室長室003  忘れられないお砂糖の思い出      
                     
              


   
小学生のころの、「忘れられないお砂糖の思い出」を聞いてください。
     今から半世紀以上も前の話ですが……。

 


 
      
忘れられないお砂糖の思い出


 今年70歳の古稀を迎えた私にとって、忘れられないお砂糖の思い出が二つあります。
     一つは、昭和20年、私が10歳で、小学校(その頃は国民学校と言いました)の5年生だった年の夏のことです。 当時、私は台湾の坪林(へいりん)という片田舎に住んでいました。両親が地元の小学校の教員をしていたからです。その村に住む日本人は、私たち一家族だけでした。太平洋戦争が間もなく終わろうとしていました。
 ある日、私は高い熱が出て、ひどい寒けに襲われました。夏なのに、布団にくるまっていてもガタガタ震えるほどの高い熱でした。 幸いなことに、たまたまその年の1月に、父が校長をしていたその地元の小学校に、陸軍の野戦病院が移って来ていました。それで、私はすぐ野戦病院の軍医さんに診てもらうことができました。マラリアでした。特効薬のキニーネが投与されました。
 当時は今と違って、庶民にとって、牛乳は病人でなければ飲むことのできない貴重な、あるいは贅沢な飲み物でした。病気になった私は、瓶入りの牛乳を配達してもらってそれを飲むことができました。
母は、コップについだ真っ白い牛乳に、たっぷりお砂糖を入れ、それを掻き回してお砂糖をよく溶かし、その中に砕いた氷を入れて十分に冷やして飲ませてくれました。
 
暑い夏の日に、熱でほてった体で、普段めったに飲めない牛乳をお砂糖で十分甘くし、氷を入れて冷たくして飲んだせいでしょう、それは、この世の中にこんなにおいしい飲み物があろうか、と思われるほど、素晴らしくおいしい飲み物でした。
 間もなく私はキニーネのお蔭で回復しましたが、私がお世話になった野戦病院は、(最
近調べてみて分かったことですが、)昭和19年7月に満州から
  沖縄に移り、昭和20年の1月に沖縄から台湾の私たちの村に移って来た野戦病院だったのです。4月から6月にかけてあの沖縄戦がありましたから、部隊がそのまま沖縄に留まっていたら全滅していたかも知れないのです兵隊さんたちは、あの時どんな思いで沖縄戦終結の知らせを聞いたのだろう、と今になって思いやられることです。……そして、8月15日に兵隊さんたちが流していた悔し涙も、忘れることができません。

 
二つ目のお砂糖の思い出は、翌年の昭和21年3月に、私たち──両親と中学生の兄と私が、リバティー船というアメリカの貨物船に乗って台湾から引き揚げてきた時のことです。ほとんど着の身着のままの帰国でした。
 私たちは、早春の浦賀に上陸しました。DDTの白い粉を、頭から服の中までたっぷり浴びせかけられました。
 
台湾にも、日本は食べ物が不足しており、お砂糖にも不自由しているという話は伝わって来ていましたから、両親は何とかして少しでも多くのお砂糖を持ち帰ろうとしました。お砂糖として持ち帰ることは制限されていましたので、お砂糖を溶かして板状にして、中に形だけパラパラと煎った落花生を散らばらせて「豆板」というお菓子風のものにして持ち帰ることにしたのです。
 帰国した日本は、敗戦直後のこととて、ひどい食糧難でした。お米は統制下にあり、遅配や欠配もあって、雑穀やサツマイモなどで補う代用食が普通でした。人々は、ひもじい思いをして生きていました。
 
特にお砂糖は、当時は配給制だったと思いますが、全く手に入れることはできませんでした。人々は極度に甘いものに飢えていました。ズルチンやサッカリンという人工甘味料がお砂糖の代わりに用いられ始めていたようですが、それもなかなか一般人の手には入らなかったのではないでしょうか。
 母の実家の田舎では、「台湾から帰って来たのなら、お砂糖を持って帰って来たでしょう。弱った年寄りが欲しがっているので少しでいいから分けてくれませんか」と言って、近所の人が頼みに来たこともありました。持ち帰った豆板風のお砂糖は、お菓子として食べるというよりは料理や飲み物に入れる貴重な甘味料として使ったのだと思います。

 
あの頃は、今のようにお米に限らず甘いものや欲しいものがいくらでも手に入る飽食の時代には全く想像もできない、ひもじく、つらく、せつない食糧難の時代でした。
        *
 
