資料275 志賀重昂撰「間宮先生埋骨之處」碑文(間宮林蔵顕彰碑)  
 

 

         

  

    間宮先生埋骨之處    志 賀 重 昂 ・譔  
 

 

[正面]上部
     間宮
     先生
     埋骨
     之處


[正面]下部
是爲間宮林藏先生埋骨之處於乎先生心存經國學主實用欲窮靺鞨之奥
獲九譯蕃夷爲嚮導駕刳舟渡絶海上亞細亞大陸發明樺太之爲離島以決
前人未決之疑進入滿洲應接淸吏俾其知國威不可侮而還以幕府一胥吏
而其名大顯于泰西書册洵可謂豪傑之士不負所學者也先生以弘化元年
二月二十六日歿于江戸後人納齒于江戸深川本立院葬骨于郷里常州筑
波郡上平柳村專稱寺而其墓石不能一尺五寸蓋當時有制先生之父以一
百姓墓石不獲過尺寸故先生之墓亦傚之云後六十年俄羅斯構難 朝廷
追賞先生之功詔贈正五位郷之子弟以爲榮也胥謀建一大碑于墓側來徴
文於予予曰不亦善乎先生之功烈愈顯而先生之墓石愈小也但同郷之士
患歳月之久而遺蹟或歸湮滅欲建大碑以傳永遠其崇敬先輩而厚于義是
不可以不録也乃爲撮其梗概叙之如此時明治四十三年四月也
 正二位勳一等侯爵鍋島直大題 正五位志賀重昂譔 北條時雨書


      

 

[裏面・左下隅に小さく]
                             トリデ 染 野 羣 廣 刻
                               
野木崎 石工 志賀幸次郎
                                            モリヤ 鳶工   根本久藏

 



       
*  *  *  *  *  *  *  

書き下し文)
(これ)は、間宮林蔵先生埋骨の處(ところ)たり。ああ、先生の心は經國に存し、學は實用を主とす。靺鞨(まっかつ)の奥を窮めんと欲し、九譯(きゅうやく)の蕃夷を獲(え)て嚮導(きょうどう)と爲す。刳舟(こしゅう)に駕して絶海を渡り、亞細亞大陸(アジアたいりく)に上(のぼ)り、樺太の離島たるを發明し、以て前人未決の疑(うたがい)を決す。滿洲に進み入り、淸(しん)の吏(り)に應接し、其(それ)をして國威の侮るべからざるを知らしめて還る。幕府の一胥吏(しょり)を以てして、其の名大いに泰西の書册に顯(あらわ)る。洵(まこと)に豪傑の士、學ぶ所に負(そむ)かざる者と謂ふべきなり。先生は、弘化元年二月二十六日を以て江戸に歿す。後人、齒を江戸深川の本立院(ほんりゅういん)に納め、骨を郷里の常州筑波郡上平柳村(かみひらやなぎむら)の專稱寺に葬る。而して其の墓石は一尺五寸たる能はず。蓋(けだ)し、當時は制有り。先生の父は一百姓なるを以て、墓石は尺寸(せきすん)を過ぐるを獲(え)ず。故に先生の墓も亦、之に傚(なら)ふと云ふ。後六十年、我羅斯(オロス)、難を構ふ。朝廷、先生の功を追賞し、詔(みことのり)して正五位を贈る。郷の子弟、以て榮と爲す。胥謀(あいはか)りて一(いつ)の大碑を墓側に建てんとし、來りて文を予に徴(もと)む。予曰く、「亦善からずや。先生の功烈(こうれつ)(いよいよ)(あらわ)れて、先生の墓石愈(いよいよ)小なり。但(ただ)、同郷の士、歳月の久しうして遺蹟の或いは湮滅(いんめつ)に歸せんことを患へ、大碑を建て、以て永遠に傳へんと欲す。其の先輩を崇敬して義に厚きこと、是れ以て録せざるべからざるなり」と。乃ち、爲(ため)に其の梗概を撮りて之を叙すること、此(かく)の如し。時に、明治四十三年四月なり。
 正二位勳一等侯爵鍋島直大題す。正五位志賀重昂譔し、北條時雨書す。



                             
      
      
間宮林蔵肖像(松岡映丘・画 間宮林蔵記念館[伊奈間宮家]蔵)

 

  
 
