資料204 夏目漱石『硝子戸の中』より「喜いちやん」
 
 

 

    喜いちやん  (『硝子戸の中』より)        夏目漱石

 私(わたくし)がまだ小學校に行つてゐた時分に、喜いちやんといふ仲の好(い)い友達があつた。喜いちやんは當時中町(なかちやう)の叔父さんの宅(うち)にゐたので、さう道程(みちのり)の近くない私の所からは、毎日會ひに行(ゆ)く事が出來惡(できにく)かつた。私は重に自分の方から出掛けないで、喜いちやんの來るのを宅(うち)で待つてゐた。喜いちやんはいくら私が行(ゆ)かないでも、屹度向ふから來るに極つてゐた。さうして其(その)來る所は、私の家の長屋を借りて、紙や筆を賣る松さんの許(もと)であつた。
 喜いちやんには父母
(ちゝはゝ)がない樣だつたが、子供の私には、それが一向不思議とも思はれなかつた。恐らく訊いて見た事もなかつたらう。從つて喜いちやんが何故松さんの所へ來るのか、其譯さへも知らずにゐた。是はずつと後で聞いた話であるが、此喜いちやんの御父(おとつ)さんといふのは、昔し銀座の役人か何かをしてゐた時、贋金を造つたとかいふ嫌疑を受けて、入牢(じふらう)した儘死んでしまつたのだといふ。それであとに取り殘された細君が、喜いちやんを先夫の家へ置いたなり、松さんの所へ再縁したのだから、喜いちやんが時々生(うみ)の母に會ひに來るのは當り前の話であつた。
 何にも知らない私は、此事情を聞いた時ですら、別段變な感じも起さなかつた位だから、喜いちやんと巫山戯廻
(ふざけまは)つて遊ぶ頃に、彼の境遇などを考へた事はたゞの一度もなかつた。
 喜いちやんも私も漢學が好きだつたので、解りもしない癖に、能く文章の議論などをして面白がつた。彼は何處から聽いてくるのか、調べてくるのか、能く六づかしい漢籍の名前などを擧げて、私を驚ろかす事が多かつた。
 彼はある日私の部屋同樣になつてゐる玄關に上り込んで、懷
(ふところ)から二冊つゞきの書物を出して見せた。それは確(たしか)に寫本であつた。しかも漢文で綴つてあつた樣に思ふ。私は喜いちやんから、其書物を受け取つて、無意味に其所此所(そここゝ)を引つ繰(くり)返して見てゐた。實は何が何だか私には薩張(さつぱ)り解らなかつたのである。然し喜いちやんは、それを知つてるかなどゝ露骨な事をいふ性質(たち)ではなかつた。
 「是は太田南畝
(なんぽ)の自筆なんだがね。僕の友達がそれを賣りたいといふので君に見せに來たんだが、買つて遣らないか」
 私は太田南畝といふ人を知らなかつた。
 「太田南畝つて一體何だい」
 「蜀山人の事さ。有名な蜀山人さ」
 無學な私は蜀山人といふ名前さへまだ知らなかつた。然し喜いちやんにさう云はれて見ると、何だか貴重の書物らしい氣がした。
 「若干
(いくら)なら賣るのかい」と訊いて見た。
 「五十錢に賣りたいと云ふんだがね。何うだらう」
 私は考へた。さうして何しろ價切つて見るのが上策だと思ひついた。
 「二十五錢なら買つても好い」
 「それぢや二十五錢でも構はないから、買つて遣り給へ」
 喜いちやんは斯う云ひつゝ私から二十五錢受取つて置いて、又しきりに其本の効能を述べ立てた。私には無論其書物が解らないのだから、それ程嬉しくもなかつたけれども、何しろ損はしないのだらうといふ丈の滿足はあつた。私は其夜南畝莠言
(なんぽいうげん)──たしかそんな名前だと記憶してゐるが、それを机の上に載せて寐た。

