資料1 正岡子規の『水戸紀行』(全)
明治22年春4月、正岡子規は寄宿舎内の友人と二人で水戸地方に徒歩旅行をしました。水戸には学友菊池謙二郎の実家があったので、彼に会う目的もありました。 子規は、当時満21歳、菊池謙二郎とともに第一高等中学校の学生でした。
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水 戸 紀 行 子規生
水 戸 紀 行
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(注) | 1. | 本文は、講談社版『子規全集』第十三巻(昭和51年9月20日第1刷発行、昭和54年4月10日第2刷発行)によりました。全集本文は、勿論縦書きです。 | |||
2. | 「莞爾先生」は、子規の別号です。 | ||||
3. | 全集本文のルビは、( )によって示しました。 | ||||
4. | なお、偕楽園の部分の「未(いま)だ此(かく)の如く」の読み仮名は、引用者が付けたもので、全集本文にはありません。 | ||||
5. | 本文に一部濁点の付いていない仮名がありますが(例えば「過きたか」「食んて」「見れは」「かゝやけり」「沼の水は深くはあらされとも」「遊ひゐたり」「進み入りて見れは」など)、これは全集本文のままです。 | ||||
6. | 本文中の「ニヤリニヤリ」「ドタンドタン」「モーシモーシ」「始まり始まり」「さめざめ」「いろいろ」「よぼよぼ」「しよぼしよぼ」「チーチー」「ガラガラ」「ギリギリ」「ますます」「のびのび」「パチパチパチ」「早く早く」「トントントン」「こらえこらえ」等の繰り返しの部分には、「く」の縦に伸びた形の踊り字が、また「種々」「色々」「我々」「別々」等の「々」の部分には、「こ」のつまった形の踊り字が用いてあります。 また、○を用いた圏点は、下線に直してあります。(「嫌疑」「屁兒帶」「さめ」の部分) |
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7. |
本文の漢字にはできるだけ旧漢字を用いましたが、止むを得ず一部常用漢字にしてあるところがあります。なお、「滊車」の「滊」は、「さんずい」に「気」の正字(氣)が書いてある字です。 また、「滹沱河(こだか)」の「こだ」の漢字は表記されない可能性がありますが、「滹」は、サンズイ+「罅(ひび)」の右側(虎の下の「ル」に似た部分が「乎」になっている漢字)、「沱(だ)」は、サンズイ+「它」(ウカンムリに「ヒ」)の漢字です。 |
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8. | 偕楽園の部分に出てくる「かげたる」は、「かける(欠ける)」を「かげる」と言う、子規の郷里松山地方の方言です(小学館『日本国語大辞典』による)。 | ||||
9. | 偕楽園の部分に出ている「婉麗幽遠なる公園」の「婉麗」を「艶麗」とする本文が見受けられますが、これは誤りです。原文は「婉麗」となっています。 | ||||
10. | 明治22(1889)年4月、子規は友人と二人で学友菊池謙二郎を訪ねて来水しましたが、上に子規が書いているように、菊池は一足違いで上京した後で、会うことができませんでした。 子規たちは徒歩で東京を3日に出発、途中で一部人力車を利用したりして、水戸には5日に着いています。 |
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11. | 『水戸紀行』の解説書としては、筑波書林発行のふるさと文庫に、柳生四郎・解説の『水戸紀行』(1979年7月15日第1刷発行、1981年5月15日第2刷発行)があります。 | ||||
12. |
菊池謙二郎について 菊池謙二郎は、慶応3(1867)年1月19日(旧暦)、水戸天王町の家に生まれた。号は仙湖。菊池家は代々水戸藩士で、曽祖父は彰考館総裁を務めた学者であった。 父が石岡藩の藩政改革に参与した関係で石岡に移り、廃藩置県後、竹原村(現・美野里町)に住み、そこで小学校に入学した。明治14(1881)年、菊池が14歳のとき、竹原小学校上等小学2級修業で、水戸に戻り、栗田寛の私塾輔仁(ほにん)学舎に入って漢籍を学んだ。翌明治15(1882)年、茨城中学校(後の水戸中学校) に入学したが、2年で中退して神田の共立学校に学び、明治17(1884)年9月、 子規とともに東京大学予備門に進んだ。子規とは共立学校以来の友人であった。 