資料254 唱歌「蛍の光」「あおげば尊し」 

 
 

 

 

「螢の光」(初めの題は「螢」)

 

 

 

「あふげば尊し」

 

 

 



 

 

 

         螢           作詞:稻垣千穎

一 ほたるのひかり。まどのゆき。
    書
(ふみ)よむつき日。かさねつゝ。
  いつしか年も。すぎのとを。
  あけてぞけさは。わかれゆく。
二 とまるもゆくも。かぎりとて。
  かたみにおもふ。ちよろづの。
  こゝろのはしを。ひとことに。
  さきくとばかり。うたふなり。
三 つくしのきはみ。みちのおく。
  うみやまとほく。へだつとも。
  そのまごゝろは。へだてなく。
  ひとつにつくせ。くにのため。
四 千島のおくも。おきなはも。
  やしまのうちの。まもりなり。
  いたらんくにに。いさをしく。
  つとめよわがせ。つゝがなく。



    
あふげば尊し      作詞者未詳

一 あふげばたふとし。わが師の恩。
    敎
(をしへ)の庭にも。はやいくとせ。
    おもへばいと疾
(と)し。このとし月。
    今こそわかれめ。いざゝらば。
二 互にむつみし。日ごろの恩。
  わかるゝ後にも。やよわするな。
  身をたて名をあげ。やよはげめよ。
    いまこそわかれめ。いざゝらば。
三 朝ゆふなれにし。まなびの窓。
  ほたるのともし火。つむ白雪。
  わするゝまぞなき。ゆくとし月。
  今こそわかれめ。いざゝらば。

 

 




         (注) 1. 「螢の光」について
       (1) 「螢の光」は、明治14年11月24日発行の『小學唱歌集 初編』(文部省音楽取調
         掛編纂、高等師範学校附属音楽学校発行、大日本図書株式会社発売)に掲載さ
         れました。この歌は、初め「螢」という題で発表されました。
       (2) 『小學唱歌集 初編』に作者名は出ていませんが、作詞者は稲垣千穎(いながき・
         ちかい)であることが分かったそうです。(これについては、注1.の(5)をご覧下さ
         い。)
       (3) 上記の歌詞の表記は、『日本現代詩大系 第一巻』(編者・山宮允、河出書房 昭
         和25年9月30日発行)所収のものによりました。
          ただし、第2節の1行目「とまるもゆくも、かぎりとて。」の読点を句点に改め、2行
         目「かたみにおもふちよろづの。」に句点を補いました。(ワイド版岩波文庫『日本
         唱歌集』
(堀内敬三・井上武士編、1991年6月26日第1刷発行)に出ている原本の写真
         には、「とまるもゆくも。かぎりとて。」とあり、「かたみにおもふちよろづの。」には、
         確かに中間の句点が落ちています。
          なお、注3にも記しましたが、
『国立国会図書館デジタルコレクション』で、『小学
         唱歌集』
(初編-3編)の画像が見られます。「蛍(蛍の光)」は初編の第二十(20/36)
         にあります。
       (4) この歌の曲について、講談社文庫『日本の唱歌〔上〕』(金田一春彦・安西愛子編、
         昭和52年10月15日第1刷発行)の解説には、「世界的に別れの曲として用いられ、
         港を出航する時には、各国ともこの旋律が奏せられる」とあります。
          また、「もとはスコットランドの民謡で、古語の英詩「久しき昔」(Auld Lang Syne)
         の旋律だった。その詞はスコットランドの詩人ロバート・バーンズの作と言われるが、
         彼は古いものをある老人から聞いて改訂したのであろうと言う。讃美歌では、「め
         ざめよ我が霊(たま)」という歌詞で歌われて」いる、とあります。(新日本古典大系 
         明治編『新体詩 聖書 讃美歌』
(岩波書店、2001年12月17日第1刷発行)によれば、
         同じく「あさ日はのぼりて」という歌詞でも歌われている、とあります。)
       (5) 「蛍の光」の歌詞の作者について
         ワイド版岩波文庫『日本唱歌集』(堀内敬三・井上武士編、1991年6月26日第1
         刷発行)には、まだ「歌詞の作者は、当時音楽取調掛と関係のあった稲垣千頴、
         加部厳夫、里見義などのうちの誰かであろうが、記録がない」とあって、作詞者未
         詳となっていますが、前にも触れたように、当時東京師範学校教員だった稲垣千
         穎(いながき・ちかい)が作詞者だということが分かったそうです。
          「CD『螢の光のすべて』」(キングレコード、2002年)の解説冊子の年表によれ
         ば、1962(S37)04.01のところに、「昭和37年度用教科書から作詞者として
         稲垣千穎の名が明記される」とあります。
                   また、この解説冊子には、中西光雄氏の「『螢の光』の作詞者 稲垣千穎」と
         江崎公子氏の「『螢の光』と卒業式」という文章があって、大変参考になります。
           岩波書店の新日本古典文学大系 明治編 11『教科書 啓蒙文集』(2006年
         6月29日第1刷発行)には、『小学唱歌集』(倉田喜弘校注)の『蛍』の脚注に、 
           現行の曲名は「蛍の光」。稲垣千穎作詞。明治14年7月9日、宮中ご陪食に
           際して宮内省の伶人が演奏。「蘇格蘭土
(スコツトランド)ノ古伝ニ出デ其作者ヲ
           詳ニセズ。然レドモ、其意ハ告別ノ際、自他ノ健康ヲ祝スルニアリトス。(中
           略)学生等ガ数年間勤学シ、蛍雪ノ功ヲ積ミ、業成リ事遂ゲテ学校ヲ去ルニ
           当リ、別ヲ同窓ノ友ニツゲ、将来国家ノ為ニ協心戮力
(りくりよく)セン事ヲ誓フ
           有様ヲ述タルモノニテ、卒業ノ時ニ歌フベキ歌ナリ」(明治14年7月15日付
           『東京日日新聞』)。スコットランド民謡「久しい昔(Auld Lang Syne)」が原
           曲(『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇』)。『唱歌と十字架』は讃美
           歌とする。
         とあります。ここには「稲垣千穎作詞」とありますが、今まで長い間「作詞者不詳」
         とされてきていたのですから、何を根拠にこう断定したのかを明示してほしいとこ
         ろです。『東京日日新聞』の記事の引用してある部分には、作詞者のことが出て
         いません。
          (稲垣千穎の「穎」について、同書巻末の解説「『小学唱歌集』とその周辺」の
         中で倉田喜弘氏は、「稲垣の名前は従来「千頴」と記されてきたが、本巻では
         『改正官員録』によって、以下「頴」を「穎」で統一する」と書いておられます。)