   (注)  1.  上記の志賀重昂撰による「間宮先生埋骨之處」(間宮林蔵顕彰碑)の碑は、間宮林蔵の
         故郷、つくばみらい市上平柳(元・筑波郡伊奈町上平柳)の専称寺(專稱寺)にあります。
        2.  この顕彰碑は中島武夫等が発起し、志賀重昂等の仲介によって、明治43年(1908)に建
         てられました。題額は鍋島直大、撰文は志賀重昂、書は北條時雨です。    
        3. 上記の碑の本文は、『伊奈の石仏・石塔 ─伊奈町金石文調査報告書─ (下)』(伊奈町
         史編纂専門委員会・編集、伊奈町教育委員会(町史編纂室)・平成15年3月31日発行)掲
         載のものによりました。(その後、碑と照合しました。実際の碑文の文字は「為」「清」「盖」な
         どの字体が使われていますが、ここでは正字で記載してあります。)
        4. 上記の碑の本文は、碑文の通りに改行してあります。本文は全11行、 1行30字、最後の
         1行は26字で、7行目の「朝廷」の前に闕字が1字あります。即ち、本文の字数(是爲~四
         月也)は、325字(30×11-4-1)です
(闕字は、字数から除いてあります)。本文の次に、題
         字・譔文・書の作者名が1行に記してあります。
          碑の裏面に記してある「トリデ 染野羣廣刻」の「トリデ」は、「トリテ」と清音になっているの
         かどうか、はっきり確認できませんでした。
(染野群廣は、取手の人。)
        5. 碑の大きさは、上記の調査報告書に、本塔=288×113×21 台石=43×123×63 (高さ×幅×
         奥行)とあります。
        6. 碑の本文の下に記してある「書き下し文」は、碑文の引用者が友人の助力を得て書き下し
         たものです。
(お断り:漢字の読みは、現代かなづかいにしてあります。) 読み方について、お気づき
         の点を教えていただければ幸いです。
          「予曰」の「曰」がどこまでかかるかについては、ここでは「是不可以不録也」までにしてあ
         りますが、下に示す『伊奈町史文書目録第三集』では、「先生之墓石愈小也」までにしてあり
         ます。特にこの点についてお教えいただければ幸いです。
        7. 引用者の判断で、語句の注をつけておきます。
            
於乎(ああ)……ああ、と感嘆したときの声を表すことば。  經國(けいこく)……国を治めること。 
              靺鞨(まっかつ)……中国北方のツングース系諸族の称。有力な部族が7部族あり、そこから渤海
             国や女真などが起こった。  九譯(きゅうやく)……9度の通訳を重ねるほど、その地がきわめて
             遠く隔たっていること。  蕃夷(ばんい)……蛮夷とも。えびす。夷狄。蛮人。野蛮人のこと。  
             嚮導(きょうどう)……道案内をすること。道案内人。  刳舟(こしゅう)……「くりぶね」のこと。木を
             くり抜いて造ったふね。丸木舟。  發明(はつめい)……ここは、物事の正しい道理を明らかにする
             こと。  淸の吏(しんのり)……淸(しん・中国王朝の一つ)の役人。  俾……使役の助辞。「使」に
             同じ。「俾~…」は、「~をして…せしむ」 と読み、「~に…させる」の意。  胥吏(しょり)……地位の
             低い役人。小吏。  泰西(たいせい)……(「泰」は極の意。西の果ての意)西洋諸国の称。西洋。   
             弘化元年……西暦1844年にあたる。  蓋(けだ)し……「たぶん」「思うに」。全体を見渡して推量
             する意を示す。  尺寸(せきすん)……一尺一寸の意。わずかばかりであること。  俄羅斯(オロス)
             ……ロシアの異称。オロシャ。  胥(あい)……あい。たがいに。=相。みな。ともに。=諸。  不亦
             善乎……また善からずや。なんと善いことではないか。「不亦~乎」は、「また~ずや」と読み、「なん
             と~ではないか」と訳す。反語、あるいは反語の強調の意を示す。論語・冒頭の「子曰、學而時習之、
             不亦説乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不愠、不亦君子乎」は有名。    功烈(こうれつ)
             ……大きな功績。    湮滅(いんめつ)……あとかたなく消えてなくなること。  
        8. 『伊奈町史文書目録第三集』(伊奈町教育委員会町史編纂室編集、伊奈町教育委員会・平成5
          年12月発行)
に、「間宮先生埋骨之處(紀念碑訳文)」(引用者注:書き下し文)が掲載され
         ています。上に掲げた書き下し文の作成にも、一部参考にさせていただきました。
        
 (『伊奈の石仏・石塔 ─伊奈町金石文調査報告書─ (下)』及び『伊奈町史文書目録第三集』の両書
          については、つくばみらい市生涯学習課の方に教えていただきました。ここに記して謝意を表します。)
        9. 間宮林蔵の生年について
           下の注14に紹介したNHK総合TV『その時歴史が動いた』のホームページに、間宮
          林蔵の生年について次のように出ています。
           <以前、間宮の生年については「安永4年(1775年)説」と「安永9年(1780年)説」の
          2つの説がありましたが、近年はさまざまな研究の結果、安永9年(1780年)説が一般
          的となっております。今回の番組でもこれに従いまして安永9年説をとっています。>
            第328回 「北方探検 異境の大地を踏破せよ ~間宮林蔵 執念の旅路~」
                                     
