。象山は号。儒学を佐藤一斎に学び、また、蘭学・砲術に通じ、海防の急務を主張。1854年(安政1)門人吉田松陰の密航企画に連座し、幽閉。のち許され、64年(元治1)幕命によって上洛、攘夷派の浪士に暗殺された。著「海防八策」「省諐録(せいけんろく)」など。(1811~1864) (『広辞苑』第6版による。)
注: 「省諐録(せいけんろく)」の「諐」(侃+言)は、「愆」(音、けん。意味、あやまつ。あやまち。)の異体字、と漢和辞典にあります。
5.
長野市のホームページに『象山記念館について』という紹介ページがあります。
→ 『真田宝物館』のホームページへ
→ 『象山記念館』の紹介
6.
「象山」の読みについて
長野市松代町にある「象山神社」や「象山記念館」では、「象山」を「ぞうざん」と読んでいるようですが、日本思想大系『渡辺崋山 高野長英 佐久間象山 横井小楠 橋本左内』の巻末にある植手通有氏の解説「佐久間象山における儒学・武士精神・洋学─横井小楠との比較において─」の「追記」の中で、植手氏は「象山」は「しょうざん」と読むべきだろうとして、次のように書いておられます。
「佐久間象山の号を「しょうざん」と読むべきか「ぞうざん」と読むべきかについて、暫く前までは私は本巻に収録した「象山の説」を手掛りとして─今から考えると何ら明確な根拠もなかったのであるが─いずれに読んでもよいという考えを持っており、1970年8月に松代を訪れた際にも、その旨を語った。しかし、その後(正確には1971年1月)大平喜間多著『佐久間象山逸話集』(信濃毎日新聞社、1933年)を手にするにいたって、どうしても「しょうざん」と読まなければならない、と信ずるようになった。(詳しくは同書、684~685頁を参照してください。)
岩波書店の『広辞苑』や三省堂の『大辞林』などは、見出しを「しょうざん」として、「ぞうざん とも」としてあります。
『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説では、「しょうざん」として出ていて、解説の中で、「一般には「しょうざん」というが、地元の長野では「ぞうざん」ということが多い」としてあります。
参考:長野市教育委員会のホームページに「長野市文化財データベース」があり、そこのデジタル図鑑」の中に「佐久間象山宅跡」があって、「佐久間象山」に「さくまぞうざん」とルビがふってあります。
7.
フリー百科事典『ウィキペディア』に、「佐久間象山」の項があります。
8.
国立国会図書館の『近代日本人の肖像』に、「佐久間象山」があり、写真と紹介文があります。
9.
語句の注を『日本思想大系』の頭注、『広辞苑』などから、いくつか引かせていただきます。
〇方金(ほうきん)……『広辞苑』には、「方形の金貨。すなわち一分金・二分金・一朱金・二朱金などをいう」とあるが、『日本思想大系』の頭注には、「徳川時代の貨幣で、方形の金貨、一両の4分の1にあたる」とある。(「一方」は、1枚。)
〇腥穢(せいわい)……なまぐさく、けがれているもの。
〇國本(こくほん)……一国の根本。国の基礎。国家存立の基礎。
〇寡君(かくん)……(「寡徳の君」の意)諸侯の臣下が、他の諸侯に向かって自分の主君を謙遜していう語。ここは、藩主をいう。
〇江川縣令……江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)のこと。江戸後期の砲術家・民政家。号は坦庵。高島秋帆に学び、西洋砲術を教授。また、品川台場を設計、反射炉を設け大砲を鋳造。(1801-1855)
〇海防の八策……象山が藩主に提出した「海防八策」のこと。
〇手談……「手段か」と、『日本思想大系』の頭注にある。
〇歸覲(ききん)……ここは、帰って君父などに見(まみ)える。帰って謁する。「覲」は、まみえる。中国の古代、諸侯が天子にあうこと。
10.
中央公論社の日本の名著30『佐久間象山 横井小楠』(昭和45年7月10日初版発行)に、「書状 加藤氷谷宛」として、現代語訳が出ています(同書、113~116頁)。
11.
長野市松代町にある『象山神社』(ぞうざんじんじゃ)のホームページがあります。ここに「象山記念館」のページがあります。(→TOPページの左側の「象山記念館」をクリック)
12.
『松代文化財ボランティアの会』というホームページがあります。
また、象山の漢詩を解説したPDF「象山先生と漢詩(一~十八)」(佐久間方三)もあります。(次のものだけ、ネットに出ていました。2016年10月1日)
→
象山先生と漢詩(一)
→ 象山先生と漢詩(四)
→ 象山先生と漢詩(六)
→ 象山先生と漢詩(八)
→ 象山先生と漢詩(十三)
→ 象山先生と漢詩(十五)
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