資料70 小松内府遺骨塚碑(内大臣平重盛の遺骨塚碑)




       小松内府遺骨塚碑(内大臣平重盛の遺骨塚碑)

  小松内府遺骨塚碑   陸軍大将大勳位功二級彰仁親王篆額
小松内府資備文武器兼将相奮勇戎馬之間陳謨廟堂之上入孝出忠善
處君父間以身任天下之安危者若干年矣公既薨其父淨海兇暴益甚諸
子莫能匡救焉身亡未幾擧族西竄竟致覆滅時其臣平貞能潛入京師發
公墳墓收其骨分藏之髙野山齎其餘隨公夫人得律禪尼東至常陸倚大
掾平義幹義幹給以茨城郡金伊野村白雲山之地乃瘞其所齎於山上創
建堂塔號普明院小松寺後義幹使其二子爲僧棲於此號曰連枝寺貞能
削髪稱小松房以典又創一宇於行方郡若海村安置公所崇奉彌陀三尊
木像名萬福寺常往來兩寺之間以修公冥福今白雲山上有五輪塔盖其
瘞骨處其下有禪尼及貞能塔焉嗚呼平氏擧族沈沒西海空葬魚腹中而
公墳塋獨兀然存于今者豈非天眷忠孝之所致乎郷人将建碑以表之来
請余文余祖宗以來奕世崇敬公徳因捃摭傳記録其梗概勒之石碑云
   明治二十八年十一月   正三位侯爵德川篤敬撰文并書
   


(訓読)
小松内府遺骨塚碑   陸軍大将大勳位功二級彰仁親王篆額
小松内府は、資(し)文武を備へ、器(うつわ)将相(しょうしょう)を兼ぬ。勇を戎馬(じゅうば)の間に奮ひ、謨(はかりごと)を廟堂(びょうどう)の上に陳(の)ぶ。入(い)りては孝、出でては忠、善く君父の間に處し、身を以て天下の安危に任ずること若干年(じゃっかんねん)、公既に薨(こう)じ、其の父・淨海(じょうかい)、兇暴益々甚しく、諸子能く匡救(きょうきゅう)すること莫(な)し。身亡じて未(いま)だ幾(いくばく)ならずして、族を擧げて西竄(せいざん)し、竟(つい)に覆滅を致す。時に其の臣・平貞能(たいらのさだよし)、潛(ひそ)かに京師(けいし)に入(い)り、公の墳墓を發(あば)き、其の骨を收め、之を髙野山に分藏す。其の餘(よ)を齎(もたら)して公の夫人・得律禪尼に隨ひ東のかた常陸に至り、大掾(だいじょう)平義幹(たいらのよしもと)に倚(よ)る。義幹、以て茨城郡金伊野村の白雲山の地を給ふ。乃ち其の齎(もたら)す所を山上に瘞(うず)め、堂塔を創建して普明院小松寺と號す。後、義幹其の二子をして僧と爲し、此(ここ)に棲まはしめ、號して連枝寺と曰ふ。貞能、削髪(さくはつ)して小松房以典と稱す。又、一宇を行方郡若海村に創(つく)り、公の崇奉(すうほう)せる所の彌陀三尊木像を安置し、萬福寺と名づく。常に兩寺の間(かん)を往來し、以て公の冥福を修す。今、白雲山上に五輪の塔有り。盖(けだ)し、其れ骨を瘞(うず)めし處ならん。其の下に禪尼及び貞能の塔有り。嗚呼、平氏族を擧げて西海に沈沒し、空しく魚腹の中(うち)に葬らる。而(しこう)して公の墳塋(ふんえい)は、獨り兀然(ことぜん)として今に存す。豈に天眷(てんけん)・忠孝の致す所に非ずや。郷人(きょうじん)、将(まさ)に碑を建て以て之を表せんとして、来りて余に文を請ふ。余、祖宗(そそう)以來、奕世(えきせい)、公の徳を崇敬(すうけい)す。因りて傳記を捃摭(くんせき)して其の梗概を録し、之を石碑に勒(ろく)すと云ふ。
  明治二十八年十一月   正三位侯爵德川篤敬撰文并(なら)びに書
 


(注) 1.   碑の本文は、『京都大学貴重資料デジタルアーカイブ』『維新特別資料文庫』に収められている拓本「小松内府遺骨塚碑」の画像によりました           
    2.  改行は、碑文の通りにしてあります。
 漢字も、できるだけ碑文の文字の通りにするよう心がけました(「将」「來」「来」「盖」「徳」「德」など)が、すべての漢字が碑文の通りにはなっているわけではありません。
   
    3.  本文終わりから6字目の「概」は、碑文では「木」が下に来ている字体です。    
    4.  碑の本文は、1行が29字、全11行で、最後の1行が28字なので、本文の字数は318字となります。題辞と篆額者名が1行24字、最後の日付・撰文者名が1行22字。
 従って、上部の篆額の8字を除いて、碑文の総文字数は、364字(24+318+22)となります。           
   
