資料139 志賀重昂「登山の気風を興作すべし」




 

     登山の氣風を興作すべし      志 賀  重

山、山、其の平面世界より超絶する所多々。
   (一) 山は大地の彩色を絢煥す
紅、白、玄、黄、靑、緑は、平面世界に在りと雖も尋常之れを認め得、花の紅、月の白、雲の玄、沙の黄、水の靑、木の緑、何れの處よりか認め難からん、而かも大地間の純粋無垢なる紫色、藍靛色は、山を仰望するにあらずんば竟に觀るべからず。想ふ山の紫色、藍靛色は、細緻鮮麗、加ふるに光澤燦然、特に一雨洗ふが如く、新霽水に似たり、此際に縹緲せる凝黛堆藍は、染具を以て此の如く調合せんとするも、庸凡の頭腦を以て到底爲し得べからず、大地の彩色は山を得て始めて絢煥す。
   (二) 雲の美、奇、大は山を得て映發す
唐人、巖を「雲根」と呼ぶ、趣ある哉此稱や、雲、山より起り、山、雲を得て愈々美、益々奇、一層々に大を添ふ。若し夫れ雲、縷々として藕絲の如く、山の背腹を曳くや、宛として神女の羅裳を織るに似、朝暾夕陽會々之れと映發して純紅火の如く、羅裳桃花色に染め了る。倐忽にして雲、來往迅速、澎湃として天を捲き百道狂馳、山、其間より或は湧き、或は沒し、或は浮び、或は沈み、汎々として大海上の島嶼と化成す。頃刻にして空氣の運動靜穩となるや、雲は漸く下降して山腹に繚繞し、其上より絶頂の峭然孤尊するを觀る。要するに山、雲を得、雲、山を待ち、相互に愈々美、益々奇、一層々に大を映發す。
   (三) 水の美、奇は山を得て大造す
水、山に在りて愈々美、益々奇、平面世界に在りて看得ざる水の現象は、山に在りてのみ能く認め得。水の最晶明なる者、最平和なる者、最藍靛なる者は山中の湖之れを代表し、水の最激烈なる者は山蔭の瀑布之れを代表し、水の最清洌なる者、最可憐なる者は山間の溪水之れを代表す。凡そ水の睡り怒り咲ふの状貌は、山に入らずんば竟に觀るべからず。加之ならず巖は水を承けて緑潤となり、水に齧まれて奇態怪状を呈出す。水の美、水の奇は山を得て茲に大造し、巖の美、巖の奇は水を待ちて始めて完成す。
     (四) 山中の花木は豪健磊落なり
平面世界に在る花木は、自ら平面世界の感化を受け、且つ人間に成長するを以て、爲めに豪健磊落ならず、畢竟艶を競ひ媚を呈するもの往々然り。山中に在る花木に到りては然らず、自然の儘に成長し、人間外に不羈獨立するが上に、時に風餐雨虐、或は土壤を剥がれ、或は巖石に壓抑せられ、而かも悍然勇往、一層々に不羈獨立の素養を助長し來る。要するに山中の花木は豪健なり、磊落なり、氣骨あり、况んや花は山に開きて愈々鮮かに、木は山に長じて益々蒼翠秀潤を添ふ。花木の妙所を太悟せんと欲せば、山に入らずんば竟に得ず。

     登富士山記
  維昔。地湧而山出焉。遂匯爲淡海。屹者富士。淡海之大千里。富士跨四
  國。山高四十里。海之最深處耶。自沙走
(スバシリ)村至囘馬(ウマカヘシ)
  夷陵十有二里。阪有衡門。過此可三里。途窮北折而六里。抵中宮祠。登
  者受杖於此。雜樹茂草。鬱然森布。是爲山腰。
邐迤以登。又十里許。
  曰沙篩坂。自坂已上。所謂四十里。削成而四方者也。望之兀然壁峭。無
  草樹。無正路。沙石處々見山骨。可踰者。不可踰者。羊腸萬折。但守先
  導之武以轉趾。鬆脆之石。或泐而碎於脚底。歩々輪退。將僵而杖扶焉。
  仰之三峯在顱上。一跳而可至矣。余神先飛。足之不進。十弓幾十里爾。
  日夕入石室而息。導者出纊衣以授服。時維七月。尚寒於十月矣。余適出
  室而瞰。雲間煜々然。正是玉兎浴海之時也。不覺大呼稱快。須臾三竿。
  世界變爲銀地。是不知白雲停而不動。但見積素三尺。萬有爲白玉已。而
  此山孤立于大虚。眞如一朶芙蓉。湧出大銀海中也。豈又有如是觀哉。又
  登五六里。愈寒愈疑積雪耳。乃宿第七合之室。合猶言級也。四十里爲一
  升。十析爲合。毎合置室。室大丈許。高五六尺。板屋四柱。磚石固封。
  所置遠近。倚巖勢之可倚。登者以息。以宿。以辟風雨云。夜半畢乃發。
  