少年の日に、牛乳にお砂糖をたっぷり入れ、中に氷を入れて冷たくして飲んだ、あのお砂糖入り牛乳のおいしさは、時が経つにつれてそのおいしさが増幅して、今や私の頭の中に、「現実にはないおいしさ」となって存在しています。また、敗戦直後の日本で、あれほどお砂糖が渇望されたことも、今となってはまるで夢のようです。
 お砂糖が何不自由なく手に入る今の時代を、私はほんとうに幸せな時代だと思わずにはいられません。
 
(2004.9.5)
       

 

 新竹州新竹郡関西庄坪林(へいりん)にあった、父が校長をしていた小学校(地元民のための小学校。以前は「公学校」で、「坪林公学校」と言っていたが、昭和16年から、日本人小学校と同じく「国民学校」と言うようになった。だから、当時は「坪林国民学校」)に、昭和20年1月、陸軍野戦病院が移駐してきたことが上の文章に出てきますが、その野戦病院に勤務しておられた軍医さんのことが、昨年(平成16年)、インターネットの検索で分かりました。
 その軍医さんは、昭和18年9月に慶應大学医学部を卒業して直ちに軍医候補生を志願、満州国奉天省遼陽駐屯の満州第318部隊に入隊して2か月の訓練後、軍医中尉に任官。満州第728部隊の軍医として6か月の勤務後、第9師団(武部隊)第2野戦病院に転属。行き着いたところは、沖縄那覇市の東風平(コチンダ)村。そこに野戦病院が構築されることになり、同病院の軍医として勤務。その軍医さんの沖縄での主な仕事は、本島全島にわたるハンセン病の調査と、作戦遂行上のハンセン病患者の収容であったということです。
 武部隊は、当時の沖縄の主力隊であったにもかかわらず、米軍沖縄上陸直前の昭和20年1月に台湾に移動することになり、第2野戦病院は台湾新竹州坪林に設置されました。その軍医さんは、その坪林で終戦を迎えられたということです。
 (以上は、沖縄県医師会のホームページに収録してある『沖縄県医師会報』平成13年5月号に掲載されている「宮古南静園の70年;その歴史と意義」─筆者は、当時、宮古南静園におられた菊池一郎先生─という文章に引用された、
その軍医さんが65歳の時にお書きになったという文章によりました。)

 その軍医さんのお名前は、伊崎正勝さんといいます。終戦当時、25歳か26歳だったと思われます。小学5年生だった小生も坪林の小学校でその軍医さんにお会いしたはずですが、残念ながらお顔は思い出せません。伊崎さんは、上記の菊池一郎先生の文章に「伊崎正勝教授」と書いてありますので、戦後、大学の教授をなさっていたのでしょう。後に財団法人「みちのく愛隣協会」(岩手県松尾村)を設立され初代理事長をなさったそうですが、昭和63(1988)年にお亡くなりになったと伺いました。大正8(1919)年のお生まれだそうですから、70歳で亡くなられたことになります。生きておられたらぜひお会いしたかったのにと、大変残念です。
 
 伊崎さんには、『臨床皮膚科学』(南山堂、1972)というご著書があります。伊崎さんが設立され初代理事長をなさった財団法人「みちのく愛隣協会」は、東八幡平病院や介護老人保健施設「希望(のぞみ)」を経営しているそうです。(2005.03.01)                     
                         
  その後、“Professor Masatatsu Izaki”という英文による伊崎さんのご紹介記事があることに気がつきました。この紹介記事は、“PSRC(Pacific Skin Research Club)”というサイトの“PSRC Leaders”という項目の1ページに出ているもので、数葉の写真とともにご経歴とご業績の簡単な紹介があります。また、“PSRC Meeting in 1978”(第6回太平洋皮膚研究クラブ会議)という記事もあって、これらによって伊崎さん(伊崎先生と申し上げるべきでしょうか)が皮膚科学界でご活躍になったご様子の一環を窺うことができます。
  その他、Mr.Masao Nakano による
My Keio-U Comrade, Dr.Izaki”,
 Mr.Terence J. Ryan による
Dr.Izaki, gracious host”,
  Mr.William L.Epstein による
Izaki: Tough Humaitarian
という文章があって参考になります。
 なお、先日伊崎さんのお身内の方からメールを頂戴いたしました
。このことも、併せてご報告しておきます。(2009年6月28日)           
 


             

 

              



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