何という帝(みかど)の御代(みよ)のことでしたか、女御(にょうご)
(皇后、中宮に次ぐ妃)や更衣(こうい)
(女御に次ぐ妃)が大勢伺候(しこう)していました中に、たいして重い身分ではなくて、誰(だれ)よりも時めいている方がありました。最初から自分こそはと思い上っていたおん方々は、心外なことに思って蔑(さげす)んだり嫉(ねた)んだりします。その人と同じくらいの身分、またはそれより低い地位の更衣たちは、まして気が気ではありません。そんなことから、朝夕の宮仕えにつけても、朋輩方(ほうばいがた)の感情を一途(いちず)に害したり、恨みを買ったりしましたのが積り積ったせいでしょうか、ひどく病身になって行って、何となく心細そうに、ともすると里へ退(さが)って暮すようになりましたが、帝はいよいよたまらなくいとしいものに思(おぼ)し召(め)して、人の非難をもお構いにならず、世の語り草にもなりそうな扱いをなさいます。公卿(くげ)や殿上人(てんじょうびと)なども不愛想に顔を背(そむ)けるという風で、まことに見る眼も眩(まばゆ)い御寵愛(ごちょうあい)なのです。世間でも追い追い苦々(にがにが)しく思い、気に病(や)み出して、唐土(もろこし)でもこういうことから世が乱れ、不吉(ふきつ)な事件が起ったものですなどと取り沙汰(ざた)をし、楊貴妃(ようきひ)
(唐の玄宗皇帝の寵姫(ちょうき)。玄宗がその愛におぼれたために安禄山(あんろくさん)の乱が生じた)の例なども引合いに出しかねないようになって行きますので、更衣はひとしお辛(つら)いことが多いのですけれども、有難いおん情(なさけ)の世に類(たぐい)もなく深いのを頼みに存じ上げながら、御殿勤(ごてんづと)めをしておられます。父の大納言(だいなごん)は亡(な)くなりましたけれども、母北(きた)の方(かた)が、昔気質(かたぎ)の人で、由緒(ゆいしょ)ある家柄の生れなので、両親のある方々が現(げん)に評判もよく派手に暮しているのを見ると、娘もそれに負けないようにと、どのような儀式の折にも気をつけて上げておられましたが、これというしっかりした後見(うしろみ)がないのですから、何かの時にはやはり頼(たよ)りないらしく、心細そうにしておられるのでした。
そのうちに、前(さき)の世(よ)からのおん契(ちぎり)が深かったのでしょうか、またとなく清らかな、玉のような男御子(おとこみこ)さえお生れになりました。帝は早くお会いになりたくて、待ちきれなくおなりなされて、急いで呼び寄せて御覧になりますと、珍しい御器量のお児(こ)なのです。第一の御子(みこ)は右大臣(うだいじん)の女御(にょうご)のおん腹ですから、一般の信望が重く、疑いもない世継(よつぎ)の君として人々も大切に存じ上げていますけれども、今度の御子のお顔だちの麗(うるわ)しさには、及ぶべくもないところから、第一の御子の方は一通りの表向きの御慈愛に止(とど)まって、この御子の方を御秘蔵児として限りなく御寵愛になります。母君の更衣も、もともと普通の上(うえ)宮仕え
(御前勤めということで、常に側近にはべって用を勤める低い身分の女官の仕事)をするような御身分ではないのでした。上臈(じょうろう)として誰からも重く扱われていたのですが、とかく今までは、帝がむやみにお纏(まつ)わりなさるあまりに、御遊(おんあそび)
(主として管絃(かんげん)の遊びをさす)の折々や、何事によらず面白いおん催しがあったりしますと、まずその人をお召しになる、時には朝おそくまでお寝(やす)みになっていらしって、その日もそのままとめて置かれるという風に、無理にお側(そば)に引き寄せてばかりいらっしゃいましたので、自然軽々しく見える嫌(きら)いもありましたが、この御子がお生れになってからは、すっかり為(な)され方をお改めになりましたので、悪くすると、この御子が春宮(とうぐう)
(皇太子を東宮といい、その宮務をつかさどる官を春宮坊という。春宮もトウグウとよむ)に立たれるかもしれないと、一の御子の女御は疑念を抱(いだ)いていらっしゃいます。何をいうにも、一番先に入内(じゅだい)なされて、ほかの方々よりは大切にされておられますし、御子たちなどもいらっしゃいますので、このお方のお恨みごとばかりは、帝もうるさく、面倒に思っておいでなのでした。それにつけても忝(かたじけ)ない思召しを頼みの綱にしておられる更衣は、自分のことを悪様(あしざま)に言い、越度(おちど)を捜し出そうとする人たちが多いのに、わが身はかよわく、力ない境涯(きょうがい)なので、かえっていろいろな気苦労をされるのでした。
更衣のお局(つぼね)は桐壺(きりつぼ)
(禁中の東北隅にあって、西南にある清涼殿からは最も遠い。本名は淑景舎(しげいしゃ)。壺すなわち庭に桐を植えてある。桐壺から清涼殿までの間に、弘徽(こき)殿、麗景(れいけい)殿、宣燿(せんよう)殿等多くの殿舎の前を通らねばならない)なのです。ですから、帝がお通いになりますには、あまたの方々の局々の前をお通りにならなければなりませんが、それがこのようにしきりなしでは、朋輩方がいまいましく思うのも、まことにもっともと申さねばなりません。また更衣がお上(あが)りになりますにも、あまり度重なる折々には、打橋(うちはし)
(渡り廊下の切れ目にかける板。随時取りはずしができるようになっている)だの、渡殿(わたどの)
(殿舎から殿舎へ渡る廊下、細殿(ほそどの)ともいう)だの、ここかしこの通り道に、けしからぬもの
(汚物などを散らしておく)が仕掛けてあって、送り迎えをする人々の着物の裾(すそ)が台なしになって、始末に悪いことなどもあります。また或る時は、どうしても通らねばならない馬道(めどう)
(殿舎の中にある板敷の中廊下。今の縁側に似ている)の戸を、向うとこっちとでしめし合わせて閉じてしまい、まごつかせたり恥をかかせたりすることもしばしばです。そんな具合に、事に触れて数々の苦労が増すばかりですから、ひどく気が滅入(めい)って、ふさぎ込んでいますと、それをなおさら不憫(ふびん)に思われて、後涼殿(こうろうでん)
(清涼殿のうしろにつづいた西の御殿)に前から住んでいた或る更衣の部屋(へや)を、別のところへお移しになって、そこを上局(うえつぼね)として賜わりました。追い出された人の身になってみれば、その恨みはまして言いようもありません。
この御子が三つになり給うた年、御袴着(おんはかまぎ)のことがありましたが、第一の御子の時に劣らず、内蔵寮(くらづかさ)
(金銀、珠玉、宝器などを管理し、供進の御服(ぎょふく)、祭祀の奉幣などをつかさどる役所)、納殿(おさめどの)
(宜陽殿(ぎようでん)にあって歴代の御物を収めてある所)のものを悉(ことごと)く用いて、立派な式をお挙げになりました。それにつけても世間の非難が多いのですが、この御子のだんだん御成長になるお顔だちや性質などは、世に並びなく珍しいものに思われますので、そうそう嫉みようもありません。ものの分った人などは、「こういうお方も世に生れていらっしゃることがあるんですね」と、あきれるまでに眼を圓(まる)くして驚いています。
