資料673  谷崎潤一郎『新々訳源氏物語』(若紫の巻)[本文] 


「谷崎源氏」として知られる谷崎潤一郎訳による『源氏物語』の若紫の巻を、『谷崎潤一郎全集』第27巻(1983年初版)の『新々訳源氏物語』によって、紹介します。
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振り仮名は、全角の平仮名で丸括弧に入れて示しました。
 



       谷崎潤一郎『新々訳源氏物語』(若紫の巻)

 瘧病(わらわやみ)(俗にいう「おこり」のこと)をおわずらいになって、いろいろと禁厭(まじない)や加持(かじ)などをなさいますけれども、その験(しるし)がなくて、たびたび発作(ほっさ)に悩んでいらっしゃいますと、或る人が、「北山に、某(なにがし)寺という所に、偉い行者がおります。去年の夏もあの病気が流行(はや)りまして、ほかの行者たちが持てあつかっておりましたのを、わけなく直した例がたくさんございます。こじらせると厄介(やっかい)でございますから、早速お試(ため)しなさいませ」などと申し上げますので、使いをやってお招きになりますと、「老衰いたしておりまして、足腰が不自由でございますから、室(むろ)の外へも出ません」と申しますので、「ではいたし方ない、忍んで行こう」と仰せになって、睦(むつま)じい者を四五人だけ供にお連れなされて、まだ暗いうちにお出かけになります。その庵室(あんしつ)のある所へはやや奥深くはいって行くのでした。三月(やよい)の月ずえのことですから、京の花ざかりはすっかり過ぎてしまいましたが、山の桜はまだ盛りで、奥の方へいらっしゃるほど、霞(かすみ)のたたずまいも面白く眺(なが)められますので、かような外出歩(そとである)きにはお馴(な)れにならない、窮屈なおん身には、珍しくお感じになるのでした。寺の様子もたいそう趣(おもむき)に富んでいます。高い峰の、深い巌(いわお)の間に籠(こも)って、聖(ひじり)は住んでいるのでした。そこへ登っておいでになって、誰であるともお知らせにならず、たいそうひどく身なりを窶(やつ)していらっしゃいましたが、さすがに目立つお人柄でいらっしゃいますから、「あなかしこ、先日お召しになった方でいらっしゃいましょうな。今は浮世のことなども考えてもおりませんので、修験(しゅげん)の行法(ぎょうほう)も大方忘れておりますのに、かような所へどうしてお越しになりましたか」と驚いて、うち笑(え)みながらお姿を見ています。見たところ、いかにも貴い大徳(だいとこ)なのでした。御符(ごふ)などを作って、お飲ませ申し上げます。加持などをして上げていますうちに、追い追い日が高くなって来ました。しばらく外へお出ましになって、見渡してごらんになりますと、高い所ですから、ここかしこにある僧房が隠れもなく見おろされます。すぐそこのつづらおりの下に、同じ小柴垣(こしばがき)ですけれども、立派に結(ゆ)いめぐらして、小綺麗(こぎれい)な家や廊(ろう)などをつづけて、木立ちなども風情(ふぜい)ありげにめぐらしてありますのは、「何人(なんびと)が住んでいるのであろうか」とお問いになりますと、お供の者が、「あれこそ、某(なにがし)の僧都(そうず)が、二年このかた籠っているいる坊でございます」「さては気づまりな人の住む所なのだな。今日は妙な風に姿を窶(やつ)して来てしまったが、こんなことが聞えはしないであろうか」などと仰せになります。小綺麗な女童(めのわらわ)などが大勢出て来て、閼伽(あか)を汲(く)んだり花を折ったりするのなども、残るところなく見えます。「おや、あそこに女がいるぞ、僧都はまさかあのような者を置かれるはずはないのだが、どういう人たちなのであろう」と、お供の者も口々に言います。下りて覗(のぞ)いてみるのもいます。「美しそうな若い人や、小さい女の子が見える」と言います。君はお勤めをしていらっしゃいましたが、日がたけて来ましたので、病気の方はよくなったかしらなどと思っていらっしゃいますと、「いろいろと御気分を紛らすようになさいまして、あまりそのことをお考えにならない方がようございます」と申しますので、うしろの山へお上りになって、京の方を御覧になります。はるばると霞がかかって、四方(よも)の梢(こずえ)がほんのりと煙(けむ)っている具合など、「何と絵によく似ていることよ。こんな所に住む人は心に思い残すこともないであろうな」と仰せになりますと、「まだこのあたりの景色は浅うございます。田舎(いなか)の方にある海山の有様などを御覧になりましたら、どんなにおん絵が御上達なさるでございましょう。富士の山、なにがしの嶽(たけ)」などと、そんな物語を申し上げる者もあります。また西の国のおもしろい浦々や磯(いそ)の景色を話しつづける者などもありまして、さまざまにお気を紛らすようにして上げます。
