資料64 ロンドンの漱石にあてた「子規の手紙」


 
         
ロンドンの漱石にあてた「子規の手紙」
 

 

僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日譯モナク號泣シテ居ルヤウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雜誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廢止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思ヒツイテ特別ニ手帋ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カツタ。近來僕ヲ喜バセタ者ノ隨一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ殘念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヤウナ氣ニナツテ愉快デタマラヌ。若シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)
畫ハガキモ慥ニ受取タ。倫敦ノ燒芋ノ味ハドンナカ聞キタイ。
不折ハ今巴理ニ居テコーランノ処ヘ通フテ居ルサウヂヤ。君ニ逢フタラ鰹節一本贈ルナドヽイフテ居タガモーソンナ者ハ食フテシマツテアルマイ。
虚子ハ男子ヲ擧ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤツタ。
錬卿死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマツタ。
僕ハ迚モ君ニ再會スルコトハ出來ヌト思フ。萬一出來タトシテモ其時ハ話モ出來ナクナツテルデアロー。實ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰來」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。
書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉ヘ。
   明治卅四年十一月六日燈下ニ書ス
                    東京 子 規 拜
    倫敦ニテ
   漱 石  兄

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 
  (注) 1.  正岡子規が、ロンドンに留学中の夏目漱石にあてた手紙です。           
    2.  手紙の本文は、講談社版『子規全集』第19巻、書簡二(昭和53年1月18日第1刷発行、昭和54年4月10日第2刷発行)によりました。(書簡番号1016)    
    3.  「コーラン」「年尾」の右傍線(原文は縦書きなので)は、下線で示しました。    
    4.  手紙の中に出てくる「古白曰来」は、『仰臥漫録』に記された言葉で、「古白曰く、来れ、と」(こはくいわく、きたれ、と)と読みます。(講談社版『子規全集』の注では「古白曰く來れ」としてあって、「と」がありませんが。)
 「古白」は、藤野潔(きよむ)の号で、藤野は子規より3歳若い、母方の従弟です。子規とともに俳句に志しましたが、のち文学に転じ、『人柱築島由来』等の作品を発表しました。しかし、文学上の失意から明治28年4月7日ピストル自殺を図り、帝国大学病院で、同12日死亡しました。
 全集の「古白曰来」の注には、
 「古白曰く來れ。 「仰臥漫録」明治三十四年十月十三日の項に記され、ナイフと千枚通しの絵が書添えてあり、鬼気迫る一文である」
とあります。
   
    5.  「錬卿死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマツタ。」とある「錬卿」は竹村鍛のこと、「非風」は新海正行のことです。二人について、講談社の『日本人名大辞典』(2001年12月6日第1刷発行・2001年12月25日第2刷発行)から引いておきます。

 〇竹村鍛(たけむら‐たん)→  竹村黄塔
 〇竹村黄塔(たけむら‐こうとう)(1866
★─1901)明治時代の教育者。慶應元年11月22日生まれ。河東碧梧桐の兄。神戸師範、東京府立中学の教員をつとめたのち、冨山房で芳賀矢一らと辞書の編集に従事、明治33年女子師範学校(現お茶の水女子大)教授となる。親友に正岡子規がいる。明治34年2月1日死去。37歳。伊予(愛媛県)出身。帝国大学卒。本名は鍛。号は松窓。
 〇新海非風(にいのみ‐ひふう)(1870
1901)明治時代の俳人。明治3年10月6日生まれ。東京で正岡子規と知りあい、俳句をつくりはじめる。のち肺病のため陸軍士官学校を退学、各種の職業を転々とした。高浜虚子「俳諧師」の五十嵐十風のモデルといわれる。明治34年10月28日死去。32歳。伊予(愛媛県)出身。本名は正行。

 子規の『筆まかせ』では、竹村を「敬友」、新海を「直友」といっています。

 ついでに言うと、夏目漱石は「畏友」、菊池謙二郎は「厳友」、秋山真之は「剛友」となっています。

 竹村鍛は、文科大学で国文学を修め、上に出ているように、冨山房で辞書の編纂に従事していました。子規は文字の正誤について絶えず竹村に質問していたそうですが、竹村は子規に先んじて急逝してしまいました。
   
    6.  松山中学に入学した子規は、特に親しい5人の友人を「五友」と称して、筆写回覧雑誌『五友雑誌』を発行していました。
 その「五友」とは、太田正躬(柴洲)・竹村鍛(錬卿)・三並良(みなみ‐はじめ)・安長(森)知之(松南)と、子規の5人です。
   
    7.  子規は、翌明治35年9月19日死去しました。享年36(満で35)でした。
  漱石が帰京したのは明治36年1月23日です。手元の漱石年譜には、「(明治35年)12月5日、ロンドンを発って帰国の途についた。明治36年1月、神戸に帰港、23日、東京帰着。」とあります。          
 漱石は、明治35年12月1日付けの虚子あて書簡の中で、子規の死について、「小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶ひ申す間敷と存候。是は双方とも同じ様な心持にて別れ候事故今更驚きは不致、只々気の毒と申より外なく候。但しかゝる病苦になやみ候よりも早く往生致す方或は本人の幸福かと存候。」と書いています。
 また、「其後も何かかき送り度とは存候ひしかど、御存じの通りの無精ものにて、其上時間がないとか勉強をせねばならぬ抔と生意気な事ばかり申し、ついつい御無沙汰をして居る中に故人は白玉楼中の人と化し去り候様の次第、誠に大兄等に対しても申し訳なく、亡友に対しても慙愧の至に候」とも書いています。
(『子規全集』第19巻巻末の「参考資料」に所収) 
   
    8.  嘗ては、漱石にあてた子規の手紙の画像が、愛媛大学附属図書館のホームページで見られました。
 
愛媛大学附属図書館のサイトの一ページと思われる 「句碑めぐり 俳句の里─松山」の、一番下に「子規・漱石文学散歩」
  残念ながら今は見られないようです。(2009年9月29日)
   
    9.  『国立国会図書館デジタルコレクション』で、子規の「絶筆三句」の画像が見られます。
 『国立国会図書館デジタルコレクション』

    
「絶筆三句」 
   
    10.  資料1に「正岡子規の『水戸紀行』(全)」があります。           
    11.  『東京紅團』というサイトに、「正岡子規散歩」のページがあります。(「文学散歩情報」のところに出ています。)    


   
              




            
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