資料240  忠度の都落(『平家物語』巻第七より)




        忠 度 の 都 落
                『平家物語』巻第七より  

 薩摩守忠度は、何(いづ)くよりか歸られたりけん、侍(さぶらひ)五騎童(わらは)一人、我が身共に混甲(ひたかぶと)七騎、取つて返し、五條三位俊成卿の許(もと)におはして見給へば、門戸(もんこ)を閉ぢて開かず。忠度と名のり給へば、落人(おちうど)還り來れりとて、其の内騷ぎあへり。薩摩守、急ぎ馬より飛んで下(お)り、自(みづか)ら高らかに申されけるは、これは三位殿に申すべき事あつて、忠度が參つて候。たとひ門(かど)をば開(あ)けられずとも、この際(きは)まで立ち寄り給へ、申すべき事の候と申されたりければ、俊成卿、其の人ならば苦しかるまじ、開(あ)けて入れ申せとて、門(もん)を開けて對面ありけり。事の體(てい)(なに)となう物あはれなり。薩摩守申されけるは、先年申し承つてより後は、ゆめゆめ疎略を存ぜずとは申しながら、此の二三箇年は、京都の噪(さわぎ)、國々の亂(みだれ)出で來、剩(あまつさ)へ當家の身の上に罷りなつて候へば、常に參り寄ることも候はず。君既に帝都を出でさせ給ひぬ。一門の運命今日(けふ)早盡き果て候。それに就き候うては、撰集(せんじふ)の御沙汰あるべき由、承つて候ひし程に、生涯の面目(めんぼく)に、一首なりとも、御恩を蒙らうと存じ候ひつるに、かゝる世の亂(みだれ)出で來て、其の沙汰なく候ふ條、只一身の歎(なげき)と存ずる候(ざふらふ)。こののち世靜まつて、撰集の御沙汰候はゞ、これに候ふ巻物の中(なか)に、さりぬべき歌候はゞ、一首なりとも御恩を蒙つて、草の陰にても嬉しと存じ候はゞ、遠き御守(おんまもり)とこそなり參らせ候はんずれとて、日頃詠み置かれたる歌どもの中に、秀歌とおぼしきを、百餘首書集められたりける巻物を、今はとて打立たれける時、これを取つて持たれたりけるを、鎧の引合(ひきあはせ)より取出でて、俊成卿に奉らる。三位、これを開いて見給ひて、かゝる忘れ形見どもを賜はり候ふ上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候。さても只今の御渡(わたり)こそ、情も深う、哀れも殊にすぐれて、感涙抑へ難うこそ候へと宣へば、薩摩守、骸(かばね)を野山に曝さば曝せ、憂き名を西海(さいかい)の波に流さば流せ、今は憂き世に思ひ置く事なし。さらば暇申してとて、馬に打乘り、甲(かぶと)の緒をしめて、西を指してぞ歩ませ給ふ。三位後(うしろ)を遙に見送つて立たれたれば、忠度の聲とおぼしくて、前途程遠し、思を鴈山の夕べの雲に馳すと、高らかに口ずさみ給へば、俊成卿も、いとゞ哀れに覺えて、涙を抑へて入り給ひぬ。
 そののち世靜まつて、千載集を撰ぜられけるに、忠度のありし有樣、云置きし言の葉、今更思ひ出でて哀れなりけり。件(くだん)の巻物の中に、さりぬべき歌幾らもありけれども、其の身勅勘の人なれば、名字をば顯はされず、故郷(こきやう)の花と云ふ題にて、詠まれたりける歌一首ぞ、讀人しらずと入れられたる、
  さゞ浪や志賀の都はあれにしを昔ながらの山櫻かな 
その身朝敵となりぬる上は、子細に及ばずと云ひながら、恨めしかりし事どもなり。 
 


  (注) 1.  上記の「忠度の都落」の本文は、『昭和校訂 流布本平家物語』(野村宗朔校訂、武蔵野書院 昭和25年6月10日複刊印刷、昭和25年6月15日訂正1版)によりました。          
    2.   緒言によれば、上記の平家物語は、元和7年刊行の片仮名整版の流布本平家物語を底本とし、寛永3年(刊記なし、推定)及び万治2年の片仮名整版本、寛永3年、正保3年、明暦2年の各平仮名整版本、片仮名古活字本、長門本(明治39年翻刻本)、延慶本(昭和10年翻刻本)を参照して校訂したもので、寛文以降の諸本は取らなかった、とのことです。          
    3.   本文中の「侍(さぶらひ)」の読みは、引用者が補ったものです。また、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の仮名に直してあります。(ゆめゆめ)    
    4.  〇平忠度(たいらのただのり)=平安末期の武将。忠盛の子。清盛の弟。正四位下薩摩守。また、歌人としても逸話を残し、謡曲などで著名。一谷の戦に敗死。(1144-1184)(『広辞苑』第6版による)    
    5.  資料240に「忠度の都落(『平家物語』巻第七より)」があります。    
    6.  『国立国会図書館デジタルコレクション』で、慶長年間に出版された『平家物語』が、画像で見られます。
 『国立国会図書館デジタルコレクション』
 →   『平家物語』(巻九) 
  (「忠度最期」は 70~73 / 98)
   
    7.   『平家物語』の種々の本文を、『菊池眞一研究室』で読むことができます。ぜひご覧ください。            
    8.   『風のきた道─清盛慕情─』というサイトがあって、ここに平家物語の解説や全文の現代語訳、その他があって参考になります。
   「平家物語全文現代語訳」「平氏系図」「平清盛年表」「平家物語登場人物総覧」「平家物語和歌総覧」 その他
 (現在、リンクが繋がらないようです。2012年6月16日)
   
    9.  『樹陰読書』(…平家物語と中世日本を眺める處…)というサイトがあります。
 (現在、リンクが繋がらないようです。2017年10月28日)
   
    10.    『Zaco's Page』というサイトに、「国語の先生の為のテキストファイル集」というページがあり、そこに『平家物語』の本文が入っています。
『Zaco's Page』
 →「国語の先生の為のテキストファイル集」
  (2012年5月25日付記)  
   







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