その年の夏、御息所(みやすどころ)
(御子の母となった女御更衣などの尊称)は、何となく気分がすぐれないので里へ退(さが)ろうとされましたが、どうしても暇(ひま)をお遣(や)りになりません。この頃はいつも病気がちでおられますから、それを当りまえのようにお思いなされて、「もう少しこのままで養生(ようじょう)をしてごらん」とばかりおっしゃるのですが、日に日に容態(ようだい)が重くなって、ほんの五六日のあいだに、たいそう衰えてしまいましたので、母君が泣く泣くお願い申し上げて、退らせてお上げになるのでした。こんな場合にも、人々がどういう恥をかかせるかもしれないと懸念(けねん)して、御子はお留(とど)め申し上げて、自分だけこっそりと宮中を出て行かれます。何事にも限りがありますから、帝もそうはお止(と)めになるわけに行かず、見送ってやることさえできぬ心もとなさを、言いようもなくお思いになります。平素はたいそうつややかで、美しい人なのが、ひどく面窶(おもやつ)れがして、しみじみと物思いに沈みながら、言葉に出してはよう申し上げず、あるかなきかに消え入るようにしているのを御覧になりますと、来(こ)し方のことも行く末のことも分らなくおなりなされ、いろいろのことを泣く泣くお約束なさるのですが、更衣はお答え申し上げることもできません。眼つきなどもたいそう物憂(ものう)げに、一層なよなよと、夢うつつの体(てい)で横になっておられますので、どうしたらいいのかと、途方にくれておいでになります。輦車(てぐるま)の宣旨(せんじ)
(輿(こし)の下に輪を設けて人の手で引くようにした車。それに乗って内裏の門を出入することを許すという宣旨。春宮、親王、女御、大臣、大僧正などに与えられる)などを仰せ出されましたけれども、またお部屋におはいりになってその人の姿を御覧になれば、何としても出してやる気におなりになれません。「死出の旅路にももろともにという約束をしたものを、まさか人を打ち捨てて行くことはできないであろうに」とおっしゃいますので、女もたいそう悲しく存じ上げて、
「限りとて別るる道の悲しきに
いかまほしきは命なりけり
(限りあることとして、お別れ申し上げて行く死出の道の悲しさを思うと、何とかして命を保って生きていたいものでございます。「いかまほしき」の「いく」は「生く」と「行く」とにかけてある。注2参照)
こうなることと前から分っておりましたら」と、息も絶え絶えになりながら、まだ申し上げたいことがありそうにしているのですが、ひどく苦しげに、大儀そうな様子(ようす)なので、いっそこのままここに置いて、始終を見とどけてやりたいものよと、お考えになっていらっしゃいますと、「里の方で今日から御祈禱(ごきとう)を始めることになっていまして、相当の験者(げんじゃ)たちが御用を承っておりますが、ちょうど今夜からなので」と、側から御催促申し上げますので、是非(ぜひ)ないことと思いながら、退(さが)らせておやりになります。お胸の中はいっぱいで、その夜はまんじりともなさらず、明かしかねていらっしゃいます。お遣(つか)わしになった使いの人がまだ戻って来る刻限でもないのに、気が揉(も)めてならないとおっしゃりつづけていらっしゃいましたが、「夜中(よなか)過ぎ頃にお亡(な)くなりなされた」と里の人たちが泣き騒いでいるのを聞いて、使いの人もたいそうがっかりして帰って来ました。それを聞(きこ)し召(め)すお心のうちはどんなでしょうか、今は何事も分らなくおなりなされて、引き籠(こも)っておいでになります。それでも御子はそのままにお置きなされて、お顔を御覧になりたいのでしたが、かような折に内裏(うち)にとどまっていらっしゃる例がないので、これも里方へ御退出になります。侍(さぶろ)う人々が泣き惑(まど)うたり、帝が絶え間なく涙を流していらっしゃるのを、何事が起ったともお思いにならず、不思議そうに見廻しておいでになるのですが、普通にありふれた親子の別れでも悲しいものなのですから、まして今の場合の哀れさは、言ってみてもしようがありません。
ものには限りがありますから、普通の作法に従って葬(ほうむ)ってお上げになるにつけても、母北の方は、自分も同じ煙になって空へ立ち昇(のぼ)ってしまいたいと言って泣きこがれ、おん送りの女房の車を慕うてお乗りになって、愛宕(おたぎ)
(平安遷都(せんと)の時定められた葬場)という所で、厳(いか)めしい儀式を執(と)り行(おこな)っている現場(げんじょう)へお着きになりましたが、その時の心地はどんなでしたろうか。「空(むな)しきおん骸(から)を見ながらも、やっぱり生きていらっしゃるような気がしてなりませんから、灰におなりになるところを拝みましたら、もうこの世にいない人だと、ふっつり諦(あきら)めがつくであろうと存じまして」と、けなげなことを言っておられたのですけれども、車から転(まろ)び落ちんばかりに取り乱されるので、さればこそ、こうなることと思っていたのにと、人々は手を焼くのでした。内裏(うち)からは御使(みつかい)がありました。三位(さんみ)の位をお贈りになる由(よし)で、勅使が見えてその宣命(せんみょう)を読み上げるのが、また悲しみを誘います。女御(にょうご)と呼ばれるようにもさせずにしまったことを、この上もなく残念に思し召されて、位を今一階(ひときざみ)だけでもと、昇(のぼ)せてお上げになるのでした。それにつけてもまたお憎みになる人々が多いのです。さすがに物事を弁(わきま)えている方々は、姿かたちがめでたかったこと、気立てが素直で、角(かど)が取れていて、憎めないところがあったことなどを、今こそ思い出すのです。体裁が悪いほどの御寵愛であったからこそ、そっけなく嫉んだりしたものの、そういっても人柄がやさしくて、心に情愛があったことを、お上(かみ)附きの女官なども語り合うて恋い慕うているのでした。ほんに、「なくてぞ人は」
(ある時はありのすさびに憎かりきなくてぞ人の恋しかりける([源氏物語奥入所引])とは、こういう折の心持でありましょう。
はかなく月日が過ぎて行きましたが、後々(のちのち)の御法事などにも、お里方へ御使を立ててねんごろにおとぶらいになります。ほど経(ふ)るままに、やるせなく悲しくおなりなされて、おん方々(かたがた)の宿直(とのい)なども、絶えて仰せつけられず、ただ涙に濡(ぬ)れて明かし暮していらっしゃいますので、その御様子を見る人々までが湿(しめ)っぽい秋を味わうのでした。「でも、まあ、何という御寵愛であろう、亡きあとまでも人の胸をすうっとおさせにならないとは」と、弘徽殿(こきでん)
(一宮の母で、前に右大臣の女御とある人のこと)などはいまだに気持を和らげていらっしゃいません。帝は一宮(いちのみや)を御覧遊ばすにつけても、若宮のお可愛らしさばかりをお思い出しになって、心やすい女房やおん乳母(めのと)などをお遣わしになって、様子をお尋ねになります。