           ※ 『明治期 日本人と音楽 
東京日日新聞音楽関係記事集成』(日本近代洋楽
            史研究会編、1995年4月20日、国立音楽大学附属図書館・大空社発行)
            に掲載されている『東京日日新聞』明治14年7月15日付けの記事を次に
            引いておきます。(
「(歌詞及び解説、略)」等は引用者が略して付けたものです。)
             ○音樂  宮内省伶人葛鎭秀一氏等が文部省御雇音樂敎師メーソン氏
             より傳授
(でんじゆ)せられたる音樂(おんがく)を去る九日に大臣參議へ御陪
             食
(ごばいしよく)を仰付られたる折り伶人をして奏(さう)せしめられたるに其
             音調の優美高雅
(いうびかうが)なるを深(ふか)くめでさせ玉ひ此日二囘まで
             も奏せしめられたりとぞ今その音樂略説を得たれば左に記す                
                  音樂略説
               第一曲 雨露に
                  (歌詞及び解説、略)
               第二曲 ナイトソング
                  (解説、略)
               第三曲 富士山
                  (歌詞及び解説、略)
               第四曲 エルフインワルツ
                  (解説、略)
               第五曲 螢ノ光
             ○螢のひかり窓の雪。ふみよむ月日かさねつゝ。いつしか年もすぎの戸
               を。あけてぞ今朝はわかれゆく       
             ○とまるもゆくもかぎりとて。かたみに碎く千萬の。こゝろのはしを一言に。
               さきくとばかりうたふなり
             ○筑紫のきはみみちのおく。別るゝ道はかはるとも。變らぬ心ゆきかよひ。
               ひとつにつくせ國のため
             ○千島のおくも沖繩も。八島のそとのまもり也。至らん國にいさをしく。勤
               めよわがせつゝがなく
             此曲ハ蘇格蘭土ノ古伝ニ出デ其作者ヲ詳ニセズ然レドモ其意ハ告別ノ際
             自他ノ健康ヲ祝スルニアリトス其調ハ我國ノ双調呂旋ニ異ナラザルモノ也
             其歌ハ東京師範學校敎員稻垣千頴ノ作ニシテ學生等ガ數年間勤學シ螢
             雪ノ功ヲ積ミ業成リ事遂ゲテ學校ヲ去ルニ當リ別ヲ同窓ノ友ニツゲ將來國
             家ノ爲ニ恊心戮力セン事ヲ誓フ有樣ヲ述タルモノニテ卒業ノ時ニ歌フベキ
             歌也
               第六曲 ヘールコロンビヤ
                   (解説、略)
            
