| |
(注) |
1. |
上記の『風雅和歌集』所収の光厳院の和歌31首は、『新編国歌大観』第1巻・勅撰集編
歌集(角川書店、昭和58年2月初版、昭和60年6月15日3版発行)
の『風雅和歌集』によりました。ただし、和歌の常用漢字を旧漢字に改めてあります。 |
|
|
| |
|
2. |
『新編国歌大観』の解題によれば、底本は九州大学附属図書館蔵細川文庫本(544・フ・28)。宇土細川家に伝存した写本で、上下2冊、歌数2210首。歌数2211首のものに比べると、秋歌上478の永福門院の1首を欠いているそうです。(478 真萩ちる庭の秋風身にしみて夕日の影ぞ壁に消えゆく 永福門院)
『風雅和歌集』の伝本は、序文の位置、歌数等によっておよそ3系統に大別されるとのことです。
1類=正保板本以下の諸板本に代表される流布本系統本で、仮名序を巻頭、真名序を本文末尾に置き、歌数は2211首。
2類=巻頭に真名序・仮名序があり、恋歌四・神祇歌にそれぞれ1首多く、総歌数は2213首。書陵部蔵桂宮本などがこれに属する。
3類=巻頭に真名序・仮名序があり、歌数が2211首のもの。書陵部蔵兼右筆本などがこれに属する。(『新編国歌大観』の解題による。) |
|
|
| |
|
3. |
『新編国歌大観』の凡例には、表記について、読みやすさへの配慮から、変体仮名を普通の仮名に改め、仮名遣いは歴史的仮名遣いに統一し、活用語の漢字に必要に応じて送り仮名を加え、漢字表記の助詞・助動詞を平仮名に改め、反復記号は用いず、清濁を区別して示し、序・詞書に適宜読点を打つなどの処置をとった、とあります。(詳しくは同書の「凡例」を参照のこと。) |
|
|
| |
|
4. |
〇風雅和歌集(ふうがわかしゅう)=勅撰和歌集。二十一代集の一つ。20巻。和漢両序がある。花園法皇の監修、光厳上皇が1344年(康永3)着手し、49年(貞和5)頃完成。歌数約2200首。玉葉集を受け京極派歌風を発展。風雅集。 (『広辞苑』第6版による。) |
|
|
| |
|
5. |
フリー百科事典『ウィキペディア』に、「風雅和歌集」の項目があります。 |
|
|
|
|
6. |
〇光厳天皇(こうごん・てんのう)=鎌倉末期の天皇。後伏見天皇の皇子。名は量仁かずひと。元弘の乱で後醍醐天皇の笠置落ち後、鎌倉幕府の申入れをうけ、後伏見上皇の院宣により践祚。建武新政で廃されたが、1336年(建武3)足利尊氏の奏請で弟の光明天皇を即位させ、院政を開始。のち出家。(在位1331-1333)(1313~1364)(『広辞苑』第6版による。)
〇光厳天皇(こうごんてんのう)=1313-64(正和2-貞治3) 北朝第1代。在位1331-33。後伏見天皇の第1皇子。母は藤原寧子。名は量仁、法名勝光智・無範和尚。1326(嘉暦1)後醍醐天皇の皇太子となり、31(元弘1)9月北条高時に擁立されて践祚。33(元弘3)5月北条氏の滅亡により退位し太上天皇となる。36(建武3)足利尊氏の奏請で弟光明天皇が即位し、上皇は院政を開き、51(観応2)に至る。52(文和1)後村上天皇の行宮に移り落飾、禅道にはいる。和漢儒仏の学に詳しく宸記などをのこした。陵墓は京都府北桑田郡山国陵。
〇光厳院宸記(こうごんいんしんき)=現存3巻。光厳天皇の日記。1332(元弘2・正慶1)
1・2・3・5・6月の記事の断簡で、正月の朝儀、即位、琵琶の名器玄象・牧馬の弾奏のことなどが記されている。(以上、『角川日本史辞典』第2版による。) |
|
|
| |
|
7. |
フリー百科事典『ウィキペディア』に、「光厳天皇」という項目があります。 |
|
|
| |
|
8. |
〇『風雅和歌集全注釈(上・中・下巻)』(岩佐美代子著、笠間書院刊、2002~2004年)があります。
『風雅和歌集全注釈 上巻 』 笠間注釈叢刊34 2002年12月初版発行
『風雅和歌集全注釈 中巻 』 笠間注釈叢刊35 2003年 9月初版発行
『風雅和歌集全注釈 下巻 』 笠間注釈叢刊36 2004年 3月初版発行 |
|
|
| |
|
9. |
資料302に『光厳院御集』があります。 |
|
|
| |
|
10. |
資料304に『風雅和歌集』序(真字序・仮名序)があります。 |
|
|