野分(のわき)の風が吹いて、にわかに肌寒(はださむ)くなった夕暮の頃、常にも増して亡き人の上をお偲(しの)び遊ばすことが多くて、靭負(ゆげい)の命婦(みょうぶ)
(宮中女官の階級のひとつ)というのをお遣わしになります。夕月夜の面白い宵(よい)のほどに出しておやりになりまして、御自分はそのまま物思いに耽(ふけ)っていらっしゃいます。あゝ、ほんとうに、こういう折には管絃(かんげん)の遊びなどを催したものであったのにと、そんな御追憶が浮かぶにつれて、琴(こと)などをも趣(おもむき)深く掻(か)き鳴らし、ふと口ずさむ歌のことばにも、何か常人の及ばぬものを持っていたその人の面影(おもかげ)の、つとおん身に添(そ)うて離れぬような気持がなさるのも、やはり「闇(やみ)のうつつ
(うば玉の闇のうつつは定かなる夢にいくらもまさらざりけり[古今集])」に劣る淡い幻(まぼろし)なのでした。
命婦は御息所(みやすどころ)のお里に行き着いて、車を門のうちに引き入れるより早く、あたりのけはいのものあわれなのに打たれます。この家のあるじの母北の方は、やもめぐらしをしていますけれども、御息所一人を守(も)り立てて行くためにここかしこへ手入れをして、どうやら見苦しくない程度に過(すご)しておられましたのが、子故(こゆえ)の闇
(人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑(まど)ひぬるかな[後撰集])にかきくれて泣き沈んでいましたうちに、いつしか草が高く伸びて、野分のためにいよいよ荒れた感じのする庭の面(おも)に、月影ばかりが八重葎(やえむぐら)にも遮(さえぎ)られずにさし込んでいます。車を母屋(おもや)の南面(みなみおもて)に請(しょう)じ入れて、命婦をお下(おろ)し申した母君は、とみにはものも言われません。「今まで生き残っておりますことがたいそう辛(つろ)うございますのに、こういう御使が蓬(よもぎ)の露を押し分けてお越し下されましたにつけましても、お恥かしゅう存ぜられまして」と言って、いかにも怺(こら)えられないようにお泣きになります。「せんだって典侍(ないしのすけ)が参られました折、『まのあたりお目にかかっておりますと、何ともお傷(いた)わしく、心も肝(きも)も消え入るように覚えまして』と奏上(そうじょう)しておられましたが、なるほど、私のようなものの分らぬ人間でも、たまらない心地がいたします」と、命婦はそう言って、少し気を落ち着けてから、仰(おお)せ言(ごと)をお伝え申し上げるのです。「『あの当座はひたすら夢路を辿(たど)るようであったけれども、ようよう心が鎮(しず)まって来ると、夢と思ったのが覚(さ)めるときもない真実と分って、堪(た)えがたい気がするのですが、どうしたら慰(なぐさ)む術(すべ)があるかを語り合う人もないにつけては、内々(ないない)で内裏(うち)へ来て下さらぬか。若宮が、涙にとざされた家の中で、さも頼りなく過していることなども、心苦しゅう思われるから、早う連れて参られるように』などと、はかばかしゅうも仰せきらず、涙にむせ返り給いながら、人が見たらばあまり弱々しいと思いはせぬかと、そんな御遠慮をもしていらっしゃるらしい御気色(みけしき)のもったいなさに、皆までもお聞き申し上げないような始末で出て参ったのでございます」と言って、おん文(ふみ)を差し上げます。「悲しさに眼も見えませぬが、忝(かたじけ)ない仰せ言を光として読ませていただきます」と言って、母君はそれをお読みになります。「時がたてば少しは紛(まぎ)れることもあろうかと思いながら暮しているのに、月日がたつほどいよいよ忍びがたくなるのは何としたことか。幼い人がどうしているかと案じながら、一緒に育てて行けなくなった心もとなさが、口惜(くちお)しくてならないのですが、今となってはやはりわたしを亡き人の形見と思って、若宮を連れて来て下さい」などと、こまやかに書いておありになるのでした。
宮城野(みやぎの)の露ふき結ぶ風のおとに
小萩(こはぎ)がもとをおもひこそやれ
(桐壺帝の歌。宮城野は今の仙台市の東郊にある野で、古くは秋草の名所。ここでは「宮城野」を宮城に、「露」を涙に、「小萩」を若宮に擬して、宮中を吹き渡る寂しい風の音に涙が催されるにつけても、若宮の身の上が思いやられるの意)
とあるのですけれども、しまいまではようお読みになりません。「長生きをしておりますのはほんとうに辛いものだと、思い知りましたにつけましても、まだ存(ながら)えているのかと『松の思はんことも恥かし
(いかでなほありと知らせじ高砂(たかさご)の松の思はんことも恥かし[古今六帖])』ゅうございますから、貴(とうと)き百敷(ももしき)のあたりへお出入りいたしますことは、ましてなかなか憚(はばか)り多く存じます。恐れ多いお言葉をたびたび承りながら、そういうわけで私はようお伺いいたしません。ただ、『若宮は何と思し召してか、内裏(うち)へ参られることばかりをお急ぎになっていらっしゃるらしゅうございますので、それもお道理と、おいとおしゅう存じ上げております』というようにでも、私が思っておりますことを内々で奏上して下さいませ。何分私は不吉な身の上でございますから、こういう所にいらっしゃいますのも縁起が悪く、もったいなく存ぜられまして」とおっしゃいます。
若宮はもうお寝(やす)みになっていらっしゃいます。「お顔を拝ましていただいて、おん有様などをも詳しく奏上いたしとうございますが、お待ちになっていらっしゃいましょうし、夜が更(ふ)けて参りますから」と、命婦は帰りを急ぎます。「子を思う道にくれまどう心の闇の片端(かたはし)だけでも、お話し申し上げて胸を晴らしとうございますから、公(おおやけ)の御使(みつかい)でなしに、一度ゆっくりお越しなされて下さいませ。この年頃は嬉(うれ)しいことや晴れがましい御用でお立ち寄り下さいましたのに、こういう悲しいおん消息(しょうそく)の御使としてお目にかかりますとは、返す返すもままならぬ命でございます。亡くなりました娘は、生れた時から望みをかけていた児でございまして、故大納言がいまわの際(きわ)までも、『どうかこの人の宮仕えの本意を必ず遂(と)げさせて上げて下され。私が死んだからといって、意気地(いくじ)なく挫(くじ)けてはなりません』と、くれぐれも言い置かれましたので、立派な後見(うしろみ)を持たぬ女の人交(ひとまじわ)りはなかなかなことと存じながら、ただ遺言(ゆいごん)に背(そむ)かないようにと思うばかりに、御奉公に出しましたところ、身にあまるお志の幾重(いくえ)とも知れぬ忝なさに、人に人とも思われぬような扱いをされるのを忍びながらどうにかお附合いをしているらしゅうございましたが、朋輩方の嫉(そね)みが深く積り、苦労の数々が殖(ふ)えて参りまして、横死(おうし)のような風に亡くなってしまいましたので、今ではかえってもったいない御寵愛をお恨み申しているようなわけでございます。これも親心の愚痴(ぐち)でございましょうか」と言いもやらず咽(む)せ返っておられますうちに、夜も更けてしまいました。