夏目漱石も、 この年、東京大学予備門に入学した。大学予備門は、明治19年に第一高等中学校と改称された。手元の漱石の年譜には、「明治22(1889)年1月、同級生子規と知りあい、その交友が文学への方向を決定した」とある。明治23(1890)年、菊池と子規、漱石は揃って第一高等中学校を卒業した。 子規が「水戸紀行」で水戸を訪れたのは、明治22(1889)年4月のことであるから、当時は二人とも第一高等中学校の学生だったわけである。時に、9月生まれの子規は満21歳、1月生まれの菊池は満22歳であった。 第一高等中学校を卒業して、菊池は帝国大学法科大学に、子規と漱石は同 ・文科大学に進学した。菊池はまもなく文科大学国史学科に転科。謙二郎と漱石は明治26(1893)年に卒業したが、子規は25年9月に中退して文筆活動に入った。 [付記] 東京大学予備門・第一高等中学校については、 『第一高等学校ホーム ページ』 という旧制第一高等学校のホームページがあり、そこに「第一高等学校略史」があって参考になります。 [ ここで、帝国大学の学制について触れておくと、明治19(1886)年3月、帝国大学令に基づいて、明治10年4月12日創設の東京大学(東京開成学校と東京医学校を合併。旧東京開成学校を改組し、法・理・文の3学部、旧東京医学校を改組し医学部を設置、東京予備門を附属)が工部大学校を統合して帝国大学に改組された。<法・医・工・文・理の5分科大学及び大学院を設置。明治23(1890)年6月に農科大学を 設置> 明治30(1897)年6月、京都帝国大学の創設に伴い、それまでの「帝国大学」を「東京帝国大学」と改称した。 大正8年2月、分科大学を廃し学部を置く。<法・医・工・文・理・農の各学部のほか経済学部を新設>昭和22年9月、東京帝国大学を東京大学と改称。昭和24年5月、国立学校設置法公布。新制東京大学創設。<教養学部・教育学部が新設され法・医・工・文・理・農・経済・教養・教育の9学部を設置。昭和33年4月、薬学部を設置>つまり、明治19年から明治30年6月までは、帝国大学は1校のみであったので、単に「帝国大学」と称したのであるが、明治30年6月に京都帝国大学の創設の伴い、「東京帝国大学」と改称したのである。その後、京都に続いて明治40(1907)年に東北帝国大学、明治43年(1910)に九州帝国大学、大正7(1918)年に北海道帝国大学、昭和6(1931)年に大阪帝国大学、昭和14(1939)年に古屋帝国大学が創設された。 なお、文部省所管外の帝国大学として、大正13(1924)年に京城帝国大学が、昭和3(1928)年に台北帝国大学が創設されている。] 明治10年 東京大学創設(法・医・文・理の4学部を設置) 明治19年3月 帝国大学に改組(法・医・工・文・理の5分科大学及び大学 院を設置) 明治30年6月 東京帝国大学と改称 大正8年2月 分科大学を廃し学部を置く(法・医・工・文・理・農の6学部の他に経済学部を新設) 昭和22年9月 東京大学と改称 昭和24年5月 新制東京大学を創設 菊池謙二郎は、明治26(1893)年に帝国大学文科大学を卒業して、文部省に入ったが、明治27(1894)年、山口高等中学校教授兼舎監となった。明治28(1895)年8月、新設の岡山県津山尋常中学校校長に就任。明治30(1897)年、千葉県尋常中学校 校長に転じたが、知事との確執が原因で1年で休職を命じられた。 明治31(1898)年7月、仙台の第二高等学校校長に就任。この間、水戸学の研究を続け、明治32(1899)年には、『藤田東湖伝』を出版した。その後、明治34(1901)年上海の東亜同文書院教頭兼監督、次いで明治36年、南京の三江師範学堂日本総教習兼両江学務処参議となる。 この間、明治35(1902)年、木村むらと結婚。明治39(1906)年水戸に戻り、明治41(1908)年、水戸市教育会の初代会長に就任。同年4月、知事森正隆に請われて茨城県立水戸中学校校長事務取扱に就任した(大正元(1912)年9月、第11代校長に就任)。以後、大正10(1921)年に、いわゆる「舌禍事件」で辞職するまでの13年間、水戸中学の校長として多くの改革を行い、校風を刷新した。退職に際して、復職を求める生徒たちによって同盟休校(全校ストライキ)が行われたことは、有名である。 辞職してから3年後の大正13(1924)年の総選挙で、衆議院議員に当選し、教育振興策に努力したが、昭和3(1928)年の総選挙では落選、晩年は水戸市梅香に住み、史学の研究に没頭した。