山愈壁。而曲愈逼。前者後者。頂踵不能尺也。八合九合。峻極。佝僂匍
  匐。且登且息。呼吸將通帝坐耶。悚然疑立。顧曰。我無仙骨。韓子之哭。
  不可誚也。反顧東方。初如發丹竈。比至絶頂。丹流不知幾千萬里。非烟
  非雲。蓋海影與顥氣相映也。喘定神王。振衣瞪然以縱觀焉。意亦何壯。
  乃入室以憩。頂上之室。十餘連簷。皆小於路傍者。記曰。貞觀十一年。
  最頂建祠。今唯存衡門。導者告報曰。曦車將出温谷。急起望之。紫赤之
  中。顥氣煇々。金縷萬條。倒射余衣。熟眎之。輪轉如飛。金縷棼亂。眼
  晴將熏。實一大奇觀也。漸升。大如盤盂。而下界猶且朏明。縹緲之際。
  海色淡黄。始知古人登岱詩。有黄海句。遂行八葉。此山一名芙蓉。故有
  此稱。三峯隆起。正中陷爲池。乃傍池而行也。相傳。初有水。而竹木蔭
  蔽。寶永焰發之後。水涸。今唯窵窅而已。約徑二十餘丈。深數十仭。一   
  覽意盡。三峯最高爲中臺。又名雷電岩。不可攀也。岩下南轉。而行數百
  歩。相連。又不可攀也。名曰駒峯。有石窟。置金馬。余詑曰。聖德  
  太子騎甲斐驪始登此山故事歟。不然。陸遜所得巴滇馬類已。守者茫莫以
  答焉。懸梯以登下。則銚子口也。池缺而沙流。故名。東南之角。寶永峯
  在脚下。寶永年。陽焰噴發。雨沙石於千里外。歇則山之瘤見云。俯臨咫
  尺。傍有發焰之穴。問之曰。距此六里。嶮甚。未嘗聞有至者。以沮人意。
  故不果往也。西南絶險。有劍峯。手捫石坎。而踵半外垂者。二十餘歩。
  過此平坦。蹈凍雪而行。嗚乎。萬古雪尚存耶。身在水晶宮裏。詎知人間
  苦熱。池邊處々置金人。又搆小堂。堂側有玉井。僅々盆大。不歇不溢。
  人以爲靈。乃破堅氷而飲。冽甚。寒氣徹骨。凡骨竟不得久留。欲下復鶩
  眸。四面猶且銀海。唯甲之二山。見顚。如島嶼然。問之不知。盖聞。黑
  駒白嶺之椒。富士於正南。其是耶。下而二三合。雲間覬函根之湖。尚
  在履之間。下路嶮急。足之使目。不遑應接。時一囘首。田塍維衆山。
  如線者酒川。導出所齎草鞋以授。厚可二寸。大如盤。着之似杻矣。若或
  一躓。鋌走數十丈。欲止不止。僵而後止。六合已下。繩路一條。直下十
  有餘里。曰沙拂坂。即沙篩南也。植杖以瞰前行人。一瞬十里。忽如嬰兒。
  杳如鏡中之象。疾於走盤之丸。比下囘馬坂。日正晡時。適昨躋坂之時也。
  擡頭囘顧。三峰峻嶒。而立天表。未甞不怳然自失也。聞之。群嶽之長爲
  岱宗。封者七十。以爲至極。其記云。自下至顚。凡四十里。日觀峯觀日
  於鷄鳴
此山中宮而上四十里。睇顥於半夜。何况容貌絶美。其孰企及。
  盖天地間、獨我 天皇。萬古一姓。莫有革命者。是其無疆之鎭。亦有與  
  于茲哉。特立于天下而無比倫。不亦宜乎。
                            澤 元 愷
                              