命婦は、「お上(かみ)もそうおっしゃっていらっしゃいます。『わが心ながら、ああも一途(いちず)に、人目をおどろかすように思い詰めたというのも、やはり長くは続かない縁(えにし)であったのかもしれぬと思うと、苦しい契(ちぎり)を結んだものだという気がする。自分はいささかでも人の気持を害(そこの)うた覚えはないのだけれども、ただこの人がいたために、恨まれないでもいい人たちの恨みを負うたとどのつまりは、こんな具合に一人あとに残されて、心を取り直す術(すべ)もなくて、いよいよみっともなく、頑(かたくな)になったのであるが、前(さき)の世でどんな約束がしてあったのか知りたい』と、繰り返し仰せになって、おん涙がちにいらっしゃいます」と語るにつけても、話は尽きません。泣く泣く、「夜がたいそう更(ふ)けましたから、今宵(こよい)のうちに御返事を奏上いたしましょう」と、急ぎ立ち出でます。月は山の端(は)に入りかけて、清く澄みわたった空に、風がたいそう涼しく吹いて、草むらの虫のこえごえの哀れを誘い顔なのも、立ち去りがたい風情(ふぜい)なのです。
すず虫のこゑの限りをつくしても
ながき夜あかずふる涙かな
(命婦の歌。鈴虫のように声の限りを尽くして泣いても、この長い夜を自分の涙はいつまでも飽(あ)きたらずに降ることよ。「ふる」は鈴虫の鈴の縁語)
そう言って、車にもよう乗らないでいます。
「いとどしく虫の音しげき浅茅生(あさぢふ)に
露おきそふる雲のうへ人
(「浅茅生」は浅茅の生えている所。「雲のうへ人」は宮中からの御使、すなわち靭負の命婦のこと。「いとどしく」は「一層甚だしく」で、下の「露おきそふる」にかかる。「虫の音しげき浅茅生」は、「虫がしきりに鳴いている浅茅生」で、暗に自分を虫に擬している。それでなくても泣いてばかりいるこの浅茅生の自分の住居に、かたじけない御使をいただきましたので一層悲しみの涙を催しました)
かような愚痴も申し上げとうございまして」と、母君が言ってお寄越(よこ)しになります。風流なおん贈り物などがあるべき場合ではありませんから、ただ亡き人の形見として、こういう折の用にもと残しておかれた装束(しょうぞく)一領(ひとくだり)に、御髮上(みぐしあ)げの調度(ちょうど)のようなものを取り添えて進ぜられます。若い女房たちなどは、悲しいことはいうまでもないとして、朝夕大内(おおうち)の暮しに馴れていたものが、寂しくてならず、帝のおん有様などを思い出してお噂を申したりして、早く参内(さんだい)なさるようにおすすめしているのですけれども、母君としては、こんないまわしい年寄りがお供をするのは外聞が悪いであろうし、そうかといって、少しの間もお別れ申していることは何だか心配でもあるので、この際になっても、すっぱり若宮を内裏(うち)へ参らせようとはなさらないのでした。
命婦は戻っ来てみると、まだお寝みにならないでいらっしゃるのを、おいたわしく思うのでした。お前の壺前栽(つぼせんざい)の花の色も面白く、今をさかりに咲いているのを御覧になるような様子で、嗜(たしな)みのある四五人の女房だけを侍(さぶら)わせて、しめやかにお物語をなすっていらっしゃるのでした。近頃は、明け暮れ亭子院(ていじのいん)
(宇多天皇)がお書かせになった長恨歌(ちょうごんか)
(唐の玄宗皇帝と楊貴妃とのことを歌った白楽天の長詩)の絵を御覧になり、その絵に添えてある伊勢や貫之(つらゆき)の和歌だとか、または漢詩(からうた)だとか、そういう筋のことばかりを語り草にしていらっしゃいます。やがて命婦をお近づけになって、様子を細々(こまごま)とお尋ねになります。命婦は哀れであったことどもを忍びやかに申し上げます。おん返りごとを御覧になりますと、「まことに畏(おそ)れ多いことで、身の置きどころもございませぬ。このような仰せ言を蒙(こうむ)るにつけましても、心もかきくれ思い乱れるばかりでございまして、
荒き風ふせぎし蔭の枯れしより
小萩がうへぞしづこころなき」
(一二頁の桐壺帝の歌の返歌。荒い風を防いでいた木が枯れてしまいましてからは、その蔭になっていた小萩がどうなることであろうと案ぜられて、安き心もございません。木の枯れたのを更衣の死に、小萩を若宮にたとえてある)
などというように、取りみだしているのですが、それも心が転倒している際(さい)であるからと、見逃(みのが)しておやりになるでもありましょう。御自分とても、何とかしてかような様子を人に見られまいと、怺(こら)えてごらんになるのですけれども、とても辛抱(しんぼう)がおできになりません。始めてお逢(あ)いになった年ごろのことまでも取り集めて、いろいろとお思いつづけになり、あの時分は束(つか)の間(ま)も離れていると気が揉めたものだが、よくまあこういう風にして月日を送っていられるものよと、不思議なようにもお感じになります。「故大納言の遺言を違(たが)えず、宮仕えの本意を立て通してくれた礼には、それだけの報いをして上げようと、いつもそう思っていたのに、それも甲斐(かい)なくなってしまった」と仰せになって、たいそう不憫にお思いになります。「でもまあ、自然若宮が成人したら、老母にも時節が巡って来るであろう。せいぜい長く生きるようにすることだね」などとおっしゃいます。命婦がさっきいただいて来た贈り物をお目にかけますと、昔臨卭(りんこう)の道士とやらが、亡き人のすみかへ尋ねて行って貰(もら)って来たという証(しるし)の釵(かんざし)
(楊貴妃の死後、幻術士(げんじゅつし)が玄宗の命によって魂のありかを尋ねて行き、ついに蓬莱(ほうらい)宮で会って証の金釵(きんさい)を持って帰って来たという、長恨歌の中にある故事」)であるならば、などとお思いになりますのも甲斐(かい)ないことです。
尋ね行くまぼろしもがなつてにても
魂(たま)のありかをそこと知るべく
(桐壺帝の歌。更衣の魂を尋ねに行ってくれる幻術士でもいないものであろうか、彼女の魂のありかがどこであるかを知るために。「まぼろし」はここでは幻術士のこと)
絵に画(か)いた楊貴妃の顔かたちは、どんなに上手(じょうず)な絵師の作でも、筆の力に限りがありますから、決して色香に富んでいるとは申せません。太液池(たいえきち)の芙蓉(はちす)や未央宮(びようきゅう)の柳(やなぎ)によく似ていたという
(太液芙蓉未央柳。芙蓉如レ面柳如レ眉。[長恨歌])かの妃(きさき)の唐風(からふう)の装いを凝らしたところもさぞ美しかったでしょうが、御息所のなつかしくも愛らしかったのを思い出されますと、花の色にも鳥の音(ね)にも何として比べられましょうぞ。朝夕の睦言(むつごと)に、「天にあっては比翼の鳥、地にあっては連理の枝」
(在レ天願作2比翼鳥1。在レ地願為2連理枝1。
