資料235 道元禅師「普勧坐禅儀」(訓読と現代語訳)
道元禅師 普 勧 坐 禅 儀 (訓読と現代語訳)
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原ぬるに夫れ、道本円通、いかでか修証を仮らん。宗乗自在、なんぞ功夫を費さん。いわんや、全体はるかに塵埃を出づ、たれか払拭の手段を信ぜん。おおよそ当処を離れず、あに修行の脚頭を用うるものならんや。然れども、毫釐も差あれば、天地はるかに隔り、違順わずかに起れば、紛然として心を失す。たとい、会に誇り、悟に豐かにして、瞥地の智通を獲、道を得、心を明らめて、衝天の志気を挙し、入頭の辺量に逍遥すといえども、ほとんど、出身の活路を虧闕す。いわんや、かの祇園の生知たる、端坐六年の蹤跡見つべし。少林の心印を伝うる、面壁九歳の声名なお聞こゆ。古聖すでに然り、今人なんぞ弁ぜざる。ゆえに、須く言を尋ね、語を逐うの解行を休すべし。須く、回光返照の退歩を学すべし。身心自然に脱落して、本来の面目現前せん。恁麼の事を得んと欲せば、急に恁麼の事を務めよ。 (現代語訳) たずねみるに、仏道とは、まっすぐ只管打坐する、ただそのままの仏のいのち現成であり、本来あらゆるところにまどかに通達していて妙用自在の絶対の真実である。修行ということで、さとりをことさら求める必要がどうしてあろうか。 まさしく嗣法せられた坐禅、まさしく相承せられた宗旨、まさしく嗣続せられた宗乗であって、何の支障もなく心覆い滞ることなく、自在に功夫は重ねられる。 いわんやこの真実の全体は、無常現成のいのち存在なるゆえ、坐禅が絶対の真実そのもので在り得ている。まさにこの尽十方界真実人体は、はるかに迷いの世界を超出している。一体、妄想・迷情を払拭する手段などを誰が信じよう。 而今、まさにいま結跏趺坐する坐蒲上の当処は、眼のあたり現前の仏のいのち現成なるゆえに、この事実を離れて、どうして修行の行脚を用いる者があろうか。 そうではありながら、毫釐も違いがあると、理に叶った端坐依行が天地の隔たりほどとなり、心に違順がわずかに起これば、たちまちに紛然として明心を失ってしまう。たとい道を会得して誇り、悟りの豊かさによってわずかばかり仏法に通達し、道を得て仏心を明らかにしたと天をも衝かんばかりに志気を挙げ、たといそれが真実悟境の辺りの逍遥であったとしても、その境をも解脱し自由自在、身心脱落の生き生きとした無上のいのちはたらきの全現成には、それこそほとんど欠けるところなのである。 ましてや彼の、生まれながらに生を明らめ、死を明らめられたる聖者、釈尊が難行苦行せられ、さらに菩提樹下に端坐六年、只管に行じられたあとかたをこそ、明らめるべきであろう。また、正しい禅の仏法を中国に伝えられた第一の祖師、達磨尊者が、少林寺にあって九年面壁、坐禅しつづけられた。この尊い伝えは、今になお声名が聞こえるではないか。 このように、古の聖者でさえ、すでにそのように修行せられた。正しく法を継ぐべき今人が参禅弁道せずということが、どうしてあってよかろうか。それゆえに、ことばでもって探し索め解するのを、まず休めねばならぬ。なすべきは、対象に向かう心を返して、自己の本来のところに返照される只管打坐である。 身心は自然に脱落し、もとより真実そなわれる本来の面目は、たちまち現前するであろう。 恁麼な真実、身心脱落なることあらんとするなら、一刻の猶予なく恁麼な真実修行の打坐につとめよ。 正宗分(本論) (訓読) 夫れ、参禅は、静室宜しく、飲食節あり。諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管することなかれ。心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、作仏を図ることなかれ。あに坐臥に拘わらんや。 尋常、坐処には厚く坐物を敷き、上に蒲団を用う。あるいは結跏趺坐、あるいは半跏趺坐。いわく、結跏趺坐は、まず、右の足をもって左のの上に安じ、左の足を、右のの上に安ず。半跏趺坐は、ただ、左の足をもって、右のを圧すなり。寛く衣帯を繋けて、斉整ならしむべし。次に、右の手を左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安ず。