 (一)登山の気風を興作すべし
 

樓に登りて下瞰す、猶ほ且つ街上來往の人を藐視するの概あり、東京愛宕山に登りて四望す、猶ほ且つ廣遠の氣象胸中より勃發するを覺ゆ、何ぞ况んや嵯峨天に插むの高山に登るをや。山に彩色の絢煥あり、雲の美、雲の奇、雲の大あり、水の美、水の奇あり、花木の豪健磊落なるあり、萬象の變幻や、此の如く山を得て大造し、山を待ちて映發するのみならず、其の最絶頂に登りて下瞰せば、雲煙脚底に起り、其下より平面世界の形勢は君に向ひて長揖し來り、悉く之れを掌上に弄し得、君是に到りて人間の物にあらず、宛然天上に在るが如く、若くは地球以外の惑星より此の惑星を眺矚するに似、眞個に胸宇を宏恢し、意氣を高邁ならしめん。加ふるに山の組織の壯絶なるを頓悟し、山の形体の完美なるを大覺し、坐ろに大氣の清新洗ふが如き處に長嘯し、兼て四面の閴然寂靜なるに潛思默想せば、君が頭腦は神となり聖となり、自ら靈慧の煥發するを知る。况んや山に登る愈々高ければ、愈々困難に、益々登れば、益々危險に、愈々益々萬象の變幻に逢遭して、愈々益々快樂の度を加倍す。之れを要するに山は自然界の最も興味ある者、最も豪健なる者、最も高潔なる者、最も神聖なる者、登山の氣風興作せざるべからず、大に興作せざるべからず。
       
學校敎員たる者、學生生徒の間に登山の氣風を大に興作することに力めざるべからず、其の學生生徒に作文の品題を課する、多く登山の記事を以てせんことを要す。

 

 

 

 

 

 

 

  (注) 1.  本文は、明治文学全集37『政教社文学集』(松本三之介編、筑摩書房・昭和55年5月15日初版第1刷発行)所収の「志賀重昂篇『日本風景論』によりました(同書54~56頁)。この 『日本風景論』の最後に、(明治27年10月・政教社刊)と付記してあります。(明治27年10月・政教社刊の『日本風景論』は、注9に出してあります。)
 ここに掲げた本文の後に、「(ニ)登山の準備」「(三)花崗岩の山嶽」「(四)登山中の注意」という文章が続いています。
   
    2.  初めの「登山の気風を興作すべし」の右側(本文は縦書き)に、「附録」と記してあります。           
    3.  文中の縦書きの文字の右側に、白丸・黒丸・二重白丸を付してある箇所が数箇所ありますが、ここではこれを省略しました。    
    4.  平仮名の「こ」を押し潰したような形の繰り返し符号は、「々」で代用してあります。(「愈々」「益々」「會々」など)    
    5.  漢文「登富士山記」に出てくる次の漢字は、「島根県立大学e漢字フォント」漢字フォントを使用しました。)
  (「
匯」のサンズイが左外に出た形)、(山+巠)、(食+卞)、(左側に「山」の下に「雀」、右側に「戈」:音サツ)、 (上に「山」+「薛」-草冠:音ガツ)、(目+氐)、(尸+非)。
  という漢字は、諸橋轍次著『大漢和辞典 巻四』によれば、「サツガツ」と読み、「山の高峻なさま」を表す言葉だそうです。 司馬相如の「上林賦」に、「九峻--、南山峩峩」とあるそうです。
 司馬相如の「上林賦」は、『文選』に収められています。新釈漢文大系80『文選(賦篇)中』(明治書院発行)所収の司馬長卿(司馬相如)「上林賦」では、「サツ」という漢字は、「山」の下に「截」という漢字になっています。 
   