[長恨歌])とお約束をなされたことの、空しい夢となってしまったはかない運命の限りない恨めしさ。風のおと、虫の音につけても、眼に触れるものが一途に悲しく思えますのに、弘徽殿では久しく上(うえ)のお局にも伺候(しこう)なさらず、月の面白い夜のことなので、更けるまで管絃の遊びに興じておられるのでした。その陽気らしいものの音(ね)をお聞きになって、たいそうぶしつけなと、気持を悪くなさいます。ほんにこのごろの帝の御様子を見奉る殿上人や女房などは、弘徽殿のなされ方を苦々しく思うのでした。もともとあのお方は、ひどく我(が)の強い、角々(かどかど)しいところがおありになるので、何の構うことがと思って、そんな振舞いをなさるのでしょう。と、月も隠れてしまいました。
雲のうへも涙にくるる秋の月
いかですむらん浅茅生(あさぢふ)のやど
(桐壺帝の歌。「雲のうへ」は宮中のこと、「浅茅生のやど」は一五頁母北の方の歌「虫の音しげき浅茅生」とあるその宿のこと。宮中でさえ涙に曇って見える秋の月だものを、ましてあの母親の家ではどうして澄んで見えようぞ。「すむ」は「住む」にもかけてあって、下の句は「どうして暮しているかしらん、あの浅茅生の宿では」の意味にもなる)
かの母君の家のあたりを想像なさりながら、燈心(とうしん)が尽きて燈明が消えてしまっても、まだ起きておいでになります。右近(うこん)の司(つかさ)の宿直奏(とのいもうし)(宮中では左右近衛府が交代で宿直警備の任に当り、丑寅(うしとら)の刻には右近衛が夜行するのであるが、宿直奏とはその時宿直の各自が姓名を名のることをいう)の声が聞えるのは、もう丑(うし)の刻になったのでしょう。人目に立たないようにと思って、御寝所(ごしんじょ)におはいりになりましても、まどろむことはおできになりません。朝お起きになりましても、「明くるも知らで」(玉すだれ明くるも知らで寝しものを夢にも見じと思ひかけきや[続後拾遺集])と、昔を恋しく思し召されて、朝政(あさまつりごと)を怠り給うようにもなります。召し上りものなどもおすすみにならず、朝餉(あさがれい)もほんの真似(まね)ごとに箸(はし)をおつけになるだけで、大床子(だいしょうじ)の膳部(ぜんぶ)(昼(ひる)の御座(おまし)の公式の御膳。大床子という机を二つ立てて御膳を据(す)え、蔵人が給仕をする)などは長いこと遠のけておられますので、陪膳(はいぜん)に伺候するすべての人々が、お傷(いた)わしい御様子を見ては歎くのです。誰も彼も、お側(そば)近く仕える限りの男や女が、困ったことだと言い合わせてためいきを吐(つ)きます。やはりこうなる約束事だったのでしょうか、多くの人の非難や恨みも憚り給わず、このことについてはものの道理も失い給い、今はまた、こんな具合に世の中のことを思い捨てられたようになって行くのは、全く困ったことだと、外国(とつくに)の帝の例(ためし)まで引き出して、囁(ささや)き合い歎き合うのでした。
月日が過ぎて、若宮が内裏(うち)へお上りになりました。いよいよこの世のものでないようにお綺麗(きれい)に、大きくおなりになりましたので、薄気味悪くさえお思いになります。明くる年の春宮(とうぐう)が定まり給う時にも、このお方に一の御子を越えさせたくお思いになりましたけれども、おん後見(うしろみ)をする人もなく、また世間も承知しそうにないことなので、かえってために悪いであろうと懸念(けねん)なされて、気振(けぶ)りにもお出しにならずにしまったのを、あんなに可愛がっていらっしゃっても、ものには際限があるのだと、世の人々も噂を申し、女御も安心なさるのでした。かの祖母君(そぼぎみ)の北の方は、慰む術(すべ)もなく憂(うれ)いに沈んでいらっしゃって、亡き人のおられる所へでも尋ねて行きたいと祈っておられた験(しるし)があったのでしょうか、とうとうお亡くなりなされましたので、またこれを限りなくお悔(くや)みになります。御子が六つにおなりになった年ですから、今度は様子がお分りになるので、恋い慕うてお泣きになります。祖母君も、年ごろ自分に馴(な)れ親しんでおられたのを、みすみすあとにお残し申してこの世に暇(いとま)を告げる悲しさを、繰り返して仰せになったのでした。もうそれからは、若宮は内裏(うち)にばかりいらっしゃいます。七つになられましたので読書始(ふみはじめ)などをなさいましたが、たぐいなく聡(さと)く、賢いので、恐ろしいようにお思いになります。「今は誰も誰も憎むことはできまい、せめて母君のいない後だけでも、可愛がってお上げなさい」とおっしゃって、弘徽殿などへお渡りになる時にもお供にお連れになり、そのまま御簾(みす)のうちへお入れになります。猛(たけ)き武士(もののふ)や仇敵(あたかたき)でも、見れば微笑(ほほえ)まずにはいられないお姿なので、女御もよう知らぬ顔もなさいません。実はこの方のおん腹にも、女御子(おんなみこ)たちが二所(ふたところ)いらっしゃいますが、とても比べものにもならないのでした。多くの女御更衣のおん方々も、この若宮に対しては、恥かしがって隠れなどはなさいません。今からなまめかしく、様子ありげでいらっしゃいますので、面白いようで気の置ける遊び相手であると、誰も誰も思っていらっしゃいます。正式の御学問はいうまでもなく、琴笛(ことふえ)の稽古(けいこ)をなすっても、空までひびく音色を出されますし、すべて一つ一つ数えて行くと、あまりことごとしくて嘘(うそ)らしくなるくらいに、才能のめでたいお方なのでした。
その時分高麗人(こまびと)が来朝しましたなかに、すぐれた人相見がいる由をお聞きになりましたが、宮中へお召しになることは宇多(うだ)の帝の御遺誡(ごいかい)(いわゆる寛平御遺誡のことで、今日に伝わっている)がありますので、非常に内密に、鴻臚館(こうろかん)(外国の人を接待し宿泊させる館舎の名)へこの御子を遣わしました。おん後見という形で仕えている右大弁(うだいべん)の子のように仕立てて、お連れ申して行きますと、人相見は驚いて、たびたび首を傾けていぶかるのでした。「国の親となって、帝王の上なき位に登るべき相のあられる人ですが、しかしそういう風に取っては、御本人が心配なさることもありましょう。公(おおやけ)の重い職について天下の政を助ける人という方に取って見れば、どうも相が違うようです」と言います。右大弁もかなり学才のある賢い博士(はかせ)でしたから、いろいろと談話を交換した中には、たいそう興味のある事柄もあったのでした。詩を作り合ったりして、今日明日(きょうあす)にも帰国しようという間際に、こういう稀(まれ)な相の人に対面したのは喜ばしいけれども、お別れ申した後ではかえって悲しいであろうという心持を、巧(たく)みに詠(えい)じ出しましたので、御子もたいそう情趣の深い句を作ってお示しになると、限りなくお褒(ほ)め申し上げて、立派な贈り物などを献上します。朝廷からもこの高麗人に多くのものを賜わります。帝はこのことを誰にもお漏らしになりませんけれども、春宮(とうぐう)の祖父大臣(おおじおとど)などは、何ぞお考えがおありになるのではないかと、疑っておいでなのでした。帝は深いお心がおありになって、日本流の人相を見させてごらんなされて、夙(つと)に心づいていらしったことがあればこそ、今までこの君を親王(みこ)にもせずに置かれたのですが、あの高麗の人相見はほんとうに偉い者であったと思い合わされるにつけても、外戚(がいせき)の後押(あとお)しのない無品親王(むぼんしんのう)にしておいて、身の振り方に困るようなことはさせたくない、自(みずか)らの御代(みよ)もいつまで続くやら定め難いことであるから、臣下に下(くだ)して朝廷の補佐をさせた方が、将来にも希望が持てると分別なすって、いよいよ道々の学問を習わせていらっしゃるのです。際立(きわだ)って聡明(そうめい)なので、尋常人(ただびと)にするのは非常に惜しいのですけれども、親王(みこ)になられたら世の疑いを受けそうな形勢ですし、宿曜(すくよう)の道(僧侶の伝えた天文道で、星の二十八宿、九曜を人の生年月にあてはめて吉凶を判断するもの)に詳しい者に考えさせても、同じように申しますので、源氏(げんじ)にして上げる(皇族が臣籍に下ると源氏の姓を名のるのが例である)ことに決めておいでになるのでした。