昭和11(1936)年に水戸を去り、鎌倉の英勝寺に寓居したが、まもなく東京小石川の次男揚ニ宅に移り、昭和20(1945)年2月3日、東京の揚ニ宅で逝去、多磨墓地に葬られた。享年79(満78歳)。「子孫が忙しいのに、お彼岸だなんだって、お墓参りに来ることがないようなところへ葬れ」という遺言に従って、墓は今、静岡県の富士霊園にある由(森田美比著『菊池謙二郎』)である。 菊池謙二郎は、『義公全集』『幽谷全集』『新定東湖全集』などを刊行し、水戸学関係の研究に尽くした功績は大きい。 ( なお、『漱石全集』に菊池謙二郎あての書簡が数通収録されています。) [ 菊池謙二郎の経歴については、森田美比著『菊池謙二郎』(耕人社・昭和51年9月10日発行)、柳生四郎・解説『水戸紀行』(筑波書林発行・ふるさと文庫・1979年7月15日第1刷発行、1981年5月15日第2刷発行)、『水戸の先達』(水戸市教育委員会 ・平成12年3月発行)の「菊池謙二郎」の項(執筆・安見隆雄氏)、『茨城県大百科事典』(茨城新聞社・1981年10月8日発行)の「菊池謙二郎」の項(執筆・佐久間好雄氏)、『水戸一高百年史』(昭和53年11月11日発行)等を参考にさせていただきました。] |
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13. | 水戸中学校長時代の「舌禍事件」については、『ぼくでんのホームページ』というサイトの中に、「菊池校長舌禍事件・同盟休校(全校ストライキ)」 がありますので、ご覧ください。 残念ながら現在は見られないようです。(2017.10.30) |
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14. | 「崖急に梅ことごとく斜なり」(原文の「ごと」の部分は、平仮名の「く」を長く伸ばした形の踊り字) の句について 偕楽園にある子規の句碑 「崖急に梅ことごとく斜なり」の句を、「水戸紀行」で来水の折の明治22年の作だとする説がありますが、柳生四郎氏は上掲書の「解説」で、「この句も後年当時を思い出して作ったもので、決して明治22年の作ではない」としておられます。 そして句 の出典について、遺族から寄贈されて国立国会図書館が所蔵している「句稿寒山落木」の、明治29年春の部に載っている句だ、と書いておられます(同書82頁)。 (『寒山落木』 明治29年 巻五 「春」は、講談社版『子規全集』第2巻 俳句二 に出ています。) |
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15. | 平成17年3月、菊池謙二郎の実家跡(旧大坂町、現梅香1丁目)に、子規が水戸を訪れた時に菊池謙二郎の実家のことを詠んだと思われる「この家を鴨ものぞくや仙波沼」の句碑が建てられました。 資料66に、「正岡子規の句碑『この家を鴨ものぞくや仙波沼』」があります。 | ||||
16. | 資料64に「ロンドンの漱石にあてた『子規の手紙』」があります。 | ||||
17. | 『秋尾敏の俳句世界』というホームページに、「正岡子規の世界」があり、「絶筆三句」 「子規の墨跡」「子規の絵」「子規の生涯」「子規の旅日記」……などの項目で紹介・解説があって、大変参考になります。 | ||||
18. | 子規という人物の概略を知るには、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 の「正岡子規」が便利です。 | ||||
19. | 国立国会図書館の『近代日本人の肖像』で、正岡子規の肖像写真を見ることができます。 | ||||
20. | 『松山市立子規記念博物館』のホームページがあります。 | ||||
21. | 台東区根岸にある『子規庵』のホームページがあります。 | ||||
22. | 『国立国会図書館』のホームページ内の「蔵書印の世界」(電子展示会)で、「子規の藏書印」(印影「獺祭書屋図書」)や「自筆本(『銀世界』の一頁)」の映像を見ることができます。 | ||||
23. | 電子図書館『青空文庫』で、『歌よみに与ふる書』ほかを読むことができます。 | ||||
24. | 2007年3月号の『常陽藝文』(常陽藝文センター発行)に、「正岡子規の『水戸紀行』を歩く」が特集されています。(2008年10月23日付記) | ||||
25. | 『春や昔─坂の上の雲のファンサイト─』というサイトに、「俳句革新「正岡子規」」があります。 | ||||
26. | 『「坂の上の雲」マニアックスblog』というサイトがあります。 |