 「近い所では、播磨(はりま)の明石(あかし)の浦などは、やはり格別でございます。これと申して深い趣があるというのではございませんが、ただ海の面(おも)を見渡しました風景が、何となくほかの所と違っておりまして、ゆったりとした感じがいたします。かの国の前(さき)の守(か)の新発意(しんぼち)(新しく発心して佛門に入った者の称)が、娘を大切に養って、かしずいております家というのが、素晴らしく立派なものでございます。たしか大臣(だいじん)の後裔(こうえい)で、立身もすべきはずなのが、世の拗(す)ね者で、人づきあいをせず、近衛(このえ)の中将という官を捨てて、播磨の国司(こくし)を自(みずか)ら望んだのでございましたけれども、かの国の人にもいくらか侮(あなど)られましたので、『何の面目(めんぼく)あって再び都へ帰ろうぞ』と申して、頭(あたま)もおろしたのでございますが、山の奥にも住まないで、さような海のはたに住んでおりますのは、ひねくれているようでございますけれども、播磨の国の中にも隠遁(いんとん)に適した場所はございますものの、山深い里は人離れていて物凄(ものすご)く、若い妻子が寂しがるだろうというところもございますし、一つにはまた気保養のための住居なのでございます。先年私も下向いたしましたついでに、様子を見がてら立ち寄って参りましたが、いかにも、都でこそ不遇のようでございましたけれども、田舎では廣い地所を占めて、厳(いか)めしい普請(ふしん)をしておりまして、そう言っても国の司(つかさ)の威光をもって営んだことでございますから、餘生をゆたかに暮す用意が、十分にできておりました。後の世の勤めもたいそう熱心にしておりまして、法師になってからかえって見まさりした人でございます」と申し上げますと、「ではその娘は」とお問いになります。「さようでございます。顔かたち、心ばせなど、尋常(じんじょう)でございます。されば代々(だいだい)の国司などが、その心づもりをいたしまして、気のある風を見せますけれども、さらに応じようともいたしません。『自分がこんなに空(むな)しく埋(うずも)れてしまったのさえ不本意であるのに、子供といってはこの娘一人しかいないのだから、いささか思うところがあるのだ。もし私が先に死んで、その志を遂(と)げることができず、かねて考えておいたような好運が得られなかったら、海に身を投げるがいい』と、常に遺言(ゆいごん)しているのでございます」と申しますので、君も面白くお聞きになります。「そんな秘蔵娘なら海龍王の后(きさき)にでもなったらよかろう。厄介な大望を抱(いだ)いたものだ」と、人々は笑います。
 今の話をしましたのは、播磨守(はりまのかみ)の子で、今年六位の蔵人(くらんど)から叙爵(じょしゃく)した男でした。えらい好色者(すきもの)のことですから、「その入道の遺言を破ろうというつもりではないのか」「それでときどき様子を窺(うかが)いに行くのだろう」と皆が冷かします。「いやもう、そんな娘は、そう言っても田舎臭(くさ)くってしようがあるまい、幼い時からそういう土地で育って、旧弊な親にばかり仕込まれたのでは」「しかし母親の方は家柄の人なのだろう。いい若い女房や童(わらわ)などを、都のやんごとない方々(かたがた)から縁を求めて雇って来て、眩(まばゆ)いばかりにかしずかせているのだ」「でも国司などの代がかわって情(なさけ)を知らぬ人間が守(かみ)になったら、そういつまでも気楽にさせてはおかないだろうが」などと言う者もあります。君は、「どういう料簡(りょうけん)で海の底まで深く思い込んだのであろう、そんな底などはみるめ(「見る目」に「海松(みるめ)(海草の名)」をかけたのである)も薄汚(うすぎたな)いであろうに」と仰せになって、何となく心を惹(ひ)かれていらっしゃいます。お側(そば)に控(ひか)えている人々は、なみなみならず変ったことをお好みになる御性質であるから、かようなつまらぬ女のことでも、きっとお耳にとまったのであろうとお察し申し上げるのでした。