年月がたつのにつれて、御息所のことはお忘れになる折もありません。少しは慰められもするかと、相当な方々をお召しになっても、かのおん方に擬(なぞら)えられるほどの相手すらも、めったにいない世の中よと、どなたを御覧なされても、疎(うと)ましくばかり感じていらっしゃいましたが、折から先帝の四宮(しのみや)として、すぐれてお顔立ちの美しいという評判のお方がありました。母后(ははきさき)がまたとなく大切にかしずいていらっしゃいましたが、帝にお附き申している典侍(ないしのすけ)は、先帝の時から御奉公をしていた人で、かの母后の御殿にも親しくお出入りをし馴れていますので、まだお小さい時分からお顔を存じ上げ、今も仄(ほの)かにお目にかかることがありまして、「三代のあいだ宮仕えをしておりますけれども、お亡くなりなされた御息所のお顔立ちに似ておられるお方を、お見かけ申したことはございませんが、后宮(きさいのみや)の姫君こそ、御成人なさるに従って、生き写しのようにおなりなさいました。珍しい御器量のお方です」と奏上しましたので、ほんとうかしらとお心が留(と)まって、入内(じゅだい)をおさせになるように、ねんごろにおっしゃってお上げになりました。母后は、まあ恐ろしい、春宮(とうぐう)の女御が意地悪をして、桐壺の更衣がああいうむごい最期(さいご)を遂げた前例があるのに、とお思いになると、そうお気軽には決心がつきかねておられましたが、そのうちにその母后もお薨(かく)れになりました。今では姫宮が一人で心細そうにしておられますので、「全くわたしの女御子(おんなみこ)たちと同列に扱ってお上げしましょう」と、再びねんごろなお言葉がありました。近侍の者どもや、おん後見の人々や、兄君の兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)なども、こうして寂しく暮していらっしゃるよりは、内裏住(うちず)みをなすった方がお気晴らしになるとお考えなさって、宮中へお上げになりました。藤壺(飛香舎(ひぎょうしゃ)のこと。庭に藤が植えてある。清涼殿の北、弘徽殿の西にあり、皇后の居所となったこともある)のおん方と申し上げます。いかさま、お顔も、お姿も、あやしいまでに似ていらっしゃいます。この方は御身分が高いせいか、はたの気受けもよろしく、誰あって貶(おとし)める者もおりませんので、何事も存分になすって御不満なことはありません。亡き御息所は、なかなか人がそうさせて上げなかったのに、あいにくと御寵愛の度が深かったのでした。帝も、あの時分のことをお忘れになったのではありませんが、いつとはなしに御心が移って、この上もなく慰まれるようになって行きますのも、浮世の常というものでしょうか。
源氏の君は、帝のお側(そば)をお離れになりませんので、ましてしげしげとお召しに与(あずか)るお方は、そうそうきまり悪がって隠れていらっしゃるわけにも行きません。いずれのおん方々も、自分が人に劣っているとお考えになりましょうか。皆とりどりにお綺麗なことですけれども、お年を召した方々の中に、一人だけたいそう若く美しい藤壺は、ひどくはにかんで、見られないようになさるのですが、源氏の君は自然隙見(すきみ)なさることもあります。母君の御息所の面影も、実は少しも御記憶にないのですけれども、非常によく似ていらっしゃいますと
典侍(ないしのすけ)が申すものですから、子供心にもなつかしく存じ上げ、いつもお側近くへ行って、馴れ馴れしくさせていただきたいものよと、思っていらっしゃるのです。帝にとっても、このお二人は大切な思いものなので、「この児をよそよそしゅう扱うて下さるな。どういうわけか、あなたはこの児の母のような心地(ここち)がする。無躾(ぶしつけ)な者と思わないで、可愛がってやって下さい。眼つきや顔立ちなどが、母はこの児にそっくりでしたから、あなたと母子(おやこ)のように見えても不似合いではありません」などとおっしゃいますので、源氏の君も幼いながら、ちょっとした花紅葉(はなもみじ)の折につけても親愛の情をお見せになり、この上もなくお慕い申しておられましたが、そうなると弘徽殿(こきでん)の女御(にょうご)は、また藤壺ともおん仲が巧(うま)く行かぬのに加えて、古いお憎しみも燃え出して、源氏の君を面白からずお思いになるのでした。帝が世にたぐいないものと御覧になり、一般にも評判の高い藤壺の御器量に比べても、源氏の君のあてやかさは一層たとえようもなく美しいので、世間の人は光君(ひかるきみ)とお呼び申しています。また藤壺もそれと並んでとりどりの御寵愛でしたから、これはかがやく日の宮と申しています。
この君の童姿(わらわすがた)を変えてしまうのは残念にお思いになりましたが、十二歳で元服なさいます。自(みずか)ら手を下して世話をお焼きになり、限りある儀式の上にさらに儀式をお加えになります。先年春宮(とうぐう)の元服が、南殿(なんでん)(紫宸殿)において行われましたが、その時の騒ぎにも負けないようにお命じになります。ところどころの饗宴(きょうえん)など、内蔵寮(くらづかさ)や穀倉院(こくそういん)(畿内の調銭、無主の位田・職田(しきでん)、没官田等の収穫を納めておく官庁。年中の饗物、施米、学問料などにあてる)などが普通の公事(くじ)として取り扱うと、とかく疎略になりがちであるからと、特別に仰せ下されて、結構ずくめにおさせになります。清涼殿の東の廂(ひさし)の間(ま)に、東向きに倚子(いし)を立てて、冠者(かんじゃ)の御座(おんざ)、加冠(かかん)の大臣(おとど)(冠をかぶせる役)の御座をその前に設けます。申(さる)の時に源氏が席につかれます。髪をみずらに結(ゆ)うておられる容貌(ようぼう)、顔の匂(にお)いなど、形をお変えになるのが惜しいようです。大蔵卿(おおくらきょう)が御(み)ぐし上げの役を勤めます。清らかなおん黒髪の端を剃(そ)ぐ時、いたいたしそうにしていますのを、帝は御覧になりまして、御息所がこれを見たらばとお思い出しなされて堪えがたい心地がなさいますのを、じっと我慢していらっしゃいます。加冠の儀が終って、御休息所に退出されて、装束をお替えになってから、階(きざはし)を下りて拝舞(はいぶ)(拝して舞踏すること。任官、叙位、賜禄等の時に庭上におり立ってよろこびのさまを表わす儀式。一定の作法がある)をなさる様子に、誰も涙を落します。帝はまして辛抱がおできにならず、ものにまぎれて忘れていらっしゃる折もあった昔のことを、また取り返して悲しく思い出されます。こんなに若くて元服をすると、見劣りするようなことがと案じていらっしゃいましたのに、あきれるまでに美しさを増されました。
