資料357 佐久間象山の「加藤氷谷宛書簡」  

     
      
 
      加藤氷谷宛書簡
(天保13年10月9日)     佐久間象山  
 

 

度々の瑤簡其時々期の如く相達し致拜見候先以貴體御淸健御侍養候狀欣慰此事に御座候殊に中元には被掛御心頭方金一方御餽被下奉謝候其節早速拜謝可申之所秋來殊の外多忙に罷在心外に御無音愧入候次第に御座候幸に御宥恕可被下候偖又令兄之御一件も于今御方付候はぬよし扨々長き御引籠り嘸かし御困屈と推察致し候乍去古人には往々家人といへども其面を見る事を不得十數年抔申もの御座候へば事長く候義に候はゞ彌愼密に御心を用ひられ罅隙を伺ひ候小人をして施す所の術なからしめられ候樣願はしき事に奉存候此段御序に御傳へ被下度候令兄も久敷御籠居にて候へば必ず御新得の義も不少其上足下も春より御同居候へば事々につき御討論も御座候て御力を得られ候べく致健羨候内山生も兎角不快勝にて暫らく弊塾を退き旅店に下宿致し療養を加へ候へども果敢々々しき事に無之候故一先歸山よく致調護候樣申勸め此度當人にても其氣に相成り匆々歸装を促し申候定めて御城下に一宿致し候都合に相成候べく足下にも御目に掛り可申候に付中元之拜謝其後の御報旁此紙を呈し候
時に淸國英吉利と戰爭の樣子は近頃御傳聞候や慥に承候とも申かね候事に候へども近來の風聞にては實に容易ならぬ事に被存候事勢に依り候ては唐虞以來禮樂之區歐羅巴洲の腥穢に變じ申されまじきとも申難き樣子に聞え扨々嘆はしき義に有之候萬一又淸國に大變革御座候節は本邦とは僅かの海路を隔て候のみ左なきだに東國の地方には年々英吉利の海舶近寄り通り過ぎ候事其地方よりは祕し候て公邊への屆け等は致し不申事の由に候へども慥かなる證據も有之事に候右の海舶は淸國の廣東地方の阿媽港と申處より魯西亞の加摸沙都加へ交易に往來致し又南洋にて鯨を捕へ候獵船も有之由に候何れにも竟には本邦之患とも可相成事と被存候よしや彼より我を犯し候心なく候とも兵法にもその來らざるを恃まず其待あるをたのむとも申候へば國本を固くし海岸防禦の事備具致し候樣本邦に生を受候ものは願はしき事に有之候
然る所近日の事に候が寡君も海岸防禦の掛りを命ぜられ候て種々苦心被致候事に御座候
右に付拙者にも内意有之此節專ら外國の地理人情を討究致し候其義に付豆州韭山の江川縣令に致出會はからずフランス法の火術の談に及び一通り承り候處是迄世間有來り候砲術とは格別の事と被存先いづれにも彼を知り己を知り候を兵の本と致し候事故近來彼にて專らと致し候術を得候て夫につきて勝を制し候義をも考へ申度其門に入候て致研究候に増す増す實用有之事どもにて當今の武備是に過ぐべからずと存候故寡君へも其段申候て足輕の者を借り受銃陣等を習はせ致進退候處彌面白く覺え申候常の歩卒に打たせ候鳥銃も製作異常にて火繩なしにて打申候風雨の節も無差支打て申候樣作り候もの也すべて本邦之火術は皆治世に至り候て開け彼方之火術は盡く亂世に機巧を盡して組立候もの故その相去る事數等の優劣を免がれず近世フランス國にボナパルテと申希世の豪傑御座候ひしが此度の火術も全く此もの抔戰爭間に於て利用を考へ造り立候事と被察候大砲にも種々の奇術有之候乍然夫等の奇術も皆其人を待て用をなし候事にて誰にても強敵を拉ぎ候と申には參りかね申候しかる所又其人と申もの世に幾許も無之ものにて候へばたまたまみづからも存じ候旨も有之又人よりも望みをかけられ候ものに在ては何分奮發致し候て我神州の武備を取立て永く戎狄の害患無之樣仕度ものに御座候
右に付拙者にも海防の八策を設け候て内々寡君へ差出し候事に有之候足下も天資特達にて御出候故窃に望みを屬し居申候何卒御繰廻し近き内に御出府候へかし山々御話し申度事有之候談兵も講學家の一端にて本より儒術中の事に御座候迚も入て相となり出て將となるの規模無之候ては正學も畢竟無用に屬し申候然る處此節形の如き火術盛に行れ候ては是迄の兵家に唱へ候城築も陣法も皆用立不申候此節淸國にても只この火術を防ぎ候手段無之よしに相聞え候夫等の利害得失何分足下と講論致し申度候間何とか御都合被成御出掛可被成候其上夷狄の情狀を書き候て世に公けならぬ書類をも官よりも取出し候筈又手寄を以種々の奇書取集め申候他尋常の書生へは見せ難き事に候へども非常の御才力にも御出候へば足下へは見せ申候て天下の爲にも致し申度御出府を御勸め申候乍去御父兄も御座候事能く能く御謀り可被成候わりなき申狀に候へどももしもし御費用等に御事支へ候事も候はゞ無御遠慮可被仰下候夫等の義は如何とも手談可有之候夫等は御念頭に掛けられず只天下の爲に心力を可盡と申大志を立てられ候樣祈り申候
拙者も久しく家母をも拜し不申候故不遠歸覲致し可申とも存じ候へども此節は例の内用向も甚だ世話しく候故都合次第に御座候もし存念通り此中旬に出立をも致し候事に候へば必ず御城下一宿のつもりにて可參候左樣致し候はゞ一夕拜話を得可申候乍去此節は臨時に用向出來致し候故一事を了し候ても又一事を生じ候へば存意通りには無覺束候向ふに少々期し候事も有之候故廿日頃迄に御城下を通らず候はゞ歸覲をば延し候と思召可被下候左樣致し候はゞ足下御出都御座候ても最早差支は無之候早速御出懸も候はゞ嘸々悦ばしく存候はんと存候事に御座候會見迄折角御自愛所祈に御座候前文之趣忌禁之事も有之候間御一覧後此紙は御燒棄可被下此段御頼申候以上
  初冬九日                         啓 再拜
 氷谷仁友
梧右
  猶々尊大人令兄へ時候之御見舞乍憚宜敷御致意希候  頓首