放送日:平成20年(2008年)6月4日(水)
                   
 (お断り) 現在は見られないようです。(2011年4月9日)
       10. ここに掲載した間宮林蔵肖像(松岡映丘・画 間宮林蔵記念館[伊奈間宮家]蔵)は、
         『間宮林蔵の世界へようこそ』というホームページから転載させていただきました。
          このホームページには、間宮林蔵の肖像画についての解説が「間宮林蔵の肖像」
         いうページにあります。間宮林蔵の肖像画が描かれるに至った消息を伝える志賀重昂
         の「間宮林蔵先生肖像」という文章が、注の19に挙げてありますので、ご覧ください。
          なお、松岡映丘については、『福崎町立柳田國男・松岡家記念館』というホームページ
         に、「松岡映丘(輝夫)」を紹介したページがあります。
       11. 間宮林蔵(まみや・りんぞう)=江戸後期の探検家、幕府隠密。名は倫宗
ともむね。常陸
                 の人。伊能忠敬に測量術を学び、幕命によって北樺太を探検。1809年(文
                 化6)、後の間宮海峡を発見。シーボルト事件を幕府に密告したとされる。
                 著「東韃紀行」。(1775~1844)          
(『広辞苑』第6版による。)
           間宮林蔵(まみや・りんぞう)=(1775-1844) 江戸後期の探検家。諱(いみな)は倫宗
                 
(ともむね)。常陸(ひたち)の生まれ。幕府の蝦夷(えぞ)地御用雇となり蝦夷地に
                 勤務、伊能忠敬に測量術を学ぶ。千島・西蝦夷・樺太を探検。間宮海峡を
                 発見し、樺太(サハリン)が島であることを実証。シーボルト事件の告発者と
                 いわれる。                       
(『大辞林』第2版による。)          
          間宮林蔵の墓=『茨城県大百科事典』(1981年、茨城新聞社発行)によれば、林蔵が第1
                   
回の樺太探検に出発する際、菩提(ぼだい)寺である筑波郡伊奈村(引用者
                 
注:現在は、つくばみらい市上平柳)の専称寺に建てた彼の墓は、台を除く墓石
                 の高さが53cm、幅23cm。当時、幕府の官吏に登用されて8年、まだ低い
                 身分であったため、一般農民なみの小さな石を建てたと伝えられている。
                 墓石の左側面にはアイヌの娘の戒名が、右側面には妻と見られる女性の
                 戒名が刻まれている由である。

           志賀重昂(しが・しげたか)=地理学者。号は矧川しんせん。愛知県の人。札幌農学校卒。
                 三宅雪嶺らと雑誌「日本人」を創刊、国粋主義を主張。世界各地を巡遊。著
                 「日本風景論」「世界山水図説」など。(1863-1927)
(『広辞苑』第6版による。)
           
鍋島直大(なべしま・なおひろ)=維新当時の佐賀藩主。侯爵。閑叟の子。維新後、イタ
                 リヤ駐箚特命全権公使・国学院大学長など。(1846-1921)
                                               
(『広辞苑』第1版による。)
                
閑叟(かんそう)=鍋島直正(なべしま・まさなお)の号。直正は、幕末の佐賀藩
                 主。別名、斉正
なりまさ。号、閑叟。早くから西洋の文物を採り入れ、長崎に
                 砲台を築き、反射炉を設ける。また殖産を奨め、学問を興し、名君として知
                 られた。公武合体に尽力し、維新後、議定・開拓長官など。(1814-1871)
                                               
(『広辞苑』第6版による。)
           
北條時雨(ほうじょう・しぐれ)=「資料270 書家・北條時雨について」をご覧ください。
       12. お墓と碑の前に立っている説明板の文章をひいておきます。
(漢数字を適当に算用数字
          に置き換えてあります