 「もう暮れかかって参りましたが、この御様子ではお直りになったのでございましょう。早くお帰りになりましては」と申し上げるのでしたが、大徳(だいとこ)は「おん物怪(もののけ)なども憑(つ)いていたらしゅうございますから、今宵(こよい)はやはりお静かに加持などをなされて、それからお出かけなさいませ」と申します。「それももっともなこと」と皆々申し上げます。君もこういうおん旅寝はお珍しいので、さすがに興を催して、「では明日の明け方立つことにしよう」と仰せになります。たいそう日が永くて、つれづれなので、夕暮の深い霞(かすみ)に紛れながら、あの小柴垣のもとに立ち出でられます。ほかの人々はお帰しなされて、惟光(これみつ)ばかりをお供にして、覗いてごらんになりますと、つい眼の前の西面(にしおもて)に、持佛(じぶつ)をお据(す)え申して、お勤めをする尼がいるのでした。簾(すだれ)を少し上げて、花を献じる様子です。中の柱に寄って、脇息(きょうそく)の上に経を置いて、ひどく大儀そうに読経(どきょう)しているその尼君は、尋常人(ただびと)とは思われません。四十あまりの年恰好(かっこう)で、たいそう色白で、品よく痩(や)せていますけれども、顔だちはふっくらしていて、眼差(まなざし)の具合、髪の綺麗に切り揃えてある端(はし)なども、かえって長いのよりは、この上もなく当世風に見えることよと、あわれに御覧になります。清らかな女房が二人ばかり、それから童(わらわ)どもが出たりはいったりして遊んでいます。中に十ぐらいにもなるでしょうか、白い下衣(したぎ)に、山吹襲(やまぶきがさね)の馴れたのを着て、こちらへ走って来る女の児が、ほかの大勢の子供たちとは似るべくもなく、成人の後が思いやられる美しい器量をしています。扇をひろげたように髪をゆらゆらさせながら、顔を真っ赤にこすりこすり立っています。「どうしたのです。子供たちと喧嘩(けんか)でもしたのですか」と言って、尼君が見上げているのですが、すこし似通ったところがあるのは、大方親子なのであろうと御覧になります。「雀(すずめ)の子を犬君(いぬき)(召使の童の名)が逃がしてしまいましたの、伏籠(ふせご)に入れておいたのに」と、たいそう残念そうに言います。そこにいた女房の一人が、「またあの心なしが、そんな、叱られるような不都合なことをいたしましたか。ほんとうに、可愛くなっておりましたのに、どこへ飛んで行きましたでしょう。烏(からす)などに見つけられなければようございますが」と、言いながら立って行きます。髪がゆったりとしてたいそう長く、見苦しからぬ人のようです。少納言(しょうなごん)の乳母(めのと)と呼ばれていますのは、この児の世話をする女房なのでしょう。尼君は、「まあ、たわいのない、どうしてそんな幼いことをお言いなのです。私(わたし)の命が今日明日をも測られないのを、何とも思って下さらないで、雀を慕っていらっしゃるとは。生物(いきもの)を飼うのは罪作りなことですと、つねづね言って聞かせて上げていますのに、困ったことです」と言って、「こちらへいらっしゃい」と言いますと、そこへ来て坐ります。顔つきがいかにもあどけなく、眉(まゆ)のあたりがほのぼのと匂(にお)うようで、振りかかる毛を子供らしく掻き上げてある額(ひたい)つき、髪の具合など、非常に美しいのです。大人(おとな)になって行くさまを見るのが楽しみのようなと、眼をお留(と)めになります。それというのも、限りもなく心を尽くしてお慕い申し上げているおん方に、たいそうよく似ているせいで、こんなにも見守る気になるのであると、そうお思いになるとたんに、もうおん涙が落ちるのでした。
 尼君は髪をかき撫(な)でながら、「梳(す)くことがお嫌(きら)いのようですけれど、何という見事なお髪(ぐし)でしょう。でもほんとうに、あまり子供じみていらっしゃるのが、心配でなりません。もうこのくらいな年になれば、もっと大人びて来る人もありますのに。故姫君(この児すなわち紫の上の母のこと)は十二の時に殿(尼の夫のこと)に先立たれておしまいになりましたが、もうその時分に、それはそれはものの分別がおありになったのですよ。それだのにあなたは、今私が亡(な)くなったらどうして暮していらっしゃるおつもりやら」と言って、はげしく泣きますので、君もそれを御覧になりますと、そぞろに悲しくなられるのでした。その女の児も、幼(おさ)な心(ごころ)にもさすがに尼君をうちまもって、伏目になってうつむいていますのに、こぼれかかる髪がつやつやとして、美しく見えます。
  生(お)ひ立たんありかも知らぬ若草を
    おくらす露ぞ消えん空(そら)なき
 (尼の歌。これから成長してどこに落ち着くようになるとも分らない若草(幼い児)を、あとに残して行く露の身は、心がかりで死ぬにも死ねない。「消えん空なき」の「空」は、「生きている空もない」などと言う時の「空」と同じ)
 傍(かたわ)らにいたもう一人の女房が、もっともと思って泣きながら、
  初草の生ひゆく末も知らぬまに
    いかでか露の消えんとすらん
 (幼いお児が成人なさる行末も御覧にならないで、何で死のうなどと思し召すのでしょう。「露」は前の歌を受けて尼の意に用いた)
