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(注) |
1. |
歌詞は、ワイド版岩波文庫『日本唱歌集』(1991年6月26日第1刷発行、2001年4月5日第10刷発行)によりました。
ただし、仮名遣いを歴史的仮名遣いに改め、総ルビの振り仮名を一部省略しました。(振り仮名は、現代仮名遣いです。) |
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2. |
作詞者の名前は分かりませんが、作曲者は岡野貞一となっています。 |
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3. |
この歌は、『尋常小学唱歌(六)』(大正3年6月)に掲載され、昭和7年の『新訂尋常小学唱歌』まで掲載された由です。 |
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4. |
歌に引かれた児島高徳の詩は、『太平記』巻四「備後三郎高徳ガ事付(つけたり)呉越軍(いくさ)ノ事」に出ています。 |
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5. |
児島高徳の詩について。原文は、次の通りです。
天莫空勾践 時非無范蠡
普通、これを、「天、勾践を空(むな)しゅうする莫(なか)れ。時に范蠡無きにしも非(あら)ず。」(又は「天、勾践を空しゅうすること莫れ。時に范蠡無きにしも非ず。」)と読んで、「天よ、越王勾践を空しく見殺しにしてはならない。時には、越王を助けた范蠡のような忠臣がいないとも限らないのだから。」 (「天よ、越王勾践にあたる後醍醐天皇を見殺しにしてはならない。時には、越王を助けた范蠡のような忠臣、つまり、この私高徳がいるのだから」)というように解釈しているようです。
これについて、金田一春彦氏は、講談社文庫『日本唱歌集〔中〕大正・昭和編』(昭和54年7月15日第1刷発行、昭和57年11月30日第2刷発行)の中で、
この詩の意味は「天は勾践のような人をそのまま不幸のままにはしておきません。勾践は范蠡の助けを得て天下を取りましたが、今度も必ずや范蠡のような忠勇の人が出て来てあなたをお救い申し上げるでしょう」の意味であるから、 「天勾践を……なかれ」ではなく、「……なし」であるべきであった。「時范蠡……」も「時に范蠡……」の方がいい。
と書いておられます。(同書52〜53頁) 〔「范蠡のような忠勇の人」が、「勾践のような忠勇の人」となっているのを、 誤植とみて改めました。〕
確かに金田一春彦氏の言われるように、「天勾践を……なかれ」では、次の「時(に)范蠡無きにしも非ず」と意味が合わないようです。 |
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6. |
『太平記』による児島高徳のこの詩の話について、金田一春彦氏の解説を引かせていただくと、
後醍醐天皇は、鎌倉幕府の失政に乗じ、討伐を計られたが、敵方に捕えられ、厳重な武士の警護のもとに、隠岐島に流される身となられた。備前の国の住人児島高徳は途中天皇を奪い奉ろうとしたが、果さず、やむなく単身院ノ庄の行在所(あんざいしょ)に忍び入り、桜の樹の幹を削って、そこに「天莫空勾践 時非無范蠡」という十字の詩を墨黒々と認(したた)めて帰って来た。朝起き出してこの文字に目をとめた護衛の武士どもは何のことかわからずただがやがや騒ぐだけであったが、ひとり天皇は、「他日必ずお救い申し上げます」という趣旨を悟り、会心の笑みをもらされたという物語の唱歌化である。(前掲書 52頁) |
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7. |
この歌のメロディーは、YouTubeで聞くことができます。その一つを挙げておきます。
→ 尋常小学唱歌「児島高徳」(日本大衆文化倉庫) |
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8. |
児島高徳(こじま・たかのり)=鎌倉末〜南北朝期の備前の武将。太平記によれば、後醍醐天皇の隠岐配流の際、天皇を救い出そうとして果たさず、美作院庄(いんのしょう)に至り、桜樹を削って「天勾践(こうせん)を空しうすること莫(なか)れ、時に范蠡(はんれい)無きにしも非ず」の詩を書して志を述べたという。(『広辞苑』第6版による) |
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9. |
越王勾践については、「臥薪嘗胆」という故事があり、「臥薪嘗胆」の話を、『陽碍山』というホームページで、『中国故事物語』(河出書房新社発行)で読むことができます。
残念ながら今は見られないようです。 |
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10. |
フリー百科事典『ウィキペディア』に「臥薪嘗胆」の項があります。 |
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11. |
資料190に、「『太平記』巻四「備後三郎高徳事付呉越軍事」(抄)」があります。 |
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12. |
『太平記』の本文は、「菊池眞一研究室」で、国民文庫本『太平記』(全巻)を読むことができます。(振り仮名つき本文と、振り仮名なし本文とがあります。) |
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