引用者注 (1)記事中に「宮内省伶人葛鎭秀一氏」とある「葛鎭秀一氏」とは、芝葛鎭
                       氏と小林秀一氏のことです。
                      (2)題名が「螢」でなく、「螢の光」となっています。
                     (3)歌詞が一部異なっています。
                     (4)誤植と思われる文字を直しました。(蘇格蘭上、双調呂施)
                     (5)記事本文の変体仮名は、普通の仮名に改めてあります。

          『唱歌・童謡ものがたり』(著者・読売新聞文化部、岩波書店 1999年8月25日
         第1刷発行)の「蛍の光」には、「作詞・不詳、曲・スコットランド民謡」とあります
         から、1999年(平成11年)当時は、一部では「稲垣千穎作詞」とされていても、
         一般的にはまだ作詞者不詳とされていたのでしょう。  
                    
※   ※   ※   ※   ※   ※   ※
          私が理解しているところで、「蛍(蛍の光)」の作詞者が稲垣千潁であることの
         根拠を挙げれば、次のようになります。
            1) 明治14年7月15日付けの東京日日新聞に、7月9日に宮中で行われ
             た洋楽の演奏会のことが出ていて、その記事に挙げてある「音楽略説」
             の「螢の光」の解説に、「其歌ハ東京師範學校敎員稻垣千頴ノ作ニシテ」
             とあること。
(これは、『明治期 日本人と音楽 東京日日新聞音楽関係記事集成』
               (日本近代洋楽史研究会編、1995年4月20日、国立音楽大学附属図書館・大空社
               発行)によりました。) 
                        
(注) CD『螢の光のすべて』(キングレコード、2002年)の解説冊子に
                 掲載されている中西光雄氏の「『螢の光』の作詞者 稲垣千穎」に
                 は、「伊澤は歌詞の説明を伴う別版を前年すでに発表していた。明
                 治14年5月、東京女子師範学校行啓の折の「唱歌略説」は、「此歌
                 は稲垣千穎の作にして」と作詞者を名指ししている。また同様の記
                 事が、同年7月15日付け東京日日新聞にも掲載されているから、
                 「蛍の光」の歌詞原案が稲垣によるものであることは間違いない」
                 とあります。(同冊子、31頁)  
            2)明治16年に発行された『千葉教育會雑誌』第21号に、伊澤修二氏の
             演説が掲載されており、そこに「此歌ハ稲垣千潁ノ作ニシテ」とあること。
              
(これは、上記「CD『螢の光のすべて』」に付けられている冊子(解説)に掲載されて
               いる江崎公子氏の「『螢の光』と卒業式」によりました。(同冊子、34頁)) 
                                           (2008年3月26日)

       (6)
語注  
            ほたるのひかり……中国の晋の車胤の故事。車胤は貧乏で灯油が買えな
                いため、蛍を集めてその光で読書して、すぐれた学者・政治家になっ
                たという。
            まどのゆき……同じく晋の孫康も、家が貧しくて油が買えなかったため、窓
                の雪に照らして勉強して、ついに御史大夫になったという。 
            ほたるのひかりまどのゆき……上の故事から、苦学すること。学問に励むこと。
            いつしか年もすぎのとを……「すぎ」に「過ぎ」と「杉」を掛けている。
                 上に引用した新日本古典文学大系 明治編 11『教科書 啓蒙文集』の
                脚注には、「いつのまにか年限も過ぎ(「過ぎ」は次の「杉」にもかかり)、
                杉の戸を開ける(学業の成ること)」とありますが、「杉の戸を開ける」を
                学業が成るという意味に用いた用例があるのでしょうか。
            あけてぞけさはわかれゆく……「あけ」に「開け」と「明け」を掛けている。「ぞ」
                は強意の係助詞。結びは下の「わかれゆく」。従って、「わかれゆく」の
                活用形は連体形。(「あけ」に「開け」と「明け」を掛けていると見ない人
                もいるかも知れません。この下の(D)を参照してください。)

