資料308 高村光太郎「芋銭先生景慕の詩」 

  



 

 

   芋錢先生景慕の詩

 
             高 村 光 太 郎

  惱まざるものあらんや。
 窮迫せざるものあらんや。
 若くして一つの道に憑かれた魂の
 正しきに順ふもの、
 みな殆ど餓ゑんとす。
 文明開化の都會にもまれて瘦せて弱く、
 土なつかしい芋をわづかに喰らつて
 一枚十錢の小間繪をかいた。
 それが先生。

 芋錢先生は犬の多い都會をすてた。
 東籬の菊はさもあらばあれ、
 草深い牛久の里に鍬をもち
 農家の婦に半生を支へられ
「恍惚として自然を見」
 手に麻三斤のさとりを得た。
 何がおのれの生活であり
 何がおのれの性來であるか。
 それは河童が敎へてくれた。

 芋錢先生は歴遊する。
 先生をめぐつて天地の密意はあつまる。
 霞む水には蜃氣樓。
 岩うつ波には大龍巻。
 さうして畦をとぼとぼ歸る
 村の老農童子おかみさん、
 あたたかくやさしくきよく、
 物に向つて物思ふ葦のあはれ深く、
 しんじつに見る、
 しんじつにゑがく、
 是れ一か是れ二か。
 先生は大觀にもらつた靑墨をよろこび
 しづかにかろくそれを磨る。
 膠の枯れた雲煙が乾坤に立ちこめる。

 芋錢先生が龍に乘るのは
 右軍過庭と遊ぶ時だ。
 窺ひがたい膂力であり
 又放たれた造型である。
 しんしんとして律令あり、
 しかも一切を脱却して非情に入る。
 無何有の郷無からざらんや、
 先生六極の外に風を繋ぐ。

 水草しげる牛久の里に河童すみ、
 もとより河童は出沒時なく
 喜怒哀樂に際涯なく、
 背中の甲羅で世情をうけとめ
 頭のお皿に命の水をたつぷり湛へ
 酒買ひにゆき
 村の娘にからかはれ、
 或は鏃のやうにするどく
 或は愚かのやうにのどかである。

 芋錢先生が河童にもらつた尻子玉は
 世にもおいしい里芋となり、
 里芋光を放つて變貌すれば
 まことに觀世音菩薩におはす。
 先生菩薩なるか河童なるか。
 そもそも芋をくらひて幽玄の味に徹する
 是れ野人なるか眞人なるか。
 願はくは大休老師の一轉語を得て
 わたくしも亦眼をひらかう。
 春の雨草をぬらし
 牛久の草汁庵に先生亡し。
 景慕は酸のやうに心にしみ
 言葉はただ遠く先生を迂囘する。

 

 

 

 

 

 

 

  
 
 (注)1.上記の詩の本文は、筑摩書房版の『高村光太郎全集 第二巻』(筑
     摩書房
、昭和32年10月10日第1刷発行、昭和51年10月10日第2刷発行)
     によりました。「昭和14年(1939)」のところに収録してあります。
     (244~248頁)
      全集巻末の後記に、「昭和14年3月12日作。同年4月『改造』に発
     表された」とあります。(芋銭が亡くなったのは、前年の昭和13年12
     月17日です。)
    2.高村光太郎(たかむら・こうたろう)=詩人・彫刻家。光雲の子。
        東京生れ。東京美術学校卒業後、アメリカ・フランスに留学
        してロダンに傾倒。帰国後、「すばる」同人、耽美的な詩風
        から理想主義に転じ、「道程」で生命感と倫理的意志のあふ
        れた格調の高い口語自由詩を完成。ほかに「智恵子抄」「典
        型」「ロダンの言葉」など。(1883-1956)
      小川芋銭(おがわ・うせん)=画家。名は茂吉。草汁庵とも号す。
        江戸生れ。平民新聞などに漫画を載せ、のち日本美術院同人。
        牛久に住み、河童を描いて著名。(1868-1938)
                      