と言いますうちに、僧都(そうず)があちらから出て来まして、「ここは外からまる見えでしょうに、今日はまあ、どうしてこんな端近(はしぢか)におられるのです。この上の聖(ひじり)の所に、源氏の中将が瘧病(わらわやみ)のまじないに来ていらっしゃるのを、たった今聞きました。たいそう忍んでいらっしゃるので、ここにいながら気がつかないで、お見舞いにも上りませんでした」と言いますので、「それはえらいこと、こんな様子を人が見たかもしれません」と、言いながら簾(すだれ)をおろします。「近頃噂(うわさ)の高い光源氏(ひかるげんじ)を、こういう折に拝まれてはいかがです。世を捨てた法師の身でも、お姿を見れば世の愁(うれ)いを忘れ、寿命が延びるような気がするほどの御器量のお方なのです。どれ、御挨拶を申し上げて来ましょう」と、立ち上るけはいがしますので、君はこちらへお帰りになります。可愛い人を見たものよ、それにつけても、あの好色者(すきもの)どもがいつも忍び歩きばかりして、ときどき意外な掘出し物をするのは、こういうことがあるからなのだ、たまに出ただけでも、かような思いがけないものを見るのだからと、面白くお感じになります。さても麗(うるわ)しい児であったことよ、一体何人(なんびと)であろうか、かのおん身代りに、あのような児を側(そば)に置いて、明け暮れの慰めに眺めることができたならばと、思う心が強く萌(きざ)されるのでした。
 お寝(やす)みになっていらっしゃるところへ、僧都の御弟子(みでし)が来て惟光を呼び出します。狹い所ですからそのままその話が君のお耳へはいります。「お越しになっていらっしゃいますことを、ただいま人が申しましたので、何は措(お)いても早速お伺いいたすべきところではございますが、私がこの寺に籠っておりますのを御存じでいらっしゃりながら、隠しておいでになりましたのがお恨みでございます。草の御席(みむしろ)も私の坊へ設けるべきでございました。まことに不本意なことで」と、申されるのでした。「去る十日過ぎごろから瘧病(わらわやみ)を患(わずら)って、たびたびの発作に堪(た)えがたく思っていましたところ、人が教えてくれましたので、急に尋ねて来ましたけれども、これほどの人のまじないが験(しるし)をあらわさなかった場合は、間(ま)が悪いことになるでしょうし、有名な人であるだけに、普通の行者よりは一層お気の毒なことになると思って、隠していたような次第なのです。今そちらへも伺います」と仰せになります。入れ代りに僧都が訪(たず)ねて来られます。法師ですけれども、世に貴ばれている人なので、たいそう気が置けて、こう軽々しく出向いておいでになったのを、きまり悪くお思いになります。僧都はこのほどじゅうの山籠りの話などを何くれと物語られて、「同じような柴の庵(いおり)でございますが、少しは涼しい水の流れもお目にかけとう存じますから」と、しきりにすすめられますので、あの、まだ君のお姿を見ぬ人々に、あまり大袈裟(おおげさ)に吹聴(ふいちょう)されたのを恥かしくお思いになりながらも、愛らしかった人の様子に惹(ひ)かされ給うてお立ち出でになります。
 なるほど、同じ木や草ですけれども、たいそう趣深く植えてあります。月のないころのことですから、遣(や)り水に篝火(かがりび)をともし、燈籠などにも灯(ひ)を入れてあります。南面(みなみおもて)をたいそうきれいにしつらえてあります。空薫物(そらだきもの)のかおりが心にくくただよい、名香(みょうごう)の香(か)などもあたりに満ちているのですが、君のお袖の追風(おいかぜ)がひとしお妙(たえ)に匂い渡りますので、奥に隠れている人々も何となく胸をおどらせる様子です。僧都は世の中の無常の話や、後世(ごせ)のことなどを説き聞かせてお上げになります。君は御自分の罪のほどが恐ろしく、あじきないことに心を労して、生きている限りこのことのために悩むのであろう、まして後の世の苦患(くげん)はどんなであろうとお考えになりますと、このような住居もしてみたくお思いになるのですが、昼の面影(おもかげ)が心にかかって恋しく覚え給うままに、「ここに泊っていらっしゃるのはどなたでしょうか。お訪(たず)ね申したいと思う夢を見たことがありましたが、今日始めて思い当りました」と仰せになりますと、笑いながら、「突然のおん夢がたりでございますな。せっかくお訪ね下さいましても、興をおさましになるだけのことでございましょう。故按察(あぜち)の大納言は、亡(な)くなりましてから久しくなりますので、御存じではございますまい。その北の方になりますのが、私の妹なのでございます。かの按察が死にましてから、出家したのでございますが、このごろ患っておりますので、私がこうして都へも出ず、引っ込んでおりますのを頼りにいたしまして、籠っているのでございます」と申されます。「あの大納言には、娘御(むすめご)がいらしったのだと承っておりましたが。浮いた心からではなく、真面目(まじめ)にお伺い申すのです」と、当て推量で仰せられますと、「娘はただ一人ございました。みまかりましてからもう十年(ととせ)あまりにもなりましょうか。