            「いつしか年もすぎのとを あけてぞけさはわかれゆく」の解釈について
                この部分は意味のとりにくいところです。以下、幾つかの解釈をあげて
               みます。

               (A) 日本近代文学大系53『近代詩 I 』(角川書店、昭和47年11月10日
                初版発行、平成元年8月30日再版発行)に『小学唱歌集』が取り上げて
                あって、「すぎのとを」の 頭注に、「「杉」の戸と「過ぎ」の懸詞。「杉」の
                板戸を開けるようにいつしか年も過 ぎてゆきという意」と、小川和佑氏
                の注がありました。
                
 小川氏は、「杉の板戸を開けるように」「年も過ぎてゆき」(下線は引用 者)と
                 とっておられるわけですが、できれば、「年も過ぎてゆき」は「年も明けてゆき」とし
                 てほしかったところです。つまり、「いつしか年も過ぎていって、杉の板戸を開ける
                 ように、年も明けてゆき」としてほしかったと思うのですが。)

               (B) CD 『螢の光のすべて』(キングレコード、2002年)の解説冊子に、
                中西光雄氏による「螢(螢の光)」の通釈が出ています。この部分は、
                   「いつのまにか年も、過ぎてしまったが、この学舎の杉の戸を、
                  開けて、夜が明けた今朝、わたしたちは別れてゆく。」
                と訳しておられます。ここでは、「杉の戸を開けて」に実質的な意味
                をとり、「明けて」を「夜が明けて」ととっておられるわけです。そして
                語釈のところに、
                  すぎのと…杉の戸。「すぎ」は「過ぎ」と「杉」との掛詞。和歌・雅
                   文の影響が強く感じられる。この歌で唯一の修辞的表現。「杉
                   戸(すぎと・すぎど)」は、江戸時代以降しばしば用いられた言
                   葉で、質朴なイメージが喚起される。
                 としておられます。
               (C) 『埼玉大学』のサイトの高校生向け「埼玉大学だより」第3号に、
                山口仲美教授の「身近にいきづく昔の日本語」というページがあり、
                そこに山口教授のご著書、岩波新書『日本語の歴史』(2006年5月
                19日第1刷発行)から、この歌の1番の歌詞の現代語訳が紹介され
                ていますので、ここに引用させていただきます。
(注:このページは現在は
                    インターネットでは見られないようです。……2009年9月29日付記)

                   蛍の光や窓の外に積もる雪を明かりにして本を読み学ぶ月日を
                   重ねて、いつしか年も過ぎてしまったが、杉の戸を開けて、夜が
                   明けた今朝は、別れてゆきます。                     
                 「杉の戸を開けて」に実質的な意味をとり、「明けて」を「夜が明けて」
                ととっておられる点は、前者と同じです。 
               (D)  上にも引いたように、新日本古典文学大系 明治編 11『教科書 
                啓蒙文集』の脚注には、「いつのまにか年限も過ぎ(「過ぎ」は次の
                「杉」にもかかり)、杉の戸を開ける(学業の成ること)」とあり、「あけて」
                の「あけ」に、「開け」と「明け」を掛けている、とはありませんので、注釈
                をお書きになった倉田氏は、「いつのまにか年限も過ぎ、学業も成って、
                今朝は別れてゆくのだ」とおとりになるのでしょうか。
               (E)  ここは、「いつしか年も過ぎ」(「杉の戸を開けて」)「明けてぞけさは
                別れゆく」という表現になっている。つまり、「杉の戸を開けて」は、「い
                つしか年も過ぎ」と、「明けてぞけさは別れゆく」を技巧的につなぐ働き
                をしているだけで、「(あの慣れ親しんだ、懐かしい杉の戸)」という響
                きを歌に与えるのは確かだとしても、歌詞の内容には直接的には関
                係していない(実質的な意味は持たない)。だから、ここを「杉の戸を
                開けて別れる」とは訳さない。
                   「いつのまにか年も過ぎてゆき、卒業を迎える年が明けて、
                  いよいよ今朝はみんなと別れてゆくのだ。」
                  (「杉の戸を開ける」を、倉田氏のように「学業が成って」ととれば、
                   「いつのまにか年も過ぎてゆき、学業が成り、いよいよ卒業を迎
                  える年も明けて、今朝はみんなと別れてゆくのだ。」とすることも考
                  えられる。)  
               