    6.  志賀重昂の『日本風景論』は、明治27年10月24日に初版が出され、以後度々増補を加えながら版を重ねました。昭和12年1月15日発行の岩波文庫版は、明治36年6月10日発行の第15版によった、と同文庫巻頭の小島烏水氏の解説にあります。
 岩波文庫版の本文との主な異同は、次の通りです。
 < 『政教社文学集』 → 岩波文庫版 > の形で示します。
 (初めの部分にある) 地 → 地  
 (終わり近くにある)  覺 → 覺  氣 → 氣 
 (「(三)水の美、奇は山を得て大造す」の初めにある)
     益々奇、→ 益々奇を成し
 (終わり近くにある)
    地球以外の惑星より此の惑星を眺するに似
  → 地球以外の惑星より此の惑星を眺するに似

 その他、句点→読点、読点→句点、句読点の有無、漢字の字体の違い、などがありますが、詳しくは省略します。

 ○  注9に紹介した 『国立国会図書館デジタルコレクション』で見てみますと、明治27年10月発行の『日本風景論』には、「太地」「太氣」となっています。
 その他にも「藐視するの慨あり」となっている箇所が、「……概あり」と直してあるようですので、明治文学全集37『政教社文学集』所収の本文は、巻末の「解題」の後にある「編集部註」(同書449頁)には「本集の本文収録に当っては、カナの清濁や句読点まで底本通りとすることを旨とした」とあるのですが、編者の校正がある程度なされているものと考えられます。
   
    7.  志賀重昂(しが・しげたか)=地理学者。号は矧川(しんせん)。愛知県の人。札幌農学校卒。三宅雪嶺らと雑誌「日本人」を創刊、国粋主義を主張。世界各地を巡遊。著「日本風景論」「世界山水図説」など。(1863~1927)(『広辞苑』第6版による)           
    8.  ここで底本とした明治文学全集37『政教社文学集』の巻末にある「年譜」に、志賀重昂の詳しい年譜があります。(450~452頁)    
    9.   『国立国会図書館デジタルコレクション』で、『日本風景論』(志賀重昂著・政教社、明治27年10月発行)の本文画像を見ることができます。
  『国立国会図書館デジタルコレクション』
   →日本風景論
(政教社、明治27年10月発行)
 (「登山の気風を興作すべし」は、画像の77~80 / 143 の部分です。)

 昭和12年1月15日に発行された岩波文庫の『日本風景論』が、同じ『国立国会図書館デジタルコレクション』で見られます。
   
    10.  「世界的な地理学者 志賀重昂」というページが『愛知県総合教育センター』のホームページにあり、そこで志賀重昂の銅像と重昂の墓の写真、その業績についての解説、略年譜が見られます。
 『愛知県総合教育センター』
  
「世界的な地理学者 志賀重昂」
   
    11.  『ニッポン旅マガジン』というサイトに、「志賀重昂墓所」という記事があり、そこで志賀重昻の墓所などの写真や説明が見られます。    
    12.  岩波現代文庫に『志賀重昻『日本風景論』精読』(大室幹雄著、2003年1月16日発行)があります。  
 同書の紹介文に、「日本の風景は世界でも最優秀であると説いた『日本風景論』は、日清戦争のさなかに刊行され、ベストセラーとなった。江戸漢詩文を基盤とする独特の文学性や当時の地理学の問題を掘り起こし、「国粋保存旨義」を主張した志賀重昂のナショナリズムとは何であったのかを探る。近代日本の精神史を風景受容から逆照射する書下ろし」とあります。
   
    13.  本文中に引用してある漢文「登富士山記」の作者について。
 澤元愷 (たく・げんがい) 本名、平澤元愷(ひらさわ・げんがい)。山城国宇治出身の漢学者。字は弟侯。旭山と号した。『漫遊文草』の著があり、「登富士山記」はその中に収められている。 1733(享保18年)~1791(寛政3年)。
   
    14.  『漫遊文草』(澤元愷著、明治20年・万笈閣発行)が『国立国会図書館デジタルコレクション』に入っていて、「登富士山記」の本文を画像で見る(読む)ことができ ます。(富士 山の絵と絶頂図とが付いています。)
    
 『国立国会図書館デジタルコレクション』 
   『漫遊文草』
   →
「登富士山記」
   
    15.  資料275に、志賀重昂撰による「間宮先生埋骨之処」碑文(間宮林蔵顕彰碑)あります。    

    
       
       
       
        

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