加冠の大臣は、宮家の出である北の方との間にお儲(もう)けになったただ一人のおん娘を、大切に守(も)り立てていらっしゃって、春宮が御所望なすった時にも渋っておられましたのは、この君に差し上げたい心があったからなのでした。かねて帝の御内意をお伺いしてあったことですから、「では、この場合おん後見もないようであるから、副臥(そいぶし)
(東宮や皇子などの元服の夜、公卿の娘などを奉る例であって、これを副臥という)にも」という御催促がありましたので、大臣もそのおつもりでおられます。人々が侍所(さぶらいどころ)に退出されて御酒宴が始まる時、源氏の君も親王(みこ)たちの御座の末にお着きになりました。大臣はそっとそのことを匂(にお)わしてごらんになりましたが、まだ恥かしい年頃のことで、とかくの返答もなさいません。内侍(ないし)が宣旨(せんじ)を承り伝えて、大臣をお召しになりましたので、御前(ごぜん)へ参られます。御禄(おんろく)のものを、お上(かみ)附きの命婦が取次ぎをして下し賜わります。白い大袿(おおうちき)に御衣(おんぞ)一領(ひとくだり)は例の通りです。おん盃(さかずき)のついでに、
いときなき初元結(はつもとゆひ)に長き世を
ちぎる心はむすびこめつや
(「いときなき初元結」は、少年が元服する時に初めて結ぶ元結。其方(そち)は加冠の大臣としてこの幼い童に元結を結んでやったが、それと一緒に其方の娘との契が末長いようにとの心をも結ぶ込めたであろうか)
これはお上がそのお心持を含めて御注意遊ばしたのです。
むすびつる心も深きもとゆひに
こきむらさきの色しあせずば
(仰せのごとく、その元結に、娘との縁を心深く結び込めましたにつけましては、男君が末長く心変りなさらなければと存じます。「こきむらさきの色しあせずば」は「濃い紫色の元結の色が褪(あ)せさえしなければ」で、男の愛情を元結の色に託していう。紫は変りやすい色であるから、男心にたとえた気味もある)
と、左大臣(ひだりのおとど)は奏上して、長階(ながはし)
(清涼殿から紫宸殿に通う廊。ここに階があって清涼殿の東庭に降りる道がある)から庭上に降りて舞踏(ぶとう)されます。左馬寮(ひだりのつかさ)のおん馬、蔵人所(くらんどどころ)の鷹(たか)を据(す)えて下されます。親王(みこ)たちや上達部(かんだちめ)も階(きざはし)の下に並んで、それぞれの身分に応じた禄(ろく)どもを賜わります。その日の御前の折櫃物(おりびつもの)
(折に詰めた料理)、籠物(こもの)
(籠(かご)に入れた菓子)などは、おん後見役(うしろみやく)の右大弁が承って調(ととの)えたのでした。屯食(とんじき)
(強飯(こわめし)を固めてまるくしたもの)や禄の唐櫃(からびつ)
(諸官に下し与えるかずけ物を入れた唐櫃)など、置き切れぬまでに飾り立てて、春宮の御元服の時よりも数が多うございました。どうしてなかなか盛大な御儀(おんぎ)なのでした。
その夜大臣の里に、源氏の君が退出して来られました。御婚礼の作法など、世に珍しいまでにして、丁重にお迎えになりました。婿君(むこぎみ)がたいそう子供々々していらっしゃるのを、非常に可愛らしくお思いになります。女君(おんなぎみ)はまた、御自分が少し年嵩(としかさ)でいらっしゃるのに、婿君がひどくお若いので、不似合いで恥かしくお感じになるのでした。この大臣は帝のおん覚えもたいそうめでたい上に、北の方は帝と同じ后腹(きさいばら)のお方ですから、どちらから見ても花やかな御身分なのに、今またこの君がこんな具合に婿におなりなさいましたので、春宮の御祖父(おんおおじ)として遂には天下の政を執(と)り給うべき右大臣(みぎのおとど)の勢いは、ものの数でもなく気壓(けお)されてしまわれました。多くのおん方々の腹に公達(きんだち)が大勢いらっしゃいます。宮
(前に「北の方は帝と同じ后腹のお方」とある左大臣の正室)のおん腹のお子は、蔵人(くらんど)の少将で、たいそう若く綺麗でしたが、仲のよくない右大臣も、さすがにそれをお見逃しなさらないで、可愛がっておられる四番目の姫君に配(めあわ)せられました。そして、こちらでも源氏の君に劣らずその少将を大切になさる御様子は、そうあって欲しい御両家のおん間柄なのでした、
源氏の君は、帝が常にお側にお召し寄せになりますので、ゆっくり里に退(さが)っていらっしゃる暇(ひま)もありません。心のうちには、ただ藤壺のおんありさまを世にたぐいないものと存じ上げて、妻にするならああいうお方でなければならない、さてもさても似る人もなくおわしますことよ、大殿(おおいとの)の君の方
(左大臣の姫)は、可愛らしく大切にされている姫君とは見えるが、性(しょう)が合わないような気がするとお思いなされて、生一本(きいっぽん)な子供心のひたむきに、苦しいまでに考え悩んでいらっしゃいます。でも、元服をなされてからは、帝も以前のようには御簾(みす)の内へもお入れになりません。君はわずかに管絃のおん遊びのおりおりに、琴笛を合わせて音(ね)を通わせ、ほのかなお声の漏れて来るのに慰められて、内裏住(うちず)みばかりを好ましく思っておられます。そして、五日六日も御前に侍(さぶろ)うて、大殿の方へは二日か三日という風に、絶え絶えにお越しになるのですけれども、今は小さいお年ごろですから、お里方では何の罪もないことと思って、ねんごろにもてなしておられます。婿君の方にも、姫君の方にも、並々でない女房たちを、選(え)りすぐって侍(さぶら)わせていらっしゃいます。お気に入るような催しごとをなすったりして、精いっぱい御機嫌を取られます。内裏にいらっしゃっても、もとの淑景舎(しげいしゃ)
(桐壺の正しい名)をお部屋になされて、母御息所にお仕え申した女房たちを、今も散らさずに使っていらっしゃいます。昔の御息所のお里の御殿
(後の二条院)は、修理職(すりしき)
(殿舎の造営をつかさどる役所)、内匠寮(たくみづかさ)
(工匠、画工、細工、金銀工、木工、漆工等のことをつかさどり、諸器の製造、殿舎の装飾を承る役所)に宣旨が下って、またとなく立派に造りかえられます。もともと植込みや築山の風情が面白い所でしたのに、池の面をさらにひろくする工事が始まって、人夫どもが賑(にぎ)やかに立ち働いています。それにつけても、こういう所へ心に叶(かな)うような人を据えて住んでみたらと、そんなことばかり思いつづけて溜息(ためいき)を吐(つ)いておられます。
光君という名は、高麗人(こまびと)がこの君をお褒め申してお附けしたのであると、言い伝えられていますとやら。