(以上、『広辞苑』第6版による。)
      小川芋銭(おがわ・うせん)= 1868~1938 日本画家。江戸赤
        坂溜池之端、牛久藩山口侯の藩邸内に、留守居役小川伝右衛
        門賢勝の長男として生まれる。幼名を不動太郎、のち茂吉と
        改める。1871年(明治4)、廃藩置県により、一家は山口侯
        の旧領牛久村に戻り、城中
(じょうちゅう)に居を構え、農業に
        従事する。芋銭は、一時、村の寺子屋式村塾に通っていたが、
        しばらくして上京。親類の小間物商の家に奉公に預けられ、
        桜田小学校にも通う。このころより、暇をみては絵を描くよ
        うになり、親類の本多錦吉郎の画塾にて洋画を学ぶ。また、
        市隠抱朴斎に就いて南画を、ややのちに、荒木寛畝に出会い、
        次第に日本画に興味をもつようになる。1888年、改進党尾崎
        行雄の推薦を得て『朝野新聞』の客員となり、漫画やスケッ
        チを描く。1893年、父の命により牛久に戻り農業に従事、傍
        ら暇をみては作画。1895年、妻を迎え家業の協力を得る。18
        96年ころから『茨城日報』、さらに『いはらき』、1903年に
        は幸徳秋水らの主宰する『平民新聞』に漫画や挿絵を送る。
        『平民新聞』廃刊後は『直言』『光』などに漫画を送る。こ
        のころ、牛里の号で俳句を作り、1910年からは、俳誌『ホト
        トギス』に表紙絵や挿絵を送る。1908年、日高有倫堂より、
        自著『草汁漫画』を刊行と、この時期は新聞・雑誌などに、
        主として農民を主題とした漫画・挿絵を描く。1917年(大正
        6)、平福百穂
(ひらふくひゃくすい)・森田恒友らを同人とする
        珊瑚会第3回展に「三人笑」「森羅万象」「盤山肉案
(ばんざ
                     んにくあん)
」を出品し、横山大観に認められ、同年、日本美
                術院の同人に推挙される。以後、日本美術院展において、新
        南画ともいえる芋銭独自の世界を展開する。また、1923年に
        始まる茨城美術展に、大観・木村武山らとともに、顧問とし
        て審査に携わる。1928年(昭和3)に61歳を記念して『開七
        画冊
(かいしちがさつ)』を、続いて70歳のときに『開八画冊』
        を刊行。また、1938年には、関東大震災以後に描いた河童の
        図をまとめ、芋銭の河童の集大成ともいえる『河童百図』を
        俳画堂から出版。代表作には、幻想の世界を描いた「水魅戯
        
(すいみたわむる)」「狐隊行(こたいこう)」、また、「桃花源」
        をはじめとする農民の樂土を描いたもの、そして「太古香」
        「海島秋来」など、水郷を描いたものがある。また、和漢の
        学殖に通じ、その書も味わい深い世界を形成している。
                             
<藤本陽子>
             
(『茨城県大百科事典』(茨城新聞社、1981年発行)による。)
     3.牛久市観光協会のホームページに、雲魚亭と河童の碑 小川
      芋銭記念館というページがあります。ここから、「芋銭の生い
       立ち」や「河童の碑」「雲魚亭」のページへ行くことができます。
     4.茨城県牛久市 公式
小川芋銭研究センターホームページ
            あります。
       お断り: 「小川芋銭研究センター」は、平成27年(2016)10月に
              閉鎖されたそうです。(2017年11月3日)

     5.
牛久沼ドットコムというサイトに、小川芋銭の世界
      ページがあり、そこに「画集及び作品について」「旅する画家・
      芋銭」「雲魚亭」「河童の碑」「芋銭さんの人となり」「70年の
      足跡」という文章があります。
     6.テレビ東京で放送されている『美の巨人たち』のホームページ
      に、2004年5月22日に放送された小川芋銭「水魅戯を収録した
      本の案内が出ています。
          『
小林薫と訪ねる 美の巨人たち 夢・憧れ・ロマン
              (日本経済新聞社出版局、2006年7月21日発行)
     7.語句の注を少しつけておきます。
       
景慕(けいぼ)……仰ぎ慕うこと。 順ふ……したがふ。 小間絵(こま
        え)……印刷物の小型の挿絵。また、雑誌の本文と無関係な木版・凸版の
        絵。カット。駒絵。    東籬(とうり)……東のほうにあるまがき。陶
                淵明の詩「飲酒」其五に、「
采菊東籬下  悠然見南山」(菊をる東籬の下
        