 

 

 

 

 

 

 

   (注) 1. 上記の本文は、岩波書店刊の日本思想大系55『渡辺崋山 高野長英 佐久間象山 横
       井小楠 橋本左内』(1971年6月25日第1刷発行)によりました。
         同書の佐久間象山の校注者は植手通有氏で、この書簡の頭注に、「加藤氷谷は上田
       藩士加藤彦五郎のことだろうとされている。この手紙は、アヘン戦争の衝撃を受けた直後
       の象山の動静を示している点で、重要である。全集でみるかぎり、この年以前には海防の
       問題にふれた文章はない」とあります。
         なお、注10.で紹介した日本の名著『佐久間象山 横井小楠』で、この本の責任編集・
       訳を担当された松浦玲氏は、同書巻末の補注で、加藤氷谷について、「上田市の小林利
       通氏のご教示によると、加藤氷谷は上田藩士加藤天山(勤・彦五郎)のことだと考えてよ
       いだろうとのことである。兄の励次郎が、藩の内紛に関係があると推定されている理由に
       よって家督を相続できず、氷谷が代わって天保8年(1837)に家を継いでいた。氷谷は
       父の維藩と同じく江戸の昌平黌に学び、父子ともに象山と親交があった。この書簡の文
       中に兄が引き籠っていることが出てくるが、氷谷自身もこのあと、藩政をめぐる対立関係
       のために譴責を受け、10年も引き籠らされた」と書いておられます
(同書、509頁)
      2. 日本思想大系のこの本文には、句読点のほか、返り点や部分的に振り仮名が付けられ
       ていて、読みやすくなっていますが、ここでは書簡の原形に近づけるため、日本思想大系
       本の表記から、常用漢字を旧漢字に改め、句読点や振り仮名、返り点等を省いてあること
       をお断りしておきます。(読みやすい形の本文をご希望の方は、日本思想大系55『渡辺崋
       山 高野長英 佐久間象山 横井小楠 橋本左内』をご覧ください。)
         この書簡の底本は、『象山全集』
(信濃教育会編、昭和9-10年刊)だそうです。
         なお、日本思想大系の凡例に、「仮名の濁音符号は校注者が施した」「仮名の古体・変
       体・合字などは通行の字体に改めた」とあります。
      3.  『国立国会図書館デジタルコレクション』には、大正2年9月30日に尚文館から発行され
       た、信濃教育会編の『象山全集 上巻・下巻』が収められています。
       (この手紙は、『象山全集 下巻』の「書簡」・「玉池時代 天保十年二月より弘化三年閏
       五月迄」の中に収められています。)
          なお、全集下巻巻末の「書簡宛名索引」に、「赤松氷谷 上田藩士象山江都遊學當時
        の交友」とあります。
          『国立国会図書館デジタルコレクション』
 (『象山全集 下巻』  63~66/717) 
      4. 佐久間象山(さくま・しょうざん)=(ショウザンは一説に、ゾウザンとも)
            幕末の思想家・兵学者。信州松代
(まつしろ)藩士。名は啓(ひらき)。通称、修理。
            象山は号。儒学を佐藤一斎に学び、また、蘭学・砲術に通じ、海防の急務を主
            張。1854年(安政1)門人吉田松陰の密航企画に連座し、幽閉。のち許され、
            64年(元治1)幕命によって上洛、攘夷派の浪士に暗殺された。著「海防八策」
            「省諐録
(せいけんろく)」など。(1811~1864)   (『広辞苑』第6版による。)
              注: 「省諐録
(せいけんろく)」の「諐」(侃+言)は、「愆」(音、けん。意味、あやまつ。
                             あやまち。)
の異体字、と漢和辞典にあります。
      5. 長野市のホームページに『象山記念館について』という紹介ページがあります。
             → 
『真田宝物館』のホームページへ
             → 『象山記念館』の紹介
      6. 「象山」の読みについて
        長野市松代町にある「象山神社」や「象山記念館」では、「象山」を「ぞうざん」と読んで
       いるようですが、日本思想大系『渡辺崋山 高野長英 佐久間象山 横井小楠 橋本左内』
       の巻末にある植手通有氏の解説「佐久間象山における儒学・武士精神・洋学
─横井小楠
         との比較において─
」の「追記」の中で、植手氏は「象山」は「しょうざん」と読むべきだろうと
       して、次のように書いておられます。
         
