資料241  忠度の最期(『平家物語』巻第九より)



        忠 度 の 最 期
                 『平家物語』巻第九より  

 薩摩の守忠度は、西の手の大將軍にておはしけるが其の日の装束には、紺地の錦の、直垂に、黑絲縅の鎧著て、黑き馬の太う逞しきに、沃懸地(いつかけぢ)の鞍置いて乘り給ひたりけるが、其の勢百騎ばかりが中に打圍まれて、いと騷がず、控へ控へ落ち給ふ所に、こゝに、武藏の國の住人岡部の六彌太忠純、よき敵(かたき)と目を懸け、鞭鐙を合せて追(おつ)かけ奉り、あれは如何に、よき大將軍とこそ見參らせて候へ。正(まさ)なうも敵(かたき)に後(うしろ)を見せ給ふもの哉。返させ給へと言(ことば)を懸けければ、これは御方(みかた)ぞとて、ふり仰(あふの)き給ふ内甲(うちかぶと)を見入れたれば、鐵漿黑(かねぐろ)なり。あつぱれ、味方に鐵漿(かね)付けたる者はなきものを。如何樣(いかさま)にも、これは平家の公達(きんだち)にてこそおはすらめとて、押雙べてむずと組む。これを見て百騎ばかりの兵(つはもの)ども、皆國々の驅武者(かりむしや)なりければ、一騎も落ち合はず、我れ先にとぞ落行きける。薩摩の守は聞ゆる熊野育(そだち)の大力(だいぢから)、究竟(くつきやう)の早業にておはしければ、六彌太を摑(つか)うで、憎(につく)い奴が、御方(みかた)ぞと云はば云はせよかしとて、六彌太を捕つて引寄せ、馬の上にて二刀(ふたかたな)、落付く所で一刀(ひとかたな)、三刀(みかたな)までこそ突かれけれ。二刀は鎧の上なれば通らず、一刀は内甲へ突入れられたりけれども、薄手(うすで)なれば死なざりけるを、取つて押へて頸搔かんとし給ふ處に、六彌太が童(わらは)、殿馳(おくればせ)に馳せ來て、急ぎ馬より飛んで下り、打刀(うちがたな)を拔いて、薩摩の守の右の肘(かひな)を、臂(ひぢ)のもとよりふつと打落す。薩摩の守、今はかうとや思はれけん、暫し退(の)け、最期の十念唱へんとて、六彌太を摑(つか)うで、弓長(ゆんだけ)ばかりぞ投げ退(の)けらる。其の後西に向ひ、光明遍照十方世界、念佛衆生攝取不捨と宣ひも果てねば、六彌太後(うしろ)より寄り、薩摩の守の頸を取る。よい首討ち奉つたりとは思へども、名をば誰とも知らざりけるが、箙(えびら)に結付(ゆひつ)けられたる文(ふみ)を取つて見ければ、旅宿(りよしゆく)の花と云ふ題にて、歌をぞ一首詠まれたる、
  行き暮れて木(こ)の下陰(したかげ)を宿とせば花や今宵の主(あるじ)ならまし
忠度と書かれける故にこそ、薩摩の守とは知りてげれ。やがて、頸をば太刀の鋒(さき)に貫き、高く差上げ、大音聲を揚げて、此の日來(ひごろ)日本國に鬼神と聞えさせ給ひたる薩摩の守殿をば、武藏の國の住人、岡部の六彌太忠純が討奉つたるぞやと、名のつたりければ、敵(かたき)も御方もこれを聞いて、あないとほし、武藝にも歌道にも勝れて、よき大將軍にておはしつる人をとて、皆鎧の袖をぞ濡しける。
 


 
  (注) 1.   上記の「忠度の最期」の本文は、『昭和校訂 流布本平家物語』(野村宗朔校訂、武蔵野書院 昭和25年6月10日複刊印刷、昭和25年6月15日訂正1版)によりました。
 ただし、「忠度の最期」は本文には「忠度最期」とあるのを、引用者が「の」を補いました。                                         
   