故大納言は宮仕えに差し出すつもりで、大切に養育いたしておりましたが、本意を遂げずに他界いたしましたので、この尼君が一人で世話をしておりましたら、どういう者の媒(なかだち)でございましたか、兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)(「桐壺」ニ三頁参照)が忍んでお通いになりましたが、御身分の高い北の方がいらっしゃいますので、気苦労なことが多く、あけくれものを案じながら亡くなってしまったのでございます。物思いから病気になるということは実際にあるものだと、その時始めて身近に見まして、感じたことでございますが」などと申されます。いかさま、ではあれはその亡くなった娘の子であったと、お思い合わせになります。宮のおん血筋を伝えているので、かのおん方(藤壺のこと。兵部卿宮とは同じ后の腹に生れた兄妹なので、紫の上は藤壺の姪(めい)になるわけである)にも、どこか面影が似通っているのだとお思いになります。ひとしおいとしさが増して来て、世話をしてみたくおなりなされて、あの人柄の、上品に美しく、なまなか利口ぶったところがないのを、一緒に暮して心のままに教え育ててみたいものよと、お考えになるのでした。「お可哀そうなことでしたね。そうしてそのお方には、遺(のこ)して行かれた忘れ形見はなかったのでしょうか」と、あの幼い人の身の上を、なお確かめてごらんになりたくてお問いになりますと、「亡くなりました時に生みましたのが、それも女の児なのでございます。先の短い尼の身では、それが苦労の種だと申して、歎いているらしゅうございます」と申されます。さればよとお思いになります。「つかぬことを申すようですが、その幼い方の後身(うしろみ)にして下さるように話していただけないものでしょうか。実は思う仔細(しさい)があるので、契(ちぎ)った人もないではありませんけれども、心に染まぬとでも申すのでしょうか、独り住みのようにしている身の上なのです。そんな年でもないのにと、世の常の男のようにお取りになって、不都合にお思いになるでしょうか」などと仰せられますと、「有難いお言葉ではございますが、まだ一向に子供でございますから、御冗談にもお相手はできないであろうと存じます。もっとも女と申すものは、人の情(なさけ)を受けまして一人前になりますものゆえ、私などには詳しいことは分りません。いずれ祖母(そぼ)の北の方に相談いたしまして、御返事申し上げることにいたしましょう」と、飾り気なく言って、堅くるしい様子をしておられますので、お年若な心にはきまりが悪く、それ以上はよう仰せ出されません。「この頃阿弥陀佛(あみだほとけ)のおわしますお堂で、していることがあるのでございます。初夜(そや)の勤めをまだいたしておりませんから、それを済ましてから参ります」と言って、僧都は上(のぼ)って行かれます。
 君はたいそうおん心地も悩ましいのに、雨がまばらに降りそそぎ、山風が冷やかに吹いて、滝のひびきも前よりは音高く聞えて来ます。少し眠たそうな読経(どきょう)の声の、絶え絶えに凄(すご)く漏れて来る具合など、場所柄だけに、のんきな者でもそぞろに哀れを催します。ましていろいろとお考えになることどもが多く、容易にお寝みになることができません。僧都は初夜と言いましたけれども、夜(よる)も非常に更(ふ)けてしまいました。奥の方でも、人の寝ないでいる様子がしるく、なるたけ物音を立てないように遠慮しているのですけれども、数珠(じゅず)が脇息に触れて鳴るのがほのかに聞えて、やさしい衣(きぬ)ずれの音がするのを、品(ひん)よくお聞きになりまして、いかにも近いところですから、外に立て連ねてある屏風(びょうぶ)の中を僅(わず)かばかりお開けになって、扇をお鳴らしになりますと(扇を鳴らすのは人を呼ぶ合図である)、意外に思うようでしたが、聞えないふりもできかねて、いざり出る人のけはいがします。と、またすぐ引っ込んで行きながら、「妙だこと、聞き違いかしら」と、疑っているのをお聞きなされて、「御佛(みほとけ)の手引き(法華経方便品に「従冥入於冥。永不聞佛名」とある)は、暗い所でも決して間違うはずはないものを」と仰せになるお声の、ひどく若々しく、気高いのに、お答え申し上げる声(こわ)づかいも恥かしそうに、「どちらへ手引きせよとおっしゃいますのやら、心得がとうございますが」と申し上げます。「いかさま、あまり突然ですから、その御不審ももっともですが、
  初草の若葉の上を見つるより
    旅寝のそでも露ぞかわかぬ
 (初草の若葉のような可憐なお方をお見かけしましてから、恋しさのあまり、私の旅寝の衣の袖も涙の露にぬれて乾きません)