 翌日
(あくるひ)になると、喜いちやんが又ぶらりと遣つて來た。
 「君昨日買つて貰つた本の事だがね」
 喜いちやんはそれ丈云つて、私の顔を見ながら愚圖々々してゐる。私は机の上に載せてあつた書物に眼を注いだ。
 「あの本かい。あの本が何うかしたのかい」  
 「實はあすこの宅
(うち)の阿爺(おやぢ)に知れたものだから、阿爺が大變怒(おこ)つてね。どうか返して貰つて來てくれつて僕に頼むんだよ。僕も一遍君に渡したもんだから厭だつたけれども仕方がないから又來たのさ」
 「本を取りにかい」
 「取りにつて譯でもないけれども、もし君の方で差支がないなら、返して遣つて呉れないか。何しろ二十五錢ぢや安過ぎるつていふんだから」
 此最後の一言
(いちごん)で、私は今迄安く買ひ得たといふ滿足の裏(うら)に、ぼんやり潛んでゐた不快、──不善の行爲から起る不快──を判然(はつきり)自覺し始めた。さうして一方では狡猾(ずる)い私を怒(いか)ると共に、一方では二十五錢で賣つた先方を怒(いか)つた。何うして此二つの怒りを同時に和らげたものだらう。私は苦い顔をしてしばらく默つてゐた。
 私のこの心理状態は、今の私が小供の時の自分を回顧して解剖するのだから、比較的明瞭に描き出されるやうなものゝ、其場合の私には殆んど解らなかつた。私さへたゞ苦い顔をしたといふ結果だけしか自覺し得なかつたのだから、相手の喜いちやんには無論それ以上解る筈がなかつた。括弧の中でいふべき事かも知れないが、年齡
(とし)を取つた今日(こんにち)でも、私には能く斯んな現象が起つてくる。それで能く他(ひと)から誤解される。
 喜いちやんは私の顔を見て、「二十五錢では本當に安過ぎるんだとさ」と云つた。
 私はいきなり机の上に載せて置いた書物を取つて、喜いちやんの前に突き出した。
 「ぢや返さう」
 「どうも失敬した。何しろ安公
(やすこう)の持つてるものでないんだから仕方がない。阿爺の宅(うち)に昔からあつたやつを、そつと賣つて小遣にしやうつて云ふんだからね」
 私はぷりぷりして何とも答へなかつた。喜いちやんは袂から二十五錢出して私の前へ置き掛けたが、私はそれに手を觸れやうともしなかつた。
 「其金なら取らないよ」
 「何故」
 「何故でも取らない」
 「左右
(さう)か。然し詰らないぢやないか、たゞ本丈返すのは。本を返す位なら二十五錢も取り給ひな」
 私は堪らなくなつた。
 「本は僕のものだよ。一旦買つた以上は僕のものに極つてるぢやないか」
 「そりや左右に違ひない。違ひないが向
(むかふ)の宅(うち)でも困つてるんだから」
 「だから返すと云つてるぢやないか。だけど僕は金を取る譯がないんだ」
 「そんな解らない事を云はずに、まあ取つて置き給ひな」 
 「僕は遣るんだよ。僕の本だけども、欲しければ遣らうといふんだよ。遣るんだから本だけ持つてつたら好いぢやないか」
 「左右かそんなら、左樣
(さう)しよう」
 喜いちやんは、とうとう本だけ持つて歸つた。さうして私は何の意味なしに二十五錢の小遣を取られてしまつたのである。

 

 

 


 

        (注)   1. この「喜いちやん」という文章は、『漱石全集 第八巻』小品集(岩波書店、昭和41
         年7月23日発行)所収の『硝子戸の中』によりました。
          『硝子戸の中』(ガラスどのうち)は、大正4年1月13日から2月23日まで、東京朝日
         新聞に連載されました。単行本の『硝子戸の中』は、大正4年3月28日、岩波書店か
          ら発行されました。
        2. この文章は、『硝子戸の中』の「三十一」「三十二」の部分で、「喜いちやん」という
         題は、漱石が付けたものではなく、引用者が便宜的に付けたものであることをお断
         りしておきます。
        3. 全集の本文は総ルビになっていますが、ここでは一部を除いて省略しました。
        4. 平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の仮名に置き換えてあり
         ます。(「ぷりぷり」「とうとう」)         
        5. 「太田南畝」について。上記全集の「注解」に、「「太田」は「大田」が正しいと言わ
         れる」とあります。
          大田南畝(おおた・なんぽ)=江戸後期の狂歌師・戯作者。幕臣。名は覃
(たん)
              別号、蜀山人・四方赤良
(よものあから)・寝惚(ねぼけ)先生。学は和漢雅俗に
              わたり、性は洒落・飄逸、世事を達観して時勢を風刺、天明調の基礎をな
              した代表的狂歌師。狂詩文にもすぐれ、山手馬鹿人の名で洒落本も書い
              た。著「万載狂歌集」「徳和歌後万載集」「鯛の味噌津」「道中粋語録」「一
              話一言」など。(1749-1823)           
 (『広辞苑』第6版による)
           なお、「南畝莠言」(なんぽいう<ゆう>げん)については、『漱石全集』の「注解」
          に、「二巻。南畝が文化十四年に著した考証随筆集」とあります。
        6.  『国立国会図書館デジタルコレクション』の中に、
『蜀山人全集巻三』があり、
         そこに「南畝莠言」も入っています。
                 → 『蜀山人全集巻三』 (374~402438

         

 

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