    2.   緒言によれば、上記の平家物語は、元和7年刊行の片仮名整版の流布本平家物語を底本とし、寛永3年(刊記なし、推定)及び万治2年の片仮名整版本、寛永3年、正保3年、明暦2年の各平仮名整版本、片仮名古活字本、長門本(明治39年翻刻本)、延慶本(昭和10年翻刻本)を参照して校訂したもので、寛文以降の諸本は取らなかった、とのことです。    
    3.   本文中の平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の漢字と仮名に直してあります。(控へ控へ)    
    4.   本文の「薩摩の守とは知りてげれ」の「知りてげれ」は、「知りてンげれ」の撥音「ン」が表記されていない形と考えられます。    
    5.   平忠度(たいらのただのり)=平安末期の武将。忠盛の子。清盛の弟。正四位下薩摩守。また、歌人としても逸話を残し、謡曲などで著名。一谷の戦に敗死。(1144-1184) (『広辞苑』第6版による)    
    6.  資料240に「忠度の都落」(『平家物語』巻第七より)があります。    
7.   『国立国会図書館デジタルコレクション』で、慶長年間に出版された『平家物語』が、画像で見られます。
 『国立国会図書館デジタルコレクション』
 →   『平家物語』(巻七) 
(「忠度の都落」は 54~57 / 75)
    8.  『平家物語』の種々の本文は、『菊池眞一研究室』で読むことができます。ぜひご覧ください。    
    9.   平忠度のことは、「青葉の笛」という唱歌の2番の歌詞でもよく知られていますが、金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌〔上〕 明治篇』(講談社文庫。昭和52年10月15日第1刷発行) によれば、この歌は明治39年(1906年)7月、田村虎蔵・納所弁次郎・佐々木吉三郎編の『尋常小学唱歌』の四学年用に、「敦盛と忠度」という題で掲載されたのが最初だそうです。作詞:大和田建樹、作曲:田村虎蔵。1番に敦盛を、2番に忠度を歌っています。
 同文庫には、昭和2年、田村虎蔵編の『検定唱歌集』に「青葉の笛」という題で再び掲載された、とあります。
 ※ 上記の明治39年7月発行「『尋常小学唱歌』の四学年用」については、 『d-score』には、明治39年(1906年)7月版 『尋常小学唱歌 第四学年 上』 とあります。     
   
    10.   資料414に、「敦盛の最期」(『平家物語』巻第九より)があります。    
    11.    YouTubeに、「青葉の笛」の、篠笛による演奏がいくつか出ています。そのうちの一つをご紹介します。
  → 篠笛「青葉の笛」(演奏:狩野嘉宏)
   
12.   同じく YouTubeに、安西愛子の歌唱による「青葉の笛」があります。
  → 安西愛子の「青葉の笛」
  残念ながら、著作権の関係で現在は聞くことができないそうです。
    13.  『d-score』というサイトに、「青葉の笛」のページがあります。    
    14.   「青葉の笛」の歌詞を書いておきます。(仮名遣いは歴史的仮名遣いにしてあります。)

   敦盛と忠度
        大和田建樹
一 一の谷の 軍(いくさ)破れ
  討たれし平家の 公達(きんだち)あはれ
  曉寒き 須磨の嵐に
  聞えしはこれか 靑葉の笛

二 更くる夜半(よは)に 門(かど)を敲(たた)
  わが師に託せし 言(こと)の葉あはれ 
  今はの際(きは)まで 持ちし箙(えびら)
  殘れるは「花や 今宵」の歌
   
    15.   『Zaco's Page』というサイトに、「国語の先生の為のテキストファイル集」というページがあり、そこに『平家物語』の本文が入っています。
『Zaco's Page』
 →「国語の先生の為のテキストファイル集」
  (2012年5月25日付記)  
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