と、申して下さいませんか」と仰せになります。「そのようなおん消息が分るようなお方などおいでにならないということは、御存じでいらっしゃいますでしょうに、いったいどなたに」と申します。「自然そうする仔細があって申すのだと、お思いになって下さい」と仰せになりますので、奥へはいって取り次ぎます。
 尼君は、まあ派手なこと、さてはこの児を、ものの情(なさけ)の分る年頃と思い違えていらっしゃるのか、それにしてもあの若草の歌(「生ひ立たんありかも知らぬ若草を」の歌のこと。一六五頁参照)を、どうしてお聞きになったのかしらと、いろいろと腑(ふ)に落ちかねて迷うのでしたが、あまり御返事に手間が取れては失礼であるからと、
 「枕結(ゆ)ふ今宵ばかりの露けさを
    深山(みやま)の苔(こけ)にくらべざらなん
 (あなたも今宵は旅寝の草枕におやすみになって、露にお濡(ぬ)れになることでしょうが、そんな一夜だけの露けさを、いつも深山に住んでいる私どもの苔の衣の露けさに、お比べにならないで下さい。野宿をする時は草を結んで枕にするから旅寝を「枕結ふ」と言う。僧衣を苔の衣と言うので、尼は自分のことを「深山の苔」と言った)
乾きにくうございますものを」と申されます。「このように人を仲に立てての御挨拶は、まだ一度もしたことがなく、経験がないのです。恐縮ながら、こういう機会にお目にかからしていただいて、真面目にお話し申し上げたいことがあります」と仰せになりますと、尼君、「どうして聞き違えをなさったのであろうと思うと、あの面映(おもはゆ)いような御様子の方に、御返事の申し上げようもなくて」と言われるのでしたが、「それでははしたのうございましょう」と、女房たちが申し上げます。「ほんに、若い人ならきまりを悪がることもあろうが、熱心におっしゃって下さるものを、もったいない」と思い返されて、ようよういざり寄って来られるのでした。その、落ち着いて、取り澄ましておられるのを御覧になりますと、こちらは気がお引けになって、「突然のことなので、軽々しいとお思いになりそうな今の場合ではありますが、心の中では決して軽く思っているのではないということを、佛も定めて」とおっしゃったきり、とみにはものもよう仰せいだされません。「ほんに存じも寄りませぬ折に、かようなことをおっしゃっていただきましたり申し上げたりいたしますのを、どうして浅い縁(えにし)とは」と、申されます。「いたいけなお方がお気の毒に暮しておいでになると承りましたが、そのお亡くなりなされたお方のお身代りと思って下さいませんか。一向頑是(がんぜ)ない年頃の時分に、親しい人に先立たれまして、何とも頼りない年月を重ねて来たのです。同じような宿世(すくせ)のお方がいらっしゃると聞きましては、仲間に入れていただくように是非(ぜひ)ともお願いしたいのですが、こんないい折はありませんので、お心持のほども憚(はばか)らず申し出たような次第です」と仰せになりますと、「たいそう忝(かたじけ)ないことでございますが、お聞き違えになったことなどがあるのではないかと、気にかかるのでございます。なるほど取るにも足らぬ身一つを、頼りにしている人があるのでございますが、まだほんとうにたわいのない子供でございまして、とても大目に見ていただけるわけのものではございませんから、お受けをいたしかねるのでございます」と言われます。「そういう御事情は、何もかも承知の上なのですから、そう窮屈にお考えにならずに、どうか普通と違ったことを思いつきましたこの心持を、分っていただけないでしょうか」と仰せになるのですけれども、全く釣り合いそうもないことを、そうとも知らずに仰せられると思われるらしく、それきり打ち解けた御返事もありません。僧都が見えられましたので、「まあともかくも、これだけお願いの口を切っておけばたいそう心丈夫です」と仰せになって、再び屏風をお立てになります。
 明け方になって来ましたので、法華三昧(ほっけさんまい)を行う(法華三昧を証得しようとして、別に道場を設けて法華経を読誦(どくじゅ)するのを、法華三昧を行うと言う)御堂(みどう)の懺法(せんぽう)の声(法華三昧を行う時の作法を記したものを法華三昧行法と言い、それを抄略したものを法華懺法と言う。それを読む声のことである)の、山おろしにつれて聞えて来ますのが、非常に尊く、滝の音に響き合います。
  吹きまよふ深山(みやま)おろしに夢さめて
    涙もよほす滝の音かな
 (源氏の歌。吹きおろす深山颪(みやまおろし)の風に伝わって懺法の声が聞えて来るので、迷いの夢がさめて、滝の音までが感激の涙を催させる)
 「さしぐみに袖濡(ぬ)らしける山水に
    すめる心は騒ぎやはする
 (僧都の歌。あなたがにわかに涙を催して袖をお濡らしになったこの山水にも、長年行いすましている私の心は動かされません。「さしぐみ」は今の「いきなり」という語に近い。「すめる」は「住む」と「澄む」と両方に利(き)かしてある」)
