資料634  「先春梅を看る」(遅塚金太郎(麗水)著『山水供養』より)


大正2年に発行された遅塚金太郎(麗水)著『山水供養』の中に、「先春梅」とその碑に触れた部分がありますので、それを引いておきます。
なお、この文章は後に『新公論』(大正7年の2月号・第33巻第2号)という雑誌に文章を書き改めて掲載されています。
 → 資料638 遅塚麗水著「紅梅白梅」(雑誌『新公論』大正7年2月号)による)


  梅と碑碣(ひかつ)
 月の十一日、戸川殘花翁、三好、渡瀬の兩博士と共に水戸に遊べり、東道の人は故栗田寛先生の嗣勤(つとむ)氏なり、齡五十二三と見ゆれども白鬚髯(はくすうぜん)あり、野服蕭散、朴の木齒の下駄を鳴らして余等を嚮導し、名あるの梅、史あるの碑を踏遍す、誠に恰好の案内者といふべし、
   (中略)
 行く行く市廛(してん)の間を過ぎりて黒羽根町の中崎醫院の庭に先春梅を看る、文禄年中、佐竹侯の臣岡本梅香齋の邸趾(ていし)にして、此の樹や其の遺愛の物なりと傳ふ、義公數々(しばしば)此の花を觀たるが爲めに、烈公又た樹蔭に寒水石の碑を立てゝ自から其の文を選べり、所謂臥龍梅にして、其の幹は既に朽ち、根の邊(あたり)に僅かに樹皮を剰(あま)すあるのみ、而も一脈春信(しゆんしん)の相通ずるありて、枝頭早く既に淡紅(たんこう)の花を着けたり、弘道館記の碑を碑中の長者とすれば、此の樹や水戸の梅の中(うち)の丈人(ぢやうじん)なるべし、姿態は甚だ稱するに足らざれども、亦た珍重すべし。


  (注) 1. 本文は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の遅塚金太郎(麗水)著『山水供養』(春陽堂、大正2年5月22日発行)によりました。
  『国立国会図書館デジタルコレクション』
山水供養 
 
(「梅と碑碣」は58/132「先春梅」の記事は61/132にあります。)
   
    2. 原文は総ルビになっていますが、ここでは必要と思う個所だけに振り仮名を付けて、後は省略しました。    
    3. 語句の注をつけておきます。

∇ 故栗田寛先生の嗣勤(つとむ)氏=ここに「勤(つとむ)」とありますが、「勤(いそし)」と読むのが正しいようです。
∇ 行く行く=原文は、「行く」の次に、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号が使われています。

戸川残花=本名、安宅(やすいえ)。詩人・評論家、牧師。江戸時代末期の旗本で、明治時代の文学者。1874年(明治7年)にキリスト教の洗礼を受けて牧師となる。残花という名で明治から大正にかけて文壇で活躍した。また、1901年(明治34年)日本女子大学の創立に参画し、国文科教授となる。著書に『幕末小史』『海舟先生』がある。(1855・安政2年~1924・大正13年)
東道の人=主人となって客をもてなしたり、案内をする人。東道の主人。
文禄年=天正の後、慶長の前の年号。1592~1596。 
∇ 義公數々(しばしば)此の花を觀たる=徳川光圀がこの「先春梅」の樹を見たということは、知りませんでした。このことがどこかに出ているでしょうか。
∇ 丈人(じょうじん)=長老を敬っていう語。
   
           
 




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