資料190  『太平記』巻四「備後三郎高徳事付呉越軍事」(抄)




 

         備後(びんご)三郎高(たかのり)ガ呉越軍(いくさ)ノ

 
其比(そのころ)備前國(びぜんのくに)ニ、兒嶋備後三郎(こじまびんごさぶらう)ト云(いふ)者アリ。主上笠置(かさぎ)ニ御座有(ござあり)シ時、御方(みかた)ニ參ジテ揚義兵(ぎへいをあげ)シガ、事未成先(こといまだならざるさき)ニ笠置モ被落(おとされ)、楠モ自害シタリト聞(きこ)ヘシカバ、力ヲ失(うしなう)テ默止(もだし)ケルガ、主上隱岐國(おきのくに)ヘ被遷(うつされ)サセ給(たまふ)ト聞(きい)テ、無貳(ふたごころなき)一族共(ども)ヲ集メテ評定(ひやうぢやう)シケルハ、「「志士仁人無求生以害仁(ししじんじんはせいをもとめてもつてじんをがいすることなく)、有殺身為仁(みをころしてじんをなすことあり)。」トイヘリ。サレバ昔衛(ゑい)(いこう)ガ北狄(ほくてき)ノ為ニ被殺(ころされ)テ有(あり)シヲ見テ、其(その)臣ニ弘演(こうえん)ト云(いひ)シ者、是(これ)ヲ見ルニ不忍(しのびず)、自(みづから)腹ヲ掻切(かききつ)公ガ肝ヲ己(おのれ)ガ胸ノ中(うち)ニ收メ、先君ノ恩ヲ死後ニ報(はうじ)テ失(うせ)タリキ。「見義不為無勇(ぎをみてせざるはいさみなし)。」イザヤ臨幸(りんかう)ノ路次(ろし)ニ參リ會(あひ)、君ヲ奪取奉(うばひとりたてまつりて)テ大軍ヲ起シ、縱(たと)ヒ尸(かばね)ヲ戰場ニ曝(さら)ス共(とも)、名ヲ子孫ニ傳ヘン。」ト申(まうし)ケレバ、心アル一族共(ども)皆此義ニ同ズ。「サラバ路次ノ難所(なんじよ)ニ相待(あひまち)テ、其隙(そのひま)ヲ可伺(うかがふべし)。」トテ、備前ト播磨トノ境(さかひ)ナル、舟坂山(ふなさかやま)ノ巓(みね)ニ隱レ臥(ふし)、今ヤ今ヤトゾ待(まち)タリケル。臨幸餘リニ遲カリケレバ、人ヲ走ラカシテ是(これ)ヲ見スルニ、警固ノ武士、山陽道(せんやうだう)ヲ不經(へず)、播磨ノ今宿(いまじゆく)ヨリ山陰道(せんいんだう)ニカヽリ、遷幸ヲ成(なし)奉リケル間、高ガ支度(したく)相違シテケリ。サラバ美作(みまさか)ノ杉坂(すぎさか)コソ究竟(くつきやう)ノ深山(みやま)ナレ。此(ここ)ニテ待奉(まちたてまつら)ントテ、三石(みついし)ノ山ヨリ直違(すぢかひ)ニ、道モナキ山ノ雲ヲ凌ギテ杉坂ヘ着(つい)タリケレバ、主上早(は)ヤ院庄(ゐんのしやう)ヘ入(いら)セ給(たまひ)ヌト申ケル間、無力(ちからなく)(これ)ヨリ散々(ちりぢり)ニ成(なり)ニケルガ、セメテモ此(この)所存ヲ上聞(しやうぶん)ニ達セバヤト思(おもひ)ケル間、微服潛行(びふくせんかう)シテ時分ヲ伺ヒケレ共、可然(しかるべき)(ひま)モ無(なか)リケレバ、君ノ御坐(ござ)アル御宿(おんやど)ノ庭ニ、大(おほき)ナル櫻木(さくらぎ)(あり)ケルヲ押削(おしけづり)テ、大文字(おほもじ)ニ一句ノ詩ヲゾ書付(かきつけ)タリケル。
  天莫空勾踐。時非無范蠡。
(てんこうせんをむなしうすることなかれ。
                    ときにはんれいなきにしもあらず。)

 御警護
(おんけいご)ノ武士共、朝(あした)ニ是ヲ見付(みつけ)テ、「何事ヲ何(いか)ナル者ガ書(かき)タルヤラン。」トテ、讀(よみ)カネテ、則(すなはち)上聞(しやうぶん)ニ達シテケリ。主上ハ軈(やが)テ詩ノ心ヲ御覺(さと)リ有(あり)テ、龍顔(りようがん)殊ニ御快(おんこころよ)ク笑(ゑま)セ給ヘドモ、武士共ハ敢テ其(その)來歴ヲ不知(しらず)、思咎(おもひとがむ)ル事モ無(なか)リケリ。(以下略)
                        
(『太平記』巻四)

 

 

 

 

 


   (注) 1. 上記の本文は、『日本古典文学大系34 太平記 一』(岩波書店、昭和35年1月6日
           第1刷発行、昭和38年8月30日第3刷発行)
 によりました。『太平記』には、この後に呉越
         の争い(「呉越軍事」
ごゑついくさのこと)が記述してあるのですが、ここでは省略しま
         した。
       2. 本文に施してある振り仮名の一部や返り点なども、省略しました。
       3. 本文中の「」の漢字は、島根県立大学の“
e漢字を利用させていただきました。
       4. 資料191に、『文部省唱歌「児島高徳」(歌詞)』があります。
       5. 越王勾践に関する故事「臥薪嘗胆」の話を、『陽碍山』というホームページで、
         『中国故事物語』(河出書房新社発行)で読むことができます。
       6. フリー百科事典『ウィキペディア』「臥薪嘗胆」の項があります。
        7. 『太平記』の本文は、『J−TEXTS』で、国民文庫本『太平記』(全巻)を読むこと
        ができます。(振り仮名つき本文と、振り仮名なし本文とがあります。) 
             


                                    
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