耳馴れたせいでございましょうか」などと言われます。明けはなれて行く空がうらうらと霞んで、山の鳥どもがそこはかとなく囀(さえず)りかわします。名も知らぬ木草の花どもが色とりどりに散りまじって、錦(にしき)を敷いたかと見えますのに、折々鹿が佇(たたず)んでは歩いて行きますのも、珍しく御覧になりまして、悩ましさも紛れておしまいになります。かの聖(ひじり)は、身動きもできない体なのですが、どうにかこうにか僧都の坊に参上して、護身の法をして差し上げます。歯の抜けた、隙間だらけの口から漏れる皺(しわ)がれた声で陀羅尼(だらに)を読むのが、しみじみとあわれに、いかにも功徳(くどく)を積んでいるように聞えるのでした。
 お迎えの人々がやって来て、全快のお祝いを申し述べ、内裏(うち)からも御使(みつかい)が下着(げちゃく)されます。僧都は里では見られないような果物を、何やかやと谷の底まで掘り出して、もてなしてお上げになります。「今年じゅうは山を出ないという固い誓いをいたしましたために、お見送りにもよう参りませんことが、今となってはかえって悔(くや)しゅうございます」などと言われて、御酒(みき)を参らせられます。「山にも水にも心が留まりましたけれども、お上がお案じになっていらっしゃいますのが畏(おそ)れ多いので、帰らなければなりません。この花の盛りのうちにまたじき訪ねて参りましょう。
  宮人に行きて語らん山ざくら
    風より先に来ても見るべく
 (都へ帰って大宮人に話しましょう、この山桜を吹き散らす風が来ないうちに、来て見るようにと)
と、仰せられる御様子やお声までが、まばゆいようにお美しいので、
  優曇華(うどんげ)の花待ち得たる心地して
    深山(みやま)ざくらに目こそうつらね
 (あなた様のお美しいお姿を拝みましては、待ちに待った優曇華の花を見ることができたような心地がしまして、深山桜などに眼も移りません。「優曇華」は佛典中にある想像上の花で、三千年に一度、佛が世に出る時に咲くと言われるもの)
と、僧都がお詠(よ)み申し上げますと、君はほほえまれて、「時ありてひとたび開くというのでは、容易なことではありませんね」と仰せられます。聖はお盃(さかずき)をいただいて、
  奥山の松のとぼそをまれにあけて
    まだ見ぬ花の顔を見るかな
 (奥山の松の下庵(したいお)の中に籠っている身がめったに開(あ)けない戸を今日珍しくも開けて、まだ見たこともない花のようなお姿を拝みました)
と、泣きながらお姿を仰ぎ見ます。聖は君のおん守りに、独鈷(とっこ)をお贈り申し上げます。僧都はそれを見られて、聖徳太子が百済(くだら)からお取り寄せになった金剛子(こんごうじ)(田麻科の喬木の一種でその果実の核を数珠玉に製する)の数珠(じゅず)の、玉の飾りのついたのを、昔その国から入れて送って来たままの唐風(からふう)の箱に納めて、透(すか)しのある袋に入れて、五葉(ごよう)の枝に結いつけてお贈り申し、また紺瑠璃(こんるり)の壺などにお薬を入れて、藤、桜などの枝に結いつけたのや、山里にふさわしい土産物(みやげもの)なども取り添えて差し上げられます。君は聖を始めとして、読経を勤めた法師への布施(ふせ)、その他用意の品々をいろいろと京へ取りにおやりになりまして、そのあたりの山樵(やまがつ)へまで相応の物を下しおかれ、御誦経(みずきょう)の布施などをして立ち出でられます。僧都はそのうちに奥へはいられて、かの仰せごとを取り次がれましたが、「どのようにも、ただいまは御返事の申しようもありません。もしお志がおありになるなら、もう四五年も過ぎました時分に、いずれ何とか」と言われますので、その通りにお答え申されますのを、本意(ほい)ないことにお思いになります。おん文(ふみ)は、僧都のもとにいる小さい女童(めのわらわ)におことづけなされて、
  夕まぐれほのかに花のいろを見て
    けさは霞のたちぞわづらふ
 (昨日の夕ぐれに、ちらりと花のようなお人を見ましてから、それが心残りになって、今朝は私も出立しかねています。「霞」は「立つ」と言い出すための序)
 おん返し、
  まことにや花のあたりは立ち憂きと
    霞むる空のけしきをも見ん
 (花のあたりは出発しにくいと仰せられますのは真実でしょうか、そういうあなたのお心持がいつまでつづくものか、この後御様子を見ておりましょう。「霞むる」はほのめかして言うこと。「空のけしき」は「あなたの御様子」というほどのこと)
と、上品な、立派な手で、無造作に書いてあります。
