| (注) | 1. |
上記の「ルーズベルトニ与フル書」の本文は、平川祐弘著『肥前佐賀文庫001 米国大統領への手紙 市丸利之助伝』(出門堂、2006年5月30日初版発行)に掲載されている、米国アナポリスの米国海軍兵学校記念館に保管されている同書の原本を複製したものの写真により、漢字を旧字体のまま表記しました。複製の本文を読むにあたっては、これを活字化してある本文を参照しました。 なるべく市丸少将の原文通りに記載しましたが、細かい点では必ずしも原文通りになっていないところがあります(漢字の字体など)。 なお、「ルーズベルトニ与フル書」は海軍用箋に筆で書かれており、最初のページに 「ルーズベルト」に與ふる書 とあり、本文の題は 「ルーズベルト」ニ與フル書 と、仮名が片仮名になっています。 → 出門堂 平川祐弘著『米国大統領への手紙 市丸利之助伝』肥前佐賀文庫001 |
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| 2. |
平川祐弘著『米国大統領への手紙』は、初め1996年2月に新潮社から刊行されました。出門堂の2006年6月刊の『米国大統領への手紙 市丸利之助伝』は、これの増補改訂版だそうです。 次に出門堂刊の『米国大統領への手紙 市丸利之助伝』の紹介文を引用しておきます。 「硫黄島で玉砕した海軍航空部隊指揮官・市丸利之助(佐賀県唐津出身)は時の大統領ルーズベルトに宛てて日文・英文の遺書をのこした。この手紙は激烈な戦火をくぐり抜け、米国に現存する。本書は、この軍人の人生を遺作和歌などを通してたどった筆者渾身の一冊の増補改訂版である。わたしたちを先の戦争についてのより深い思惟へ導いてくれるだろう。」 |
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| 3. |
『ルーズベルトニ与フル書』の発見と米国の新聞に掲載されるまで 米国海兵隊『硫黄島作戦史』(Tha Iwo Jima Operation prepared by Capt. Cliffoed) によると、『ルーズベルトニ与フル書』の発見は、1945年3月26日午前5時15分から行われた日本軍最後の反撃の後、硫黄島北部の洞穴 cave の中から見つかった、とされているそうである。しかし、上記の『米国大統領への手紙 市丸利之助伝』の著者・平川祐弘氏のお考えでは、『ルーズベルトニ与フル書』の日英両文は村上治重通信参謀が腹に巻いて出撃し、3月26日その遺体から米軍が発見した、と推定されるという。 その事実は1945年4月4日、米軍従軍記者エメット・クロージャ―によって打電された。その記事の末尾に記者は次のようにつけ加えた。 「市丸少将この手紙を訳させると日文英文各一通ずつを一海軍士官に渡した。その士官は3月25日から26日にかけての夜の間の最後の「万歳突撃」で第二飛行場の縁まで来て戦死した。手紙は26日朝見つかった。」 電報は、1945年7月11日の『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙に、「死に臨んだ日本の一提督の米国大統領宛ての手紙」(Letter of a Japanese Admiral, About to Die, to U.S. President)という見出しで報ぜられた。同日付の『デンヴァ―・ポスト』は「ルーズベルト、日本(ニップ)提督の書簡中で叱責さる」(Roosevelt Was Lectured in Nip Admiral's Letter)という見出しで市丸少将の手紙を転載した。 (以上は、平川祐弘著『米国大統領への手紙 市丸利之助伝』によって記述しました。詳しくは同書を参照してください。) |
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| 4. |
漢字に読み仮名をつけた本文が資料699に、英文の本文が資料700にあります。 → 資料699「ルーズベルトニ与フル書」市丸海軍少将(読み仮名つき) → 資料700 A Note to Roosevelt(英文「ルーズベルトニ与フル書」市丸海軍少将) |
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| 5. | 「ルーズベルトニ与フル書」については、門田隆将著『大統領に告ぐ』(産経新聞出版、2025年7月31日発売)が最近出版されました。 → 門田隆将著『大統領に告ぐー硫黄島からルーズベルトに与ふる書』 |
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| 6. | 「ルーズベルトニ与フル書」は、ネット上に多くの記事が出ていますが、ここでは
Dharma さんのブログ『Smile
Elims』に出ている「ルーズベルトに宛てた硫黄島からの手紙」を挙げておきます。参考になると思います。 →『Smile Elims』 →「ルーズベルトに宛てた硫黄島からの手紙」 |
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| 7. | フリー百科事典『ウィキペディア』に「市丸利之助」の項があります。 →『ウィキペディア』 → 市丸利之助 |
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