悠然として南山を見る)とある。  農家の婦……「婦」は「ふ」と読むか。
        浅野晃編『高村光太郎詩集』(白凰社、昭和40年5月1日初版第1刷発行、
        昭和57年11月15日新装版第8刷発行)に、「婦(ふ)」とルビがついている。
        全集の本文にルビが振られていないところをみると、「ふ」と読んでよさそ
        うに思われる。なお、「後赤壁之賦」に、「帰而謀諸婦。婦曰、我有斗酒。
        蔵之久矣。以待子不時之需。」(帰りて諸(これ)を婦(ふ)に謀(はか)
         る。婦(ふ)曰く、我に斗酒有り。之(これ)を蔵すること久し。以て子
        (し)の不時の需(もとめ)を待つ。)<帰宅してこれを妻に相談すると、
        妻が言った、「私に一斗ほどのお酒があります。長い間しまっておいたの
        ですが、それはあなたの時ならぬ求めに応じるために用意しておいたので
                す。」と。>とある。漢文では妻の意の「婦」を「ふ」と読むことがある
        ようである。 「恍惚として自然を見」……これは、陶淵明の詩句「
悠然     
        見南山
」(悠然として南山を見る)をふまえたものか。    麻三斤(まさん
                ぎん)……禅語。三斤の麻。僧衣一着分にあたる。極めて有名な公案で、
          『碧巌録』『無門関』『空谷集』など、多くの公案集に出ている。麻の目
         方を量っていた洞山に、ある僧が「如何なるか是れ仏」と問うたのに対し
        て、洞山が「麻三斤」と答えたという公案。  性來(せいらい)……
          本来の性質。うまれつき。  密意(みつい)……秘密の意思。内意。
        畦……あぜ。 童子(どうじ)……幼い子ども。わらべ。 大觀(たい
           かん)……横山大観。 膠(にかわ)……ゼラチンを主成分とし、透明
                または半透明で弾性に富み、主として物を接着するのに用いる。ここは、
           えのぐに加えたにかわをさす。    乾坤(けんこん)……天地。  右軍
                過庭(ゆうぐん・かてい)……王右軍 (おう・ゆうぐん)と孫過庭(そ
          ん・かてい)。王右軍は、有名な書家の王羲之(おう・ぎし)のこと。
        「右軍」は、天子の率いる三軍の中の、右の軍。もと、右軍将軍だった
        ことから、王羲之の称。孫過庭は中唐の書家で、王羲之の書法を学び、
         草書にすぐれた。著『書譜』は自筆本が残っている。  膂力(りょ
          りょく)……筋肉の力。腕力。    非情に入る……「入る」は「いる」
        と読む。  無何有の郷(むかうのさと)……自然のままで、なんらの
        人為もない楽土。荘子の唱えた理想郷。ユートピア。   六極(りっ
        きょく)……天地四方。  出没時なく……出没、時なく。  鏃(や
         じり)……矢柄(やがら・矢の幹)の先端に挿し込んで、射当てたとき
        突き刺すための武器。やさき。やのね。   尻子玉(しりこだま)……
           肛門にあると想像された玉。河童に抜かれると、ふぬけになるといわれ  
        る。   眞人(しんじん)……まことの道を体得した人。   大休老師
        (だいきゅう・ろうし)……大休正念(だいきゅう・しょうねん)。
        南宋、鎌倉時代の臨済宗の僧。文永6年(1269)、55歳で来朝、鎌倉に
        入り、時宗の帰依を受けた。円覚寺第2世。『大休和尚語録』がある。  
        (1215~1289)   一轉語(いってんご)……仏語。心機一転をもたら
        す語句。進退極まったときや、迷いの中にあるときに、ふとその場を転
        じてくれる語句。または身を転じて新天地を開かせる語句。 *野分
           (夏目漱石)11「道也先生は是に於て一転語(イッテンゴ)を下した」
        *碧巌録‐九一則「請禅客各下
一転語」*従容録‐八則「今請和尚
        代
一転語〈著甚来由〉丈云、不昧因果〈一坑埋却〉老人於言下
        大悟〈狐涎猶在〉」 草汁庵(そうじゅうあん)……芋銭の画室の名。  
                酸(す)……酢。酢酸を含む、すっぱい味の液体の調味料。
        (補注)「一転語」の意味は、『日本国語大辞典』第1巻(小学館、昭和
           47年12月1日発行)によりました。また、その他の語句の意味は、
           『広辞苑』
(第6版)その他の辞書を参照させていただきました。
     8.『日本の詩歌 10 高村光太郎』(中央公論社、昭和42年11月
       15日初版発行)で、伊藤信吉は、『独居自炊』の中の「へんな
       貧」という詩の鑑賞の中で、この「芋銭先生景慕の詩」に触れ
       て、「この詩で高村光太郎は、茨城の村里に隠棲した日本画家
       小川芋銭の晩年の姿に、「一切を脱却した」人を見た。その
       「無」の人格に「是れ野人なるか、真人なるか」という景慕の
       思いを寄せた」と書いています。(同書、254頁)

      



 

 

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