 御車(みくるま)にお召しになる時分に、大殿(おおいとの)から、「どちらとも仰せられずにお出かけになりましたので」と、お迎えの人々、御子息たちなどが、大勢でお越しになりました。頭中将(とうのちゅうじょう)、左中弁(さちゅうべん)、その他の君たちもおあとを慕うて来て、「このようなお供なら喜んでさせていただきますのに、心外にも除(の)け者になされましたとは」とお恨みなされて、「こんな見事な花の木蔭(こかげ)を見つけながら、しばしの間も休息せずに帰りますのは、心残りなことです」と仰せられます。岩隠れの苔(こけ)の上に居並んで、盃をお取りになります。落ち来る水の流れなどが趣に富む滝の下なのです。頭中将が懐(ふところ)に入れていた笛を取り出して吹き澄まします。弁の君は扇を軽く打ち鳴らして、「豊浦(とよら)の寺の西なるや」(葛城(かつらぎ)の寺の前なるや、豊浦の寺の西なるや、榎の葉井に白玉しづくや、おしとんど、おしとんど、しかしてば国ぞ栄えんや、我家(わいえ)らぞ、富みせんや、おしとんど、おしとんど、おしとんど〔催馬楽「葛城」〕)と謠(うた)われます。このお二人とも、人にすぐれた君たちには違いないのですけれども、源氏の君がさも悩ましそうに岩に倚(よ)りかかっていらっしゃるお姿こそ、世にたぐいもなく、気味悪いくらいに美しくお見えなされて、何ものにもまさって人目を惹(ひ)かずにはいないのでした。例の篳篥(ひちりき)を吹く随身(ずいじん)、笙(しょう)の笛を持たせている風流人などもいるのでした。僧都はみずから琴(きん)を持って来て、「せめて一手(ひとて)、これを弾(ひ)いていただいて、同じことなら山の鳥を驚かしましょう」と熱心に所望されますので、「ひどく気分がすぐれませんけれども」と仰せられながらも、ほどほどに掻き鳴らして、御一緒にお立ちになります。何とも残り惜しいことだと、ものの数ならぬ法師や童(わらわ)べの末までも、涙を落し合うのでした。まして家の内にいる年老いた尼君たちなどは、まだこのような人のおん有様を見たこともなかったのですから、「この世のものとも思えないようにお見えになる」と噂(うわさ)をし合います。僧都も、「全く、何の因縁(いんねん)で、こうもめでたいお人柄のおん方が、かようなごみごみした日本(ひのもと)の末の世にお生れなさったことやらと思うと、何とも悲しくなる」と言って、眼(まなこ)を押し拭(ぬぐ)われます。当の姫君も、子供ごころに結構な人よとごらんになって、「父宮よりも勝(まさ)っておいでなのね」などと仰せになります。「ではあの人のお子におなりなさいませ」と申し上げますと、うち頷(うなず)いて、そうなったらどんなにいいであろうと思っておいでになります。雛遊(ひいなあそ)びにも、絵をお画(か)きになるのにも、「これが源氏の君よ」と言ってお作りなされて、綺麗な衣(きぬ)を着せて、かしずいていらっしゃるのでした。
 (つづく)  

  2024年10月1日


  (注) 1.  上記の谷崎潤一郎『新々訳 源氏物語』若紫の巻は、『谷崎潤一郎全集』第27巻(中央公論社、1983年2月25日初版発行、1989年4月25日3版発行)によりました。
 谷崎潤一郎『新々訳源氏物語』(全10巻+別巻)は、 1964年から1965年にかけて中央公論社から出版されました。
   
    2. 谷崎潤一郎『新々訳源氏物語』桐壺の巻[本文]が、資料671にあります。
 →  資料671 谷崎潤一郎『新々訳源氏物語』(桐壺の巻)[本文]
   
    3.  国定教科書『初等科国語 七』に「六 源氏物語」があり、そこには源氏物語の簡単な紹介がついており、紹介の最後に、
「源氏物語五十四帖(でふ)は、わが國の偉大な小説であるばかりでなく、今日では、世界にすぐれた文學としてほめたたへられてゐます。次にかかげる文章は、源氏物語の一節を簡單にして、それを今日のことばで表したものですが、ただこれだけで見ても、約九百年の昔に書かれた源氏物語が、いかによく人間を生き生きと、美しく、こまやかに寫し出してゐるかがよくわかるでせう。」
と書かれています。その後に、源氏が紫の上を見染めた場面と紫の上を引き取った後の様子が出ています。

 この教科書は、国定教科書期(1903(明治36年)~1945(昭和20年))に使われた教科書です。次に出ている教科書は、昭和17年12月21日に発行され、昭和18年2月28日に翻刻発行されたものです。(「源氏物語」は 19~25/85に出ています。)
 → 『初等科国語 七』ー広島大学図書館デジタルアーカイブ

 戦後すぐの昭和21年に発行された「小学校第6学年前期用」の国民学校暫定教科書『初等科国語 七』には、「四 源氏物語」として出ていています。
 → 資料262 国民学校暫定教科書『初等科国語 七』(本文)
   
           
           
           








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