「佐久間象山の号を「しょうざん」と読むべきか「ぞうざん」と読むべきかについて、暫く前までは私
         は本巻に収録した「象山の説」を手掛りとして─今から考えると何ら明確な根拠もなかったのである
         が─いずれに読んでもよいという考えを持っており、1970年8月に松代を訪れた際にも、その旨を
         語った。しかし、その後(正確には1971年1月)大平喜間多著『佐久間象山逸話集』(信濃毎日新
         聞社、1933年)を手にするにいたって、どうしても「しょうざん」と読まなければならない、と信ずるよ
         うになった。(詳しくは同書、684~685頁を参照してください。)

         
岩波書店の『広辞苑』や三省堂の『大辞林』などは、見出しを「しょうざん」として、「ぞう
       ざん とも」としてあります。
        『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説では、「しょうざん」として出ていて、解説の中
       で、「一般には「しょうざん」というが、地元の長野では「ぞうざん」ということが多い」
       してあります。
 
         参考:長野市教育委員会のホームページに「長野市文化財データベース」があり、そこのデジタル
            図鑑」の中に「佐久間象山宅跡」があって、「佐久間象山」に「さくまぞうざん」とルビがふって
            あります。
      7. フリー百科事典『ウィキペディア』に、「佐久間象山」の項があります。
      8. 国立国会図書館の『近代日本人の肖像』に、「佐久間象山」があり、写真と紹介文が
       あります。
      9. 語句の注を
『日本思想大系』の頭注、『広辞苑』などから、いくつか引かせていただきます。
         
方金(ほうきん)……『広辞苑』には、「方形の金貨。すなわち一分金・二分金・一朱金・二朱金
              などをいう」とあるが、『日本思想大系』の頭注には、「徳川時代の貨幣で、方形の金貨、
              一両の4分の1にあたる」とある。(「一方」は、1枚。)
          腥穢(せいわい)……なまぐさく、けがれているもの。
          國本(こくほん)……一国の根本。国の基礎。国家存立の基礎。
           寡君(かくん)……(「寡徳の君」の意)諸侯の臣下が、他の諸侯に向かって自分の
                 主君を謙遜していう語。ここは、藩主をいう。
           江川縣令……江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)のこと。江戸後期の砲術家・民政家。
                 号は坦庵。高島秋帆に学び、西洋砲術を教授。また、品川台場を設計、反射炉
                 を設け大砲を鋳造。(1801-1855)
           海防の八策……象山が藩主に提出した「海防八策」のこと。
           手談……「手段か」と、『日本思想大系』の頭注にある。
          歸覲(ききん)……ここは、帰って君父などに見(まみ)える。帰って謁する。「覲」は、まみえる。
                中国の古代、諸侯が天子にあうこと。
      10. 中央公論社の日本の名著30『佐久間象山 横井小楠』(昭和45年7月10日初版
       発行)に、「書状 加藤氷谷宛」として、現代語訳が出ています
(同書、113~116頁)
      11. 長野市松代町にある『象山神社』
(ぞうざんじんじゃ)のホームページがあります。ここ
       に「象山記念館」のページがあります。
(→TOPページの左側の「象山記念館」をクリック)
      12. 『松代文化財ボランティアの会』というホームページがあります。
        また、象山の漢詩を解説したPDF「象山先生と漢詩(一~十八)」(佐久間方三)も
       あります。 (次のものだけ、ネットに出ていました。2016年10月1日) 
        
  象山先生と漢詩(一)  → 象山先生と漢詩(四)  → 象山先生と漢詩(六) 
        → 
象山先生と漢詩(八)  →   象山先生と漢詩(十三) 
       
 →  象山先生と漢詩(十五)  




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