                        
※   ※   ※   ※   ※   ※   ※
                 (E)は、私の解釈です。この解釈について忌憚のないご意見をお聞
                かせいただければ幸いです。
                        
※   ※   ※   ※   ※   ※   ※  
                 さて、ここで私の感想を言わせていただけるなら、この部分は、「い
                つしか年月も過ぎてゆき、新しい(卒業の)年も明けて、いよいよ今朝
                は別れの時を迎えたのだ」とうたっているのであって、「杉の戸を開け
                て別れる」というのを表の意味とはしていないのではないでしょうか。
                 つまりここは、「いつしか年も過ぎ、(卒業の年も)明けて……」と言
                うところを、掛詞を用いて技巧的に表現したものであって、裏に「(慣
                れ親しんだ杉の戸を開けるの「開け」ではないが)」と響かせて、「い
                つしか年も過ぎ」と「明けてぞ今朝は別れ行く」の二つを結んだもの、
                ととるべきだと思うのです。昔風に訳せば、
                  いつの間にやら年も過ぎていって、(学び舎の杉の戸を開ける
                   の「開け」ではないが、)年も明けて、今朝はいよいよみんなと
                  別れてゆくのだ
ナア
                とでもなるでしょうか。
                  ──と書いてはみたものの、作詞者はやはり「杉の戸を開けて」
                を表の意味として書いたのかなあ、つまり「いつの間にか年も過ぎ
                ていき、学び舎のなつかしい杉の戸を開けて、卒業の年も明けた
                今朝はいよいよみんなと別れてゆくのだ」と書いたのかなあ、と
                いう思いが去りません。なお、考えてみます。
                         
※   ※   ※   ※   ※   ※   ※
                 私の友人は、この「あけてぞけさはわかれゆく」の「あけて」は、
                「修業年月が明けて」ということではないだろうか、と言ってい        
                ましたが、 これは倉田氏の「学業も成って」に近い解釈かと思
                います。
                        
※   ※   ※   ※   ※   ※   ※
                 この部分が今まで教育現場でどのように教えられてきたのかを
                知りたいところです。         
 (2008年3月28日)

            とまるもゆくも……学校に留まる者も、卒業して行く者も。
            かぎりとて……今日を最後と思って。
            かたみに……お互いに。
            ちよろづの……漢字をあてれば「千万の」。限りなく多いこと。
            こゝろのはし……心の端。心の一端。小川和佑氏の注では、「心の縣橋、
                 友情のきずな」とあります。氏は「ちよろづの」を「永遠の」ととって
                 おられるので、「永遠の友情のきずな」と解されるのでしょう。
            ひとことに……一言にこめて。
            さきく……幸せに。「さきく」は、「さいわいに」「無事に」の意の副詞。万葉集
                 に、「ささなみの志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ」(巻
                 一・30、柿本人麻呂)などの用例があります。
            つくしのきはみ……筑紫の極み。九州の果て。
            みちのおく……奥州の奥。
            千島のおくも。おきなはも。……日本近代文学大系53『近代詩 I 』の頭注に、
                 「千島列島は明治8年、ロシアとの「千島・樺太交換条約」によって日
                 本領に編入。琉球諸島は明治9年沖縄県として日本領に編入。とも
                 に明治政府の新領土であった。そういう事実が歌詞に歌いこまれて
                 ある。」とあります。                      
            わがせ……『広辞苑』によれば、「せ」は「兄・夫・背」で、(1)姉妹から見て、
                 男のきょうだい。年上にも年下にもいう。(2)女が男を親しんでいう
                 語。主として夫や恋人にいう。(3)男同士が親しんでいう語。──と
                 あります。ここは卒業式に歌われるという意味からも、(3)男同士が
                 親しんでいう語、が適当でしょうか。
                  上に引いた日本近代文学大系53『近代詩 I 』の頭注には、「「わ
                 がせ」は「我背子」の「背」なのであるが、必ずしも文字通りの意で
                 なく広く一般の男子への呼びかけと解したい」とあります。 
                   しかし素直に読めば、やはり女性から男子に向けての呼びかけ
                 ととるのが自然なようにも思えます。作詞者は、ここをどう考えてい
                 たのか知りたいところです。
                  次の(7)に紹介した中西光雄氏の「研究ノート『蛍の光』」に、こ
                 れに触れて書かれた部分がありますので、ご覧下さい。そこには、
                 ここは明らかに女性の立場から書かれたものだというご指摘があ
                 ります。          
            つゝがなく……恙(つつが)無く。無事で。健康で。
                 「つつがない」(文語は「つつがなし(恙無し)」)は、形容詞。「つつ
                 がなく」は、その連用形。
                 「恙(つつが)」は、病気などの災難。やまい。また、ツツガムシの
                 こと。ツツガムシ(恙虫)によって起こる恙虫病がないということか
                 ら、無事である、健康である、という意味になったもの。
       (7)  上にも引いた「CD 『螢の光のすべて』(キングレコード、2002年)」の解説冊
         子に「『螢の光』の作詞者 稲垣千穎」を書いておられる中西光雄氏のブログ
         
