資料312 良寛禅師の山田杜皐宛て書簡
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しかし災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 是ハこれ災難をのがるゝ妙法にて候 かしこ
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(注) | 1. | 上記の山田杜皐宛て書簡本文は、『定本 良寛全集 第三巻』書簡集/ 法華転・法華讃(内山知也・谷川敏朗・松本市壽 編集、中央公論新社・2007年3月20日初版発行 2008年10月30日4版発行)によりました。この書簡の通し番号は、217となっています(同書315頁)。 | |||
2. | 上記書簡の本文は常用漢字・総ルビになっており、句読点が施されていますが、ここでは旧漢字に改め、句読点・ルビを省略してあります。「わびしさ」が「はびしさ」となっているのは、原文のままです。 また、宛名になっている部分と手紙本文の間に、引用者が「…… ……」を入れたことをお断りしておきます。 |
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3. | 『定本 良寛全集 第三巻』の内容解説によって、少し注をつけておきます。 ここにある「地しん」は、文政11年(1828)戊子11月12日、栄町(新潟県三条市)を中心に起きた地震で、与板の被害は全壊家屋264軒、焼失家屋18軒、死者34人、負傷者118人、死馬7頭の、かなり大きな地震だったそうです。しかし、良寛の住んでいる島崎(長岡市)は、1軒の全壊家屋もなかった由です。 「臘八」は、臘月八日のことで、十二月八日。 読みについて。「信に」は、まことに。「めで度存候」は、めでたく・ぞんじそうろう。「逢時節」は、あう・じせつ。「杜皐老」は、とこう・ろう。 |
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4. | 手紙の宛先人の山田杜皐(とこう)は、与板(新潟県長岡市)の町年寄で、酒造業を営んでいた山田家9代太郎兵衛重翰(しげもと)。俳諧や絵を愛した。杜皐は号。 天保15年(1844)1月16日、71歳で死去。良寛より16歳年少。(全集、304頁) |
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5. | 良寛はこの書簡と同じ日に、同一の歌を記した書簡(通し番号47)を阿倍定珍(さだよし)に送っています。 先日大地震世間一同の大變に候 野僧草庵ハ何事もなく候 うちつけにしなバしなずてながらへてかゝるうきめをみるがわびしさ 來春寛々御めにかけ申上度候 かしこ 良寛 臘八 …… …… …… …… …… …… …… …… 定珍老 良寛 (「寛々」は、ゆるゆる。) |
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6. | 〇良寛(りょうかん)=江戸後期の禅僧・歌人。号は大愚。越後の人。諸国を行脚の後、帰郷して国上山くがみやまの五合庵などに住し、村童を友とする脱俗生活を送る。書・漢詩・和歌にすぐれた。弟子貞心尼編の歌集「蓮はちすの露」などがある。(1758-1831) (『広辞苑』第6版による。) | ||||
7. | 新潟県出雲崎町にある『良寛記念館』のホームページがあります。 →『良寛記念館』 |
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8. | 資料464に「良寛禅師の辞世とされる句と歌について」があります。 | ||||
9. | 資料467に「良寛禅師碑石並序」の本文 があります。 | ||||
10. | リー百科事典『ウィキペディア』に、「良寛」の項があります。 |