両の大拇指、むかいて相拄う。 乃ち正身端坐して、左に側ち、右に傾き、前に躬り、後に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍と対せしめんことを要す。舌、上の顎に掛けて、唇歯相著け、目は、須く常に開くべし。鼻息微に通じ、身相既に調えて、欠気一息し、左右搖振して、兀兀として坐定して、箇の不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。これ乃ち坐禅の要術なり。 いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。菩提を究尽するの修証なり。公案現成、羅籠いまだ到らず。もし、この意を得ば、龍の水を得るがごとく、虎の山に靠るに似たり。当に知るべし、正法自ら現前し、昏散まず撲落することを。もし、坐より立たば、徐徐として身を動かし、安祥として起つべし。卒暴なるべからず。 (現代語訳) さて、坐禅するには、静かなところがよろしい。飲食の量は節度が大切である。種々の縁を放って、心ゆるやかにして静かならしめ、万事のいとなみを休息め、善悪是非の分別にかかずらわない。心がはたらき動くのを停め、一切思量をめぐらすことなく、また仏に成ろうと図ってはならない。 作仏は、迷妄の日常生活の上の坐臥に拘わるものでなく、「坐臥を脱落すべし」である。 通常、不断に坐禅する処には、厚く敷物を敷き、その上に坐蒲を置いて坐る。 坐法は結跏趺坐、あるいは半跏趺坐がある。結跏趺坐は、まず右の足を左のの上に安じ、左の足を右のの上に安く。半跏趺坐は、ただ左の足を右のの上に圧く。袈裟のひもはゆるめにし、衣服のかたちはきちんと整えるようにせよ。次に、右の手を左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両手の大拇指の先をそっとつけ合わせて円い相(定印)を作る。そのまま正身端坐する。 左にかしいだり、右に傾いたり、前屈みになったり後にそりかえったりしてはならない。かならず両耳と両肩とが対し、鼻と臍とが向かい合うようにせよ。舌は上あごにつけ、唇も歯もきちんと合わせる。目はかならず常に開くようにせよ。 出息入息は、鼻でごく自然に寂かにせよ。からだのかたちを整えたら、口を開き息を長く大きく吐き、体を左右にゆっくり揺り動かす。兀兀と動かざること、巌のように不動のかたちで坐し、箇の不思量底を思量せよ。不思量底で、どう思量なのであろう。思量はない。超出しきっている。ありとあらゆるものは非思量。人間界の是非、善悪等の思量分別を脱落し、ただ打坐のみである。 不思量に止まり居る処のみを任運に、そのまま不思量底であるところ、本来の相としての非思量に在る。これが、まさに坐禅の要術である。 坐禅は、禅定に習熟することではない。ただ本来おちつくべきところにおちつく、この上ない安楽の法門である。究めつくしている仏のいのちはたらきそのまま、すなわち、修行即実証の相である。 現にあるあらゆるものが、普遍的なはたらきの事実になりきっている。いのちとしてかけがえのない絶対の真実そのものの現成である。この打坐即ちいのち現成にあって、身や心の安らぎ・自由をさえぎるもの(煩悩・妄想)は到ることがない。もしこの意を得てそのままの打坐となれば、龍が水を得たように、虎が山に依るように、まさに本来の有りっ丈の在り相であろう。当に知るべきである、仏のいのちあらわれ、おのずからに現成し、昏沈散乱する心は、先より脱落していて、尽十方界真実の現前であることを。 もし坐を解いて立とうとするには、ゆるやかに上体を動かし、安らかによく気をつけて起ち、荒々しいふるまいをしてはならない。 流通分(結論) (訓読) 嘗て観る、超凡越聖、坐脱立亡も、この力に一任することを。いわんや、また、指竿針鎚を拈ずるの転機、仏拳棒喝を挙するの証契も、未だこれ、思量分別の能く解するところにあらず。 あに、神通修証の能く知るところとせんや。声色の外の威儀たるべし。なんぞ知見の前の軌則にあらざるものならんや。 然れば則ち、上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡ぶことなかれ。専一に功夫せば、正にこれ弁道なり。修証自ら染汙せず、趣向さらにこれ平常なるものなり。凡そ夫れ、自界他方、西天東地、等しく仏印を持し、もっぱら宗風を擅にす。ただ打坐を務めて、兀地に礙えらる。万別千差というといえども、祗管に参禅弁道すべし。 なんぞ自家の坐牀を抛却して、みだりに他国の塵境に去来せん。もし一歩を錯れば、当面に蹉過す。既に人身の機要を得たり、虚しく光陰を度ることなかれ。仏道の要機を保任す、誰かみだりに石火を楽まん。しかのみならず、形質は草露のごとく、運命は電光に似たり。倐忽として便ち空じ、須臾に即ち失す。冀くは、其れ参学の高流、久しく摸象に習って、真龍を怪むことなかれ。直指端的の道に精進し、絶学無為の人を尊貴し、仏仏の菩提に合沓し、祖祖の三昧を嫡嗣せよ。久しく恁麼なることを為さば、須くこれ恁麼なるべし。 宝蔵自ら開けて、受用如意ならん。 (現代語訳) 凡夫は生死に流転し、聖者は生死を解脱するが、昔をよく観ると、この凡聖二つながら超越し、あるいは坐禅の相のまま、あるいは立った姿のまま、寂然と涅槃に入るといった生死のあり方をみるのである。 これは、すべて坐禅の力に一任されたからであった。そればかりでなく、指頭や竿頭を用い、あるいは鍼を把り鎚を拈じて、知解分別を超え真実を悟らせる機微のはたらきとなし、さらに払子や拳頭をふるい、棒で打ち一喝をあびせ、ピタリ真実にかなえさせたというはたらきは、すべて坐禅の力であった。決して思量や分別でうかがい知れるのではない。神通の修行やさとりでもって、よくわかろうはずのものでない。それは、感覚的な現実生活の外の、正しい身の行住坐臥、その威儀というべきものである。知識とか認識とか言う以前の、理にかなった法則というべきものである。こういうことだから、賢いとか愚かとかは問題でなく、利人か鈍感かは一切関わりがない。専一に力をつくす、ただ打坐のみの世界が修証一如であり、ここ自らにまったく染汚されることがない。自らに本来の面目、趣くところはどこまでもあたりまえの本来のあり方、平常心の行持になりきっていくばかりである。 おおよそ、仏の現われとなるこの世界でも、別のあらゆる世界でも、また西はインド、東は中国・日本に至るすべての国土でも、等しく仏祖の印証を護持し、各々みな非思量なるこの打坐の、仏のいのち現成を、宗風として自在自由にほしいままに実証・体達している。ただ打坐をつとめ、兀兀と坐定して兀地だけに礙えぎられ、そのほかに一切なく、そのまま少しも離れない。まさに自受用三昧に安坐している。この自らの修証において、あるいは接化において千差万別さまざまであっても、ひたすらに坐禅し真実の道につとめるべきなのである。仏性の、自家としての自受用三昧・端坐弁道の坐位(僧堂の単)をなげうって、みだりに他国の塵境に迷い、離れようはずのない仏性の自己を見失ってしまうことが、どうしてあってよかろうか。 もしこの初一歩をあやまると、目前の大道を踏みちがえてしまう。 人はすでに受けがたき人身の、機の肝要が具わっている。 人は、むなしく光陰をわたることがあってはならない。人は仏道のかなめの機を用い保ち、それこそ全うする器だからである。 誰が一体、いたずらに生滅無常のこの日月をもって、あたら空しく楽しみをこととするであろう。そればかりではない。この肉体は草露のごとく、時運命数は稲光のごとく滅し去る。たちまちにして空に帰し、またたくまにして失し、畢ってしまう。こいねがわくは、ひとえに貴い志をもて発心修証し、参禅学道におもむく方々よ、久しく彫龍を愛するところから、すすんで真龍を愛せよとの故事※のように、文字、知識の一端をもって真実仏祖正伝の全道を見紛うてはならない。ことばや文字にわたらず、端的に指し示す兀坐それ自体に精進し、自受用三昧、安住の仏法に徹せられた方を尊貴し、諸仏の菩提にぴたり合致するとともに、諸祖の坐禅三昧の正統を嫡嗣せよ。 久しく恁麼為すならば、必ず恁麼なるはずである。まさに宝蔵おのずからに開け、この上ない仏のいのちはたらきの全現成を自受用し他受用し、意のまま限りもないであろう。
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