資料80 西郷南洲「偶成」(詩)



           
偶 成  西郷南洲

 

幾歴辛酸志始堅
丈夫玉碎恥甎全
我家遺法人知否
不爲兒孫買美田



幾たびか辛酸を歴て志(こころざし)始めて堅し、
丈夫(ぢやうふ)玉碎すとも甎全(せんぜん)を恥づ。
我が家の遺法人知るや否や、
兒孫(じそん)の爲に美田を買はず。

 

 


  (注) 1.  詩の本文は、新釈漢文大系 46 『日本漢詩 下』(猪口篤志著、明治書院 昭和47年9月25日初版発行)によりました。
 ただし、第三句の「一家遺事」を「我家遺法」としました。         
   
    2.  第三句の「我家遺法」は、南洲の自筆には「一家遺事」となっている由です。    
    3.  題を「偶感」とするものもあります。また、第二句の「恥」を「愧」とする本文もあるようです。    
    4.  (注)の9と10に、大和書房版『西郷隆盛全集』掲載の詩の本文と書き下し文、及びこの詩を引用してある「南洲翁遺訓」を掲げておきました。          
    5.  第四句の「不爲兒孫買美田」(兒孫の爲に美田を買はず)は、西郷隆盛(南洲)の言葉としてよく知られています。    
    6.  西郷隆盛(さいごう・たかもり)=幕末・維新期の政治家。薩摩藩士。通称吉之助。号は南洲。薩摩藩の指導者となり幕府を倒す。戊辰戦争では江戸城の無血開城を実現。新政府の陸軍大将・参議をつとめるが、征韓論政変で下野。帰郷して私学校を設立。1877年(明治10)私学校党に推されて挙兵(西南戦争)、敗れて城山にて自刃。(1827〜1877)(『広辞苑』第6版による。)
       
   
    7.  「西郷南洲顕彰会」のホームページがあって、詳しい「南洲年表」が見られます。    
    8.  詩の語釈をいくつか記しておきます。  
 〇辛酸=困難。              
 〇丈夫=読みは「じょうふ」。ますらお。真の男子のこと。
 〇玉碎=玉となってくだける。立派な死にかたをいう。
 〇甎全=読みは「せんぜん」。「甎」は敷き瓦(がわら)。志をまげて、瓦のように値打ちのないものとなって、いたずらに生きながらえること。瓦全」に同じ。
 〇美田=よく肥えた田畑。立派な財産の意。        
     
   
    9.  大和書房版『西郷隆盛全集』第四巻(昭和53年7月31日初版発行)による詩の本文と書き下し文を、次に掲げておきます。

          感 懐

     幾歴辛酸志始堅  
     丈夫玉砕愧甎全   
     我家遺事人知否   

     不為児孫買美田 

 幾たびか辛酸を経て志(こころざし)始めて堅し、
 丈夫(じょうふ)玉砕し甎全(せんぜん)を愧(は)ず。
 我が家の遺事人知るや否や、
 児孫の為に美田を買わず。

 なお、第3句の「遺事」は、大木俊九郎著『西郷南洲先生詩集』には「遺法」に作る、と上記全集の頭注にあります。また、同書のこの詩の解説に、「ある時、旧 庄内藩士にこの詩を示し、『若し此の言に違(たが)いなば、西郷は言行反したるとて見限られよ』といったことが遺訓五に見える」とあります。

   
    10.  「南洲翁遺訓」の5番目に収められているその遺訓を、次に掲げておきます。

 一  或る時、「幾歴辛酸志始堅、丈夫玉砕愧甎全。一家遺事人知否、不為児孫買美田。」(幾たびか辛酸を経て志始めて堅し、丈夫
(じょうふ)玉砕して甎全(せんぜん)を愧(は)ず。一家の遺事人知るや否や、児孫の為に美田を買わず。)との七絶を示されて、若し此の言に違いなば、西郷は言行反したるとて見限られよと、申されける。(漢詩の返り点、及び、書き下し文の一部のルビを、省略しました。)

 遺訓に引用された詩では、第3句の「我家」が「一家」となっている点が注目されます。      
   
    11.  資料469に、「西郷南洲遺訓」があります。    

  
       
       
      


      
              
 
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