「スイングするライオン 中西光雄のblog」があります。
          そこには
「研究ノート『蛍の光』」という文章があり、「蛍の光」の作詞者その他
         についての詳しい考察が見られます。
           また、「CD 『螢の光のすべて』」に掲載されている
「『螢の光』の作詞者 稲
         垣千穎」の文章や、「『蛍の光』と岩波文庫の権威」など興味深い文章を読むこ
         とができますので、ぜひご覧下さい。
       (8)  
フリー百科事典『ウィキペディア』に、「蛍の光」「稲垣千穎」の項目があります。
       (9)  中央公論社の『日本の詩歌』別巻(昭和43年11月15日初版発行)の解説に、
         園部三郎氏が次のように書いておられます。
           (前略)新しい学校制度を通じての国民教育は、着々と成果をあげていった。
          そして明治14年から17年にかけて、伊沢修二を指導者とする音楽取調掛編
          の『小学唱歌集』(全3巻)が日本最初の唱歌集として刊行された。(中略)
           文部省の徳育主義の忠実な実践者であった音楽取調掛首脳部は、前記
          『小学唱歌集』印刷の直前、「仁義礼智は人の性
(さが)。信義別序は人の倫
          
(みち)……」という「五常五倫の歌」を同唱歌集に追加することを提言し、それ
          が認められて、若干の詞句修正のうえ、『小学唱歌集』第一巻の巻末に追加
          された。また、「螢
(ほたる)の光」も徳性教育の目的のために、数次にわたる論
          戦が展開されて改訂ののち、ようやく今日うたわれている歌詞が決定したよう
          な経緯がある。(同書44~45頁)
        (10) 福島県東白川郡
棚倉町のホームページに、「広報『たなぐら』」の平成22年8
         月1日号に収録されている、中西光雄氏の「棚倉は唱歌「蛍の光」のふるさと~

         稲垣千穎(ちかい)を追って~」が掲載されています。
              
棚倉町のホームページ →  棚倉は唱歌「蛍の光」のふるさと
         (11) スコットランド民謡「AULD LANG SYNE」については、『原語で歌う海外曲』と
        