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(注) |
1. |
上記の谷崎潤一郎『新々訳 源氏物語』桐壺の巻は、『谷崎潤一郎全集』第27巻(中央公論社、1983年2月25日初版発行、1989年4月25日3版発行)によりました。
谷崎潤一郎『新々訳源氏物語』(全10巻+別巻)は、 1964年から1965年にかけて中央公論社から出版されました。 |
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2. |
注2「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり」の歌の意味について、引用者が少し補っておきます。「今はもうこれまでと思って、帝にお別れして行く道(死出の道)が悲しいにつけても、私が行きたいのは(死出の道ではなくて、)命の道、生きる道なのでございました」ということ。 |
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3. |
『谷崎潤一郎全集 第27巻』について
この巻は「新々訳源氏物語 巻一」で、ここには谷崎の「新々訳源氏物語」のうち、初めの14の巻、「桐壺」「帚木」「空蟬」「夕顔」「若紫」「末摘花」「紅葉賀」「花宴」「葵」「賢木」「花散里」「須磨」「明石」「澪標」を収めてあります。
巻頭の「例言」で、谷崎はこの訳を読む上での注意点をいろいろ挙げています。そのうちの二つほどを挙げてみると、
〇この書は独立した一箇の作品として味わってもらうのが本旨であって、なるべく現代人が普通の現代作品に対するように、一字一句の詮索(せんさく)に囚(とら)われずに、安易な気持で読んでもらいたい。
〇和歌の解釈を頭注として書き入れてあるが、その注を読むために、そこで一々停滞しないことを望む。この物語の中の和歌は、それが挿入してある前後の文章とのつながりが非常に微妙にできているので、そのつづき具合の面白さを味わうことが、和歌の内容を理解するのと同等に大切なのであって、なるべくそこでつかえないですらすらと読みつづけてもらいたい。
詳しくは全集に当たって見てください。 |
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4. |
本文の語句について幾つかの注をつけておきます。
〇「楊貴妃」の頭注の「安禄山」の振り仮名に「あんろくさん」とありますが、一般には「あんろくざん」と読んでいます。
〇「なくてぞ人は」の注に、「ある時はありのすさびに憎かりきなくてぞ人の恋しかりける[源氏物語奥入所引]」とありますが、高千穂大学名誉教授・渋谷栄一氏の『源氏釈の研究[資料篇]』によれば、「なくてぞ人は」の歌の出典が「奥入」所引「源氏釈」の和歌(ある時はありのすさびに憎かりきなくてぞ人の恋しかりける)とされているが、現存本「源氏釈」には「ありのすさびに」が「ありのすさみに」、「なくてぞ人の」が「なくてぞ人は」となっている由です。
→『源氏釈の研究[資料篇]』
ー世尊寺伊行の「源氏物語」の書承と注釈ー(渋谷栄一)
〇「野分の風が吹いて」の段にある「宮城野の露ふき結ぶ……」の歌の前に、「わたしを亡き人の形見と思って」とありますが、ここは原文が「今はなほ昔の形見になずらへて物し給へ」とあるところで、何を「昔の形見」とするかで解釈が分かれています。谷崎は「わたし」(桐壺帝)としていますが、これを「若宮」と取る人もいます。
渋谷栄一氏の『源氏物語の世界 再編集版』には、注釈144「昔のかたみになずらへて」の項に次のようにあります。
注釈144「昔のかたみになずらへて」
わたし(帝)を故人の縁者と思って、の意。また「若宮を亡き更衣の形見と見なす」(待井新一)。さらに母君を形見と見なす説。例えば「娘の身代りに立つつもりになって」(今泉忠義)などがある。
→ 渋谷栄一『源氏物語の世界 再編集版』
→ 第一帖 桐壺 第二章 父帝悲秋の物語 第一段 父帝悲しみの日々
〇「この君の童姿をかえてしまうのは残念にお思いになりましたが、」の段の終わり近くに、「陪膳」という語があって「はいぜん」とルビがついていますが、「ばいぜん」という読みもあります。
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5. |
フリー百科事典『ウィキペディア』に「谷崎潤一郎訳源氏物語」の項があって、詳しい解説が出ています。
→フリー百科事典『ウィキペディア』
→「谷崎潤一郎訳源氏物語」 |
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6. |
兵庫県芦屋市にある『芦屋市谷崎潤一郎記念館』のホームページの「これまでの展示・イベントなど」の「2016年度」のところに、「〈谷崎源氏〉三つの変奏」があって参考になります。
→『芦屋市谷崎潤一郎記念館』
→「これまでの展示・イベントなど」
2016年秋の特別展〈谷崎源氏〉三つの変奏 |
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7. |
谷崎潤一郎『新々訳源氏物語』若紫の巻[本文]が、資料673にあります。
→
資料673 谷崎潤一郎『新々訳源氏物語』(若紫の巻)[本文] |
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8. |
国定教科書『初等科国語 七』に「六 源氏物語」があり、そこには源氏物語の簡単な紹介がついており、紹介の最後に、
「源氏物語五十四帖(でふ)は、わが國の偉大な小説であるばかりでなく、今日では、世界にすぐれた文學としてほめたたへられてゐます。次にかかげる文章は、源氏物語の一節を簡單にして、それを今日のことばで表したものですが、ただこれだけで見ても、約九百年の昔に書かれた源氏物語が、いかによく人間を生き生きと、美しく、こまやかに寫し出してゐるかがよくわかるでせう。」
と書かれています。その後に、源氏が紫の上を見染めた場面と紫の上を引き取った後の様子が出ています。
この教科書は、国定教科書期(1903(明治36年)~1945(昭和20年))に使われた教科書です。次に出ている教科書は、昭和17年12月21日に発行され、昭和18年2月28日に翻刻発行されたものです。(「源氏物語」は
19~25/85に出ています。)
→ 『初等科国語 七』ー広島大学図書館デジタルアーカイブ
戦後すぐの昭和21年に発行された「小学校第6学年前期用」の国民学校暫定教科書『初等科国語 七』には、「四 源氏物語」として出ていています。
→ 資料262 国民学校暫定教科書『初等科国語 七』(本文) |
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