    5.  碑は、碑文にある通り、明治28年に建てられました。彰仁親王の篆額、徳川篤敬の撰文並びに書です。 篆額は、碑の上部に、1行2字、縦書き、右から左への右書きで、「小松内府遺骨冢碑」の8字が4行に書かれています。      
    6.  小松内府とは、内大臣平重盛のことです。茨城県城里町(旧・常北町)の小松寺には平重盛の墳墓があり、同夫人、及び肥後守貞能の墓もあります。    
    7.  本山桂川編著『金石文化の研究』第八集(金石文化研究所、昭和26年6月10日発行)にも、手書きによる碑文の記録(簡単な解説と、原文及び書き下し文)があります。    
    8.  上に示した「訓読」は、『金石文化の研究』第八集掲載の本山桂川氏の訓読を参照して、引用者が記載しました。訓読についてご教示をいただければ幸いです。
 特に、「諸子莫能匡救焉身亡未幾擧族西竄」のところは、初め「諸子能く焉(これ)を匡救すること莫(な)く、身亡ぶ。未だ幾(いくばく)ならずして……」と読んでみたのですが、どう読むのがいいでしょうか。
   
    9.  宮崎報恩会版『新編常陸国誌』(常陸書房、昭和44年11月3日初版発行・昭和56年10月1日再版発行)から、小松寺の項を引いておきます。

 小松寺 [茨城郡上入野村、本寺醍醐松橋無量壽院]
朱印地十石、白雲山普明院ト號ス、(中略) 旧記云、当山ノ濫觴ハ小松内府重盛在世ノ時、諸国ニ一寺ヲ立テ、祈願所トナスベキノ素願アリ、果サズシテ薨ズ、既ニシテ一門西海ニ滅ス、門族ニ肥後守平貞能ハ、死ヲ脱レテ重盛ノ後室相応院得律禅尼ヲ伴ヒ、所縁ニ属テ関東ニ下リ、遂ニ当国ニ入ル、常陸大掾ノ一家ハ旧重盛ト同族ナリ、是ヲ以テ一寺開創ノ地ヲ割テ貞能ニ附ス、貞能其地ニ堂塔ヲ創立シテ重盛ノ素意ヲ果ス、自薙髪シテ小松房ト称シ、重盛ノ遺骨ヲ山頂ニ封ジテ墳墓トス、回心供養、怠慢アルコトナシ、是ヨリ先大掾家ノ支族当地ニ居住シテ一家ヲナス人アリ、小松房ノ忠志ヲ感ジテ、又剃髪シテ盛昌法師ト称シ、第二世ノ住持トナル、コレヨリ後其子孫当寺ヲ以テ老隠ノ地トシ、代々コノ寺ヲ守ルト云フ、諸国ニ小松寺ト称スルモノ多シト云ヘドモ、紀伊、尾張、常陸三国ノ小松寺ハ、共ニ重盛ノ遺骨ヲ分チ納メシ地ニテ、殊ニ由縁ノ地ナリ、当寺ノ山上ニアル所ノ五輪塔ハ重盛ノ墳ナリ、半腹ニハ相応尼及貞能ノ石塔今ニ存ス、(後略) 
   
   
    10.  平重盛 1138─79(保延4─治承3)平安末期の武将。清盛の長男。法名証空、俗称小松内府・灯籠大臣など。保元・平治の乱に功をあげ、累進して従二位内大臣となる。性質温厚で武勇の人と称賛された。鹿ヶ谷事件ののち清盛が後白河法皇を幽閉しようとした際諫止したと伝え、父清盛と朝廷との対立の和解に努めたが、父に先だって病死。(『角川日本史辞典 第二版』高柳光寿・竹内理三=編、昭和41年12月20日初版発行、昭和49年12月25日第二版初版発行による。)    
    11.  小松寺には、国指定重要文化財「木造 浮彫如意輪観音像」があります。

 国指定重要文化財「木造 浮彫如意輪観音像」 (明治44年指定)
 木造、一部彩色。縦8.5cm、横7.8cm、厚さ1.3cm。硬木の材を用い、四面に額縁を残し、像の細部に至るまで共木で浮き彫りした精巧な作。制作年代については、平安時代後期説と、中国唐時代の遺品とする説とがある。小松寺にゆかり深い平重盛の念持仏といい、いかにもそれにふさわしい風格を持つ。(主として『茨城県大百科事典』1981による。)        
   
    12.  東茨城郡城里町教育委員会のホームページに、小松寺の「木造浮彫如意輪観音像」のページがあり、ここで浮彫如意輪観音像の画像が見られます。
 城里町教育委員会のホームページ
  → 「木造浮彫如意輪観音像」      
   
    13.  茨城県教育委員会のホームページに、「伝内大臣平重盛墳墓」のページがあります。    
    14.  『常陸野散策…いしぶみは何処』というサイトに、鈴木江山(壽傳次)の「小松寺考」という文章が紹介されています。これは、江山が明治29年2月に小松寺に平重盛の墓を訪ねた時のことを書いた文章で、「小松寺考」は、鈴木江山の『天然の聲』(文学同志会、明治33年6月15日発行)という本に収録されています。(『常陸野散策…いしぶみは何処』は、今は残念ながら見られないようです。2023年8月17日)
 また、『天然の聲』は、『国立国会図書館デジタルコレクション』にも収録されているので、そこで「小松寺考」の文章を画像で見ることができます。
 『国立国会図書館デジタルコレクション』
  → 「天然の声」
    → 「天然の声」の22~24/126が「小松寺考」

 なお、早稲田大学図書館の『古典籍総合データベース』にも、鈴木江山の『天然の聲』が入っていて、ここでも見ることができます。
 早稲田大学図書館『古典籍総合データベース』
  → 鈴木江山『天然の聲』
  → 「小松寺考」(23~25/123)
   
    15.  資料600「鈴木江山「小松寺考」(『天然の声』より)」があります。    




 



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