 いうサイトにAULD LANG SYNE(懐かしいあの頃)」があって参考になります。
            
『原語で歌う海外曲』 →  「英語の愛唱歌 」 
                           
→ Auld Lang Syne (懐かしいあの頃)」 

      2.
「あふげば尊し」について                              
       (1) 「あふげば尊し」の本文も、『日本現代詩大系 第一巻』(編者・山宮允、河出
         書房 昭和25年9月30日発行)によりました。
           ただし、二番の3行目「身をたて名をあげ。やよはげめよ。」は、『日本現代詩
         大系 第一巻』に「身をたて名をあげ、やよはげめよ。」とあるのを、読点を句点
         に改めました。
       (2) この「あふげば尊し」は、明治17年3月29日に発行された『小學唱歌集第三
         編 』(文部省音楽取調掛編纂、高等師範学校附属音楽学校発行、大日本図
         書株式会社発売)に掲載されている由です。また、講談社文庫『日本の唱歌
         〔上〕』(金田一春彦・安西愛子編、昭和52年10月15日第1刷発行)によれば、
         明治29年発行の『新編教育唱歌集』第8集にも再録されているそうです。            
       (3) 上掲の『日本の唱歌〔上〕』 のこの歌の解説には、「日本人の誰もが小学校
          で、 中学校で、女学校で、卒業式に歌って来た懐しい思い出の曲」とあります。
          そして、「この歌の制作の事情は未詳で、ことに、曲が日本人の作か、外国か
         らの借り物かもわかっていない。讃美歌の中にでもありそうな曲であるが、藤
         田圭雄氏は、曲の旋律が「ワガシノオン」というように、第一節の歌詞のアクセ
         ントに対し て非常に忠実に作られているところから、日本人の作曲だろうとに
         らんでいるが、慧眼だと思う」と書かれています。 
     (注) 「仰げば尊し」の楽譜が、1871年にアメリカで出版された楽譜集に掲載されてい
       ることを、2011年1月に、一橋大学名誉教授・桜井雅人氏が発見されたそうです。
        このことについては、フリー百科事典『ウィキペディア』の「仰げば尊し」の項に詳しく出
       ていますので、ご覧ください。(歌詞の題名は“Song for the Close of School”、楽譜集は
        『The Song Echo : A Collection of Copyright Songs, Duets, Trios, and Sacred Pieces,
       Suitable for Public Schools, Juvenile Classes, Seminaries, and the Home Circle』、作詞者
       はH.N.D、作曲者はT.H.ブロスナン。『ウィキペディア』には元の歌詞も出ています。)     
      
 →  フリー百科事典『ウィキペディア』の「仰げば尊し」  (2012年7月15日付記)

         
朝日新聞の2011(平成23)年1月24日夕刊に、〈「あおげば尊し 米に原曲」19世紀
       「卒業の歌」と旋律一致 一橋大名誉教授が発見〉という見出しで報じられています。   
       このことは、ウェッブ
『池田小百合 なっとく童謡・唱歌』にも取り上げられており、このサ
       イトで朝日新聞の記事を見ることができます。
        なお、「あおげば尊し」についての詳しい解説も出ていますので、どうぞご覧ください。
            → 
池田小百合 『なっとく童謡・唱歌』の「あおげば尊し」
                                 
(2012年7月17日付記)
          ここにも紹介されていますが、『仰げば尊し──幻の原曲発見と「小学唱歌集」全
        軌跡
』(櫻井雅人、ヘルマン・ゴチェフスキ、安田寛著。東京堂出版、2015年2月10

        日初版発行)が出ているそうです。
          次に、
東京堂出版のこの本の内容紹介を転記させていただきます。
          「長らく不明であった卒業ソングの定番「仰げば尊し」の原曲。しかし2011年、
         その原曲がつきとめられた。本書はその発見を中心に、『小学唱歌集』全体を考
         察、日本の近代歌謡の成立、日本人の心に刻まれ歌い継がれる歌の成立と受
         容の過程を解き明かす。日本近代歌謡文化史の空白を埋める画期的考察。」
        (4) 各節最終行の「今こそわかれめ」は、「今、わかれむ(今、別れむ)」を係り結
          びで強調した形で、「わかれめ」の「め」は、意志の助動詞「む」の已然形、係
          助詞「こそ」の結びです。従って、意味は「今こそ別れよう」となります。  
           なお、「わが師の恩」「日ごろの恩」の「恩」について、『日本の唱歌〔上〕』 の
          解説に、「「わが師の恩」の「恩」は、めぐみの意であり、……「日ごろの恩」の
          「恩」は愛情の意味と解される」とあって参考になります。  
        (5) 上にも記しましたが、
フリー百科事典『ウィキペディア』に、「仰げば尊し」の項
         目があり、たいへん参考になります。 

     3. 『小学唱歌集』(初編-3編)の画像が、
『国立国会図書館デジタルコレクション』
      見られます。
「蛍(蛍の光)」は初編の第二十(20/36)に、「あふげば尊し」は3編の第
      五十三(10/52)にあります。

 

            

 


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