                
間宮林蔵ここに眠る
             19世紀初頭の北方探検家・地理学者の間宮林蔵は、安永9年(1780)常陸国筑波郡上平柳
            村に生まれ、天保15年(1844)波乱に満ちた65歳の生涯を終え、ここに眠っています。
             林蔵は、当専称寺の住職伯栄和尚に学び、その才能を発揮、小貝川の堰止め工事で認められ
            たといわれ、江戸に出て行きました。
             ここは幼い頃の林蔵の勉学の場であり、遊びの場でもありました。
             昭和30年(1955)墓は茨城県の史跡に指定されました。
             郷土の偉人「間宮林蔵」顕彰のため、子孫伊奈間宮家・専称寺の協力を得て、この墓所を保存、
            公開しています。
            間宮林蔵の墓
                この墓は、文化4年(1807)決死の覚悟で樺太探検に出発するにあたり、林蔵自ら建立し
               た生前の墓です。偉大な事業を成し遂げる前の、身分の低い武士に合った百姓並みの墓で
               す。
            顕彰記念碑(間宮先生埋骨之處)
                明治37年(1904)正五位の贈位を受けたあと、明治43年志賀重昂(しげたか)らの仲介
               で建立されました。碑文中「先生の功烈愈々(いよいよ)顕(あらわ)れて先生の墓石愈々小
               也」の文章は特に有名です。
                  平成7年2月                            伊奈町教育委員会

        13. 資料139に、志賀重昂「登山の気風を興作すべし」(『日本風景論』の一節)があります。
       14. 『ぶらり重兵衛の歴史探訪2』というサイトの「会ってみたいな、この人に」(銅像巡り)の
         中に、「間宮林蔵」のページがあり、そこに銅像の写真のほか、間宮林蔵記念館・生家・
         間宮林蔵をめぐる人々・シーボルト事件と間宮林蔵・お墓のある専称寺などについての
         写真や記事があって参考になります。
        15. NHK総合テレビ『その時歴史が動いた』で、平成20年6月4日(水)、間宮林蔵が取り上
         げられました。
            第328回 「北方探検 異境の大地を踏破せよ ~間宮林蔵 執念の旅路~」  
          また、平成21年2月25日(水)の『その時歴史が動いた』でも、伊能忠敬・ジョン万次郎    
  
       
とともに取り上げられました。
            第352回 「江戸の世に挑んだ男たち ~伊能忠敬・間宮林蔵・ジョン万次郎~」 
      16. つくばみらい市上平柳(旧・筑波郡伊奈町上平柳)にある『間宮林蔵記念館』の紹介が、
         『間宮林蔵の世界へようこそ』というホームページの中にあります。
 
       17. 『北海道デジタル図鑑』というサイトの「未踏の地を歩いた探検家」の中の「[樺太が大き
         な島であることを発見した]間宮林蔵」のページがあり、そこに松岡映丘筆の間宮林蔵の肖
         像画と解説が出ています。
 
        18. 『世界と日本人』というサイトのFile.19に「世界地図に載った日本人  間宮林蔵」があり、
         そこに間宮林蔵の肖像画(顔の部分)と解説が出ています。
                    (お断り) 現在は見られないようです。(2011年4月9日)
        19. 『志賀重昂全集 第5巻』(昭和3年2月10日発行)所収の「間宮林蔵先生肖像」という文
         章を次に引いておきます。
(全集第5巻、407~9頁)
                
 間宮林藏先生肖像
         謹啓間宮林藏の事業は露西亞にてはゴローニン、キリロフ、和蘭及び獨逸にてはシーボルド、
         佛蘭西にては有名なルクルーの著書に載り居り、又英國百科字典にも相見え候に付、其世
         界的なるは日本人として日本國の誇りなりと存居候。然れば間宮先生の肖像は、内外國人
         何れも一見せばやと切望致居候處、如何なる文書類にも之を認めず、一同遺憾に存居候に
         付、東京美術學校長正木君に宛、小生の爲め右肖像を揮灑下さるべき仁を撰定願度樣書送
         致候處、正木校長には同校助敎授松岡輝夫君を選定被致候依て松岡君には今の世に有り
         と在らゆる資料に據りて間宮先生の容貌、頭腦の大サ、風采、髷の結方、衣装等を考證し、
         其の要領を得られ候に付かくて間宮先生が間宮家の常紋付の羽織を穿ち、脚絆を履き、海
         上測量用の鐡鎖を持ち居らるゝ所を寫すことゝ決定被致候。以上の如くにして松岡君には工
         夫すること半年、年は三十四五歳なる壯健者(松岡君の友人)をモデルとし、羽織は當時な
         る士分の旅行装(鐡色)を用ゐ、袴(波形の模樣)は其の幼時間宮先生を面知せる老婆幸田
         りん子の所説に據りかくて三回描き改め、意匠慘澹の餘、出來したるものこそ即ち此の肖像
         畫に御座候、愚考にては此より以上のものは復たと出來難き哉と存候に付寫眞に撮影し、
         繪葉書に調製し、内外人に一千五百枚配付致候、即ち後日の爲め此の肖像畫の出來せし
         顚末を我兄迄御報告致置候、匆々拜具。
(著者より茨城縣の知人に宛てたる書翰)
       




            
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